クリエイターの矜持1


最近、一人の女性漫画家の方(芦原妃名子さん)が自死されたと聞きました。

事の経緯は、私より多くの人が知っているものと思います。この場所では、出来事そのものを論じること、および人(関係者)に関する具体的な言及は控えます。

ここでお伝えするのは、今回起きた出来事の背後にある関係性について――それぞれの心にあったかもしれない”可能性”についてです。


※なお今からお伝えすることは、私が知る範囲での今回の経緯、過去に体験した私自身の体験、そして「心」についての仏教的理解をもとに書き起こしたものです。



そもそもの前提として、ゼロから作り上げるクリエイター(漫画家・小説家などオリジナルの作品を生み出す人たち)と、その作品を原作としてTVドラマや映画を作る制作者(脚本家を含む制作チーム)とは、創造のレベルおよび原作に向ける思いの強さにおいて、比べ物にならないのほどの差があるものです。

クリエイター(原作者)の思いを、限られた想像力を駆使して、あえて言葉で捉えてみるなら、次のようになります:
 

作品は命そのもの。その作品を読者の人たちがどう受け止めてくれるかは、いわば最後の審判といえるほど厳粛なもの。

もちろん好意的な感想や反響があれば嬉しいものですが、真逆もあります。場合によっては大失敗に終わり、作家生命を絶たれるかもしれない。まさに生きるか死ぬか。その過酷な土俵に上に一人立たされて、なんとか持ちこたえている。

放り出されたら、二度と土俵に上がれない。中でも漫画家の人たちは、描く過酷さと業界で生き延びる苛烈さの両面で、まさに命を賭けて格闘している。

そうした日々の中で、何に喜びを感じているか・・・これも想像でしかないけれど、ひとつの世界を日々の地道な作業の中で構築して、その世界の中に自分自身が生きて、

さらにはコマ割りやネームやペンのタッチや色遣いなどの細部に、ときおり自分でも満足いく出来栄えのところが(たまに?)あって、

そうした自分にしかわからない部分に小さな喜びを感じたり、逆に猛烈な不満や落ち込みを覚えたりしながら、しかも骨が軋むほどに体を酷使し、睡眠時間も削り、まさに懸命必死に生きている――。

クリエイターにとって、見る人(読者・視聴者)が何を受け取るか、どう見るかは、自分の命そのものを判断されることに等しいのです。


それが漫画家であり、クリエイターと呼ばれる人たちなのではないかと思います。

クリエイターの作品が映像化(TVドラマ化・映画化)される場合に、クリエイターは原作をどう扱ってほしいか。実は単純かもしれません。

「原作に敬意を持つ」――これに尽きます。

原作への敬意。原作者の思いへの尊重。かけがえない作品に携わる人間としての最低限の礼儀といっても、意味はほぼ同じです。

原作への敬意と、観る人たち(視聴者・観客)に喜んでもらうための工夫は、両立します。

「原作者が納得できる範囲で、観る人に満足してもらえるコンテンツを作り出す」―-これが制作側の基準・方針になります。

➀原作者の納得が、土台(前提条件)です。②「観る人の満足」(評判・視聴率・興行成績等を含む)がその上に築いていくべき、チャレンジすべき目標です。「土台の上に高い砂山を作る」というイメージに近いかもしれません。



➀の原作者の納得については、原作者によって幅があるものですが、それほど難しい話ではないはずです。やはり原作への敬意と理解――これが基本になるものと思います。

原作者としては、自分の思いを大事にしてもらえていると感じるだけでも、ひとつ納得できます。

原作を正しく理解したうえで、制作者側がアイデアを出したり演出・脚色を凝らしたりするなら、原作の魅力・可能性を別の形で引き出してもらえるものと、原作者も思えるかもしれません。

原作者がつねに考えることは、「自分の作品が、観る人たちにどう受け止められるか」

何しろ作品を生み出した最初から、孤独な闘いを続けてきた自分と、それを受け容れてくれた読者という両者の関係性をもって育ってきたのです。

自分の思いと、読者ひいては新たな視聴者。

この二つを大事にしてもらえること――

その生命線が守られるなら、それほど難しい話にはならないのではないでしょうか。

「ちゃんと考えてくれた」「話し合ったうえで最善を尽くしてくれた」ことが伝われば、原作者も納得できます。原作者が納得できたなら、仮に結果が評判が悪くても(予想が外れても)、仕方ないと思えます。そうした審判であれば、クリエイターは過去さんざん経験してきているので、納得できるのです。


いずれにせよ、すべての制作は、原作者が納得できることが、絶対の基本です。

原作者が納得しないものは、どのような理由・思惑があろうと、制作できません。原作をドラマ化・映画化するとは、本来そういうものなのです。



ところが・・・です。こうした筋論(本来の姿)に「人間」が入ってきます。

たとえば、クリエイターのもとにやってくる人の中には、妙な自信というか驕りというか、「クリエイターなんて大したことない、自分のほうがすごい、エライ」と思っているかのような人が、ときおりいます。そのタイプはさまざまです:

「この程度の仕事・やり取りで差し支えない」と高をくくっている人、自分のさじ加減で手を抜いても許されると思っているらしい人。

こだわりやプライドが強くて、気に入らない提案・やり取りを無視する人、聞いたフリだけする人。

「制作を進めるのは自分たちだから、最後は自分たちの意向を通します(当たり前でしょ)」的な態度の人。

「自分はプロデューサーだから。世に影響を与えているのは自分たち」という、天上天下唯我独尊的な思い込みを持っているらしい人。

「自分は視聴者(読者)のニーズがわかっている。自分こそ最前線のモノづくりをしている」と自負しているらしい人――。


仏教的に言えば、「慢の人」ということになります。

原作者をなめてかかる、見くびる、下に見る、この程度でいいだろうと高を括る、隠す、遠ざける、無視する、手を抜く、開き直る――ぜんぶ「慢」の派生形です。



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