家庭であれ、職場であれ、人と人とが関わる時の基本は、
反応するのではなく、妄想を押し付けるのではなく、「まずは理解する」ことに努めること。
相手の言葉・行い、そして背後にある思いを、自分にできるかぎりの観察力・推測力を使って、「正確に理解しよう」と努めること。
※推測は、厳密には妄想に当たるけれど、最終的な正しい理解にたどり着けるなら、意味を持つ。いわば仮の理解として役に立つ。
家庭においては、理解したうえで、各自の自立を保ったうえで関わる(自立とは、互いに苦しめ合わない適度な距離感を保つこと、そして子供に対しては、将来の独立という方向性を見すえて関わること)。
つまり、理解 +(プラス)自立。
理解に努める段階においては、関係性はフラット。対等だ。
そのうえで、大人(親)の側には、自分の将来(いわゆる老後)をどうするかという方向性があり、
子供には、将来何者として生きていくか(進路・職業などの将来設計)という方向性がある。
理解 + 自立 + それぞれの方向性 だ。
(方向性というのは、「家族共通の」ではない。「それぞれの」だ。要注意)
◇
だが、家の中で“圧”が生じることがある。圧とは、妄想の押しつけだ。
よくあるパターン(ここからが今回の本題)は、
親の側が、「こうしなさい」「こうするのが当たり前」「なんでこんなこともできないの、わからないの」と、自分の中にある妄想を押しつけて、
やらない、できない子供に勝手にイライラするという場面。
親によっては、「私が同じ年頃の時はできたのに」と考える人もいる。
ちなみに今の時代なら、学習障害、発達障害、自閉症、ADHD・・その他の概念を子供に押しつけて、「やらない・できない」子供の姿をわかったことにしてしまうこともある。
こうした概念が正しい理解かどうかは、慎重に検討する必要がある。もしかしたら大人の側・世間が作り出した、子供の現実を説明するための仮説・妄想かもしれない。すべてがそうだとは言えなくても、そうかもしれない可能性は、考えておくほうがいい。
その妄想(うちの子は問題を抱えている、だって○○だから)が、子供の状態を解決することに役に立たず、単純に、子供へのイライラ(大人が感じる現実への不協和音)を説明するための理屈でしかないことも、少なくはない。
危ういのは、「うちの子は○○だから」という説明をもって、現実を正当化して、つまりは理解しようとする努力を止めてしまって、
親の側が持ってしまっているかもしれない都合のいい妄想に、気づけなくなることだ。
やらないことには、理由があるのかもしれないし、できないことが問題だとも限らない(ここ、すごく大事)。
もし理由があるなら、じっと姿を見守って、どんな思いがその心の奥底にあるのか、冷静に(思いやりをもって)理解しようと努める必要がある。
理由がないこともある。本人もあまりわかっていない、考えていない可能性もある。実はそれがその子の自然な姿であって、冷静に考えると、問題がないことだってありうる。
何か理由はあるのだけれど、本人もうまく伝えられない・・そうした時は、大人の側で言葉化してあげる必要があるけれど、
「こういうことかな?(どう思う?)」という言語化が役に立つ、つまり子供が聞いてくれるには、
それまでに、よく聞いて、理解に努めて、話をすれば聞いてくれると子供が思える、「信頼関係」が育っている必要がある。
つまりは、どうしたって、親の側が「反応せず、妄想せず、理解する」ことにどれだけ努力しているか・してきたか、が重要になるということだ。
◇
親によっては、都合のいい妄想をさも当たり前の前提にすえて、「子供はできない」「問題がある」「この程度のことさえできないなんて」と、圧倒的な高度の上から目線で、子供をジャッジして、見下して、傷つけて、
それでいて、「親として心配している」と信じ込んでいることもある。おそろしい無知、無自覚。
そのうえ、その妄想の背後には、自分が親になる前に育て上げてしまった“業”が働いていることもある。
子供への怒りは、もしかしたら親への怒りかもしれない。話を聞いてくれない不満、自分勝手な親への不満。自分もかつて、こんなことを感じていたかもしれない:
「なんで自分の話を聞いてくれないの?」
「もう、いいかげんほっといてよ」
「そうやってすぐ先回りして勝手にやってしまって」
「文句を言ったら、どうせすぐキレるんでしょ」
そういう小さなイライラが長い歳月の間、蓄積されていって、いつの間にか「何かに怒っている大人」になっている。
そうした怒りを隠し持ちながら、結婚して、親になって、いつの間にか、自分も親と同じように、話を聞かない、ほうっておけない、先回して勝手にやって、文句を言われたらムッとしたり、自分のプライド大事で「なに、その態度は?」「オレが悪いというのか?」と今度は自己防衛に走ったりしてしまう。
そういう姿を見た子供は、「ほらやっぱり。そうやって、いつも話を聞いてくれないじゃないか」「どうせわたしが悪者なんでしょ」と不満を感じ、失望し、親を信じなくなっていく。「話しても無駄だ」と学習してからは、口も利かなくなる。
◇
こうした関係性は、いたるところで起きている。客観的に見れば、起きている現象の正体はシンプルだ。
一方が(力を持つ側、つまり妄想を押しつけられる立場・体力・言葉数を持っている親の側が)、
自分に都合のいい妄想と、過去の記憶やら怒りやらプライドやらのうえに乗っかって(ふんぞりかえって)、
「自分は正しい、子供が間違っている」という図式(ジャッジメント)を強固に築き上げて、崩そうとしない。そういう姿だ。
どうしようもなく強固になってしまって、もはや親もどうしたらいいかわからない。
わからないことに悩まない――自分が正しいという傲慢に固まって老いてゆく親もいる。
わからないことに悩む親もまた、「こんなに悩んでいるのに」と、さらなる自分の正当化(自己都合の妄想)を選んでしまう親もいる。
違う。そうじゃない。自分の心を見つめないと。いったい自分の何が、この問題を引き起こしているのかを、冷静に考え始めないと。
◇
自分の都合のいい妄想を自覚しないと始まらない。
なんと無自覚だったか、なんと傲慢だったか。「ああ、こんな自分のままなら、子供が聞いてくれるはずもない」と痛感しないと始まらない。
自分の無自覚を自覚したら、最初にすべきは、純粋な思いで謝ることだ。ごめんなさい、と言えるかどうか。
純粋な思いというのは、自己の正当化、ちっぽけなプライドを捨てること。親として生きて来て、いつの間にか思い上がっていた、妄想の上にふんぞりかえって、自分がいっぱしの、正しい、「当たり前」を押し付けていい親なのだと思い込んでいた、そういう自分の愚かしさ、情けなさを噛み締めることだ。
そうした地平に立てるかどうか。立つことができれば、子供と対等に向き合える。
「理解し、理解される」関係性にシフトできる可能性が出てくる。
優しくて、聡明で、子供の言葉をよく聞ける親。
話し合うことにストレスが生じない、風通しの良い家庭。
そうした未来をめざすことは、いつでもできる。努力は必要かもしれないが、その努力は、損のない努力だ。
努力に比例して、子供との関係が良くなっていく。プラスしかない努力だ。
自分次第。親次第。ということです。
草薙龍瞬(出家・著述家)の言葉をお届けするブログです。著作・講座・講演等から ‶生き方として役立つ言葉” を抜粋してお届けしています。*毎週日曜の更新です。*講座最新スケジュールは公式サイト kusanagiryushun.blogspot.com へ
家の中の“圧”を避けるには
消えない悩みのお片づけ(ポプラ新書)から