クリエイターの矜持2



今回の漫画家さん(と呼ばせてください)は、想像を超える傲慢・驕りを垣間見たのかもしれません。こうした問題は、立場のギャップとか、映像メディアの制約内に収めなければいけないという技術的問題から生じるものではありません。その多くは、単純な「人間性」の問題から生じます。

世の中にはさまざまな人がいます。中には、ゾッとするほどの傲慢さをもって、「見下している」「軽く見ている」ことが伝わってくることもあります。人間関係あるあるです。

その違和感が伝わってくる時期は異なります。「最初から」感じることもあるだろうし、途中から「あれ、この人(この人たち)ヘンだ」とわかることもあります。もう引き返せないところまで話が進んでしまってから、相手の本性のようなものがわかって「しまった」と思うこともあるでしょう。

こうした人間関係が、原作の映像化というプロセスに持ち込まれると、最も苦しむのは、原作者です。

違和感に気づくことが後になればなるほど、苦しみます。「今さらイヤとは言えない」「関係する人たちに多大な迷惑をかけてしまう」「私さえ我慢すれば」「モノを言うのは私がわがままだから」と、周囲を気遣い、自分を責め、自分一人が苦悩を背負うという立場に追い詰められます。

でもそのままでは作品が、「自分の命」が汚されてしまうのです。全人格の蹂躙であり、辱めです。

おおげさ、と思う人もいるのかもしれませんが、クリエイターというのは、そういう矜持をもって創造している人たちです。それくらいの矜持・思い入れがなければ成り立たないくらいのレベルとクオリティを、まさに一人で創り出してきたのです。

でも、そうしたクリエイターの矜持を、まったく理解できない人たちがいます。そうした人たちが「制作」を進めようとすれば? こんな可能性が出てきます:

一度許諾を得られれば、後はこちらのもの。自分たちの都合に、作品そのものを平然と取り込もうとする。自分たちが想像する視聴者・スポンサーに受けするかどうか。業界内で通じる「これが売れるに違いない」という思い込み(これがズレてきていることは、今や多くの人が感じていることでしょうが)、さらに制作者・脚本家の主観(それをセンスだと本人たちは信じている)を容赦なく暴走させて、原作をいいように改変・脚色してしまう――。

こうした事態へと化してしまえば、これは辱めであり、蹂躙です。その度合いによっては、別の言葉で表現することもできます。「原作〇〇〇」とさえも(※あまりに痛ましい表現なので伏せることにします)。

それくらいに罪深いことが、原作者の身には起こりうるということです。こればかりは、本人でなければわからないかもしれません。最初は、ざわりとした違和感です。いつ顕在化するかは、場合によります。そして生涯続きます。自分の原作が汚された、辱められたという思いが。

それでも制作者側は「わからない」のです。もともと矜持とは無縁の仕事をしてきたか、よほどの驕りに毒されてしまったのか。そこまで行かずとも、原作者が作品に賭ける思いは、やはり原作者にしかわからない。それくらいに距離がありすぎるのです。


今回の出来事は、あまりに遠い人と人の間に起きてしまったことかもしれません。しかももしかしたら一方の傲慢を、SNSを使って「増幅」させることで、たった一人の原作者に想像を超える苦しみを背負わせてしまった可能性があります。



今後は、原作をTVドラマ化・映画化するに際しては、クリエイター(原作者)の矜持(と利益)が損なわれないように細心の注意を払った契約のフォーマット(ひな形)を、クリエイター(漫画家・小説家)諸氏が智慧を出しあって(法律家の力も借りて)作るべきだろうと思います。

制作者には別の要請(視聴率を取る・興行収入を上げるといった現実的要請)があります。そのうえ個人の思惑、勘違い、ときに思い上がりも混じります。

良心的な制作者・脚本家――原作者が納得でき、ポジティブに期待できるプロフェッショナル――もいるでしょうが、そうでない人もいます。不幸な組み合わせは避けられません。人間の心とは、そういうものなのです。

だからこそ、なりゆきや慣行に任せると、クリエイターの矜持が脅かされる事態が起こりえます。

だからこそ、原作への最大限の「敬意」を、契約書面のフォーマットに――「ここまで配慮を尽くせば、原作に敬意を払ったことになると双方が納得できる」内容にまとめることで、原作および原作者への非礼・辱めを防ぐ必要があります。

(※ちなみに契約は、本来、関係性の数だけありえます。書面化することは十分可能だし、不可欠です。)




たった一人のクリエイターが泣き寝入りしたり、痛みを抱えたまま命を絶つようなことが、続いていいはずがありません。


こうした悲しすぎる出来事を繰り返さないためにはどうするか。

傷つけられる側の痛みを、傷つける側に伝えていくしかありません。事実と、気持ちと、願いとを。

そして、同じ立場にある人、思いやれる人たちが考えるべきは、今後どうすれば、こうした悲しい結末を防げるか、その方法を形にしていくことかと思います。

その人が背負わされた痛みを感じながら、これ以上痛みを増やさないように努力する。

それが、傷を負ったまま旅立った人へのせめてもの誠実であろうと思います。


 

2024年2月1日

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<付記>

改めて、今回お伝えしたことは、私が知る範囲での今回の経緯、過去に体験した私自身の体験、そして「心」についての仏教的理解をもとに書き起こしたものです。

ちなみに私の場合は、雑誌、テレビ、オンライン講座など、お話しをいただくことはありますが、少しでも違和感が見えた時点で、お断りしています。

不純な動機が伝わってきた時には、コンテンツ(著作)を託することはふさわしくないと判断して、いさぎよく切り上げます。

本についても、「納得できる」作品のみを世の中に残して(重版して)います。納得いかない作品は今後も出すつもりはありません。