この場所はとても素直なので(笑)、善いところは褒めます。
たぶん多くの人が、褒められる人生をあまり生きてこなかったので、ストレートに褒められると、うろたえてしまうのかもしれませんw。
一般的に、日本人は褒めることも褒められることも上手じゃないという話を聞くことがありますね。
自分の身内をわざわざ貶めたり・・(愚妻とか愚息とか・・そのくせ愚夫という言い方はあまり聞かない・・要は男の側のマウントカルチャー? 自分を棚に上げて? ひどい言葉です笑)。
誰かに褒められると、「いえいえ、そんな」と必死で打ち消さないといけなかったり・・平然と受け止めてしまうと、「え、否定しないの? なんか調子に乗っているな」なんて、褒めた側が考えたり・・めんどくさい(笑)。
承認欲が旺盛で、褒められたいという本音があると、いざ褒められた時に、「いや、そんな(照)・・肯定していいのか、否定した方がいいのか」と心の中で妄想をめぐらせたり、
自己否定が根付いている人だと、「とんでもない!」と必死で打ち消して、ネガティブな自己イメージを確認しようとしたり・・。
褒められて舞い上がるのも、うろたえるのも、必死で否定するのも、「なんか裏があるんじゃないか」と勘繰ったりするのも(笑)、
結局は、承認欲にもとづく反応です。
この場所は、「正しい理解」に徹しているので、できているところはちゃんとできていますよと褒めるし、できていないことに自ら気づいていなければ、ストレートに指摘する(いわゆる喝を入れる)ことがあります。
励ましの意図はもちろんあるので、褒められた時は、素直に喜んでもらえればよいと思います^^。
逆に喝を入れられた時は、人間として反応せずに、事実として受け止めることです。動揺する必要はなく、「事実として在る」と理解して、「ならば次はどうするか」を考えるだけでOKです。
在ると理解して、次はどうするかを考える――これは、瞑想で自分の心を観察している時にやることと同じです。自分で見るか、人に見てもらうか。いずれにせよ、事実を理解して、前に進む。
その理解のきっかけが、自分の気づきか、誰かの指摘かは、どうでもよいのです。「誰か」は流してしまえばよくて、ただ自分だけが残ればいい。自分だけを見ていればいい。
お寺の修行というのは、まさにそういう世界です。
◇
ちなみに、この場所(草薙龍瞬)が褒められた時は、シンプルに「お役に立っているらしい。よかった」と確認するだけで終わりです。
自身の動機が、承認欲ではなく、慈悲由来の貢献一心なので、判断の基準は「役に立っているか」どうかだけ。
だから「嬉しい」という感情はないし、逆に根拠のないネガティブな声を受けることがあっても、それはその人の妄想であって、こちらの輪郭の外にあるので反応しません。
慈悲 → 貢献 → できることはやっている という自己理解に留まるので、人のリアクションに影響を受けることがないのです。「われはわれを知る」。
でも、このニュートラルぶりは、世俗の価値観にてらすと、退屈に見えるかも。「何が楽しいの?」という。
楽しくはないかも(笑)。でもそれでいいのです。みんなの幸せを見ているだけで満足できてしまえるので。
2025年7月