インドで「自己肯定感」を考える

出家・草薙龍瞬、インドをゆく から


今度は、ポジティブな面を取り上げよう。ひとつは、やはり村人たちの善良さ。とにかく互いの距離が近い。朝から晩までそれぞれの家を行き来して、子供の世話をしたり、食事を共にしたり、雑談に興じたり。

ひときわ印象的なのが、子供の多さ。たいていの家に子供がいる。成長すると、多くは20代で結婚するので(※都市圏では晩婚化が進んでいるが)、すぐ孫ができる。だから多くの家は三世代。

村での子育てを見ていると、子供を育てることはそんなに難しいことではないように思えてくる。食べさせて、遊ばせて、学校の勉強を見て、その合い間に近所の婦人や子供たち(お姉ちゃん・お兄ちゃん)が頻繁にやってくるから、彼らにも面倒を見てもらう。バンテジ(坊さん)の私も遊んだり、勉強を教えたり。親の負担はおのずと減る。


近所の婦人たちと女の子が、子供一人を可愛がる 




そして連日のようにある誕生日。何しろ子供の数が多いから(ほんとびっくりする)、夜な夜な、どこかの家で誕生日会がある。近所の友だちも大人たちも集まって、「ハッピ・バースデイ♪」をやっている。

ロウソク花火に火をつけて、ケーキに入刀して、小分けしたケーキを、誕生日を迎えた子供がみんなに配る。集まった人たちはお小遣い(10ルピーから100ルピー)をあげて祝福する。


誕生日会に集まってきた村人たち
子供、若者、大人たち この見事な世代構成を見よw


日本では「自己肯定感」という言葉をよく聞くが、「自己否定」を摺り込まれたからこそ、逆張りの概念がわざわざ必要になっただけだろう。この地にいると、自己肯定感の元々の意味がわかる気がする。

そもそもの自己肯定感とは、誰かが自分を見てくれている、守ってくれているという安心感なのだろうと思う。

この村では、子供は放っておいてくれない。大人から年長の子供まで、ひきりなしに誰かがかまってくれて、放課後は近所の子たちと遊び、夜は誰かの家に行ってまた遊ぶ。いつも人の中にいる。そして家に帰って、親や祖父母と雑魚寝する。

見てもらえているという安心感が、いつもある。自己否定などという不自然な妄想が入り込む余地が限りなく少ないように見える。

自己肯定感が、人との親密さ・見てもらえているという安心感から育つとすれば、日本人の自己肯定感の低さは、人間関係の過疎と、見守るとは真逆の過剰なジャッジメント(干渉、評価、しつけ、さらに教育という名のダメ出し)から来ているような気がする。

そもそも日本人は神経質過ぎるのだろう。その根っこにあるのは、人の目か、世間体か、自分が作り出した過剰な妄想か。制御が効かない大人の側の妄想を、子供に押しつけ、干渉したり裁いたり。

そうした大人の妄想を浴びて育つ子供には、自信が育たない。自分が親になった時に、子育てに自信が持てない。「これくらいで十分」という(寛容の)目安を知らないからだ。

しかも核家族化は極限まで進み、世代も地域共同体も分断された社会の中で、孤独な子育てを強いられる。少し想像するだけでも「つらい子育て」の姿が浮かんでくる。

インドの村で見る子育ては、「これくらいで十分」という目安が確立している。親は、自分にも子供にも寛容でいられる。他方、日本では、「あれをしてはいけない、これをやってはマズイ(かも?)」という親の側のダメ出し(自己検閲)が多すぎるのかもしれない。

こうした環境で育つ子供は、どうしたって自己肯定感は低くならざるを得ない。親も、子も、気の毒に過ぎる(特に若いお母さん)。

「子育てがそんなに難しいはずはない」という原点を、まずは思い出そうではないですか。

 

 

よく来たねとあいさつ


まとめ

大人たちにこれほどたっぷり愛されれば、

自分を、世界を、信頼できるようになるのは当然。

そりゃ自己肯定感、育ちます。



2024年2月