博多に行きます~8月2日(日本全国行脚2025)


草薙龍瞬の夏の全国行脚2025博多入り、まもなくです。

毎年恒例の内容充実の特別講座(勉強会)です。この日この場所でしか得られない数多くのヒントが見つかります。

予約無しでも参加できますので、当日のご都合があう方はぜひいらしてください。

当日および翌日は九州に滞在します。個人的な相談がある方はお声がけください。

<日時>
2025年8月2日(土)
13時30分~16時30分

<会場>
福岡市内の公共施設(ご連絡くださった方にお知らせします)

<内容>
今年で13年目の草薙龍瞬・夏の日本全国行脚。九州・博多を訪問します。参加者の質問・関心に答える形で内容を構成します。これからの生き方、働き方、夫婦・親子の悩み、子供の進路や学び方など、幅広いテーマを取り上げます。仏教の考え方をフル活用しますので、内容は幅広く、かつかなりディープです。

<参加費>
1組 2500円

※1組=家族3人まで
※経済的ご負担の大きい方はお気持ちでかまいません
 
<その他>
*乳幼児をお連れの方を歓迎します(途中退室も自由です)。
*小学生・中学生が同伴する場合は勉強道具・本などを必ずご持参ください(ゲーム・タブレット等の電子機器は禁止です)。

*終了後に希望者に向けて個人相談の時間を設けています(希望者数によりますが、お一人20分ほどを目安とします。希望者はお声がけください。

<個人相談>
*当日および翌日以降は九州&西日本を回ります。個人的に相談したいことがある方は別途ご連絡ください。


全国行脚縮小版.png
さあ行くよ!


2025年7月27日
・・・・・・・・・・・



言葉にならない時間

この季節になると、多くの人たちと同様に、「人類は滅びるのではないか」という懸念がよぎり始める。それくらいの猛暑だ。

今は、茹でガエル現象の途中。そのうち大気が沸騰して、水が枯渇し、農作物が枯れ、何十億人もの人間が、熱死するか餓死する。

それくらいの温暖化が顕著に進んでいるのに、奇妙なことに、誰も文明のシステムを見直そうとしなくなったように見える。人の価値観も行動様式も、気候変動が始まる前と変わらない。むしろ退化したかもしれない。大量消費と廃棄と炭素排出。まるで何も問題が起きていないかのように、人々は環境の変動に無関心になった。ひと昔まえのほうが「このままでは危うい」という警告のシグナルが強く点灯していた気がする。

ミクロの人々が見ているのは、どこにいてもスマホ。小さな画面以外は「どうでもいい」こと。度を増す高温に嘆息を吐きながらも、気にしているのは自分にとっての不快指数だけ。


マクロで見れば、気候変動に取り組もうという国際的機運は、ほぼ消失した感がある。どこを見ても、戦争か武力衝突。ばかすかミサイルを撃ち込んで、破壊だけでなく、その分大量に酸素を消費し、炭素を大量に排出し続ける。ウクライナ戦争だけでも排出量は爆上がり。大気の高温化に拍車をかけているはずだが、気にかけるという発想さえ枯れつつある気もする。

こんな世界が、あと百年と続くと、誰が楽観できるだろう。

殺し合うことを人類がやめようとしなくても、そうした愚行を可能にする地球環境そのものが破綻するかもしれない。このまま高熱化が進めば、近い将来、どうしたって生存不可能になる時期が来る。地球の大気が茹で上がる。どこにも逃げ場はない。


外の環境に関心を持たなくなった時が、ひとつの文明の転換期なのかもしれないとふと考えてしまう。



ひるがえって個人的な話題といえば、毎年夏になると、生活のパターンを微調整する。ここからは、人類がまだしばらく続くことを前提とした話。

滅びゆく世界の中でも、個人の生活自体はほとんど変わらない。私もまた能天気な茹でガエルの一匹であるには違いない。

まずは定期券を買う。これは昨年から始めたこと。で、お目当ての場所に通う。電車の中は空調が効いている。快適な読書空間を満喫する(茹でガエルは実に罪深い。結局、自分のことしか考えないし、動こうともしないのだ)。

地上に出る。車窓の外に、夏の青い空が広がっている。





夏の光と大気の暑さと。狂暑とさえいえる暑さではあるが、これもまた今年一度きりの夏の姿ではある。なお道を歩く時は、多少の暑さには目をつむり、夏の風情に心の感度をチューニングする。これぞ夏だ、ということをしっかり感じ取る。

電車の外に、巨大な東京スカイツリータワーがそびえ立っている。あのタワーは、私がいなくなった後も、百年後でさえも、同じ姿で屹立しているのだろう。今見ているのは、未来でもあるわけだ。



80年前の大空襲で亡くなった人たちも、焼け野原に立ち尽くしていた人たちも、その後一度も戦火を交えなかった東京が、ここまで復興して、こんなにもバカでかいタワーが出現するとは、夢想だにしなかっただろう。

戦争さえしなければ、街を破壊しなければ、これだけの繁栄が現れる。変わらない世の中への不平不満は続くにしても、退屈ではあっても、やはり平和のほうがいいに決まっている。激動なんてなくていい。平凡で少し退屈なくらいの日常が、百年、千年と続いていくほうが、はるかによいはずである。

人は人としての生涯をまっとうできるだけで十分なのだろうと思う。生きて、働いて、遊んで、ときには退屈をもてあまして、いっとき家庭を持って、新しい命を育てて、時期が来たら静かに身を退く。それだけで十二分。激動の十年よりも、退屈凡庸な百年のほうが、きっと価値はある。

この世界は、私という茹でガエルが一匹いなくなっても、きっと続いていくのだろう。遠い未来には、人類もこの地球も宇宙にも、やがて必ず終わりが来て、その後は果てしない虚無が永劫続く定めだとしても、人類という種は、もうしばらくは続く可能性が残っている。

今見ているこの夏の景色は、あの戦争を生き延びた人にとっての未来に当たる。80年分の過去を振り返って平和の証を見届けていることにもなる。今を生きる自分なき後の未来を見ている部分もある。

未来でもあり、過去でもあり、今でもある。今見えるのは、純粋に美しい青と光と、夏らしき暑さ。いろんなものを見ている今が、ここにある。言葉できれいにまとめることのできない「何か」。

きっと本当に美しく、せつなく、愛おしいものは、言葉にならない。「生きている」としかいえないもの。生きているとは、そういう時間。今がその時。


夕暮れの隅田川 いつもの景色のはずだが、未来を見ている気にもなる



2025年7月末




褒められるのも叱られるのも


この場所はとても素直なので(笑)、善いところは褒めます。

たぶん多くの人が、褒められる人生をあまり生きてこなかったので、ストレートに褒められると、うろたえてしまうのかもしれませんw。

 一般的に、日本人は褒めることも褒められることも上手じゃないという話を聞くことがありますね。

自分の身内をわざわざ貶めたり・・(愚妻とか愚息とか・・そのくせ愚夫という言い方はあまり聞かない・・要は男の側のマウントカルチャー? 自分を棚に上げて? ひどい言葉です笑)。

誰かに褒められると、「いえいえ、そんな」と必死で打ち消さないといけなかったり・・平然と受け止めてしまうと、「え、否定しないの? なんか調子に乗ってるな」なんて、褒めた側が考えたり・・めんどくさい(笑)。

承認欲が旺盛で、褒められたいという本音があると、いざ褒められた時に、「いや、そんな(照)・・肯定していいのか、否定した方がいいのか」と心の中で妄想をめぐらせたり、

自己否定が根付いている人だと、「とんでもない!」と必死で打ち消して、ネガティブな自己イメージを確認しようとしたり・・。

褒められて舞い上がるのも、うろたえるのも、必死で否定するのも、「なんか裏があるんじゃないか」と勘繰ったりするのも(笑)、

結局は、承認欲にもとづく反応です。

この場所は、「正しい理解」に徹しているので、できているところはちゃんとできていますよと褒めるし、できていないことに自ら気づいていなければ、ストレートに指摘する(いわゆる喝を入れる)こともあります。

励ましの意図はもちろんあるので、褒められた時は、素直に喜んでもらえればよいと思います^^。

逆に喝を入れられた時は、感情で反応せずに、事実として受け止めることです。動揺する必要はなく「事実として在る」と理解して、「ならば次はどうするか」を考えるだけでOKです。

在ると理解して、次はどうするかを考える――これは、瞑想で自分の心を観察している時にやることと同じです。自分で見るか、人に見てもらうか。いずれにせよ、事実を理解して、前に進む。

その理解のきっかけが、自分の気づきか、誰かの指摘かは、どうでもよいのです。「誰か」は流してしまえばよくて、ただ自分だけが残ればいい。自分だけを見ていればいい。

お寺の修行というのは、まさにそういう世界です。



ちなみに、この場所(草薙龍瞬)が褒められた時は、シンプルに「お役に立っているらしい。よかった」と確認するだけで終わりです。

自身の動機が、承認欲ではなく、慈悲由来の貢献一心なので、判断の基準は「役に立っているか」どうかだけ。

だから「嬉しい」という感情はないし、逆に根拠のないネガティブな声を受けることがあっても、それはその人の妄想であって、こちらの輪郭の外にあるので反応しません。

慈悲 → 貢献 → できることはやっている という自己理解に留まるので、人のリアクションに影響を受けることがないのです。「われはわれを知る」。

でも、このニュートラルぶりは、世俗の価値観にてらすと、退屈に見えるかも。「何が楽しいの?」という。

楽しくはないかも(笑)。でもそれでいいのです。みんなの幸せを見ているだけで満足できてしまえるので。


2025年7月

『怒る技法』著者朗読版、いざ公開


夏らしく?連続ニュースです:

『怒る技法』マガジンハウス

いよいよ、Amazonオーディオブックで配信されることになりました。

大ヒットの『鬼滅の刃 無限城編』の1000万分の1くらいの方には聴いてもらえたら・・と思っております。

『怒る技法』は、さまざまな格闘技をモチーフにして、理不尽な現実に立ち向かう「心の技法」を解き明かした本です。

マーシャル・アーツならぬ、メンタル・アーツ。宮本武蔵も出てくるし、アントニオ猪木も、日本武尊も、五条悟(五条センセイはポッドキャストに)も出てきます。

章扉は、鬼滅の刃(特に煉獄さん)をイメージして著者(私)が描き下ろしたもの。闇をかっさばく炎の剣を描いています(本をお持ちの方は、ご確認ください)。

Amazonオーディオブックのカバーアートも、草薙龍瞬が手がけました。


闘うべし、ただし、正しく――。


「現実と闘う心の剣士」をめざす皆さんに向けて書き下ろし&語り下ろした、ワザとエールに満ちた熱く優しい作品です。

8月1日配信予定です。ご予約あれ。








2025年7月25日





『看護教育』

医学書院が発行する『看護教育』No.66(2025年第4号)巻頭インタビュー記事 で取り上げていただきました。

十年間なんとか続いた看護専門学校での講義について。

『看護教育』は、分厚く、隅々まで良質な情報満載の専門誌です(その内容充実ぶりにびっくり)。


看護というのは、私の眼から見ると、尊いけれど、じれったい、もどかしい業界だったりします。

看護なくしては、生きていけない人がいる。看護は世界が回っていくためにか欠かせない大事な仕事。

とはいえ、現場の看護師さんは、もう限界。患者の数も業務の量も増えているのに、看護師の数は増えないし、地位や待遇は上がらない。

無理なものは無理と言っていいし、改善すべき点は改善せよと上に突き上げていい(はず)。

どれほどの理不尽・非合理が、看護の現場に蓄積されているか、見える部分は明らかに見えているのに、

みんな忙しすぎて、優しすぎて、いい意味でも悪い意味でもタフ過ぎて、なかなか気づかない。気づいても声を挙げられない。闘うために動くことができない。

大変であることはみんな実感しているのだけれど、現場の声が集約されない。

「そこまで背負わなくていいですよ」と言いたくなるし、でも、看護師さんがいなければ途端に頓挫してしまう現場の実態もあるし、その点では尊いし。

だからこそ、うーん、うーん(いいのかな、なんとかしてほしいな、なんとかできないものかな、でもみんな頑張っちゃうんだな、偉いな、でも気の毒だな・・)という思いが回り続けて、

でもそんな自分は、ただの坊さんでしかないしな、というところにずっとい続けているという状況です。

坊さんというのは、いろんな分野に通じる ”心の使い方”(智慧)を伝えることはできるけれど、すべての分野について外様(とざま:部外者)であるという疎外感・淋しさを脱することができない仕事。

問題が見える割には、何もできない・・私の場合は、全方位に向けてずっとそんな感じなのだけれど、

中でもひときわ、背負わなくていいものまで背負っている、でも背負わなければ回っていかない、そういう現実を垣間見て、もどかしく思い続けているのが、看護の世界です。
 

心優しき全国の看護師さんたちみんなと、つながることができたらと願っているのだけれど。

 


2025年7月25日


8月・9月の講座スケジュール

興道の里の最新スケジュールです。

詳しくは公式カレンダーをご確認ください。

*愛知(栄および高蔵寺)の講座は主催者が異なりますので、スクールで直接お手続きください。

・・・・・・・・・・・・


8月16日(土)
子を持つ親の生き方&育て方学習会
13:00~17:00 
千葉県野田市

子育て中の親のための学習会を開催します。親と子供の両側から見た「十代のうちにやっておきたいコレだけは」を整理します。子育てに後悔したくないお父さん・お母さんの参加を歓迎します。

参加申し込みフォーム>にご記入ください

 

8月31日(日)
小中学生向け夏の国語キャンプ 
13:00~17:00
千葉県野田市 

<内容> 小5から中3の子供と親を対象に ”国語キャンプ” を開催します。教材を草薙龍瞬が用意して、国語の読み方・解き方・学び方をわかりやすく紹介。なんでも話せるゆるめの座談会つき。勉強の仕方もわかるし、学校・勉強・友だち・世の中のことも話しあえる一石二鳥のお得なイベントです。親子での参加を歓迎します。

参加申し込みフォーム>にご記入ください

 

8月29日(金) ※8月30日は満席のため臨時増設しました
18:00~22:00
個人相談会
東京・神楽坂

<内容> お一人45分のミニ個人相談会を開きます。自分では答えを出せない悩み・課題を抱えている方で、代表・草薙龍瞬への相談をご希望の方は、①お名前 ②自己紹介(お仕事・生活など) ③相談内容(可能な範囲で具体的に) ④ご希望の時間枠 ⑤連絡先(臨時連絡用) を koudounosato@gmail.com まで。折り返し詳しいご案内をお送りします。

※初めての方は、公式サイト内の<活用ガイド>をご覧ください。

※すでに満席の場合および相談内容にてらしてお役に立てる可能性が低い場合は、返信しておりません。その場合はお寄せいただいた情報を消去する形で対応しています。あらかじめご了承ください。 

<時間枠> ➀18:00~18:45 ②18:50~19:35 ③19:40~20:25 ④20:30~21:15 ⑤21:20~22:05


9月6日(土)
18:00~21:30
座禅会
東京 要予約


※登録制です。初めての方は、公式サイト内の<活用ガイド>をご覧ください。



9月13日(土)
18:00~21:30
自己ベストの生き方&働き方を考える~大人のための学習会
東京 要予約


<内容> 仕事や日々の暮らしに悩み・課題を抱えている大人のための勉強会。当日までに寄せられた悩み・疑問を、仏教の智慧を使って解決します。「自分で考えて答えを出せる」ように考え方の道筋さらに個別の解決策まで取り上げます。当日用の特製資料を用意します。オンライン受講可(要登録)。

★事前の質問・相談を募集します。積極的にお寄せください。

参加ご予約は、①お名前 ②自己紹介(お仕事・生活など) ③当日のテーマ(質問・相談などを可能な範囲で具体的に:内容を一般化したうえで当日お答えします) ④連絡先(臨時連絡用)を koudounosato@gmail.com まで。折り返し詳しいご案内をお送りします。


9月15日(祝月)
13:30~15:30
愛知高蔵寺・公開講座「仏教で思い出そう『あの日の幸福』を」
無料相談会つき


「あの時は幸せだった」と思える時間をいくつ覚えていますか? 幸せを忘れて、ストレスや心配事ばかりに追われているのは、なぜでしょう? どうすればこの先、楽しい時間を増やしていけるのでしょうか? この講座では、人がつい幸せを忘れてしまう原因をつきとめ、楽しい時間を取り戻す「暮らしのヒント」を紹介します。少しの工夫で「万年・幸せ上手」になれるかも。まずはこの講座から。

会場 高蔵寺中日文化センター  

予約・問い合わせ 0568-92-2131
https://www.chunichi-culture.com/programs/program_195300.html





事態が改善しない理由

今抱えている課題を解決するには、まずは自分自身のこだわりを捨てる必要があります。

自分のプライド、自分の考え、自分のキャリアや立場・・中には「そんなに私が悪いのか」的な自己防衛をどうしても解除できない人もいます。

心情的にはわからなくもないのだけれど、そうしたこだわりは、事態の解決には役に立ちません。

なぜなら、そうしたこだわりがあるからこそ、今の悩みにたどり着いたのだからです。

自分自身のこだわりなんて、どうでもいい。取るに足りない、ガラクタのような妄想でしかありません。

もし相手(特に子供)との関係に悩んでいるなら、その相手の言葉をそのまま受け止めて、相手の思いをちゃんと受け止めることが、「当たり前の務め」です。聞くことに、こだわりは要りませんよね。

相手が訴えてくること・伝えてくることは、すべて相手にとっては真実なのです。「そうなんだね」「そうだったんだね」と受け止めてあげるだけ。なにも難しくありません。

自分のあり方が、相手を苦しめていたなら、その事実を素直に受け止めるだけです。素直に受け止めた時には、まずは「ごめんなさい」「悪かった」という言葉が自然に出てくるものです。

別に相手は、その正しさを押しつけようとか、こちらを屈服させようなんて思っていません。単純に「わかってほしい」だけなのです。

だから、わかってあげればいい。聞いてあげればいいだけです。

そうしたシンプルなあり方を頑なに拒んで、「こっちが悪いというのか?」「そういうあなたはどうなんだ?」みたいな、プライド発のこだわりを発散しているというのは、「だから問題がこじれるのですよ」と言うしかない不毛な姿です。

そんなに自分が可愛いのかな? そんなにプライドが大事? ただの妄想でしかないのに?

そうした妄想にこだわる背景には、自分自身も誰かを許せないという不満が隠れていることもあるし、「自分は正しい、エライ」というしょうもない思い込みがあることもあります。

そうした自分、自分、自分という強烈な自意識、自分へのこだわりがあると、

相手(特に子供)の訴え・異議申し立てに、激しく動揺してしまいます。

相手は「わかってほしい」だけなのに、

こちらは「なに? 私が間違っているというのか?」と、自意識で反応し返してしまう。

だからこそ動揺するし、怒ったり落ち込んだりと感情の起伏が極端になるし、激しく消耗するのです。

そうした状況に陥ってなお、「だから相手(子供)が問題(≒私は悪くない)」という自意識を抜け出そうとしない人もいます。

そうなると、相手(子供)には、もう絶望しかなくなります。

単純にね、関わるというのは、互いが幸せを感じるために関わるのですよ。苦しめ合うのではなくて。

苦しめ合う理由というのは、力関係でいえば、「上」の人間が作り出しているものです。ほとんどの場合。

だって、素直に受け止めて、謝るべきは謝って、互いに快適に過ごす関わりを作る努力ができるなら、苦しみは生まれないからです。そうした努力をしないでいられるのは、自分へのこだわりを押し通せる「上の人間」だからです。

自分が上だと思っているから、努力しない。聞かない。わかろうとしない。想像しない。

上だと思っている、その思い込み、自分へのこだわりから、潔く降りる必要があるのです。自覚すること。地べたに立つこと。素直になること。

これは何歳になっても同じ。親であっても、まったく変わらない真実です。



久しぶりの坐禅会

7月は、大阪・看護専門学校での講義に始まり、市民講座や企業向けの講演や奈良入りや名古屋での講座を経て、東京での久しぶりの個人相談会&坐禅会、さらには連載中の原稿&イラスト描きと、かなり忙しい時期が続いて、

昨日、7月ラストの坐禅会が終了して、ようやく一息(といいつつ実感としては半息くらいだけれど)つけるようになりました^^。

昨日夜の坐禅会は、みんな久々に来てくださったのに、それぞれの近況を聞き損ねてしまいました。申しわけなかったな・・と思います。今度一人ずつ感想・近況を聞くようにしましょう。

でも、みなさんのお顔を見ることができて、よかったと思います^^。

個人相談会も、いろんな人と有意義な時間を過ごせました(今回は昼夜開催だったので、合計10名)。十代の若い人も、人生の締めくくりを一緒に始めようという人も、関西から来た人もいました。

相談内容もほんとに個性的。一人一人が、まったく別の課題に向き合っている。そうした人生の大事な場面にご一緒できることは、とてもありがたく、幸せなことです。前に進んでもらえたらと思います。

9月にも、個人相談会と坐禅会、生き方勉強会を開催します。いずれも、毎回かなり有意義な時間になっています。

前に進みたい人は、ぜひいらしていただければと思います。



2025年7月




家の中の“圧”を避けるには


家庭であれ、職場であれ、人と人とが関わる時の基本は、

反応するのではなく、妄想を押し付けるのではなく、「まずは理解する」ことに努めること。

相手の言葉・行い、そして背後にある思いを、自分にできるかぎりの観察力・推測力を使って、「正確に理解しよう」と努めること。

※推測は、厳密には妄想に当たるけれど、最終的な正しい理解にたどり着けるなら、意味を持つ。いわば仮の理解として役に立つ。

家庭においては、理解したうえで、各自の自立を保ったうえで関わる(自立とは、互いに苦しめ合わない適度な距離感を保つこと、そして子供に対しては、将来の独立という方向性を見すえて関わること)。

つまり、理解 +(プラス)自立。

理解に努める段階においては、関係性はフラット。対等だ。

そのうえで、大人(親)の側には、自分の将来(いわゆる老後)をどうするかという方向性があり、

子供には、将来何者として生きていくか(進路・職業などの将来設計)という方向性がある。

理解 + 自立 + それぞれの方向性 だ。

(方向性というのは、「家族共通の」ではない。「それぞれの」だ。要注意)



だが、家の中で“圧”が生じることがある。圧とは、妄想の押しつけだ。

よくあるパターン(ここからが今回の本題)は、

親の側が、「こうしなさい」「こうするのが当たり前」「なんでこんなこともできないの、わからないの」と、自分の中にある妄想を押しつけて、

やらない、できない子供に勝手にイライラするという場面。

親によっては、「私が同じ年頃の時はできたのに」と考える人もいる。


ちなみに今の時代なら、学習障害、発達障害、自閉症、ADHD・・その他の概念を子供に押しつけて、「やらない・できない」子供の姿をわかったことにしてしまうこともある。

危ういのは、「うちの子は○○だから」という説明をもって、現実を正当化して、つまりは理解しようとする努力を止めてしまって、

親の側が持ってしまっているかもしれない都合のいい妄想に、気づけなくなることだ。


やらないことには、理由があるのかもしれないし、できないことが問題だとも限らない(ここ、すごく大事)。

もし理由があるなら、じっと姿を見守って、どんな思いがその心の奥底にあるのか、冷静に(思いやりをもって)理解しようと努める必要がある。

理由がないこともある。本人もあまりわかっていない、考えていない可能性もある。実はそれがその子の自然な姿であって、冷静に考えると、問題がないことだってありうる。

何か理由はあるのだけれど、本人もうまく伝えられない・・そうした時は、大人の側で言葉化してあげる必要があるけれど、

「こういうことかな?(どう思う?)」という言語化が役に立つ、つまり子供が聞いてくれるには、

それまでに、よく聞いて、理解に努めて、話をすれば聞いてくれると子供が思える、「信頼関係」が育っている必要がある。

つまりは、どうしたって、親の側が「反応せず、妄想せず、理解する」ことにどれだけ努力しているか・してきたか、が重要になるということだ。



親によっては、都合のいい妄想をさも当たり前の前提にすえて、「子供はできない」「問題がある」「この程度のことさえできないなんて」と、圧倒的な高度の上から目線で、子供をジャッジして、見下して、傷つけて、

それでいて、「親として心配している」と信じ込んでいることもある。おそろしい無知、無自覚。

そのうえ、その妄想の背後には、自分が親になる前に育て上げてしまった“業”が働いていることもある。

子供への怒りは、もしかしたら親への怒りかもしれない。話を聞いてくれない不満、自分勝手な親への不満。自分もかつて、こんなことを感じていたかもしれない: 

「なんで自分の話を聞いてくれないの?」

「もう、いいかげんほっといてよ」

「そうやってすぐ先回りして勝手にやってしまって」

「文句を言ったら、どうせすぐキレるんでしょ」

そういう小さなイライラが長い歳月の間、蓄積されていって、いつの間にか「何かに怒っている大人」になっている。

そうした怒りを隠し持ちながら、結婚して、親になって、いつの間にか、自分も親と同じように、話を聞かない、ほうっておけない、先回して勝手にやって、文句を言われたらムッとしたり、自分のプライド大事で「なに、その態度は?」「オレが悪いというのか?」と今度は自己防衛に走ったりしてしまう。

そういう姿を見た子供は、「ほらやっぱり。そうやって、いつも話を聞いてくれないじゃないか」「どうせわたしが悪者なんでしょ」と不満を感じ、失望し、親を信じなくなっていく。「話しても無駄だ」と学習してからは、口も利かなくなる。



こうした関係性は、いたるところで起きている。客観的に見れば、起きている現象の正体はシンプルだ。

一方が(力を持つ側、つまり妄想を押しつけられる立場・体力・言葉数を持っている親の側が)、

自分に都合のいい妄想と、過去の記憶やら怒りやらプライドやらのうえに乗っかって(ふんぞりかえって)、

「自分は正しい、子供が間違っている」という図式(ジャッジメント)を強固に築き上げて、崩そうとしない。そういう姿だ。

どうしようもなく強固になってしまって、もはや親もどうしたらいいかわからない。

わからないことに悩まない――自分が正しいという傲慢に固まって老いてゆく親もいる。

わからないことに悩む親もまた、「こんなに悩んでいるのに」と、さらなる自分の正当化(自己都合の妄想)を選んでしまう親もいる。

違う。そうじゃない。自分の心を見つめないと。いったい自分の何が、この問題を引き起こしているのかを、冷静に考え始めないと。



自分の都合のいい妄想を自覚しないと始まらない。

なんと無自覚だったか、なんと傲慢だったか。「ああ、こんな自分のままなら、子供が聞いてくれるはずもない」と痛感しないと始まらない。

自分の無自覚を自覚したら、最初にすべきは、純粋な思いで謝ることだ。ごめんなさい、と言えるかどうか。

純粋な思いというのは、自己の正当化、ちっぽけなプライドを捨てること。親として生きて来て、いつの間にか思い上がっていた、妄想の上にふんぞりかえって、自分がいっぱしの、正しい、「当たり前」を押し付けていい親なのだと思い込んでいた、そういう自分の愚かしさ、情けなさを噛み締めることだ。

そうした地平に立てるかどうか。立つことができれば、子供と対等に向き合える。

「理解し、理解される」関係性にシフトできる可能性が出てくる。

優しくて、聡明で、子供の言葉をよく聞ける親。

話し合うことにストレスが生じない、風通しの良い家庭。

そうした未来をめざすことは、いつでもできる。努力は必要かもしれないが、その努力は、損のない努力だ。

努力に比例して、子供との関係が良くなっていく。プラスしかない努力だ。

自分次第。親次第。ということです。

消えない悩みのお片づけ(ポプラ新書)から
 
 

家の中でも”反応しない人”になれますか?

<興道の里から>
7月18日は、久しぶりの東京でのライブ(教室)講座でした。

<自己ベストの生き方&働き方を考える>は、参加者のリアルな課題・質問を仏教的に掘り下げていくというスタイル。この場所の仏教の実践・応用編、しかもその究極であるような気がします。

毎回かなりディープ。視点、切り口、組み立て方・・いずれもこの場所だけのオリジナルです。参加した人は、ぜひココだけの学びとして、日常に活かしていただけたらと思います。



「ポイ活」は、今回限りとします(笑)。ポイントが着くからと半ば無理やり質問を作って参加しようとする人(?)もいなくはないようなので。もちろん直接お会いできる喜びは、別のところではあるのですが。

やはりこの場所の方向性にはそぐわない(笑)。煩悩・俗情をいささかなりとも刺激してしまうような仕組みは、採らないほうがよい様子です。

切実なテーマをリアルタイムでお持ちの人に来てもらえれば十分なので、あえて”キャンペーン”しなくてもいいですよね(笑)。



<おたよりから>
仕事では「思考」も「判断」も行います。ときには厳しい判断も必要です。一方で、家庭では「慈悲喜捨」だけにしたいものです。その両立がなかなかできません。

仕事が終わっても「買い物をして夕食を作って・・・」など思考が続く中で、「玄関開けたら反応しない人!」みたいなことが皆さんできているのでしょうか?

ブッダでさえ、すべてを捨てなければ「反応しない」境地に達することがなかったのなら、この世界にあって自分はどうしたらよいのか? 何かヒントがあればと思っています。


<興道の里から>
講座の中でお話しましたが、仕事では確かに思考と判断が必要ですね(ただ仏教においては、それは正しい理解とあくまで慈悲にもとづいて・・という一線は貫くことになります)。

家の中でも同じです。やはり理解と慈悲。

もっとも、外の仕事と家庭内とで、ひとつだけ関わり方を決める原理が違います(おそらく)。

それは、外の仕事は、立場・役割で決めることになるけれども(判断と判断がぶつかった時には、立場・役割にもとづいて、一方の判断を選ぶことになる)、

家の中では、もちろん立場・役割もあるけれども、それは少し緩いものになって、代わりに働く原理が「自立」であるということです(たぶん。このあたりが仏教的)。

自立というのは、「縁あって同じ家で暮らしているけれども、あくまでそれぞれが別人格で、別の人生を生きている、子供であれば、子供だけの未来・人生がある」という前提です。

親だからといって、子供の心情を傷つけていいことにはならないし、何をしてもいいわけではなくて。

あくまでよき理解者であろうと努めて、子供がいい人生を、自分の力で生きて行ってくれたらという思いをもって、適度な距離を保って、必要なかぎりで後押し(応援)するという関わり方です。



たしかに家も俗事も捨てないと、”究極の無反応”は達成できません。

でも、家の中・世俗の世界における「反応しない」というのは、

それまでの我流かつ過剰な反応を制御できること、

価値ある反応はするけれど、無価値な反応はしないということ。

そのためには、自分の反応をつねに見張って、自分の反応のクセ・思考のクセを自覚して、その都度自己反省の”痛み”を感じて、

「もうこのパターンは卒業しよう」「もうこんな自分はいいかげん卒業しよう」と、何度も自分に言い聞かせるなかで、次第にできるようになることです。

これは場数の問題であり、自覚の問題。これくらいであれば、日頃の心がけひとつで、けっこう近づいていけるのではないか、と思います^^*。

ひきつづき




2025年7月中旬


色とりどりの皿回し


今年の全国行脚、ぼちぼちスタート。皮切りは、大阪の看護専門学校での3日連続講義。

完全徹夜で大阪入りして、翌朝8時に車で運んでもらって、午前は3年生。午後は1年生。


「患者目線で向き合う」が、最初の約束。

だから、だらしない姿を見せた時は、遠慮なく喝を入れさせてもらう。今回は2回ほど。 

今年の講義は、中身もガチ・モードだった。救急救命時の気管挿管の判断という、これは1年でやったことの復習。某薬剤の検証も。

いくつかの資料を見せて、「せめてこれくらいの事実を把握してから判断しなさい」という話。現場の医師も看護師も、学校の先生たちも、ろくに事実を調べず、検証もしていない。

たとえばクラス40人のうち1人でも、歩けなくなったり、最悪死んでしまったりしたときに、親も、医師も、学校も、責任を取れやしない。

取れっこないのだから、最初から無責任なことをするな、言うな、というのである。

「当たれば100%のロシアン・ルーレット」ということを、骨身に沁みて自覚せねばならない。一度失ったら、永久絶対に帰ってこないのだから。未来の可能性も、命も。

他には、くも膜下出血で運び込まれた患者への対応如何と、5歳の女児にアデノイド摘出手術をするかの検討。

きちんと手順に沿って知識・情報を整理して、本人が納得できる結果にたどり着くことが、プロに求められている仕事。そのための技法を伝えるのが、この授業の狙い。

錯綜する情報をどのように整理すればいいか、その視点(いかに理解するか)と、どんな手順で結論を導き出すかという論理的道筋を、伝えることが目的だ。

1年生にも3年生にも、同じ熱量と充実の中味を伝えたつもり・・だが、どれだけその心に残っているかは未知数。

でも今年も、納得のいく講義ができた。自己満足。だが自己満足こそは、教育の基本だ。

3年生は、これでお別れ。せっかく3年間、いい体験をしてきたのだから、一人たりとも落ちないように、と最後にエールを送った。



私はただの坊主に過ぎない。医療・看護の素人にすぎないが、人の命を想う熱と真剣さは尋常を越えたレベルで持っている。

その部分こそがずっと燃やし続けてきたものであり、看護学生に伝えられる最も価値ある部分、つまりは「倫理」であろうと思う。

私が伝えている程度の知識や情報など、プロになった時の彼らには、常識として知っておいてもらわねばならない。私以上に人の痛みを感じ、救うための方法を選び取り、患者の心身の痛みを取り除いて、その日常に戻ってもらう。その手助けをしてもらわねば。

日進月歩の医学・看護の知識も、私以上に通暁して、素人の坊主である私にもはや教えられることはなく、次回は病院にて、弱くなった体をケアしてもらう、おとなしい患者の一人として再会してもらわねばならない。

彼らが進もうとしている道は、仏教とは離れた世界なのだが、人に貢献しようという情熱は共通しているはずだ。

そもそも医学も看護も、患者の苦しみを癒すための技術なのだから、患者目線で納得できるものでなければならないことは当然だ。

ならば、伝えられることもある。

今回は、いずれのクラスにも、よい変化が生まれたような気が(勝手に)している。

しっかり学び続けて、無事合格してもらいたいものだと思う。



授業終了後は即移動して、神戸で企業向けの講演会。終了後はどしゃぶりの中を新神戸駅まで走って、新幹線でいったん帰京。週末2日で次の講義の教材を作って、月曜には奈良、火曜は名古屋、水曜は大阪だ。

いや、忙しい。だが幸せな忙しさだ。いろんな役目を授かっている(そういえば、この3日の間に新聞連載用の絵も描いた笑)。

色とりどりの何枚もの皿を頭の中でめまぐるしく回している思いがするが、これくらい同時進行で廻っているほうが快適なのだ。

遠い昔は、一つの仕事・一つの世界に収まりきれない自分がおかしいのかと思っていた。変わった人間だと実際に言われていた時期もあった。周りに合わせて一つの器に自分を押し込めようとして、頭も心も回らなくなってしまった時代があった。

あの頃の自分と、今の自分は、まったく別人だ。今の自分は生きている。縦横無尽に動いて、持っているものを、存分に活かすことができる。

まさかこんな “仕事” がありうるとは。人生は不思議で面白い。



2025年7月


看護専門学校の教室から


本日取り上げた○○の資料を共有しておきます。興味のある人は目を通しておいてください。

医療をめぐる情報は、最初は厚労省のHPです。それなりの情報が公表されています。

ただし、メディアはほとんど取り上げないし、情報を読み解く<視点>を持って解説してくれる専門家は、ほとんどいません。

「自分で情報の意味をつかむ」必要が存在します。

でも、だからこそ、「面倒くさい」「忙しいからフォローできない」というのが、現場の医師や看護師さんの日常です。

でもそのままだと、「目隠しをしたまま」、自分、家族、そして患者さんに向き合うことになります。

今回のように、リスクが尋常でないレベルで実は高い薬剤の場合は、冗談ではなく、その命や将来を大きく左右しかねません。

「今のままでは、情報も知らないし、自分の頭で考えてもいない、これは危険だ」と気づく必要があります。目隠ししたまま車を運転する人など、いないでしょう? 同じことです。

情報をちゃんと手に入れること。しかも、メディアや専門家のフィルター(解釈・決めつけ・偏り)を通す前の、なるべく生の事実・データを見つけて、「考える」ことです。視点をもって、技法を使って。

なお、情報は、英語で検索するともっと出てきます。ほんとは、そういう生の情報をなるべく広く集めて、視点をもって眺めることなのです。

もうひとつ大事なのは、データの背後に隠れている苦しみにも、ちゃんと想像力を働かせることです。「89%の人が回復した」ということは、「11%の人はまだ回復していない」ということ。「11%? 100人のうち11人? それって多くないか?」と考えられるようになることです。

メディアや専門家が信頼されなくなりつつあるのは、事実を最初から無視したり、事実を都合よく解釈して、自分たちに有利な内容しか伝えないからです。

君たちは、人を救う側に立つ人間です。苦しみを背負っている人の側に立つ必要があります。

だから、最初に苦しみを見る必要があるのです。「事実を見れば、これだけの人たちが苦しんでいるではないか」と。

「その原因は? どうすれば解消できるのか?」と、しっかり考えを進めていくのです。

そして、<方法>については、なるべく多くを挙げて、選ぶか、選ばないかを、「苦しみを増やさない」という大前提に立って検討することです。

「避けられるリスクは避けるほうがいい」と言えることも、医療従事者にとっては大事なことなのです。「人を救う」ことが使命なのだから。

苦しみに寄り添って、事実・データを調べて、自分の頭で考える。

そうした習慣が身に着くと、情報を拾って分析することも、いっそう速く、正確にできるようになります。



2025・7・9



夏の国語キャンプ2025開催のおしらせ

興道の里から

夏の国語キャンプ2025の開催が決まりました:

*千葉県野田市 2か所で開催
 
千葉での国語キャンプの概要は以下の通りです。

予約受け付けを開始しますので、下記の予約フォームでお申し込みください。
 
SNSなどによる告知・紹介は自由です。小中学生をお持ちのご家庭にお知らせください。 

お問い合わせは興道の里事務局まで koudounosato@gmail.com


◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
夏の国語キャンプ2025 千葉野田市

2学期が始まる前に国語を得意にしちゃいませんか? 小5から中3を対象に“国語キャンプ”を開催します。面白くて良質な文章を選んで、国語の読み方・解き方をわかりやすく授業します。

勉強だけど、勉強っぽくない“ゆる系”の国語です。でもちゃんとチカラがつきます。筆記具だけ持参してください。お友だちや親と一緒もOKです!
 
主催  子供の明日を育てる会(千葉県野田市)
事務局 興道の里事務局 


8月16日(土)午後1時から
千葉県野田市フリースペース コキアの丘
 
下記QRコード または リンク先から ご予約ください


 
 
 
 
8月31日(日)午後1時から4時まで
欅のホール 千葉県野田市中野台168-1   

予約フォーム
下記QRコード または リンク先から ご予約ください




◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


今回がいわば、旅する寺子屋の ”こけら落とし” です。

このプロジェクトは、春・夏・秋・冬と、一年を通して開催していきます。

集会所・公共施設・子ども食堂など場所を見つけて、ご連絡ください。


興道の里・草薙龍瞬は、未来を育てる活動を始めます――
 
 



興道の里・明日を育てるプロジェクト
2025年7月





壁にぶつかったときは


子供の頃に、ラジコン・カーで遊んだことがある人は、わかるだろうと思いますが、

車が壁にぶつかったときに、同じ方向にレバーを入れていたら、いつまでも壁にぶつかったまま。

少し下がっても、ギアを入れたら、また壁にごっつんこ。

いつまでも壁にぶつかりっぱなし・・という事態になってしまいます。


この事態を抜け出すのは簡単で、いったんバックして、距離をおいて、ハンドルを切って、向かう方角を変えるだけでいい。

壁があるのは一方向だけで、他は空いているから、自由に走れる。自由に遊べる。


日常が行き詰まるときも同じ。同じ方向にしか向かっていない。つまりは過去の生き方(方角もスピードも)に執着したままでいる。

執着している自分に気づいて、「このままじゃどこにも進めない」とわかったら、いったん退がって、方向を変えればいい。

なぜその切り替えができないかといえば、同じ方向にしか向いていない、つまりは執着して手放せていないものがあるから。しかも自覚していないから。

まだ、壁のほうに「何か」があると思っている。世俗における成功とか、親と仲良くなりたいとか、もしかしたら相手が変わってくれるかもしれないとか。


壁にごんごんごんとぶつかり続けて、「なんでうまくいかないんだ」とだんだん腹が立ってきたり、

「自分にはこれしかないんだ、これまでもこうして頑張ってきたんだ」と、わざわざ自分に言い聞かせたり、

「どうせ自分は何をやってもダメなんだ」と結論づけてしまったり(何をやってもって、それしかやってないのに)、

「まあいいや、ネットやゲームで遊べるし」と、結局はラクに流れるための理由として利用してしまったり。

その他いろんなパターンがあるけれども、共通しているのは、壁ごっつんこを続けている姿。


「はい、いったん退がってください、ハンドル切りましょうか」と状況整理して伝えて、素直にそのとおりにできるなら、簡単にその窮地は抜け出せる。

「へえ、こんなにスイスイ、広々とした場所を走れるんですね」と、びっくりする声も聞ける。


この場所と縁があるのは、「壁ごっつんこ」にふと気づいて、「痛い」と感じ始めた人たち。

素直に切り替えられる人、切り替える努力を始められる人であれば、この場所は役に立てる。


自由に走れる人たちが世の中に増えてくれれば、それでいい。

他の人をはねたり、巻き込んだりしないで、自分の人生を爽快に走れる人が増えてくれたら、

というのが、この場所の願いであり、そのきっかけ(方向転換の)であることが、この場所の役割です。

『怒る技法』台湾語版、まもなく




2025年7月初旬