そもそも興道の里の「興」の字は、実は 同 ではなくて、幸 を両手で支え持つという象形文字です(勝手に造った漢字(笑))。
日本に帰ってきた2011年夏に、この国の幸せを増やせるような活動をしようと考えて、最終的に選んだのが、この呼び名でした。
「お寺のような、学校のような、里のような場所を作りたい」というのは、活動当初からお伝えしていたこと。
でも、その頃は、講座にもほとんど誰も来なかったし、本も出していなかったし、出しても(最初の本が2012年)まったく届かなかったし、
生きていけるかどうかもわからない。「いつかインドに帰れたら」という思いで、教室に竹筒を置いていたような状況でした(2013年12月にインド帰郷が実現)。
「里」と呼べる場所も、できたらいいねというくらいの話で、ほとんど現実味はなく、「せめてめざすとしたら」という、まさに方向性(妄想)として使っていたくらいの話だったのです。
幸いに、これまた奇跡というしかないくらいの幸運だったのだと思いますが、2015年夏にあの作品が世に出て、多くの人があたたかく迎え入れてくださって、
最初の方向性に、少しずついろんなご縁がつながっていって、
あのコロナ騒動に突入して、この世界の行く末と、個人的な身の置き所をいっそう真剣に考えるようになって、
いろんな偶然が重なって、今の場所にたどり着くことになりました。
この先どんな物語が始まるのか、紡くことができるのかは、これは想像がつかない(未来もまた因縁次第なので)ものですが、
それでも、方向性(意志)と因縁と、自分自身にできること――の組み合わせによって、不思議といえば不思議なことが、形になろうとしています。
本当に不思議--。
今思うのは、「めざしてよかったな」ということです。
そしてあきらめることなく(あきらめるというのは、負の妄想を選ぶということでもあるから)、
でも過剰に夢見ることもなく、
謙虚に、素直に、地道に、自分にできることを日々やり続けて、歩き続けただけですが、
その先に、最初に夢見たことが、ほんとに形になった――そんな未来にたどり着こうとしています。
下記に紹介するのは、2020年10月にお伝えしていたこと。場所を見つけるどころか、そんなことができる未来が来るとも想像しなかった頃に書いていたことです。不思議--
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たとえば、どこかの古民家とか、旧診療所とか、集会所など、広めの家屋を、「使ってください」と提供してくれる人が、ひょんなきっかけに現われたら、
そこで、大人と子供たちを呼んで、〇〇〇〇〇を始める――というのは、現時点でも可能。
ちゃんと生き方を伝えますよ。人は幸せになるために生きている、その方法はちゃんとある。
学校や、世の中のおかしさも、ちゃんと伝えます。
こういう生き方のインプットは、小学生までが、ひとつの勝負どころ。
大部屋使って、「学校」みたいなことを始めます。
国語と英語と社会は、かなりレベルの高い、洗練された、本物の学びを提供できます。
数学だって、使う教材を選び抜いて、センスが身に着く、本物の学びをしてもらいます。
学者や作家や、その他あらゆる世界のプロが書いた言葉や映像に触れられる オリジナル教材を作って、
中味の面白い入試問題を選んで、それを使って、論理的な読み方・書き方・考え方を、体験してもらう。
大人がやっても面白い、知的能力が確実に育つ、本当の学びを提供する。
そこでは、和尚であり、父ちゃんであり、先生です。そこで、生き方をちゃんと吸収してもらう。
道場みたいな、学校みたいな、私塾みたいな場所――それなら、今でも可能です。
で、週末とか、夏・冬の休みには、全国から親子で来てもらって、
大人の悩みにも、子供たちの学びにも、朝から晩まで、つきそって、背中を押して、送り出してあげるという――。
ちっちゃな田舎の駅まで車で送って、バイバイ!みたいな。
そんな妄想をしてみました(>▽<*)。
きれいな夕焼け空が見える場所がよいです。
そんな人生も、あったらいいな。
その5年後に本当に見上げている空