元気に年を越せればそれでよし


興道の里の講座も、12月28日に全編完了。


みなさん、よく精進してくださいました(感動と尊敬の意)。

この時期は、興道の里に出入りする人たちのお声を聞ける時期でもあります。

あたたかい言葉をたくさん受け取っています。ありがとうございます。


日頃はどんな暮らしをしているのかわからないし、大げさではなく生きておられるかも確かめようがないので、いつも気にかけています。あの人はどうしてるかな~と考えることも、よくあります。

この場所は、川のようなもので、流れ続けるだけ、求める人がいたら水を差し上げるだけで、こちらから広げたり追いかけたりはしませんが、ただ、川は川なりに人のことを想うものです。


どうか一人ひとりが、よき日々を過ごせるようにーー。

幸せに近づいているなら、川としては十分です。



いよいよ、2022年も終了。

しっかり目を覚まして、時代・社会よりも先を生きる人として、新年を迎えましょう。



2022年12月29日



最新刊いよいよ

12月21日(水)
『人生をスッキリ整えるノート』のカバー修正などのやり取りが一日続いた。

本当は今日午前が校了だったが、またまた細部に改善すべき点が見つかって、すべての点について要望を伝え終えたのが、夜の午後十時。印刷所のオぺレーターさんはまだ作業中。

本においては、私は完全に無報酬のつもりでやっている。今回はイラストも描いたが、原稿料はナシw。

私にとって、本は「手紙」である。仕事じゃない。読者の一人ひとりに送る、とびきり凝った手紙。切手を貼る位置にさえこだわる(笑)。宛名を書き損じたら、もう一度封筒から買い直す。そういう位置づけだ。

納得いく作品ができるなら、こちらが持ち出したってかまわない。関わる人すべてに貢献を。読者には、真心尽くした手紙を届ける。

これは、出家にとってはあったりまえのことだ。成果は人さまのもの。

自分にとっての基準は、納得のいく作品になったかどうかだけ。

 

いくつかの微調整を重ねて、全部の作業が終わったのは、午前1時だった。ここから印刷所のオペレーターさんは作業することになるのだろう。

今の時代、異常な額のお金を簡単に稼げてしまう世界もあれば、こうして自分たちの時間を切り売りして、その対価しか受け取れない世界もある。出版社、印刷所、デザイナー、DTPさん、そして物書きもまた、超零細企業であることは間違いない。

著者の場合は、自分の作品として世に出せる納得がある。だが、本づくりに携わる人たちの粉骨ぶりは、人の目に触れることはない。だがみんな骨身を削って頑張っている。そういう人たちも安心して働ける社会、ちゃんと報われる世の中であってほしいと思う。


今回の作品ほど、刷り上がりが楽しみなものはない。さて映(ば)えるものが生まれたかどうかーー。


今が一番幸せといえる自分を作る 
人生をスッキリ整えるノート


本日校了。みなさん、お疲れさまでした。

年明けにふさわしい愛嬌満載の最新刊。

イラストが超充実。ながめるだけで楽しいノート。

全国の書店で手に入ります。予約開始。




 

 

もしその時が来たら

12月16日
執筆に追われているうちに、あっという間にその日が来てしまった。

とあるラジオ番組の収録日。※すみません。出家は臆病者なので具体名は伏せますw。

〇〇のスタジオまで、自転車で向かった。淡い茜の冬空が凛と冴えていた。

想像以上に大きかった。大通りだと思っていた道は、敷地に通じる入り口だった。

出家が一人、チャリンコでスタジオの敷地に入っていく(笑)。

門衛さんにどこに行けばいいかと聞いたら、番組のゲスト名をチェックして、「地下の駐車場に降りて、そこで入館証をもらって、〇階に上がってください」と言われた。

その間もひっきりなしに車が入って来る。敷地内はイルミネーションに彩られて、さながら竜宮城のようなきらびやかさ。

今回お声がかかったのは、番組スタッフの20代の女性が、書店で『反応しない練習』を見つけてくださったことが、きっかけ。実にいろんなところで見つけてくれるものだと、感じ入る。本の力は、本当にすごい。


スタジオのみなさんの雰囲気がポジティブで明るかったのが、印象的。DJの〇〇さんは、さすがに話上手。間をうまくつないで、沈黙を作らない。リズムのいいやり取りになったように感じた。

私のキャラは、ひねくれ者のはみ出し者。学校も、大学も、日本社会も、ぜんぶ星一徹ばりにちゃぶ台返しして、もうひっくり返すものがなくなって、やむなくインドに渡ったのである。

そういうひねくれキャラとして、今日はお話しした。

この番組は社会意識が強い。各分野で活躍する社会派ゲストを多数呼んでいる。私に聞いてきたことも、ちゃんと目的意識を持った問いが多かった。だからこそ、いろんな返しができた。切り口というか着眼点が違うと、話のノリもまったく変わる。そのことがよくわかった。



スタッフさんたちの多くは、20,30代。若くて元気。仕事が楽しいと言っていた。なんていい言葉。

最近、この国の未来を想うことが増えた。私は出家だから、社会についてあまりモノを語らないようにしている。訊かれていないことを自分から語ってはならないという戒律があるからだ。

だが、この国がひとつの小さなクラスだとして、声を挙げられない人、いじめられている人、苦しんでいる人がいるとして、

それでも出家として、教室の片隅にいるかいないかわからないくらいの体(てい)で座っていていいのだろうか、とは最近とみに考える。

自分一人で生きていくなら、静寂がよい。隠れるかのように生きていきたい。もともと出家は隠遁を好む。

だが、この国を信じて頑張っている人たちが報われずに涙するような社会になっていくのなら、

最後は、ハイ と手を挙げなければいけないようにも思う。


声を挙げたくても挙げられない人たちもいる。世の中には、心優しい人、一生懸命働いている人、生きることに精一杯の人、それぞれにいろんなことを感じて日々生きている人たちがいる。

そういう人たちを、特に今日出会ったような20,30代の人たちを、泣かせるような社会にすることは、同じクラスにいる人間として、容認すべきではないだろうと強く思う。 

 

隠遁までにまだやらねばならぬことがある 気がする師走

 


 

黄昏時のお濠端を自転車で走る。
二度とこの場所に来られなくなる未来が、もうすぐやってくる。



今年の漢字一字

 草薙龍瞬から--


2冊同時進行中です。

毎回、夢のある作品にチャレンジできています。唯一無二のものを。

毎回、本一冊を書き上げるのに、体を極限まで酷使する。横になれないし、食べられないし。体はミシミシ、ガタガタいう。
 
だが心はとても楽しいので、結果的にあまり疲弊していないかも。こんな楽しい日々はありません。

仏教式ノートは、最後の大詰め。

光って見えることがベスト。「時間が許されるなら、ぜひこれも考えてみてください」みたいな著者願いが、まだ続いています。ギリギリまで最善を尽くす。

と同時に、怒り方の本も執筆中。普通の本のレイアウトで現状360ページくらい。これをさらに減らしていく作業中。なかなか面白い言葉が洗練されて残ってきた。この瞬間にしか出てこない言葉が。
 
これもまた類を見ない斬新な作品になりそう。怒れ!という本。
 
今の時代、怒らなければいけないことはたくさんある。
 
なのに怒れない人があまりに多い。
 
ちゃんと怒らせてあげたい。正しい怒り方を、苦しんでいる人に託したい。


1月初旬発売の仏教式ノートは、イラストがすごくいい。
 
里野愛さんというイラストレイターが描いたという形で出る予定だったのだけど・・・。
 

今回、二冊ともすんばらしい、納得のいく作品になりそう。


今年を漢字一字であらわすなら、今ならば「」になる。

満身創痍の創? いや、創造の創(わかるって)

 
もうしばらくお待ちください。
 
 
 
著者も待ち遠しい




本来の<知>の使命


ブディズムは、実践を重んじる思想です。

現実にある苦しみを実際に越えていくことを真剣にめざす。

これは、思想というより生き方です。


仏教は虚無を説くものだという声があります。

 

世間は無常、虚仮(かりそめ)だから執着するなと?

世界はいずれ終わるから、何をせずともこのままでかまわないと?


それが仏教だと思われている節もありますが、真実ではありません。

 

ブッダは若い頃は、こうした虚無に陥ったけれども、道=生き方を見出してからは、もっと前を向いて伝えています。

 

おのれの苦しみを越えてゆけ と。

 

今の時代、さまざまな言葉が聞こえてきます。中には、傍観、皮肉、揶揄、理屈でしかない言葉もあります。


しかし、そうした言葉の多くは、この世界をどこにも運んでくれません。



世界がいずれ終わるとしても、人々は終わっていいとは思っていない。

大人は世の中こんなものだとあきらめているとしても、子供たちはそれでいいとは思っていない。

未来に生まれてくる者たちが、この世界が、この国が、このまま滅んでいっていいとは思っていない。


人が、苦しみを越え、それぞれの幸せにたどり着きたいという原点から始まっているならば、

残された人生の時間は、その地平にたどり着くための可能性ということになるし、

この世界は、人それぞれが幸せにたどり着くための唯一の土壌です。

 

ならば、

滅ぼしてはならぬし、終わりを見てもならぬし、あきらめてもならぬし、実践して変えていくという方角を忘れてもならぬ。



苦しみに満ちた現実を越えゆくことが、命の本質だからです。


ただの理屈と<知>はまったく違います。本当の<知>は、この世界の幸福を――苦しみを越えていくというきわめて現実的な方角をめざすものです。


この国が、これほどに閉塞・停滞し、未来を見失いつつあるのは、<知>が貧弱化していることにも理由があるのかもしれません。


苦しみを越えるために本気の言葉を語ること。方法を探すこと。それが<知>の使命です。



うかうかしていると、本当に滅びます。

だが、そもそも命はそれをヨシとはしないのです。

 

 

 2022・10・16

 

無駄のない心で

読者さんからの感想を受けて:


おたよりありがとうございます。(以下はおたよりにちなんで)

いつもお話ししていることなのですが、あの本に書いたことは仏教の世界のイロハであって、ごくやさしい入門書・教科書のつもりで書いたので、これだけ多くの人がイイ!と言ってくださることは、著者として不思議だったりします。

ただ、翻訳(言葉選び)には最大限気を使っているし、

無駄がなく、音として入ってくる言葉と、理解しやすい展開(つまり論理)を大事にしているし、

なにより慈悲を基準として、人にとって現実に役立つ・使える方法として、内容を吟味しようと努力してはいるので、


そういう厳しい視線で仏教をとらえ直して書き上げた作品なので、そういうところが伝わっているのかな、

伝わっているとしたら、読み取る人(読者さん)たちが優れているんだな、ありがたいなあ


と感じている次第です(=人=ガッショウ)。


心が曇る・ゆるむと、言葉もそうなる。心が散ると言葉も散る・・。

だから無駄のない心でなければと思います。


ありがとうございます。







だから歩き続けるのです

2022年5月2日(日) ※再公開します
 
神楽坂での講座がようやく再開。


他の教室は空だった。

ご近所の居酒屋は、3度目の宣言で奥さんが怒って実家に帰ってしまったので11日まで休業しますと出ていた(笑)。

座禅会も、定員が減らされている。直前に申し込む人も少なくないのだが、満席を理由にお断りするほかない。

それでも道を求めてこられる人とライブでやりとりできるのは、楽しいものである――仏教的には「善き哉」という。好ましい、価値がある、という肯定の表現。

きちんと受け止められる真摯さがある人たちとの直接のやり取りは、やはり「学んでいる」という実感が伝わってくるので、楽しいのである。

これは、「人好きの業」が選んでいる関係だ(「人ぎらいの業」を持った人なら、「隠居じじい」の暮らしを選んでいる。世には出てこない(笑))。



今日の話題――

◇世の中おかしなことが多いが、それに反応しているというのは、漏れということになる。

思いと言葉と行動とが、ちゃんとつながっていないと、自分が苦しくなる。

外の世界・人のありように、心を漏らさないこと、反応しないことだ。

外の現実に反応しているということは、まだまだ妄想を広げ過ぎているのだ。削り落とさねばならない。

あくまで自分のありようについて語り、

意見や理解も、「自分にとって」に限って語る。

そして、自分がコントロールできる範囲で、語り動く。

それがきちんとできていれば、心は疲れない。疲れるということは、外の世界に振り回されているということかもしれない。

 

自分を大切にするとは、正しく心を使うことだ。

愚かなことに心を使わないように、おのれ自身と闘うこと。


◇母親の子供への執着は、心情としてわかるが、届かなくなる時期というのが、必ずくる。

何かをしてあげなければかわいそうになる、心配になってくる、というのは、母親の心の惰性みたいなものだ。

その惰性が、子供を遠ざけたり、子供に嫌われたり、子供を甘やかしてダメにしたりと、いろんなマイナスを招き始める。

「そろそろ手放さないといけない時期なんだな」と気づいて、

そこから数年から十年くらいかけて、徐々に親の側が心を変えていくしかない。通らねばならない通過儀礼。人生のステージ。


少なくとも、子が親を嫌ってくれたり、遠い場所で暮らし始めたり、「親なんていらねえ!」なんて言い出したら(笑)、

それは、親としてはとてもありがたいことなのだ。
 
よく言ってくれた、よく行動してくれた、というようなもの(笑)


淋しさは残るだろうが、それも執着=惰性が作る感情。

これは、子供にお付き合いさせるものではなく、自分の側で手放していくものだ。



執着を手放すことは、痛みを伴う。そのあたりの親のせつなさ・さみしさというものを受け止めてさしあげる場所でもありたいと思っている。 


苦しみと無縁な人は、めったにいない。

みなさんの気持ちは、よく承知している。

 

だからこそ、道づくりに励むのです。道をゆくこと。


ということで、帰りに千歩数えてみること。数えられるまで家に帰らないこと(笑)。 
 
歩き続けましょう――。
 
 
 
 
 

秋はイラスト

連休だったからか、19、23、24日の里の道場には、久しぶりの参加者がちらほらといました。

出会った頃は暗中模索、五里霧中状態だったのが、しっかり心の技を身に着けて、最初の課題・苦悩を越えていった人たちが、この場所には大勢います。

「今が人生で一番幸せです」というある人の言葉は実感だろうと思います。



新刊の仏教式ノートは、ゲラが上がってきて、草薙龍瞬のイラスト待ちの段階です。

好きでやっていることは正直ないので(それがいいことだとは思いませんが笑)、単純に苦痛がない、役に立つ(必要とされる)ことを淡々とやるのみという生き方をしています。

なので、イラストを描くというのも、特に嬉しい・楽しいという気持ちから入ることはないのですが(あくまで淡々とw)、でもかわいいタッチや、想像以上に面白い絵柄が描けたりすると、「これはいいかも」と楽しくなったりはします(これは文章を書く時も同じ)。

作品については(仕事も同じはずですが)、自分が楽しいことが最初。この時点では結果は度外視(考えない)。自分にとって楽しいこと・自分が面白がれることが、人にも楽しんでもらえるための第一条件になると思っているので、

ここから二週間ほどは、自分で描いて「これはいいかも」と一人楽しみながら作業を進めることになります。一人上手、自己満足、自分の幸せは自分で創る、が本道。

きっとノートを開いた人は、かわいいイラストを見て、かわいい~♡と快を感じてくれることでしょう。塗り絵できるようになっているので、ぜひお気に入りの色をつけてもらえればと思います。


急に秋めいてまいりました。美しい季節の到来です。



ゲラにあわせてラフイメージを描いていく(12月中旬刊行予定)
 
 
 

突き進むのみ

自分にとって本当に価値があること・意味があることというのは、

今の自分にはわからない・見えないことも、実はすごく多いのです。

喩えるなら、新しい分野の勉強を始めるとしましょう。なんでもいいのだけど、自分が完全に未知の世界に足を踏み入れたとする。

この時点で、自分はこう思うとか、こういう説や考え方はどうなんだ、みたいな自分語りを始めた人は、その時点で成長が止まります。もはや新しいものは入ってこない。

自分が何も見えてない段階で、たとえばキレイにノートを取っても、その取り方自体に自分のクセがついているから、役に立たない。ノートを取るという作業さえムダで危険ということは、ものすごく多いのです。身に覚え、ないでしょうか。



学ぶには、ある程度「見えてくる」必要がある。体験すること。考えることではなく体験です。幼い子供なら何もわからないから、言われるままにやるだけです。その体験がやがて意味を持ってくるのは、もっと先の話。


ただ聞く。真摯に、謙虚に、可能性を見すえて学ぶ。やる。やる。やる。


もちろん、ただ「やる」ことは、もしかしたら導き方が間違っている可能性もたまにあります。筋が悪い、方向性を間違っている入り方を強いられることがあります。あまり筋のよくない勉強を教わるとか、おかしな宗教にハマるとか。

だけれど、この場所はそういう場所ではない。ブディズムは、自分を越えることをめざす世界。おのれの心を知り、原因を知り、洗練された方法をひたすら実践し、体験し、これが自分だと思っていたものを越えていくこと。


「自分」というのは、自分が思うほど本当は正しくはないのです。考えてみてください・・業に駆られ、執着にまみれ、ごまかし、まやかし、現実逃避・ウソ・責任転嫁・他人への批判・不満・イチャモンに走って、ちょっとでも苦しくなったり壁にぶつかったりすると、すぐ見切りをつけたり、もっとラクで手っ取り早い方法があるんじゃないかと考えてしまったり。

 

そうして、あっという間に妄想に呑み込まれて、自分を越える可能性を自ら手放す。あっという間に「自分」へと戻ってゆく。

まるで犍陀多(カンダタ)が蜘蛛の糸をみずからチョン切って、くるくると駒が回るように落ちていったように・・しかも落ちる場所は、地獄というより、ぬるま湯・・自分のままでいい、これでいいんだという自己確認。


知るべきことを知らず、やるべきことをやらねば、新しい理解は見えてこない。

知るべきことを知り、なすべきことをなし、新しい体験を、無心に、つつしんで、ゆめゆめおのれの我見・妄想に捕らわれることなく重ねていく。

それこそが「道心」というものです。自分ではなく、道つまり正しい生き方をめざそうという決意。自分を越える決意です。


歩くべき時は歩くしかないということ。

どんな景色が見えて来るかは、歩いた先にしかわからない。




2022・9・16



静かにおのれの道を行く


この場所は、ひっそりと静かに小さく生きていくことを選びます。


自分一人が歩ける道幅があればよく・・。



その言葉や言葉が、道(生き方)を求める人にだけ届けば、それでいい。

なので、ブログでも、あまり語らないようにしています。


ただ中には、遠くから、それぞれの日常の中で、たまにこの場所とのつながりを求める人たちもいると思います。


そういう人たちに向けて、日頃、道場・教室にてお話していることの一部を抜粋してお届けしようと思います。



今後このブログでお伝えする言葉は、一人の出家がどこかで語った言葉だと思って聞いてください。


一人ひとりは、とても小さな日常を、毎日精一杯生きていると思うのです。


そういう人たちの日々を想いつつ、伝える価値のあることとそうでないこととの線引きを大事にしながら、少しずつ言葉を発していきたいと思っています。



草薙龍瞬






変わろうとしない父親たち

日々いろんな人たちの相談に応じてきて、たびたび思うことは、

父親・男親は、変わろうとしない生き物(であることが少なくない)ということ。

子供のことで相談に来るのは、9割がたは女親。たまに男親から相談の連絡が入ることがある。

ところが、相談に来る男親の多くに共通しているのは、「子供のことで悩んでいる、子供がこんなことになっている」と、子について事細かに説明するのだが、自分自身については見事にスルーしていたりする。

自分が存在していないのか、自分には非がないと思っているのか。さながら自分は巧妙に隠れて、子供が悪い、妻が悪いと言い立てているように映ることもある。

「ほとんどの場合、親の側に問題があります。あなた自身はどうなのですか?」というような問いを返すと、「考えてみます」とはぐらかして、それきりになる(笑)。

子供のことは、子供に聞かないとわからない。子供本人が来るなら本人に聞くし、本人に会いに行くこともある。家に上がって、子供や母親の話を聞く。すると出てくるのは、男親の数々の行状、いわば“犯行”である。真犯人は男親だったか、ということがよくあるのだ。


仕事に逃げる。黙っている。子供が傷ついているのに守ろうとしない。言葉数が少ない。要は、家の中で無力。

無力な男親――仕事くらいしかできることがなく、家では何もしない、口数も少ない――は多い。頼りなく、ある意味、ずるい。自分を守っているからだ。

端的に男親に原因がある場合も多い。実際の姿はさまざまだが、たいてい怒り、傲慢、怠惰、支離滅裂、無関心のいずれかだ。

 子供は、そんな父親から負の影響を甚大に受ける。その時、母親は?――守ってくれる・支えてくれる母親なら救いもあるが、母親もまた人間として偏っている場合、子供は家の中に当てになる人・守ってくれる人が誰もいないという事態になる。

これは最悪の環境だ。 期待すれば怒りと絶望。かといって完全にあきらめるのも至難。一緒に暮らさざるを得ないからだ。

男親が家の中で役割を果たし、きちんと理解者でいる家庭では、あまり問題は生じない。理解者であるとは、女親つまり妻の思いを聞けることであり、子供を距離を置いて見守り、経済的・精神的な支えになれること。こういうまともな男親がいる家庭は、それほど崩れない。

子供が前に進めなくなる場合には、男親に原因が隠れていることが少なくないのだ。隠れているというのは、男親が意図的に隠しているから。プライドが高い。都合の悪いことは隠す。オレは悪くない、オレはよくできた人間だ、オレは子供のことで悩まされているんだ、悩んでやっているオレはやっぱりエライのだーー

という結局は、自分はキレイなままでいたいという小さな慢を、内心必死で守り抜こうとしている――そういう男親とたまに遭遇する。この場所でたまにということは、世の中には大勢いるということだ。

妻・子供の問題については考えてやるが、オレは問題ない(なぜオレが変わらねばならぬのだ?)--というのが、その本音なのだろうと思えてくる。



男親として真剣に学び、変わろうとする人たちもいる。強く尊く立派な人たちだと思う。世の中の比率としてはかなり低い希少な人たちだ。

男親の務めは、やはり第一は仕事なのだろうと思えてくる。働いて家を支えるなら、最低限の役割は果たしている。だが働くことが免罪符になるわけではなく、家族における「理解者」であらねばならぬ。これは、家族としての当然の役目だ。

ところが、理解者になれぬ・及ばぬ男親が少なくない。仕事だけで正当化せず、人として最低限理解しようと努力できるかどうか。 まだまだ学べることはあるのに。まだまだ変われるし、変わらねばならぬのに。


もう一度心のターボをふかして、「変わる」と念じてみるとよい。



人として成長し続けること以上に、価値のある生き方があろうか。


残念ながら、変わろうとしない男親にこうした言葉が届くことは、ほぼないのだが。



大丈夫、あのブッダも家族に悩んだ

活字が読みづらい人は、まずは声で聞いてください


 

2022・9・13





お助け繁盛

2022年度の日本全国行脚、これにて完結!


岸和田で講演会。
南大阪の看護学校で1年・3年生向けの講義。
奈良で数日過ごして、名古屋で講座。
広島にて勉強会。
8月中旬から宮城。秋田。
8月末に愛知・高蔵寺での初講座。
名古屋で講座を終えて鹿児島。佐賀唐津。
広島、大阪難波、そして奈良入りを終えて、全日程終了。


多くの人たちと宝石のような時間を共にできた。特に今年は、数多くの人助けができた実感が強く残った。

仕事なら商売繁盛と呼ぶのだろうが、私の場合は「お助け繁盛」である。人の数だけ人助け。手応えを感じた時間が多かった。

実に満足。最上の旅を実現できた。

協力してくださった皆様に、心から感謝御礼申し上げます。


希望や意欲の灯(ひ)が、一人ひとりの心に灯ってくれれば、それが最高の幸福です。

純粋に素直にそう言いきれる今があります。自分に納得。この命の使い方に納得。


幸せな旅をありがとう。 



大阪から奈良へ 
帰ってきたのではなく、新しく始めるのです



この命が去りしのち


8月30日(火)は、名古屋に戻って栄中日文化センターのレギュラー講座。

ブッダの生涯も終盤に入った。80歳になったブッダが、軍事侵攻の是非について大臣に語ったり、自分がいなくなった後の生き方について再三伝えている描写が興味深い。人は旅立ちを予感した時に、自分が去りし後の未来や、その後も残る人々を想うのかもしれない。

葛藤していた頃は自分のことで無我夢中。だが抜けてしまえば、残るのは、この世界と人々の未来のことくらいになるのかもしれない。私個人の思いを投影して見ているだけかもしれないが、あながち離れてもいないように思う。

『大丈夫、あのブッダも家族に悩んだ』新版(筑摩書房)を読み返して、あの老いた母と娘の関係性は、自分もそっくり同じだと今になってようやく気づいたという感想があった。あの壮絶なエピソードは、互いの執着が作り出す終わりなき修羅場を描いたものだ。

あの本のテーマである”業”――と、それに縛られる原因である”執着”。

二つを突き止めねば、苦しみの輪廻を越えられない。



本当は「ある」もの(自分にも当てはまること)を「ない」と片づけてしまう(いわゆる否認)というのは、その程度によって、次の3つのパターンを取る。

①最初から完全に自分は無関係と決め込む。「私は関係ないし」で片づける。だから『大丈夫』も読まない。

②少し読むだけで、心が嫌悪・敬遠の反応を示す。知りたくないことを書いてあることを予感するのか、途中で放り出してしまう。中には、本は買っても読まずに本棚にしまっておく(しかも背表紙を奥にして笑)人もいる。

③いちおう読むが、アタマに入ってこない。「私は違う」「いや、親にも理由があった」「今さら言っても遅いし」「もう私も大人だし」といろいろと言葉を繰り出して、本当はあるものを「ない」と言い張ろうとする。

中にはわざわざ「私はもう親を許しているし」と言い出す人もいる。だが正しくは、許す・許さないの話ではなく、心にまだ苦しみが残っているか、引っかかっているものがあるかという事実だけである。

苦しみがあるという事実に、本当は嘘はつけない。いくら嘘を語っても、事実として「ある」苦しみはごまかせない。ごまかしきることは本当は不可能だ。苦しみがある事実を生きるか、苦しみが消えたという真実にたどり着くか。人生の行方は二択である。

本当は苦しみがまだ残っているのに、「ない」と言い張る。その無自覚レベルの否認が働いているから、言葉が入ってこない。まるで他人事のように読んで、「お気の毒」「世の中にはこんな家族もあるのですね」「私は違います、幸せです、よかったです」と片づける。読んでも「自分」は素通りして終わらせる。
 

否認ではなく中身を読んで理解した人のステップは二つある--

④しっかり読んで、自分の思いを言葉にする。そのことで自分の心を理解できる。自分がなぜこのような人生を歩んできたのか、なぜ今の自分にたどり着いたのか、なぜ自分が苦しんできたのかという真の理由がわかる。

⑤理由が分かったうえで、苦しみを越えてゆく道筋・新たな生き方をも、はっきり理解する。行動に移す。

⑤の行動にまで移した人が、道に立った人、そして勝利(苦しみからの解放・克服)の可能性を得た人である。



①から⑤を見渡すと、はっきり生き方が分かれていることがわかる。①②③は、過去の人生を続けていくだけだ。生き方は人それぞれでよいのだが、苦しみ・過ちもそのまま続くことになる。

いくら「ない」と言い張っても、生きづらさはあるし、外の世界になじめない苦しみもあるし、親になった自分の過ちも続く。自分がいくら問題ないと言い張っても、そんな自分が子供や周囲を苦しめている事実は続く(自分が知らないだけで)。

なぜ自分が苦しむのか、なぜ家族を苦しませてしまうのか、その原因は何なのかを、いさぎよく理解するほかない。

理解しないまま始まるはずがない。繰り返すだけ。止まっているだけ。どこまでも自分、自分、自分だ。

それが業のなせるワザ。そんな自分を、問題ない、私は当てはまらないと思い込むことこそが、執着したがる(同じ自分に留まりたがる)心が繰り出す罠なのだ。


他方、「苦しみの原因」を理解した人が、前に進むきっかけを得た人だ。そして原因を克服するための道を実践するに至った人が、道に立った人である。

道に立った人こそが、人生が変わる可能性を手に入れる人だ。いわば彼岸--苦しみから抜けた境地――への岸辺、つまり可能性に立った人である。岸辺に立ち、新たな道へと踏み出した人たちは、確実に増えている。

この本との出会いがきっかけだったと語る人が、教室を訪れる。



この場所は、妄想を語らず、欲望・虚栄・欺瞞(自分に対する嘘)と高慢を斥ける。

世にあって世に染まらずを地で行っている。

宗教と呼ばれる世界は、えてして我欲と妄想ゆえの虚栄と形骸に取り込まれてしまう。中身のない形を維持・拡大しようとするから、過剰な負担を人々に強いて、ときに家庭・人生を滅茶苦茶にしてしまう。

 
この場所は、正しい理解と慈悲に立って、一人の出家の身命(しんみょう)が届く範囲でのみ真実を語る。

この命が消えても、ダンマつまり方法・生き方が残るように、声と言葉を遺すように努力している。

だから一切無理が生じず、負担を強いず、みずから実践する者が、おのれの実践と体験によって、それぞれに心境の変化を経験していく。そういう関わりが自然に成り立っている。


おそらくこれが、最も純粋なダンマ(生き方)の実践であり体現なのだろう。この形でよい。




2022・8・30

高蔵寺の黄昏空

8月28日(日)愛知・高蔵寺

高蔵寺は今回初めて訪れた。名古屋から快速で30分弱、さらにバス。「これはみなさん、よく来てくれるなあ」とすぐ思った。

教室は満席でオンライン参加も。今回初めてという人が大多数。ご近所の人たちが14名。遠方の人のほうが多かった。初参加者が多いので、栄とは雰囲気が違った。反応しない生き方についてガイダンス的な話から始めたつもりだが、はて伝わったか(やはり継続して学んでいる人であれば、ある程度耳と心が慣れているので、難しい話でもついてきてくれる)。

こんなに遠くから来てくださったのだから、もっとお話しできたらと思うのだが、2時間で終了。


終了後は個人相談会。予約9名プラス1名。一人15分ほどの予定だが、みなさんどうしても思いがあふれて、私もなるべくすべての言葉を受け止めようとするので、20分、30分と経ってしまう。

休憩入れずにやっても9名が終わったのは19時すぎ。残るお一方とは外でお話しした。黄昏空がとてもきれい。こうした景色を目の当たりにできるだけで足を運んだ価値があったというもの。電車の中でも話しながら名古屋まで。


今日の相談者の多くは初対面だったが、やはり家のことで悩んでいる人が多かった。壊れた親たちを捨てきれずに気づけば自分の人生が始まらずに半世紀生きた人、あるいは自分自身が非道な親で子供の人生を潰してしまった、しかしいまだにどう接すればいいかわからないという親。

壊れた家を子供としてかいがいしく支えて生きてきた人には、その苦労をねぎらいつつも、きっぱり捨てていい、人生は自分のために生きるものですと励まし、

子供の人生を潰した親には、「自分たちの罪を思い知ること」と容赦なく事実を伝えて、何が根本的に間違っていたか、過去どれほど子供を傷つけてきたかがわかるように学び始めてくださいと促す。

親が子供の人生を潰してしまった場合(たいていは親の世間体や見栄が理由だ。しかも父親の方が病的だ。男親というのはどうしても慢が先に立って、子供の心の傷をわかろうという発想、というか感性そのものが欠落していることが多いらしい)、子供は実家の奥深くにひっそり引きこもって生きざるを得なくなっている。


「どうしたらよいでしょう」と言っても、そんな親の心配してるフリが届くような段階にはもはやない。潰したのは自分たち、身動き取れなくなったのは、大きくなったわが子供。80代と50代。死なばもろとも、しかないではないか。親としては罪人として死ぬまで罪を背負うしかなかろう。

親が子供に対して鬼になって自立を迫る。それは早ければ早いほうがいい。遅ければ手遅れになる。タイミングを失ってズルズル歳月を無意味に過ごせば、「80・50問題」は、すぐそこである。「人生あっという間」「時間が経つのは早い」というのは、親と子供にとっても真実である。あっという間だぞ。

50をすぎて今さら社会復帰といっても、計り知れずやはり難しい。もちろん開き直って判断を捨てれば、別に仕事がある・なしで人の価値が決まるものではなく、堂々と生きればよい(ブディズムはそうした「心の出家」を生きる世界だ)。だが、その堂々というのも簡単ではないのである。カネは尽き、家の時間はますます止まっていくからだ。

それでも家の中のだれか一人が「目覚める」ことが最初に来る。それは普遍である。こうして足を運んできた母親には、まだ可能性がなくはない。これから学んでくださいと厳しめに伝える。「あなたたちは罪人です」。子供の心情を思いやると、そんな言葉が感情を伴って自然に出てくる(私は親を前にして、子供の側で話を聞き、そこにいない子供の心情や日々見ている日常に思いをはせる。すると子供の側の絶望ややり場のない怒り、憎しみといった感情が見えてくる気がすることがある)。

自分は罪人なのだという事実は一生背負っていくことになる。だがみずからの罪を心底自覚して詫びることを始めなければ、 何も始まらない。罪の自覚は、可能性の萌芽でもある。

詫びるとは、自分が罪びとであること、子供がどれほど傷つき可能性を潰されてきたかを理解して、その理解を言葉を尽くして伝えることだ。と同時に、もちろん無駄を語らずひたすら謙虚に耳を傾けることも必須である。



実り多き日だった。今日の価値ある時間は、相手一人と私だけが知るもので、社会的にはまったく見えないものだ。だがたしかにあったのだ。せめてこうして誠意をもって向き合う時間を体験した人は、希望を見出せるかもしれないし、世の中、人生、捨てたものではないとも思えるかもしれない。とにかく誠心誠意向き合うこと。その人が苦しみ、謙虚と意欲を保っている限り。それがこの命の作法であり流儀である。最高の納得の源泉である。


急いで宿を探して予約して、名古屋市内に一泊。昨日から徹夜で寝ることなく愛知に来て、しかし今日は一切眠気・疲れとは無縁に一日を過ごせた。今日の日や善し(納得)。




 

高蔵寺の黄昏空
こんな景色を見られるだけで生きている価値はある

『大丈夫』プレスリリース

草薙龍瞬が自身の声でお届けする『大丈夫、あのブッダも家族に悩んだ』、好評配信中!

株式会社KADOKAWA(本社:東京都千代田区、代表取締役社長:夏野剛)は『大丈夫、あのブッダも家族に悩んだ』を7月22日より配信開始しました。
作品詳細URL:https://www.audible.co.jp/pd/B0B62YNPPQ


あなたは、もっと幸せになっていい

家族の中にあっても、家族から離れた場所にいても、
私たちの前には"道„があります。
その道を歩いていこうと思えたとき、
人生に"希望„が生まれます。

 原始仏教に眠っていたブッダの智慧を、現代人に通じる生き方・ノウハウとしてよみがえらせた名著『大丈夫、あのブッダも家族に悩んだ』から、著者自身の朗読によるオーディオブック版が登場!

無理に仲良くする前に―家族の基本は“ニュートラル”。
ツラい関係が“希望”に変わる心の持ちかた。常識をひっくり返す、ブッダ流“幸せ家族”の作りかた。あったかくて、やさしくて、役に立つブッダの新・家族論を紹介。著者の優しい語り口が心に響きます。

本オーディオブックは、2022年7月刊行『増補新版 大丈夫、あのブッダも家族に悩んだ』(筑摩書房/2016年に海竜社から刊行した書籍の増補新版)と同じ内容になりますが、親、家族、夫婦、人間関係で悩むすべての人に向けて、オーディオブックだけの原稿を加えたパワーアップ版ですので、すでに書籍をお持ちの方にもおすすめです。

  • 著者略歴
僧侶。興道の里代表。奈良県出身。16歳で家出、上京。大検(高認)を経て東大法学部卒業。政策シンクタンクなどで働きながら生き方を探し続け、30代半ばで得度出家。ミャンマー国立仏教大学専修課程修了。インドの村を拠点に社会の変革をめざすNGOと幼稚園・小学校を運営する。
宗教と化していたブッダの教えを、合理的な「心の使い方」としてとらえ直し、論理的な文章展開と、日常で使える方法へと昇華するスタイルが評価されている。
 
  • 書籍
『反応しない練習』KADOKAWA、『こころを洗う技術』SBクリエイティブ、『心の出家 変わらぬ日常をもっとラクに生きたいあなたへ』大和書房、『これも修行のうち。』KADOKAWA他。
 
  • オーディオブック著者朗読版
『大丈夫、あのブッダも家族に悩んだ』筑摩書房
配信ページ:https://www.audible.co.jp/pd/B0B62YNPPQ

『反応しない練習』KADOKAWA
配信ページ:https://www.audible.co.jp/pd/B085C17DVR

『これも修行のうち。』KADOKAWA
配信ページ:https://www.audible.co.jp/pd/B01E5FHBV6

Amazonポッドキャスト 『反応しない練習エクストラ』
配信ページ:https://www.audible.co.jp/pd/B09PWKKFMD
 



百年後に遺したい一冊

7月20日に、

『大丈夫、あのブッダも悩んだ』増補新版 筑摩書房 が出ます。

『反応しない練習』は、技術的な内容だけれど、『大丈夫』は、人がいつの間にか背負う悩み・苦しみの本当の原因を解き明かしたもの。

世間では、愛着障害、発達障害、統合失調症、アダルト・チルドレン、インナーチャイルドその他、いろんな言葉で語られている「何か」を解き明かしたもの。

精神科の先生方も読んでいる人が多いとか。


長年にわたる生きづらさ抱える人、特に親・家族との関係で悩んでいる人に必読の書。百年後に遺す一冊を選ぶとしたら、『大丈夫』を選びます。


<書誌情報から>
長く続く悩みや生きづらさの背後には、“業”が隠れている。

業は、性格・気分・生き方を決める心のクセ。業が、怒りや自己否定、対人関係のストレスなど、多くの悩みを作っている。

業を克服できれば、自分らしい生き方が可能になる。

原始仏教に眠っていたブッダの智慧を、現代人に通じる生き方・ノウハウとしてよみがえらせた作品を、親、家族、夫婦、人間関係で悩むすべての人に向けて、新原稿を加えてパワーアップ。


【内容抜粋】
●悩みの始まりには“業”がある――人生を支配する隠れた力。
●まず“親の業”を理解する――親の業診断テスト
●親と距離を置く勇気を持つ――なぜ人は執着してしまうのか
●怒りも罪悪感も捨てていい――ブッダ直伝「本当の人生を取り戻す方法」
●自分らしい本当の人生に向かって――傷ついた心は作り直せる etc.


<著者・草薙龍瞬から>
この作品を書き下ろしたのは、”業”(心のクセ)に苦労している人が、あまりに多いからです。

止まらない怒りや、しつこく続く後悔や自責の念、自己肯定感の低さや、対人関係で繰り返す失敗など、多くの人が「コントロールできない自分の性格」に悩んでいます。

こうした性格は、“業”によって作られている・・その意外な真実を解き明かしたのが、この本です。

業とは、人生を支配している力。自分でも気づいていない影響力。ほとんど親との関係で作られます。親が怒りの人なら、怒りの業が育ちます。親が無理解な人なら、怒りや絶望が、逆に親に申しわけないと思えば、罪悪感・自己否定感が育ちます。そうした性格が、大人になった後いろんな問題となって表れてきます。

この本では、 “業”をいくつかの代表的なパターンに分類しています。自分の業を突き止めるには、まず親の業を知ること。そこで「親の業診断テスト」をつけました。

親の業をつきとめ、自分の心に刻み込まれた親の影響を自覚する。決別することを決意する。

これが人生を変える第一歩になります。人は、もっと自分らしく、自由で快適な人生を生きられる。その道筋を体系的に紹介しています。

ブッダの教えは、きわめて合理的で論理的です。心の苦しみには必ず原因がある。その原因は必ず克服できる--そのスキのない方法論は、今の時代にこそ活かされるべきです。

「どうせ人生はこんなもの、自分はこの程度」とあきらめるのは、早すぎます。人を恨んで取り返しのつかない過ちを犯す必要もないのです。

人間は、元々悩みのない状態で生まれてきます。とすれば、もう一度、悩み・苦しみのない心を取り戻せるはずなのです。


すべての苦しみには、業が隠れている。

業を越えることができれば、人はもっと幸福に生きられる。

その方法のすべてを解き明かしたのが、この本です。


最新刊は筑摩書房から

草薙龍瞬から


最新刊は、筑摩書房から7月に発売になります。

 

『大丈夫、あのブッダも家族に悩んだ』(海竜社)の改訂版です。


以前、月刊プレジデントで紹介いただいたことがあります(原稿が見つかり次第、掲載しますね)。

 

紙の本と同時に、AmazonAudibleで著者朗読版が公開になります。

 

ポッドキャスト「出家な生き方、始めませんか」と同じく、生きている人たちを思い浮かべながら、全編読ませていただきました。

 

活字を眺めるだけでなく、耳で聞いて、心の奥に留めてもらえたらと願っています。

 

ラクに生きられる時代ではないからこそーー。

 

もうしばらくお待ちください。

 

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興道の里から


中学受験を控える親に向けて、草薙龍瞬のインタビュー記事が掲載されました。
 
朝日新聞EduA
保護者の動揺が子どもに与える影響 「“妄想”に子どもを巻き込まない」


 
うまく伝わっていればよいのですが^^。


4月9日のテーマ別仏教講座は、この取材を受けて企画したものです。


ご参考いただければ幸いです。



2022・5・9
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なすべきこと

人間の狂気

 

夥しい数の苦しみ

 

起こりつつある現実を見据えて

 

おのれのなすべきことをつつしんでなせ

 

 

今起きていることは、歴史や思想の対立や過去のすれ違いといったレベルの問題を越えて、

国家という暴力装置を意のままにできる「個人」が出現した時に、

その個人の「心」に歯止めをかけることが果たして可能なのかという、

人類に残された最終課題のひとつ

かもしれないということ。

 

だからこそ言葉にしておく次第です。