家の中でも”反応しない人”になれますか?

<興道の里から>
7月18日は、久しぶりの東京でのライブ(教室)講座でした。

<自己ベストの生き方&働き方を考える>は、参加者のリアルな課題・質問を仏教的に掘り下げていくというスタイル。この場所の仏教の実践・応用編、しかもその究極であるような気がします。

毎回かなりディープ。視点、切り口、組み立て方・・いずれもこの場所だけのオリジナルです。参加した人は、ぜひココだけの学びとして、日常に活かしていただけたらと思います。



「ポイ活」は、今回限りとします(笑)。ポイントが着くからと半ば無理やり質問を作って参加しようとする人(?)もいなくはないようなので。もちろん直接お会いできる喜びは、別のところではあるのですが。

やはりこの場所の方向性にはそぐわない(笑)。煩悩・俗情をいささかなりとも刺激してしまうような仕組みは、採らないほうがよい様子です。

切実なテーマをリアルタイムでお持ちの人に来てもらえれば十分なので、あえて”キャンペーン”しなくてもいいですよね(笑)。



<おたよりから>
仕事では「思考」も「判断」も行います。ときには厳しい判断も必要です。一方で、家庭では「慈悲喜捨」だけにしたいものです。その両立がなかなかできません。

仕事が終わっても「買い物をして夕食を作って・・・」など思考が続く中で、「玄関開けたら反応しない人!」みたいなことが皆さんできているのでしょうか?

ブッダでさえ、すべてを捨てなければ「反応しない」境地に達することがなかったのなら、この世界にあって自分はどうしたらよいのか? 何かヒントがあればと思っています。


<興道の里から>
講座の中でお話しましたが、仕事では確かに思考と判断が必要ですね(ただ仏教においては、それは正しい理解とあくまで慈悲にもとづいて・・という一線は貫くことになります)。

家の中でも同じです。やはり理解と慈悲。

もっとも、外の仕事と家庭内とで、ひとつだけ関わり方を決める原理が違います(おそらく)。

それは、外の仕事は、立場・役割で決めることになるけれども(判断と判断がぶつかった時には、立場・役割にもとづいて、一方の判断を選ぶことになる)、

家の中では、もちろん立場・役割もあるけれども、それは少し緩いものになって、代わりに働く原理が「自立」であるということです(たぶん。このあたりが仏教的)。

自立というのは、「縁あって同じ家で暮らしているけれども、あくまでそれぞれが別人格で、別の人生を生きている、子供であれば、子供だけの未来・人生がある」という前提です。

親だからといって、子供の心情を傷つけていいことにはならないし、何をしてもいいわけではなくて。

あくまでよき理解者であろうと努めて、子供がいい人生を、自分の力で生きて行ってくれたらという思いをもって、適度な距離を保って、必要なかぎりで後押し(応援)するという関わり方です。



たしかに家も俗事も捨てないと、”究極の無反応”は達成できません。

でも、家の中・世俗の世界における「反応しない」というのは、

それまでの我流かつ過剰な反応を制御できること、

価値ある反応はするけれど、無価値な反応はしないということ。

そのためには、自分の反応をつねに見張って、自分の反応のクセ・思考のクセを自覚して、その都度自己反省の”痛み”を感じて、

「もうこのパターンは卒業しよう」「もうこんな自分はいいかげん卒業しよう」と、何度も自分に言い聞かせるなかで、次第にできるようになることです。

これは場数の問題であり、自覚の問題。これくらいであれば、日頃の心がけひとつで、けっこう近づいていけるのではないか、と思います^^*。

ひきつづき




2025年7月中旬