木は木のまま生きていく(インド編)


ある日の午後、ラケシュと話をした。ラケシュは、私と出会うはるか前から、この地で活動してきて、今や知らない人はいないくらいの著名人だ。何しろJICAのデリー支局の日本人スタッフさえその噂を聞いていたくらいだ。ラケシュを慕って集まって来る人は、数えきれないほどいる。


ラケシュは誰のことも批判しない。人のために労を厭わず動くが、それ以外の時間は静かに読書して、子供たちの相手をして過ごしている。人として何ひとつ過ちを犯していない。

だが、そんなラケシュをわざわざ批判する人間たちがいるというのだ。さすがのラケシュも相当な心労を抱えることがあるらしい。そんなときは一人ビハールで瞑想するのだそうだ。

「いつかわかってくれるかもしれないね」という。

「でも変わらない人もいるよね But someone will never change」とも。


私は笑って、「どっちも、ブッダは気にしないよ。他人の姿は、自分のあり方に関係しない。 “期待” expectationがないからね」

期待という言葉にわが意を得たりという表情で、ラケシュは深くうなずいていた。仏教の話を私から聞く時、ラケシュは席を降りて床に座る。つくづく謙虚な人物だ。

「わかってほしい」「そのうち変わるかもしれない」というのは、期待。期待があるから反応してしまう。

「期待は妄想の一種だよ」と話した。


期待を切り離せば(detachすれば)、苦しみは生まれない――。
 

それは、冷たい人間になることかといえば、そうではない。純粋な慈悲であり、完全な尊重だ。どんな思いであろうと、他人が抱くことは自由。批判であれ、悪意であれ、嫉妬であれ、病的な傲慢であれ、何を思って生きるのも、人の選択だ。

その選択は尊重するしかない。

それが慈悲と正しい理解に立つ者たち、ブッダの教えに立つ者の心がまえだ。


期待を完全に切り離せば、他者の悪意によって苦しむことはなくなる。

自分は自分のまま。

ただ自分にできることをやる。価値あることをやる。

そうした自分を誰よりも理解しているから、誰にわかってもらう必要もない。一切影響を受けない。


そんなことができるのか――できる。

単純な話で、妄想を断ち切ればいい。期待という名の妄想が残っている状態が、妄想への執着。その執着を断ち切るとは、妄想を消し去ること、消し切ること。いさぎよく。

それで期待は消える。他人から影響を受けることが消える。


難しく聞こえるが、“自然”(しぜん)は、当たり前のようにやっている。たとえば、木は木である。わざわざ鳥になろうと木は思わないし、鳥にわかってほしいとか感謝されたいとも考えない。突(つつ)かれたって、木としての姿はまったく変わらない。

木は木のままでいて、満たされている。

生き物の呼吸を支え、動物たちにとっての安らぎの場になっている。


キッパリと妄想を斬るだけでいい。すると“木”になれる。
 

もうひとつ、人々の無理解(傲慢)という逆境・困難に遭遇した時こそ、「正しい自分」に帰ることだ。しかも正しさに磨きをかけること。

おのれの言葉を正し、行いを正す。

みずからの思い(仏教徒にとってはダンマ)を確かめ、純粋なつつしみに還る。


つらくなったら、期待という名の妄想を手放して、自分だけを見つめるのだ。

思いを見つめ、完全にまっさらにして renew your mind 、新しく生き直す。つねに新しく。


人々の傲慢に遭遇した時は、「この命はお役に立てない」(相手が求めていない)と知って、つつしみに帰る。つまりは消える。


人は人なのだ。人は異なる心を持つ。だから他人の悪意や傲慢を向けられることは、避けられない。だがこちらが心を使って、おのれの本然(本来の姿)を失うことは愚かなことだ。


大事なことは、人の中にあって、人に染まらず、振り回されずに、最良の自分を保つことだ。

それだけが唯一、人にできること。


生きたいように生きればいい。
僕らは僕らの道を生きていく。


そういう話をラケシュとした。単純に、これまで僕らがやってきたことを、そのまま続け、育てていくだけのこと。僕らは幸せな人生を生きている。これ以上の生き方があるだろうか。



そろそろ今回の旅も終わりに近づいてきた。
人はみな、愛おしい人たちである。


僕らは幸せな人生を生きている
これ以上は必要ないとつくづく思う


2024年2月



ノブの話(インド編)

出家・草薙龍瞬、インドをゆく から

(※インドの話は一定期間経過後に上記サイトに移します)


ノブは、ラケシュの息子で今年5歳。戸籍名はリュウシュン。

子供は、見方によっては2歳が“人生の絶頂”なのかもしれない。ノブも2歳の頃までは、天真爛漫で人なつこくて、まさにわが世の春を謳歌していた。

今ももちろん周囲に愛されているが、他の子と違うのは、どこか憂愁がただよっていること。もとからその気配があったが、遊ぶことがあまり好きではない。スマホにもすぐ飽きたし、今もゲームやおもちゃをあげても、熱狂することがほとんどない。最初はパッと表情が明るくなるのだが、すぐ消えてしまう。学校でも一人隅っこにいて、周囲の様子をながめていることがよくある。

さらに家の中では、今はアスカ時代――妹アスカの独壇場だ。ノブが手にしたものを、アスカが略奪する。遊んでいるノブに馬乗りになって妨害してくる。

「野生児」(ジャングル・ムルギ)と化したアスカは、気分高じて、ノブをぶったり蹴ったりすることもある。ノブは殊勝にも耐えているが、やはり甘えたい気持ちが強いのか、ささいなことで大泣きして訴える。

これは、どの家の兄弟姉妹にも明らかな傾向だが、やはり長男・長女は、親の影響をダイレクトに受けるだけでなく、忍耐も強いられるらしい。

対照的に下の子は、多くの家で「野生児」だ。天真爛漫、自由奔放、やんちゃ、わんぱく、わがまま。お兄ちゃんお姉ちゃんの忍耐犠牲を想像することもなく、実にのびのび気楽に育っている(もちろん下の子固有のストレスもありうるが)。

なにしろラケシュの長男だ。ノブは1歳半でソーシャル・ワークを始めたのである。父親と仲間たちの姿を真似して、みずから手伝いを始めた。今もラケシュにくっついて、ほうぼうの地域行事(プログラム)に出かけていく。

こういう子供は、考え抜いてもらうほうが良い気がする。子供であって子供でない子供はいる。いろんな本を読んで、社会の問題も学んでもらって、自分はどう生きればいいかを考えてもらうのだ。

1歳半(当時)で手伝い始めたノブ(ラマバイ生誕祭にて)
エラすぎでしょ・・



ノブは、おじさん的存在のバンテジにも、すこぶるなついている。プージャ(法事)には必ずついてくる。私の読経が好きらしく、一生懸命真似して覚えようとしている。関係ない場面でも遊びのつもりで、ナモナモと礼拝したりする。

ノブの宿題の面倒を見たり、ホッケーゲームに興じたりと、私もいいオジサンとして関わっているが、父親ラケシュにはない厳しさもある。

ある晩、プージャがあって、ノブもついて行きたいというので連れて行ったが、今度は家に帰って、おいおいと泣き出した。「宿題やってない」という理由だそうだ(翌日は日曜だから差し支えなかったのだがw)。

その翌日の法事にまた来たいと言ってきた。私はグーグル翻訳を使って、昨日の話をした。

「法事に来たいと言ったのは君だろう? 自分で選んでおいて、あとで泣くのはフェアじゃない。自分の選択には、自分で責任を取りなさい。わかるかい?」

「泣くなら、来ることは許さない。どう?」と訊ねると、「泣きません」と答えたので、同行を認めた。

また別の日の法事では、一番前に座ったはいいが、隣の子供とじゃれてふざけていたので、「出て行きなさい」と一喝。このあたりは厳しいお坊さん。

後で「なぜ追い出されたかわかるかい?」と訊ねると、ちゃんと理由を説明できたので善しとした。

ノブはバンテジの言うことは素直に聞く。今だからこそ伝えられる(伝えねばならぬ)こともあると、私も知っている。

将来出家するのではと思うくらいに、バンテジを通して仏教を吸収しているが、聡明な子だから、やがて坊さんであることより、父親のように人々の中で人々のために生きることを選ぶことになるだろう。

さながらゴータマの幼少期のように憂愁を抱えて見えるノブに、グーグル翻訳である日メッセージ――「君は強く生きて行かないとね」。

するとノブも僕も伝えたいと、スマホにつぶやく。「こんどはメトロ(電車)買ってきて」。はは、わかったよ(笑)。


1歳のノブと

ノブの誕生日に村人がくれたマグカップ(隣は日本からのおみやげ)

ずっと見守っているからね



2024年2月



ブッダを探して~中日・東京新聞で連載開始

2024年2月18日(日)中日新聞・東京新聞で連載開始 
文・挿絵・タイトルバック(上のカット↑) 草薙龍瞬

 

プロローグ
旅の始まり


人生が八方塞がりになることは、たまに起こる。誰の人生にも起こりうる。

僕の場合は、三十代半ばで起きた。仕事をめぐる迷い。末期ガンの宣告(のちに誤診と判明して命拾い)。独身で、貯金もなく、東京で先の見えない暮らしを続けていた。

人生にゆきづまったとき、人は過去を振り返る。僕が出てきたのは、奈良の田舎。関西の進学校に入ったが、成績を比べ合って一喜一憂する学校に違和感を覚え、中三の二学期で自主退学した。卒業証書さえもらっていない。中学中退だ。

父との関係は最悪で、家に居場所なし。十六歳の夏に思いきって家出した。自分を知る人は誰もいない大都会・東京。文字通りの闇をさまよい、「このまま終わってたまるか」という意地と、「学問をやって世の中を変えたい」という理想にしがみついて、一年勉強して東大へ。だが直面したのは、深い失望だった。

いろんな仕事をした。「ほかに生き方はないのか?」と探し続けた。だが、どこまで行っても答えは見えず、何をやってもうまく行かない。悲壮な思いを抱えて東北寒村の禅寺を訊ねたのが、三十五歳。だがそこでさえ、最後に見たのは、居場所のない自分だった。


もう後がない。さながら漆黒の闇へと崖から飛び降りるつもりで、出家した。


場所はインド。開けたのは、星々が燦々ときらめくかのような、はてしなく広い仏教の世界。死んだつもりが生き返った。ようやく人生の謎が解けた。

人生、完全に詰んだと思う時もある。だがまだ終わっていないのだ。きっと道はある。その希望さえ捨てなければ。遅くないぞ。

ブッダに出会うまでの道のりを、人生に役立つ仏教の智慧をちりばめながら、お伝えしていきます。



文・絵 草薙龍瞬

僧侶・作家 一九六九年生。奈良県出身。大検(高認)を経て東大法学部卒業。三十代半ばで出家し、ミャンマー国立仏教大学等で学ぶ。仏教を現実に役立つ生き方として紹介。ベストセラー『反応しない練習』『怒る技法』など著書多数。栄中日文化センターで仏教講座を担当。



中日新聞・東京新聞
2024年2月18日(日)から連載開始(毎週日曜掲載)

 


 


十六年目の学校

この地に学校を建ててから、十六年目。地道に続けてきた。着実に育ってきた。

私が日本から持ってくるのはお金。学校を日頃支えているのは、現地の仲間たち。

校長、教頭、中心スタッフは、創立以来の付き合いだ。残念ながら、先生たちは入れ替わることが多い。コロナの3年で、以前の先生たちは一人もいなくなってしまった。結婚して退職するケースも多い。

 

独立記念日(1月26日)は全生徒で村を行進
牛さんも見守ります 



2月は学校創立記念祭。2日かけて、子供たちがダンスやドラマを発表する。学校になじめなかった子が、このイベントをきっかけに元気を取り戻すことも多い。

ダンスが上手な子が真ん中で、その子にあわせて周囲の子が踊って見せる。テキトーに見えなくもないが、みんな楽しくやっているからなんの問題もないw。

村人や近郊の町の大人たちまで見物に来る。出店も出る。鼓膜が、いや全身が文字どおり震えるほどの大音量で音楽を鳴らし、子供たちが壇上で踊ったり芝居したり。

 


ちなみにインドでは、ほぼ毎日のように大音量の音楽が、どこからか響いてくる。今年はラマ生誕祭、我らの学校以外の学校行事、結婚式。

最近2日にわたって村で挙行された結婚式では、最新型の音響機器を借りて、夜通し音楽を鳴らし続けた。結婚式で音楽を鳴らすというより、音楽を鳴らしたくて結婚するというくらいに、インド人は音楽好き。
 
村のど真ん中で開かれた結婚式
 
インドではこれが日常なので、みんな平気。私も慣れてしまった。音楽がない静かな日には、「どうした?」とふと気にかかるくらいになった(笑)。日本なら即クレームに乗り込んでくるかもしれない。

最近村を回るようになったゴミ収集車さえ、大音量で歌いながら走るのだ。「みんな、ぼくにゴミを捨てよう♪」みたいな歌詞らしい(楽しいかも)。考えてみれば、この歌好き・音楽愛もまた、インド人の自己肯定感を育てているのかもしれない。
 

公営焼却場に集約すれば大気汚染も軽減できるような気がします

 

2日にわたる熱く激しい記念祭が終了。最後にメッセージ。「燃え尽きましたか?(アグ・ラガド?)」と、覚えたての現地語で聞くと、みんな笑う。「来年は私もダンスに参加します」と、子供たちをまねて踊って見せる。もう十六年経つ恒例行事だから、私も村人たちも慣れたもの。

打ち上げの食事は、村の婦人たちが用意して、大人たちが奉仕する。地域行事は手伝うものという良識がまだ多数の人々の中にあるから、自然に進む。



夜に入っても食事会は続く 
調理はいつもの村の婦人たち 敬服します




2024年2月

インドで「自己肯定感」を考える

出家・草薙龍瞬、インドをゆく から


今度は、ポジティブな面を取り上げよう。ひとつは、やはり村人たちの善良さ。とにかく互いの距離が近い。朝から晩までそれぞれの家を行き来して、子供の世話をしたり、食事を共にしたり、雑談に興じたり。

ひときわ印象的なのが、子供の多さ。たいていの家に子供がいる。成長すると、多くは20代で結婚するので(※都市圏では晩婚化が進んでいるが)、すぐ孫ができる。だから多くの家は三世代。

村での子育てを見ていると、子供を育てることはそんなに難しいことではないように思えてくる。食べさせて、遊ばせて、学校の勉強を見て、その合い間に近所の婦人や子供たち(お姉ちゃん・お兄ちゃん)が頻繁にやってくるから、彼らにも面倒を見てもらう。バンテジ(坊さん)の私も遊んだり、勉強を教えたり。親の負担はおのずと減る。


近所の婦人たちと女の子が、子供一人を可愛がる 




そして連日のようにある誕生日。何しろ子供の数が多いから(ほんとびっくりする)、夜な夜な、どこかの家で誕生日会がある。近所の友だちも大人たちも集まって、「ハッピ・バースデイ♪」をやっている。

ロウソク花火に火をつけて、ケーキに入刀して、小分けしたケーキを、誕生日を迎えた子供がみんなに配る。集まった人たちはお小遣い(10ルピーから100ルピー)をあげて祝福する。


誕生日会に集まってきた村人たち
子供、若者、大人たち この見事な世代構成を見よw


日本では「自己肯定感」という言葉をよく聞くが、「自己否定」を摺り込まれたからこそ、逆張りの概念がわざわざ必要になっただけだろう。この地にいると、自己肯定感の元々の意味がわかる気がする。

そもそもの自己肯定感とは、誰かが自分を見てくれている、守ってくれているという安心感なのだろうと思う。

この村では、子供は放っておいてくれない。大人から年長の子供まで、ひきりなしに誰かがかまってくれて、放課後は近所の子たちと遊び、夜は誰かの家に行ってまた遊ぶ。いつも人の中にいる。そして家に帰って、親や祖父母と雑魚寝する。

見てもらえているという安心感が、いつもある。自己否定などという不自然な妄想が入り込む余地が限りなく少ないように見える。

自己肯定感が、人との親密さ・見てもらえているという安心感から育つとすれば、日本人の自己肯定感の低さは、人間関係の過疎と、見守るとは真逆の過剰なジャッジメント(干渉、評価、しつけ、さらに教育という名のダメ出し)から来ているような気がする。

そもそも日本人は神経質過ぎるのだろう。その根っこにあるのは、人の目か、世間体か、自分が作り出した過剰な妄想か。制御が効かない大人の側の妄想を、子供に押しつけ、干渉したり裁いたり。

そうした大人の妄想を浴びて育つ子供には、自信が育たない。自分が親になった時に、子育てに自信が持てない。「これくらいで十分」という(寛容の)目安を知らないからだ。

しかも核家族化は極限まで進み、世代も地域共同体も分断された社会の中で、孤独な子育てを強いられる。少し想像するだけでも「つらい子育て」の姿が浮かんでくる。

インドの村で見る子育ては、「これくらいで十分」という目安が確立している。親は、自分にも子供にも寛容でいられる。他方、日本では、「あれをしてはいけない、これをやってはマズイ(かも?)」という親の側のダメ出し(自己検閲)が多すぎるのかもしれない。

こうした環境で育つ子供は、どうしたって自己肯定感は低くならざるを得ない。親も、子も、気の毒に過ぎる(特に若いお母さん)。

「子育てがそんなに難しいはずはない」という原点を、まずは思い出そうではないですか。

 

 

よく来たねとあいさつ


まとめ

大人たちにこれほどたっぷり愛されれば、

自分を、世界を、信頼できるようになるのは当然。

そりゃ自己肯定感、育ちます。



2024年2月

PRESIDENT特別公開「正しく怒る3つの技法」

PRESIDENT Online Academy

合理的生き方を説く僧侶のアンガーマネジメント術

正しく怒る3つの技法

草薙龍瞬

2024/2/19



職場や家庭などの人間関係でついイライラしたりカッとなったりしたとき、怒りを我慢してしまうのは誰にもあるはず。そんな中、「我慢するだけじゃ辛いから、正しく怒れる人になろう」と提唱するのが、僧侶・草薙龍瞬氏。

ロングセラー『反応しない練習』で、仏教を“合理的な生き方”として蘇らせた気鋭の僧侶が語る進化系アンガーマネジメント術を使えば、ストレスと闘う日々にやすらぎを取り戻すことができるという。
 
理不尽な世界を生き抜くための3つの技法が、今、明かされる。
 
 

風邪を引き続ける国


日本では、いまだにコロナ&インフルが大流行(?)しているという話を聞きます。

それが事実なら、多数回のワクチン接種による免疫機能の低下・阻害が影響している可能性は否定できません。

どの見解が正しいか以前に、少なくともその可能性をも検証することが、倫理(正しい態度)というものです。

接種7回、それでも第10波(止まらない)・・・というのは、医療政策が完全に失敗していることを意味します。もはや指摘するまでもないでしょうが。


「(今回のmRNAワクチンは)打てば打つほど免疫機能を阻害する」というのは、今や多くの人が聞いていること。この場所でも最初からお伝えしてきたことです。

もう一つ考えなければいけないのは、「感染大流行」と言いつつ、これは定点観測の対象となっている指定病院での「検査」によるものであって、「陽性反応者数」でしかないことです。「発症者ベース」ではありません。

「陽性反応者数」が1点あたり20名 ✕ 定点数5000 = 10万人 しかも一週間にわたっての総数。これが本当に大騒ぎ(警戒)しなければいけないことか? 本当に? 

今のように検査による炙り出しをしなかった4年前までは、インフルエンザは発症者数だけで年間1千万人以上。一週間あたり「発症者数で(ゆうに)20万人越え」のレベルでした。それでも社会は受け容れていました。

2024年2月現在、流行っているという報道は聞こえてくるものの、重症者数・死亡者数は未公表。ならば実態はまるで見えません。


※ちなみに定点観測対象の1病院あたり10人以上で注意報、30人で警報レベルというのは、指定病院の病床数を目安とした設定であり、病院側の「病床逼迫」を基準とした設定値です。

これは5類指定に落とすまで、全病床数の(わずか)2%をコロナ病床に当てて「医療逼迫」としていた頃と、基準設定の方法(根拠づけ)は変わりません。指定病院の側から見た(主観的)レベル設定であって、社会全体の利益を考えた(客観的)レベル設定とは、別物です。

「でも周りでも風邪が流行っています」「学級閉鎖にもなっています」という声は聞きますが、だからといって「社会全体が警戒すべきレベル」としていいかといえば、そうとは言い切れません。これは社会が「選択」すべき問題です。

病気は「発症の度合い」で測るべきものです。かつての医療はそうでした。今のように「検査」による炙り出しをもって一律病気とみなすことは、医療政策として正しいのかどうか。

自力で治せる人間まで、検査 ⇒ 陽性反応出た ⇒ 大流行している ⇒ いっそうの予防に努めるべき ⇒ マスクせよ、ワクチン打てと促すことが、正しいか。否、明らかに間違いです。

ひとつは、陽性反応を病気とみなす前提(定義づけ)が間違っているし、予防策としてマスク&ワクチンが有効だというのも、間違いである可能性があります。「止まらない」今の状況は、その間接証拠です。

きわめて軽微、無症状、症状はあっても治る人たちの数までカウントして「大流行」に仕立て上げるのは、「恣意的な選択」であって、倫理ではありません。倫理とは、偏りのない眼で事実をとらえて、「苦しみを増やさない方法」を選択しようとする態度です。

倫理的ではない発言があまりに多かったから、医師・専門家の信用はこの4年でガタ落ちしたのではないでしょうか。



治せる人は自力で治す。

治しきれないリスクがある人は(そうした人たちこそ)医療によって確実にケアしてもらう。

その本筋に戻せばいいだけなのに、まだ新型コロナに始まった過去の過剰な認識と過剰な医療政策を続けようという人々がいます。驚くべきことに、指定病院にはまだ補助金が出ているのだとか。医師会・感染症学会等は引き続き公費負担せよとも言っています・・。

終わらせる(終息させる)という当初の目標はどこに消えたのか。

いつのまにか「終わらせない」ことが目的と化しているかのようです。



ここインドでも、たしかに風邪は流行っています。「冬だから」と人々は言います(拍子抜けするほど当たり前笑)。ケホケホやっている人は、飛行機の中にもいたし、村にもいます。私も至近距離で咳されることもしばしばです(笑)。 が、誰も気にしていません。

「風邪はかかるものだし、治す(自然に治る)もの」という当たり前の常識に戻っています。

日本社会の実情を伝えると(ワクチン7回、第10波、まだ止まらない・・)、みんな目を丸くして驚きます。そして笑います。

どちらがまともかといえば、インドの村人たち(ひいては日本以外の国の人たち)なのだろうと思います。



「感染すれば命が危ない」というのは、よほど老衰が進んでいるか、別の疾患を抱えた人等です。そうした状態にあることを「自覚」した人は用心すべきでしょうが、そうした用心を「治せる人たち」にまで働きかけて巻き込むことは、正しくありません。

社会への負の影響を考慮することが当然だからです。医療「政策」とは、本来そういうものなのです。


誰にとっても最も負担の少ない選択というものがあります。

日本社会だけが、その選択を今なお取ろうとしません。

この国だけが、いまだに「風邪」にかかり続けているということです。


ちなみにインド人の平均年齢は26歳、日本人の平均年齢は49歳です。

毎年、死亡者数の半分未満の数しか生まれてこない(出生者数)自治体も増えてきました。

戦慄するほどの急勾配で人が消えつつあります。いったいこの国は、人々は、どこをめざしているのでしょうか。

日本は国づくりに失敗し続けてきたのだとつくづく思います。


連日のように続く誕生日会 
村の大人たちも集まってお祝い 
みんな笑っている


2024年2月13日


SNSが病気を増やす

(※かつてご依頼いただいたインターネット・メディアの担当者様に、草薙龍瞬から返信差し上げた文面の一部引用です)

 

やはり、SNS(ツイッター ※現X)と同じ価値観でプラットフォームを構築されておられるのですね。

目が傷みます×▽×)

記事あるいは個人と読者とのやり取りに、フォロワー数の表示は必要なのでしょうか・・・。


今の世の中・時代が、人の心に過剰に負荷をかけている一因は、純粋な言論・表現に、逐一数値による評価を押しつける節操なき仕組みにあります。ツイッター(✕)がその最たるもの。「完全に病気」だと個人的に感じています。

人には承認欲があるので、フォロワー数とか視聴回数とかチャンネル登録者数とか、いちいち数値化されると、どうしても反応して、それに応えようとします。結果的に本来の目的(発信・交流・共有)から離れて、過剰に他人の評価を気にせざるをえなくなります。

自分では制御できない範囲にまで、自前の承認欲から妄想を広げて、疲弊し、鬱に落ちていく人は、大勢います。

他人の評価という妄想に快を感じて追いかけている状態がハイで、疲弊した状態がローです。躁鬱とは、妄想が作り出す心の病です。

これは、思考によっては抜け出せません。妄想を解除しないと。その原点にある承認欲を書き換えないと。


もともと人の心には、負荷(ストレス)が過剰に達するまでの許容範囲(限界値)があります。その範囲は人さまざまです。

人さまざまだからこそ、画一的な価値観をもって数値化し評価するしかけを採用することで、適応しきれない人たちが病んでゆくのです。

過剰な数値化によって人の心を扇動することで、一時的には利用者のモチベーションが上がったり、その数値を見て注目する人が増えたりするかもしれません。ビジネスモデルとしては一見成功して見えることでしょう。

しかし、「数値」というノイズが入る限り、情報の真価・本質が見えなくなります。簡単に見抜けること(自分にとっての価値の高低)さえ見えなくなります。

本質を見極めようと思えば、不必要な情報(たとえば経歴・ポスト・評価といった形式的記号)を捨象したほうが、速くたどり着けるものです。今の時代は、本来必要のない刺激と情報(いわゆる煽り)が過剰なために、本質を見極めることが、逆に難しくなっている印象があります。

おそらく貴誌〇〇〇〇様の読者たちは、価値ある情報を掘り起こすために相当なエネルギーを消費しているのだろうと察します。と同時に感情も、自尊心までも。何をコメントするか、自分をどう見せるかを、目まぐるしく計算しながら・・。


現在のSNSの設計は、発信する側にも負荷がかかり、見る側にも負荷がかかります。

その根本的理由は、自己顕示欲をベースに設計しているから。心の病が極北まで進んだ海の向こうの国の価値観(病気)に基づいているからです。同じことをしなくてもいいのに・・・。

数値が価値を持つというのは、一つの価値観。

しかし、数値は無駄(なくていい)というのも、正しい価値観です。

価値観というのは、平等。どちらかだけが正しく、優れているということはありません(価値観そのものは妄想だからです(笑))。


二つの価値観が併存してこそ、価値観が豊かだということになります。さまざまな価値観が併存するプラットフォームを作る場所こそが、多様な価値観を実現する、それこそ「一歩先をゆく」場所ということになります。そうした(まともな)メディアをめざせないものでしょうか。


現時点で、本当に先進的なプラットフォームは、存在するのでしょうか。ないかもしれません。


現代の宿痾(止み難き病)の一つは、自己顕示欲・承認欲を煽り、煽られる仕掛け「だけ」が、唯一価値を持つかのように、社会全体が勘違いしていることにあります。

単純に価値観が貧しいということです。その閉塞ぶりが、人々に過剰な負荷を強いている。

この国の人たちが、みな、単一の価値観の中に閉じ込められているように、私には映ります。

他にいくらでも、生き方・価値観・制度設計はありうるのに、みんな「乗っかる」ことに必死で、別の可能性を探そうとしない。

この国が迷走し続けているのは、別のあり方を想像し、かつ創造する知性が枯渇しているからです。

豊かなようで、きわめて貧しく、先進的に見えて、実はかなり遅れている。なぜなら、この世界のあり方を疑い、別の可能性を提起する知性が、ほとんど見当たらないのだから。みんな、乗っかってしまっている。根底から考えるということをしていない。


と、かように懐疑的なので、今の世界(〇〇〇〇様のプラットフォームも含め)とは一線を引いて活動しています^^。

(略)

私はSNSも一切やっていません。 今の私は、この殺伐とした異常な世界にあって、見えるようで見えない場所にいるのだろうと思います。

それでも本を見つけて、やすらぎを見出してくださる人たちが、たくさんいます。

そうした人たちとつながっていけるなら、それでいいのかなというのが、今の心境です。わざわざ自分から出ていくことも、過剰な数値化を強いてくる歪んだ世界に乗っかることも、まだまだ先の話でいいのかなと思っています(永久にないかもしれません)。

ご案内くださった(貴誌)プラットフォームが、もう少し優しい(というか合理的な)設計であるなら――たとえば、フォロワー数をデフォルトで開示する というツイッターもどきの仕組みを採らないことも選択できるなら^^;)、

この世界で頑張って生きている人たちとつながるつもりで、言葉を発する(執筆を引き受ける)こともあっていいかなとは思います。

現時点では、まだ躊躇する思いのほうが大きい次第です(踏み切るだけの名分がまだ見えない)。時機を待ちたいと思います。


多くの人が自分を語り、自分を見せつけたがる、「見た目、痛い」世の中です。

そんな中で、優しさやまっとうな生き方を貫いて頑張る人たち(ご連絡くださった〇〇様もそのお一人なのでしょう)のことを想って、地道に作品を送り出していきたいと思っています。


2023年2月某日


原始仏典の読み方


『反応しない練習』などの作品を読んで、「仏教がようやくわかった気がする」「原始仏教に興味を持った」というお声を日々いただいています

「本の中にあるブッダの言葉を原始仏典で確かめたい」「さらに詳細な典拠を記してほしい」という声も、かねてから受け取ってきました。

著者としても悩んできたところです。かなりマニアックな内容になりますが、あえてシンプルに記載してある理由・背景について言葉にしておきたいと思います。

※以下は、仏教を勉強したい人向けの内容です:



原始仏典は、中部、長部、相応部など、一般にいう本のタイトルのもと、篇・部・分・章・大節・小節などに細分化されています。全体に通し番号がついていることもあります。<蛇><聖なる者>といった比喩・テーマごとに編纂したものもあります。

たとえば、相応部経典(サンユッタ・ニカーヤ)についていえば、

Samyutta Nikaya 
PartⅢ The Book of the Aggregates(Khandavagga)
ChapterⅠ 22. Khandasamyutta
DivisionⅠ
Ⅰ Nakulapita
1(1)

といった感じで編纂されています。もし出典を明記しようと思えば、Samyutta Nikaya Ⅲ‐Ⅰ-Ⅰ ‐Ⅰ-1(1) のような感じになります。

でも読者にとっては、文字数が増えるだけですよね・・。執筆当初はなるべく正確にと心がけていましたが、読者にとっての価値を考えた時に、あまり意味がないと感じて妥協したのです(学術書にはもちろん必須ですが)。

せめて文献リストを巻末に載せようも思いましたが、膨大になり、一般書籍のページ数に収めきれずにこれも妥協したという経緯があります。

結果的に、学術的な信用性より、一般読者に必要な情報を優先させたのです。



著者である私の原稿には、出典元の情報があるので、必要な時は原典に戻れます。もし著作の中の「この言葉は、どこから引いたものだっけ?」と原典を確認する必要が生じた場合でも、原典のタイトルさえあれば、原典の構造・章立てなどはわかるので、「あの辺だろう」と当たりをつけることが可能です。

そうして可能性のある章や節をたどって、「そうそうこの言葉だった」と確認するのです。


ここで思うのは、どのような大著であれ、「このあたりじゃないかな?」と絞れるくらいに、まずその本を読む、いや正確に言えば「構造を掴む」ことが意外と大事かもしれないということです。



『反応しない練習』をはじめとする私の著作は、

➀Buddhismの原理・原則(基本的な理解と思考の方法・発想等)と、

②原典に記された言葉の引用に基づいています。

それに加えて、

③著者個人の経験と思索をふまえた内容を加えています。

だから本の内容と語り口は著者独自のものですが、そこから伝わる生き方・考え方・理解の仕方は Buddhism そのもの――そうなるように心がけています。

私の作品を読んで、「仏教がわかる気がした」と感じてくれる人が多いのは、そういう理由によるのだろうと思います。全体の構成、言葉の選び方、表現方法は、オリジナルの原始仏典とはもちろん違いますが、それは衣装が違うだけで、中味(本質)は共通しているということかもしれません。



もっとも、本を読んだ人がオリジナルの仏典をたどれば、同じような言葉がすぐ見つかるかといえば、いくつかの制約があります。

あまりに情報が膨大であるという物理的制約が、最初に来ます。次に来るのは、言葉(表現)の違いです。

仏典には、言葉自体が過度に複雑・冗長、装飾・重複過多だったり、現代となってはもはや意味が通じない比喩などが混じったりしています。

さらに、著者のほうで、「この表現で果たして現代の人たちが理解できるだろうか、役立つだろうか」という視点で原典を吟味して、「伝わる、使える」表現へと置き換えているところもあります。

 

もともと原始仏典には、現存するパーリ語仏典をもとに、英語訳が何種類か、また日本の学者先生方が訳したものがあります。

ただ、英語訳も、訳者によって言葉の選び方や、細部の取捨選択が分かれます。また学術的に正確に翻訳しようとすると、情報が膨大となり一般書籍に収まりきらないばかりか、一般の人には厳密・難解・膨大過ぎて、理解できない可能性が多分に出てきます。

私の場合は、パーリ語、英語訳、漢訳(中国語訳)、日本の学術研究書・一般図書などを、できる範囲で渉猟して「訳し方(言葉の選択)の幅」を確認します。日本語訳より、漢訳のほうが、うまい訳し方になっていることもあるし、英語訳から新たに日本語訳を作ったほうが、自然な訳語を導き出せることもあります。

さらに、ブッダが重視した流儀にならって、「聞いてわかる」言葉(口語)に置き換えもします。

そこまで進むと、最初の仏典の言葉からは、一見けっこう離れた言葉遣いになることが出てきます。直訳とは違うのですが、本質を踏まえれば「なるほど、そういう表現も可能だ」と思えてくる言葉の選び方です。映画の字幕に近いところがあるかもしれません。

だから一般の読者の方が、私の作品に引用した仏典の言葉を見つけ出そうとしても、膨大ゆえに途中で見失うか、目の前にあるのに素通りしてしまう・・ということも出てくるはずです。その確率はけっこう高いかも。もちろん逆にすぐ見つかることもあるはずです。




ロス(時間的損失)の少ない方法は、まずは自分で原始仏典(日本語訳)を読み進めて、「これだ」と思う言葉を集めていくことかもしれません(その意味では「何のために読むのか」という目的意識が大事になります。的を見失うと、さまよいます)。


もし著作内の引用がイイと思ってくださった場合は、その言葉を書き留めておいて、いつか見つかるだろうという楽観をもって、読んでいくとか。

「これ近いかも」と感じる言葉が見つかったら、その言葉(学術的翻訳)と、私の訳語とを照らし合わせて、どれくらい違うのか、なぜ違うのかを考えてみるとか。

さらには、英語ができる人は英語訳に当たって(※パーリ語まで手を伸ばすのは、全生涯をかけた超マニアック・超専門的な仕事になるだろうから、正直あまりお勧めはできません・・)、自分でも訳を考えて、もう一度『反応しない練習』などの本に戻ってもらうとか。

すると、「なるほどこういう言葉の選び方(翻訳の仕方)があるのか、たしかに!」と納得してもらえるかもしれません。

もう一つ大事なことは、繰り返しになりますが、やはり原始仏典を読むに際しては、最初に仏典の「構造」を理解することかと思います。「この言葉なら、このあたりに書いてあるかも」と当たりをつけられるくらいに、構造を理解しつつ読んでいくのです。



こうした原始仏典の読み方・翻訳の仕方は、言語化できればと思うこともあります。しかしこの領域に手を出すと、それこそ一生書斎にこもらなくてはならなくなるので、あきらめています。

そのぶん学術的価値は下がりますが、私の役目は、仏教を学問としてではなく、生き方として、また生活に役立つ智慧として、役立てようと思う一般の人たちに向けて、「わかる、役立つ」言葉で伝えることだと思っています。その役目だけで、ほぼ確実に目一杯です。



上記をまとめると、

①一般向けの仏教書に正確な出典を明記するのは困難(本の役割が違うため)。

②原典を読む人は「このあたりに書いてあるかな?」と目星をつけられるところまで、「構造」を意識して読んでいく。

(※ある程度読み込むことができれば、あたりをつけられるようになります。かなり地道な読み込みが必要ですが、本格的に学ぼうというなら、そこまで進めることが必須です。これはどの分野も同じはず)。

③表面的な訳にとらわれず、「生き方・考え方」を学ぶつもりで読んでいく(※するとロスを減らせます)。

ということかと思います。



一番肝心なことは、ブッダが伝えたのは「心の苦しみを抜け出す方法」だということです。

苦しみの原因を知り、それを取り除く方法を実践する。

その方角を見失わなければ、仏教を自分なりに正しく学び、活かすことが可能になります。


私欲のためでなく、この世界の苦しみを減らすために仏教を活かせる人たちが増えてくれたらと願っています。


 

インドの書斎にある原始仏典 ミャンマーからインドに送ったもの





2024年2月10日

 

 

仏教 vs. 執着

読者の方々から質問・感想を日々お寄せいただいています。ありがとうございます。

今回紹介するのは、そうしたお声をふまえての仏教の話――原稿の一節と思ってくださって差し支えありません。

 

仏教 vs. 執着

仏教は、心に関する問題を解決するにあたっては、ほぼ万能とさえいえるほどの柔軟性と応用力を秘めています。

しかし仏教は、では完全にして誰にも使える処方箋たりうるかといえば、まったくそうではありません。むしろ仏教は非力にして無力です。

何に対して無力かと言えば、人間の”執着”です。



執着とは、広く定義すれば、「今の心の状態を変えない方向に働く心の動き」です。

たとえば、怒りが溜まっている人は、つねに怒りを抱え込んでいるばかりか、小さなこと、時に理由のないことにさえ、怒る理由を見つけ出して怒ります。

貪欲(もっと多くを求める心の動き)があると、つねに新しい何かを手にすることで問題を解決しようと考えます。

仮に「あきらめる」「反応しない」といった可能性を耳にしても、貪欲を持った心は「それでは、あきらめることになってしまう」「過去が無駄になってしまう」「そんな人生は面白くないのでは?」と失うものを見て、「やっぱり現状維持」を選ぼうとします。

妄想については、心はそもそも妄想まみれ。ほぼ常時、妄想維持モードのまま回り続けています。心のスキマ(何もしない時間)があると、瞬時に妄想で埋めようとします。

その結果、スマホ、SNS、ネット、ゲームといった手軽な妄想維持装置に手が伸びます。いったん手が伸びると、心は完全執着モードと化すので、外からの働きかけがない限り、止められなくなります。

何もしていなくても、心は妄想できるエサ・ネタを探して、あれこれと検索します。過去のこと、人のこと、将来のこと、「こんな自分なんて」という自己否定など。

そのほとんどは、ネガティブです。というのも、妄想に次いで手っ取り早いのは「怒る」ことだからです。すでに溜まっている怒りをもって何かを攻撃しようとする。「過去のせい」「あの人のせい」「世の中のこんなことが気に入らない」と、次々に怒るための燃料を探す(妄想する)のです。


 

さらに、慢もあります。著作(『反応しない練習』ほか)で触れているとおり、慢は、承認欲(認められたい・認めさせたい欲求)と、それを満たせるような妄想との混合物です。

自分を認めてもらうための妄想だから、どこまでも自分に有利な、都合のいい、自分が正しいと思える妄想を繰り広げます。そのうえに「執着」という心の動きが加わるので、「この妄想は正しい」「絶対に(どう考えても)正しい」と思うようになります。絶対、自分、正しい――の繰り返し。

「つねに自分が考える(妄想する)ことは正しい」というのは、心が思いつくすべてに当てはまります。

自分の見解が正しい。自分の怒りは正しい。自分の過去は正しい。自分の言葉は正しい。間違っているのは、相手だ、他人だ、世の中だ――。

承認欲と妄想はセットなので、自分のほうが優れている。優れているとも考えます。そうした思いに執着するからからこそ、他人を批判する、非難する、ケチをつける、悪口を言う自分が出てきます。

さらに、「正しい自分」が通らない現実や他者については、「正しい自分を否定するもの」としてとらえます。激昂したり、敵とみなして攻撃し始めたり。自分の期待や要求が通らないと烈しく怒って非難します。自分の要求を押し通すまで、あらゆる理屈を繰り出して、批判したり手なづけようとしたりします(モラハラはその典型)。

「こんな目に遭わされた、ひどい、自分は被害者だ」と思い込むこともあります(いわゆるクレーマー)。

「自分は正しい」という前提、つまり慢に立ってしまうと、実は自分が相手を苦しめているのに、自分こそが「苦しめられている、ひどい」(悪いのは相手だ)という言い分・発想になってしまうのです。

世の中にあるパワハラ、セクハラ、モラハラといった「思いの一方的な押しつけ」は、押しつけるための手段・理屈は違うものの、「自分は正しい」という前提は共通しています。



こうした数々の執着は、心につねに湧き上がります。執着こそが自分自身、いや人生そのものと喩えても間違いないくらいに、心を占領していきます。

長く生きれば生きるほど、執着が増え、強化されていきます。執着前提でモノを見るので、人の声や別の可能性は、聞こえません。

たとえば貪欲に駆られた心に、「手放して自由になる」可能性を伝えても、「そんなのはつまらない、意味がない」と感じます。

妄想に支配された心に、「それは妄想ですよ」と伝えても、「妄想じゃない、自分の考えだ、考えることの何が悪い」と訴えます。

慢に囚われた心が、「それは慢ですね」と指摘されると、「何を言うか、そういうあなたこそ慢じゃないか!」とムキになって言い返します。


執着にとらわれた心は、みずからの執着を通して外の世界を見ます。外の世界に自分の執着を見てしまうのです。いわゆる自己投影です。

たとえば怒りを隠し持っている人は、「相手が怒っている」ものと勘違いします。もっと進むと、みんな自分に怒っている、世界は敵ばかりだと思うこともあります。

疑いや不安といった妄想を持っている心は、その妄想を通して世界を見るので、「誰も信用できない」「どうせうまく行かない」といった、自分の中にある通りのものを結論として出してしまいます。

慢に囚われた心は、自分ではなく人が、相手が傲慢なのだと考えます。自分の慢(正しいという思い)を前提に、人を非難します。「あの人のここがダメだ」「あなたはこういうところがなっていない」と人の内面にまで踏み込んで攻撃し(結局、自分を見て言っているだけなのですが)、さらには「許せない」「謝罪しろ」と強要さえすることもあります。



 

真実とは皮肉なものです。人のことを「傲慢だ」と言う場合は、もしかしたら自分自身が傲慢の罠にかかっているかもしれないということです。

執着がある心は、その執着を、自分自身を、外の世界に、他人に投影します。他人を見ているつもりで、実は自分が抱え持った執着そのものを見ているのです。

だから他人について語ることは、自分自身の「開示」ということになるのです。
 

もし自分が慢ではなく、つつしみと慈悲(思いやり)に立っているなら、人さまを悪く語りません。「私にとっては、こういうことです」と自分の思いを伝え、「理解していただければ嬉しく(幸いに)思います」という言葉になります。もし理解されなければ「残念です」という控えめな言葉をもって、静かに身を引きます。

 

執着は、心の性質でもあるので、気をつけないと、誰もが囚われる可能性があります。ブッダがブッダであり続けたゆえんは、そうした心の性質(罠といってもよい)を自覚して、つねに自分の心を見張ることを一時も絶やさなかったからです。

ブッダの心には、自分の心をつねに見張り続けるサティと、つつしみ(慢や妄想を広げない)と、慈悲(幸せを願うこと・相手の悲しみ・苦しみを想うこと)があります。

 


執着を越えれば、

「心が自由になる」
「新しい可能性が開かれる」
「優しくなれる」

ことは真実です。その真実に目覚める方法(執着の手放し方)も、仏教は伝えることができます。ちゃんと実践すれば、心の性質にてらして、ほぼ百パーセント解消できます。つまり変われます。


ところが・・・執着に囚われた心は、その可能性を否定してしまうのです。

「自分は間違っていない」
「自分は自分の思うとおりに生きていく」
「自分の何がいけない?」

という思いのほうを選びます。

いけないことは何もありません。心はその人自身のもの。誰もが自分の人生を好きなように生きていい。生きることは、人それぞれの自由です。

ただし、苦しみを越えるには、自分の執着(変わりたくない・変わらない自分)を自覚して、克服していく努力をしなければいけません(これは法則みたいなもので、例外はありません)。

執着のままに生きるなら、当然ながら、心も変わらないまま続きます。

誰のせいでもありません。自分自身の選択です。


執着を選ぶ心には、仏教は何も伝えられません。無力にして非力です。

これは、2600年近く昔のインドから、現代に至るまで変わっていないのです。



執着と仏教とは、どちらが強いか。

執着です。はるかに強いのが、執着です。さながら別宇宙であるかのように、仏教は、人の心を支配する執着に手が届きません。


せめて「幸せでありますように」と願うほかないのです。



2024年2月6日


クリエイターの矜持2



今回の漫画家さん(と呼ばせてください)は、想像を超える傲慢・驕りを垣間見たのかもしれません。こうした問題は、立場のギャップとか、映像メディアの制約内に収めなければいけないという技術的問題から生じるものではありません。その多くは、単純な「人間性」の問題から生じます。

世の中にはさまざまな人がいます。中には、ゾッとするほどの傲慢さをもって、「見下している」「軽く見ている」ことが伝わってくることもあります。人間関係あるあるです。

その違和感が伝わってくる時期は異なります。「最初から」感じることもあるだろうし、途中から「あれ、この人(この人たち)ヘンだ」とわかることもあります。もう引き返せないところまで話が進んでしまってから、相手の本性のようなものがわかって「しまった」と思うこともあるでしょう。

こうした人間関係が、原作の映像化というプロセスに持ち込まれると、最も苦しむのは、原作者です。

違和感に気づくことが後になればなるほど、苦しみます。「今さらイヤとは言えない」「関係する人たちに多大な迷惑をかけてしまう」「私さえ我慢すれば」「モノを言うのは私がわがままだから」と、周囲を気遣い、自分を責め、自分一人が苦悩を背負うという立場に追い詰められます。

でもそのままでは作品が、「自分の命」が汚されてしまうのです。全人格の蹂躙であり、辱めです。

おおげさ、と思う人もいるのかもしれませんが、クリエイターというのは、そういう矜持をもって創造している人たちです。それくらいの矜持・思い入れがなければ成り立たないくらいのレベルとクオリティを、まさに一人で創り出してきたのです。

でも、そうしたクリエイターの矜持を、まったく理解できない人たちがいます。そうした人たちが「制作」を進めようとすれば? こんな可能性が出てきます:

一度許諾を得られれば、後はこちらのもの。自分たちの都合に、作品そのものを平然と取り込もうとする。自分たちが想像する視聴者・スポンサーに受けするかどうか。業界内で通じる「これが売れるに違いない」という思い込み(これがズレてきていることは、今や多くの人が感じていることでしょうが)、さらに制作者・脚本家の主観(それをセンスだと本人たちは信じている)を容赦なく暴走させて、原作をいいように改変・脚色してしまう――。

こうした事態へと化してしまえば、これは辱めであり、蹂躙です。その度合いによっては、別の言葉で表現することもできます。「原作〇〇〇」とさえも(※あまりに痛ましい表現なので伏せることにします)。

それくらいに罪深いことが、原作者の身には起こりうるということです。こればかりは、本人でなければわからないかもしれません。最初は、ざわりとした違和感です。いつ顕在化するかは、場合によります。そして生涯続きます。自分の原作が汚された、辱められたという思いが。

それでも制作者側は「わからない」のです。もともと矜持とは無縁の仕事をしてきたか、よほどの驕りに毒されてしまったのか。そこまで行かずとも、原作者が作品に賭ける思いは、やはり原作者にしかわからない。それくらいに距離がありすぎるのです。


今回の出来事は、あまりに遠い人と人の間に起きてしまったことかもしれません。しかももしかしたら一方の傲慢を、SNSを使って「増幅」させることで、たった一人の原作者に想像を超える苦しみを背負わせてしまった可能性があります。



今後は、原作をTVドラマ化・映画化するに際しては、クリエイター(原作者)の矜持(と利益)が損なわれないように細心の注意を払った契約のフォーマット(ひな形)を、クリエイター(漫画家・小説家)諸氏が智慧を出しあって(法律家の力も借りて)作るべきだろうと思います。

制作者には別の要請(視聴率を取る・興行収入を上げるといった現実的要請)があります。そのうえ個人の思惑、勘違い、ときに思い上がりも混じります。

良心的な制作者・脚本家――原作者が納得でき、ポジティブに期待できるプロフェッショナル――もいるでしょうが、そうでない人もいます。不幸な組み合わせは避けられません。人間の心とは、そういうものなのです。

だからこそ、なりゆきや慣行に任せると、クリエイターの矜持が脅かされる事態が起こりえます。

だからこそ、原作への最大限の「敬意」を、契約書面のフォーマットに――「ここまで配慮を尽くせば、原作に敬意を払ったことになると双方が納得できる」内容にまとめることで、原作および原作者への非礼・辱めを防ぐ必要があります。

(※ちなみに契約は、本来、関係性の数だけありえます。書面化することは十分可能だし、不可欠です。)




たった一人のクリエイターが泣き寝入りしたり、痛みを抱えたまま命を絶つようなことが、続いていいはずがありません。


こうした悲しすぎる出来事を繰り返さないためにはどうするか。

傷つけられる側の痛みを、傷つける側に伝えていくしかありません。事実と、気持ちと、願いとを。

そして、同じ立場にある人、思いやれる人たちが考えるべきは、今後どうすれば、こうした悲しい結末を防げるか、その方法を形にしていくことかと思います。

その人が背負わされた痛みを感じながら、これ以上痛みを増やさないように努力する。

それが、傷を負ったまま旅立った人へのせめてもの誠実であろうと思います。


 

2024年2月1日

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

<付記>

改めて、今回お伝えしたことは、私が知る範囲での今回の経緯、過去に体験した私自身の体験、そして「心」についての仏教的理解をもとに書き起こしたものです。

ちなみに私の場合は、雑誌、テレビ、オンライン講座など、お話しをいただくことはありますが、少しでも違和感が見えた時点で、お断りしています。

不純な動機が伝わってきた時には、コンテンツ(著作)を託することはふさわしくないと判断して、いさぎよく切り上げます。

本についても、「納得できる」作品のみを世の中に残して(重版して)います。納得いかない作品は今後も出すつもりはありません。



クリエイターの矜持1


最近、一人の女性漫画家の方(芦原妃名子さん)が自死されたと聞きました。

事の経緯は、私より多くの人が知っているものと思います。この場所では、出来事そのものを論じること、および人(関係者)に関する具体的な言及は控えます。

ここでお伝えするのは、今回起きた出来事の背後にある関係性について――それぞれの心にあったかもしれない”可能性”についてです。


※なお今からお伝えすることは、私が知る範囲での今回の経緯、過去に体験した私自身の体験、そして「心」についての仏教的理解をもとに書き起こしたものです。



そもそもの前提として、ゼロから作り上げるクリエイター(漫画家・小説家などオリジナルの作品を生み出す人たち)と、その作品を原作としてTVドラマや映画を作る制作者(脚本家を含む制作チーム)とは、創造のレベルおよび原作に向ける思いの強さにおいて、比べ物にならないのほどの差があるものです。

クリエイター(原作者)の思いを、限られた想像力を駆使して、あえて言葉で捉えてみるなら、次のようになります:
 

作品は命そのもの。その作品を読者の人たちがどう受け止めてくれるかは、いわば最後の審判といえるほど厳粛なもの。

もちろん好意的な感想や反響があれば嬉しいものですが、真逆もあります。場合によっては大失敗に終わり、作家生命を絶たれるかもしれない。まさに生きるか死ぬか。その過酷な土俵に上に一人立たされて、なんとか持ちこたえている。

放り出されたら、二度と土俵に上がれない。中でも漫画家の人たちは、描く過酷さと業界で生き延びる苛烈さの両面で、まさに命を賭けて格闘している。

そうした日々の中で、何に喜びを感じているか・・・これも想像でしかないけれど、ひとつの世界を日々の地道な作業の中で構築して、その世界の中に自分自身が生きて、

さらにはコマ割りやネームやペンのタッチや色遣いなどの細部に、ときおり自分でも満足いく出来栄えのところが(たまに?)あって、

そうした自分にしかわからない部分に小さな喜びを感じたり、逆に猛烈な不満や落ち込みを覚えたりしながら、しかも骨が軋むほどに体を酷使し、睡眠時間も削り、まさに懸命必死に生きている――。

クリエイターにとって、見る人(読者・視聴者)が何を受け取るか、どう見るかは、自分の命そのものを判断されることに等しいのです。


それが漫画家であり、クリエイターと呼ばれる人たちなのではないかと思います。

クリエイターの作品が映像化(TVドラマ化・映画化)される場合に、クリエイターは原作をどう扱ってほしいか。実は単純かもしれません。

「原作に敬意を持つ」――これに尽きます。

原作への敬意。原作者の思いへの尊重。かけがえない作品に携わる人間としての最低限の礼儀といっても、意味はほぼ同じです。

原作への敬意と、観る人たち(視聴者・観客)に喜んでもらうための工夫は、両立します。

「原作者が納得できる範囲で、観る人に満足してもらえるコンテンツを作り出す」―-これが制作側の基準・方針になります。

➀原作者の納得が、土台(前提条件)です。②「観る人の満足」(評判・視聴率・興行成績等を含む)がその上に築いていくべき、チャレンジすべき目標です。「土台の上に高い砂山を作る」というイメージに近いかもしれません。



➀の原作者の納得については、原作者によって幅があるものですが、それほど難しい話ではないはずです。やはり原作への敬意と理解――これが基本になるものと思います。

原作者としては、自分の思いを大事にしてもらえていると感じるだけでも、ひとつ納得できます。

原作を正しく理解したうえで、制作者側がアイデアを出したり演出・脚色を凝らしたりするなら、原作の魅力・可能性を別の形で引き出してもらえるものと、原作者も思えるかもしれません。

原作者がつねに考えることは、「自分の作品が、観る人たちにどう受け止められるか」

何しろ作品を生み出した最初から、孤独な闘いを続けてきた自分と、それを受け容れてくれた読者という両者の関係性をもって育ってきたのです。

自分の思いと、読者ひいては新たな視聴者。

この二つを大事にしてもらえること――

その生命線が守られるなら、それほど難しい話にはならないのではないでしょうか。

「ちゃんと考えてくれた」「話し合ったうえで最善を尽くしてくれた」ことが伝われば、原作者も納得できます。原作者が納得できたなら、仮に結果が評判が悪くても(予想が外れても)、仕方ないと思えます。そうした審判であれば、クリエイターは過去さんざん経験してきているので、納得できるのです。


いずれにせよ、すべての制作は、原作者が納得できることが、絶対の基本です。

原作者が納得しないものは、どのような理由・思惑があろうと、制作できません。原作をドラマ化・映画化するとは、本来そういうものなのです。



ところが・・・です。こうした筋論(本来の姿)に「人間」が入ってきます。

たとえば、クリエイターのもとにやってくる人の中には、妙な自信というか驕りというか、「クリエイターなんて大したことない、自分のほうがすごい、エライ」と思っているかのような人が、ときおりいます。そのタイプはさまざまです:

「この程度の仕事・やり取りで差し支えない」と高をくくっている人、自分のさじ加減で手を抜いても許されると思っているらしい人。

こだわりやプライドが強くて、気に入らない提案・やり取りを無視する人、聞いたフリだけする人。

「制作を進めるのは自分たちだから、最後は自分たちの意向を通します(当たり前でしょ)」的な態度の人。

「自分はプロデューサーだから。世に影響を与えているのは自分たち」という、天上天下唯我独尊的な思い込みを持っているらしい人。

「自分は視聴者(読者)のニーズがわかっている。自分こそ最前線のモノづくりをしている」と自負しているらしい人――。


仏教的に言えば、「慢の人」ということになります。

原作者をなめてかかる、見くびる、下に見る、この程度でいいだろうと高を括る、隠す、遠ざける、無視する、手を抜く、開き直る――ぜんぶ「慢」の派生形です。



2に続きます


中学受験に大切なこと2

 

中学受験の成功が、将来の成功につながるとも限りません。その後伸びるとは限らないし、いわゆる頭がいい子・高学歴な大人が幸せな人生を送れるかといえば、現時点でもはやそうとは言えないし、今後ますます言えなくなる可能性もあります。


理想は、受験の結果に左右されない、「転んでも損しない」知識や知的能力を手に入れること。「いっそう高度な知識を後で広げていける基礎的な知識(基礎概念)」や「できないよりできるほうが面白い・役に立つと思える知的能力」を、一つでも二つでも身につけるきっかけとして、中学受験を利用することのような気がします。あえて「上から見る」のです。見上げないこと。


そして、受験はただの特殊な体験として割り切ってしまうこと。これもあえて「上から見る」のです。他の子たちと同じ条件・同じ環境で、未知の問題にどれだけ答えられるか。単なる経験でありチャレンジとして「受けてみる」くらいで良いのではと思います。「どれくらいできるだろう?」という気楽な発想で。


いくら受験を過大視して思いつめても、この年頃の子供は、格別に集中できるわけでもありません。「何が起きているかもわからない」うちに通り過ぎてしまうもの。受かる・落ちることにそれほど意味を感じられない子供も多いものです(大人ほど将来は見えていないし、大人ほどの見栄もない。落ち込む親の姿を見てはじめて落ち込んだりするのです笑)。それが中学受験というものではないかと思います。

 

合格できたとしても、行く中学が決まったというだけ。その先に何を学び、どう成長するかは、まったく別の話です。受かれば未来が開けるかと言えば、逆に狭まる・萎れることもある。不本意だった中学が意外と子供に合っていることもある。”未来はその後の頑張り次第&めぐりあわせ次第”という仏教の理解は、ここでも当てはまります。

もし受からなかったとしても、中学受験を機に身につけた勉強の仕方や知的能力を、次に活かせばいいのです(※逆をいえば、「次につながる・活かせる」勉強の仕方や知的能力が身につかなかったとしたら、中学受験は大して意味がなかったということにもなります)。


中学受験について大事なことは、

➀結果(合否)を過大視せず、

②大学および社会で求められる知的能力のほうを見据えて、

③中学受験を、その一部・プロセスとして “見下ろす” ことではないかと思います。

 

親にしても子供本人にしても、もし直前期に落ち着かなくなったら、受験を「小さく」見ることを勧めます。受験はただの通過儀礼。むしろ「受験が終わった後に何が残るか?(先に持っていける基礎概念や知的能力をどれくらい身につけたか)」を振り返るのです。

「振り返る」という視点を持つだけでも、自分を客観視できます。望ましいのは、「忘れてしまっても差し支えないもの」と「高校、大学、さらに社会にまで持っていける(役に立つ)知的能力」との振るい分けを、大人がしてあげることです。それくらいに「見えている大人」になることが理想です。大人たちもちゃんと学ぶのです。

 

※「基礎概念」や「知的能力」の「振るい分け」については、いずれ子供たちに伝えていく予定です。



2024年1月28日