ある日の午後、ラケシュと話をした。ラケシュは、私と出会うはるか前から、この地で活動してきて、今や知らない人はいないくらいの著名人だ。何しろJICAのデリー支局の日本人スタッフさえその噂を聞いていたくらいだ。ラケシュを慕って集まって来る人は、数えきれないほどいる。
ラケシュは誰のことも批判しない。人のために労を厭わず動くが、それ以外の時間は静かに読書して、子供たちの相手をして過ごしている。人として何ひとつ過ちを犯していない。
だが、そんなラケシュをわざわざ批判する人間たちがいるというのだ。さすがのラケシュも相当な心労を抱えることがあるらしい。そんなときは一人ビハールで瞑想するのだそうだ。
「いつかわかってくれるかもしれないね」という。
「でも変わらない人もいるよね But someone will never change」とも。
私は笑って、「どっちも、ブッダは気にしないよ。他人の姿は、自分のあり方に関係しない。 “期待” expectationがないからね」
期待という言葉にわが意を得たりという表情で、ラケシュは深くうなずいていた。仏教の話を私から聞く時、ラケシュは席を降りて床に座る。つくづく謙虚な人物だ。
「わかってほしい」「そのうち変わるかもしれない」というのは、期待。期待があるから反応してしまう。
「期待は妄想の一種だよ」と話した。
期待を切り離せば(detachすれば)、苦しみは生まれない――。
それは、冷たい人間になることかといえば、そうではない。純粋な慈悲であり、完全な尊重だ。どんな思いであろうと、他人が抱くことは自由。批判であれ、悪意であれ、嫉妬であれ、病的な傲慢であれ、何を思って生きるのも、人の選択だ。
その選択は尊重するしかない。
それが慈悲と正しい理解に立つ者たち、ブッダの教えに立つ者の心がまえだ。
期待を完全に切り離せば、他者の悪意によって苦しむことはなくなる。
自分は自分のまま。
ただ自分にできることをやる。価値あることをやる。
そうした自分を誰よりも理解しているから、誰にわかってもらう必要もない。一切影響を受けない。
そんなことができるのか――できる。
単純な話で、妄想を断ち切ればいい。期待という名の妄想が残っている状態が、妄想への執着。その執着を断ち切るとは、妄想を消し去ること、消し切ること。いさぎよく。
それで期待は消える。他人から影響を受けることが消える。
難しく聞こえるが、“自然”(しぜん)は、当たり前のようにやっている。たとえば、木は木である。わざわざ鳥になろうと木は思わないし、鳥にわかってほしいとか感謝されたいとも考えない。突(つつ)かれたって、木としての姿はまったく変わらない。
木は木のままでいて、満たされている。
生き物の呼吸を支え、動物たちにとっての安らぎの場になっている。
キッパリと妄想を斬るだけでいい。すると“木”になれる。
もうひとつ、人々の無理解(傲慢)という逆境・困難に遭遇した時こそ、「正しい自分」に帰ることだ。しかも正しさに磨きをかけること。
おのれの言葉を正し、行いを正す。
みずからの思い(仏教徒にとってはダンマ)を確かめ、純粋なつつしみに還る。
つらくなったら、期待という名の妄想を手放して、自分だけを見つめるのだ。
思いを見つめ、完全にまっさらにして renew your mind 、新しく生き直す。つねに新しく。
人々の傲慢に遭遇した時は、「この命はお役に立てない」(相手が求めていない)と知って、つつしみに帰る。つまりは消える。
人は人なのだ。人は異なる心を持つ。だから他人の悪意や傲慢を向けられることは、避けられない。だがこちらが心を使って、おのれの本然(本来の姿)を失うことは愚かなことだ。
大事なことは、人の中にあって、人に染まらず、振り回されずに、最良の自分を保つことだ。
それだけが唯一、人にできること。
生きたいように生きればいい。
僕らは僕らの道を生きていく。
そういう話をラケシュとした。単純に、これまで僕らがやってきたことを、そのまま続け、育てていくだけのこと。僕らは幸せな人生を生きている。これ以上の生き方があるだろうか。
そろそろ今回の旅も終わりに近づいてきた。
人はみな、愛おしい人たちである。
これ以上は必要ないとつくづく思う
2024年2月