真実を決めるのは誰か


この世界は妄想の海。誰もが言いたいことを言い、嘘を本当だといい、本当のことを嘘だという。滅茶苦茶だ。いや、これが世界の現実だ。

真実を決めるのは誰だろう?

自分? 違う。自分に見えるものは、自分にしか見えないから、妄想かもしれない。

自分にとっての真実を、人にとっても真実だとするには、どうするか。

徹底して事実のみを語り、事実を裏付ける証拠をそろえることだ。

証拠、事実、自分にとっての真実――3つがそろってはじめて、自分に見える真実が、人にとっても真実たりうる可能性が出てくる。

真実は人の数だけあるし、自分にとって間違いない真実に見えるとしても、それだけでは足りないから、問題が生じる。

その問題を解決するには、自分以外の人の理解が必要になる。直接には相争う相手。その相手が受け入れないなら第三者。「世間」だ。

諍い・争いに巻き込まれた当事者にできることは、事実と、裏付けとなる証拠をそろえること。そして「真実は人さま(世間)が決めること」という諦念に立つことだ。いさぎよく。


人が往生際悪くなるのは、証拠、事実、真実がつながっていないからだ。

自分は真実と言い張る。だが隠している別の事実がある。

事実っぽく見せている主張がある。だがそれを裏付ける証拠がない。


証拠があれば、事実であると主張することも可能になる。自分にとっての真実が、客観的にも真実だと認めてもらえる(世間が受け止める)可能性も出てくる。

逆に、自分が訴える真実が、事実と異なるか、証拠がないか。その場合は、真実ではなく、「無理」を訴えることになる。

被害を被った側が、無理を訴えざるをえない場合は、苦しい闘いを強いられる。だが証拠があるなら、世間に訴えることも可能になる。自分にとっての真実を、世間を受け入れてくれた時に、本人にとっての真実が社会的真実だったことになる。

たちが悪いのは、逆に害を与えている側、いわゆる加害者が、都合のいい真実だけを一方的に訴え、実はそれは事実ではなく、もちろん証拠もない場合だ。

本当は本人もそうと知っている。だが都合の悪い真実にフタをして、都合のいい真実をさも客観的真実であるかのように言い張って、押し通そうとする。

そういう人間は、嘘をついていることになる。そのうえ誰かに苦しみを与えているなら、苦しみを想像しない欺瞞か、冷酷か、傲慢か、非常識な人間ということになる。

傲慢な人間は、平気で嘘をつく。

未成熟な人間は、都合の悪い事実を認めない。受け入れる強さがない。

自分の都合を守るために、人に責任を転嫁しようとする姑息な人間も存在する。


それぞれが主張する真実が食い違うとき、人は自分にとっての真実を守ろうとするばかりに、事実を隠し、ごまかし、歪曲し、改善して、都合の悪い証拠を隠すか、消すかしようとするが、

これは悪と罪の上塗りであって、正しい選択にならない。悪は悪であり、罪は罪だ。その先に待っているのは、世間における恥だ。


人がまっとうな人間として生きていくには、事実をいさぎよく認める勇気が必要になる。いずれが証拠を持っているにしても、客観的に確認しうる事実こそが、真実かどうかを決めるのだ。

証拠をともなう事実。これが最も確かなもの。ここから離れようとしてはいけない。


事実から離れようとすること――いかなる強弁、屁理屈、嘘、言い逃れ、他責の言葉も、重ねるべきではない。

そうした言葉を謹んで、事実を受け入れることが、その人の誠実さであり、人間としての品格になる。

あやまちは詫びるしかないのだ。そして事実を受け入れて、事実にもとづいて相応の責任を取ること。法を犯した場合は裁きを受けること。どんな痛みを伴うとしても。


そこまでいけば、悪も罪も解消できる可能性が出てくる。

あやまちを犯した人間は、そこからやり直すしかないのだ。



2024年11月末



親戚の子とどう向き合うか


親戚の子との向き合い方について

まずは一般論。相手を変えたい・影響を及ぼしたいと思う――

そんなとき、人は言葉か態度を使います。そうして及ぼす影響力のことを、広い意味で「権力」(パワー)と表現します。

これは物理的な暴力や、妄想の押しつけ(圧力)とは違うので、要注意。

自分の思いが届くかどうか。伝えることで、相手の考え方や振る舞いが変わるかどうか。

届く、変わるなら、権力(影響力)を持っている、と表現します。

人間関係、特に大人が子供に関わる場合は、はてどの範囲で、どの程度の権力(影響力)を、どうやって及ぼすか。及ぼしていいのか。

多くの場合、それがテーマになります(権力という表現はあまり穏やかではないけれど、社会学ではよく使われるし、思考を整理する記号としては役に立つので、今回はあえて使ってみます)。


たとえば、自分がおじさん・おばさんの場合。親戚の子供(甥・姪)が学校に行かないとか、ゲームばっかりやっているとか。

そばで見ている大人の自分としては、いいことだと思わない。本人の様子を見ても、決していい状態じゃないように思う。

でも、肝心のその子の親たちは、クセがあったり、無関心だったりと、子供たちになにもしようとしない。

なんか割り切れない、やきもきしてしまう。そんな状況にあるとしましょう。

そんなとき、心あるおじさん・おばさんとしての自分は、どうするか? 

結論からいうと、「自分に何ができるだろう?」と考えて、「使える範囲で上手に権力(持っているもの)を使う」ことになります。


子供に最も権力を持っているのは、親です。お金を出さない。真剣に叱る。あるいは、じっくり話を聞いて、考える時間を与えて、一定の時間が経った後に、何を体験したか、何を考えるか、今後どうするかを、よく聞いて、親の側の思いも伝える。

これはプラスになる権力の使い方。大事です。

親ならば、子供との距離は選べます。その選び方があまりに下手というか、考えていない親も多いことが、今の世の中の問題の一端でもあります。

他方、最も権力がないのが、公立校の先生や塾の教師かもしれません。子供への影響力が限られている。学校の先生なら業務に追われてそもそも一人一人の生徒をフォローする余裕がなかったり、制約が多すぎたりする(義務教育というイケスの中でしか動けない)。塾なら、生徒はお客さん。辞められたら困るし。生徒からの評価・評判を落とせないし。

では、親戚の子を憂うおじさん・おばさんはどうか。

子供といい関係を築けているなら、会話の中で自分の思いを伝えることも可能です。だから、まずは子供との関係作りがテーマになります。

他方、それほどの関係が育っていない場合は? その場合は、自分が権力(影響力)を持てる範囲を確認することになります。


一番わかりやすい権力の発動どころは、お年玉・お小遣いをあげるとき。その時に話をするか、交換条件としてこちらの思いを伝えるか。

もちろんそれが届くかどうかは、子供次第。「うざい」と思われて終わるかもしれない。そうした関係性においては、権力はゼロということになる。

自分の直接の子供ではない子供に、自分の思いを伝えるには、それなりの関わりが育っていること、あるいは権力を持っている必要がある。

わかりやすい例を挙げれば、

「話ができない(伝わらない)なら、与えない」

「あれを頑張ったら、これをあげる」という権力。

わかりやすい。ドライすぎて戸惑う人もいるかもしれないけれど。

もし親戚の子供がゲームばっかりやっていて、はたから見てマズイなと思ったら、本人にどう思っているのか直接聞いてみることから始めて、「〇〇ができたら(努力できるなら)、おこづかい・お年玉をあげる」という話に持って行く。

達成できなければ、自分としては何もしない。与えない。それが自分にできる最低限の権力行使ということになる。



えてして親戚の子については、おじさん・おばさんは権力ゼロのことが多い。

特に、親がその子をスポイル(ダメに)している場合。無関心、甘やかし、将来について無計画。中には、子供には自分を越えてほしくない、自分の支配下に置いておきたいという、子供の足を引っ張る毒親(蜘蛛親と呼ぶべきか)も、たまにいる。

親がこういう人だと、子供は、社会も未来も人生も何もわからない段階で、「何をやってもいい」という状況に置かれてしまう。そこにスマホ、ゲームなどがあれば、あっという間に染まってしまう。「依存」レベルに達すれば、勉強どころではなく、学校にも行けなくなり、脳が、未来が、壊れる。

こういう親子・家庭も、今はものすごく増えている。


残念ながら、こうした家については、心あるおじさん・おばさんの権力はゼロ。ほぼ何もできません。

唯一の権力である(という言葉自体があまりにしょぼくて無粋で悲しいけれど)、お金(おこづかい・お年玉)さえ、親がザルなら、子供にあげても無意味。ドブに捨てるようなもの。

そのときは、いったん権力を行使しない――つまり何も与えず、何もしないことが唯一の正解になる。「本当に今のままでいいのかい?」と、ラストチャンスで声をかけるくらいは可能かもしれないけれど。

もし誰かが、中学生くらいの甥っ子・姪っ子におこづかいやら進学祝いやらのお金をあげてしまって、それをゲーム課金に使われてしまうようなことがあったら、

それは、その人が「負けた」ことを意味します。ムダなことをしてしまった。あるいは、唯一権力を行使できる機会をうまく活かせなかった。

本来は、自分の思いをその子に伝えて、せめて交換条件を提示する。そこまでが自分にできること。

伝わらない、聞かない、交換条件を受け入れない――というなら、権力を行使しない。与えない。

自分にできるのは、そこまでです。

親であれ、先生であれ、その他の大人であれ、自分の手が届く(影響力を行使できる)範囲で、適切に権力(いい意味ですよ)を使う訓練を積むことです。

気兼ねしたり、言葉が出なかったり、相手のご機嫌をうかがったりして、権力をうまく使い損ねた時は、自分の負け。まだまだ力不足(智慧と覚悟が足りない)ということです。

子供になくて、大人にあるのは、体力だったり、言葉だったり、お金だったり、智慧だったり、体験だったりします。いろんな権力の源泉がある。うまく使えば、プラスの影響力を行使できる。

それをうまく使える大人を目指すこと。


力が及ばないことには、ヤキモキしない。相手と自分は違う人間なのだから。妄想を広げない。

でも力を及ぼせる限りは、子供の状況を理解し、将来のことも想像して、どうしたいのか、どうするつもりなのか、このままでいいのか、

子供の立場に立って、子供自身にまだ見えていない部分のことも考えながら、


でも押しつけるのではなく、理解者であろうと意識して、なおかつ毅然と向き合う――という自分をめざすことになります。


大人が子供に向ける思いには、執着も、慈しみも、慢も、妄想も、混じるものです。距離が近い関係性なら、なおさらです。大人の側の思いをきれいに区別する必要はないし、できない可能性のほうが高いものです。

むしろ、自分が権力を行使できる範囲--まだ言葉が届く、影響力を及ぼせる範囲を明確にして、

そうした範囲(立場)に自分がまだいる間に、

自分なりのベストを尽くす――子供の将来にとって何が価値あることかについて、自分なりに答えを出す、伝わる範囲で伝えようと努力する。

大人として関わることは、その繰り返しであり、それだけでよいのだろうと思います。

イラスト満載の『消えない悩みのお片づけ』ポプラ新書から

 


2024年11月下旬



こころを洗う技術


『心を洗う技術』SBクリエイティブ 重版決まりました^^*

ブディズムの教科書(図解入り)です。仏教を学びたい人は、まずコレ一冊。

やっぱり紙の本がお勧めです。「読んだ」「モノにした」という実感が残るのは、やはり紙の本。体を持った人間には(※ここ大事)、目と指先で直接知覚するほうが、脳に刻まれる深さと量が違うはずです。

 





人生の選び方


人生を選ぶとは、手にしたものを何に使うかを選ぶことだ。

何を考え、何を語り、何を行動するか。時間を、お金を、何に使うか。


たいていは、自分が最初に思いつくこと、衝動、欲求、願望、都合、打算計算で選ぼうとするのかもしれない。

だが、仏教を知ると、別の考え方をするようになる。


手にしたものを、自分以外の誰かのため、世界のため、未来のために使う――という発想が入ってくる。

自分を越えた価値のために、手にしたものを何に使うか、を選ぶ。


今進めている「寺子屋」は、半世紀以上生きてようやくさずかったものを活かそうという試みだ。

いつも考えるのは、この場所は誰のためか?ということ。

自分のためでは、あきらかにない。自分の寿命(時間)なんて、そう長くはないのだから。

人はあっという間にいなくなる。私も同じだ。
 

だから、自分のためというより、自分の後に残る家のため。

未来に残るのは、自分ではなく家のほうだから。

では家は誰のためかといえば、その土地のため、その土地の未来に生きる人たちのためということになる。

土地にとって、未来にとって価値あるものを残せるかもしれない――そうした思いこそが、家づくりという冒険を引き受ける理由になる。

 

人生は短いからこそ、人生を越えた価値を見据えて生きることなのだろうと思う。

それがはたして可能かどうか、

今のところ、不可能ではないという場所にいる。可能かもしれないという地点に。
 

人が最後に選ぶのは、希望であり、未来につなごうというポジティブな意志であるべきだ。

そうした、自分を越えた本当に価値ある選択こそが、人生最後の選択肢。

そのことがわかっていれば、正しく生きている――価値あるものを選んで生きているという納得に帰ることができる。

何が人生で大事なことかという道を、見失うことなく生きていける。



2024年11月下旬


志望校が決まったら(勉強編)


考えてみたら、学校の勉強を真面目にやれば志望校に近づける・・というノー天気な発想を持っている中高生は、今の時代も多いのかもしれません。

そういう人たちは、2、3年生になって、そろそろ受験だ~という周囲の雰囲気を感じてようやく「勉強しなきゃ」という気になって、

塾や予備校に通うのだけど、結局ゴールを見ていないから、真面目に通うしお金もかけるのだけど、「見切った」(これをやれば受かるという見きわめ)レベルに到達する前に、受験本番を迎えて、

運が良ければ受かるし、運が悪ければ落ちる――「やったー」(前者)「残念だったね」(後者)という感想をもって、それぞれの進路に進んでいく・・というパターンが多い気がします。

こういうのは、「通過儀礼」としての受験であって、「狙って確実に突破する」受験とは違います。

正直、もったいないと思います。そもそも学校と受験は、まったく別の世界だから。二つは連続していない。受験は独自の世界。学校の勉強とは別物。



今考えてみると(記憶を検索・・・)、超進学校の勉強が得意な生徒は、学校の勉強はほどほどで、受験を見据えた勉強は、別のところでしっかり、ちゃっかり、ひっそりやっていたように思います。

彼らはどこか余裕こいてる(笑)。学校の勉強はそこそこ、ほどほど。遊んでいるように見えなくもない(これは地方の進学校より、都会の超進学校に顕著。彼らは受験とはどういうものかが、肌感覚でわかっている・・情報格差か。うーむ)。

でも押さえるべきはしっかり押さえていて、受験直前になってスパートかける。競馬でいう「まくる」感じ? で、あっさり合格していく。なんか憎たらしい(笑)。

冷静に分析すると、彼らは受験を先取りしていたから、そういうことができるのだと思う。中学生だからといって、中学の教科書や参考書を使ったりしない。先取りして、高校の参考書を使っていたりする。高校になったら、大学受験参考書。浪人生が使うのと同じ本。



数Ⅰ・数Ⅱみたいな不自然な分類が、数学の世界にないことも知っていた。彼らは「ベクトル」とか「代数」とか、そういう体系別の(先取りした)本を使っていた。

「難しそう」と思うのは、学校の勉強というトリック・罠にかかっているから。実は先取りしたほうが、よくわかる。そういうもの。

受験は、下から(学生や学校の先生から)見れば「受験」なのだけど、出題する大学の先生から見れば、ふだんやっている「学問の棚卸」(たなおろし)みたいなもの。日頃やっている研究や関心を「問題」という形に変えて、受験生向けに聞いている。

だから受験の成功を決めるのは、終わりから、ゴールから、上から見ること。

英語も国語も歴史や自然科学や数学も、「学年」「学校」という不自然な枠を取っ払ってみたら、それぞれの科目・分野を貫く手順や知識というものがある。
 

※ちなみに昔、私がやっていた寺子屋では、中2男子が東大の現代文をフツーに解いて正解を出していた。特に優等生というわけでもないフツーの子。ある程度文章を読める力があれば、あとは「論理的な読み方」をマネれば、学年を問わず問題は解けるということ。共通一次も二次も同じ。

どの科目にも、学年を越えた「本質」とでもいえるものがある。その一端が試されるのが、入試。というか前者が本質であって、後者(入試)は人為的・制度的な区切りでしかない。

本質部分は変わらない。入試制度がどんな改正・改悪を重ねようと、学ぶべき本当の対象は「本質」部分だ。

本質は、目先の勉強ではなく、目線を上げて、もっと先のゴールを見据えた方が、よく見える。

入試は、「下から」見上げずに、「上から」見下ろしてしまうこと。先取りしちゃう。中学生・高校生なら、大学受験用の参考書や問題集を使いつつ、「上から目線で」学校の勉強にも「お付き合いしてあげる」w。



「難しそう」と思わないでほしい。先取りするという発想が身に着けば、学校の勉強は簡単に見えてくる。簡単に見えるような勉強の仕方を始めよう。

他にもいくらでもアドバイスはできる。来年夏には寺子屋が完成するから、最初は志望校が決まった中高生相手に、とっておきの受験指南、いわば秘儀を伝授しようかと勝手に思っていますw。



2024年11月下旬



SNS vs. オールドメディア


今日の講座(栄中日文化センター2024年11月)では、SNSとオールドメディアについて話をした。


必要なのは、<事実>と<主観>と<知見>という3つの視点。

<事実>  調査・分析・裏付けが必要――マスメディアに期待されてきた取材力。

<主観>(自分はこう思う・こうに違いないという意見)――人の数だけ存在する。歯止めはかけられない。SNSという便利な道具ができれば、それぞれの<主観>が語られることは当然。

多くの<主観>が並び立つ状態は、プラスの価値を持ちうる。自由。公平。多角的。そもそもマスメディアはこうした企業倫理を持つべきものとされている(されていた?)。

<事実>と<主観>をどう見るか――<知見>が大事になる。専門的な知見を<専門知>と呼び、人々が共有できる全体の利益についての知見を<公共知>と呼ぶ。

これは個人の<主観>を越えた、全体に通じる利益・価値につながるものでなければならない。

<事実>を掘り下げ、多様な<主観>を並べたうえで、どのように見ればいいかを、「全体の利益につながる」ことを前提条件として、整理し、提示する。それが<知見>というもの。

そうした力を持つものが、社会的に信頼される情報および言論だ。

信頼されるからこそ、権威にもなる。

独占・寡占・旧態依然による権威ではなく、社会全体の利益に貢献する<知見>を提示することが、権威の源泉になる。


<主観>だけなら、陰謀もゴシップも誹謗中傷も、良心にもとづく訴えさえをも、フラットに並べられてしまう。「私はこう思う、こうに違いない。ゆえに正しい、正しいに決まっている」。そこで思考停止してしまうのが、<主観>の特徴だ。

これは致し方ない部分がある。人間は一つの脳しか持っていないから。


SNS・ネットが信頼を得ることが難しいのは、<主観>だけが並ぶ空間だからだ。<主観>は無限に増えるが、これを<知見>へと昇華させることは難しい。

これを可能にする役割を担う筆頭が、公共放送・報道と呼ばれるものだ。

今やオールドメディアと揶揄されている媒体は、こうした役割を期待されていた。<事実><主観><知見>を示す役割。資本、人材、情報網、調査・分析能力、発信力を持つからこそ、こうした役割を果たすことが可能になる。

断片的な事実だけではなく、さまざまな事実を、調査し、分析し、裏を取って発信する。

多くの主観(自分はこう考える)を、偏ることなく、「公平に」「多角的に」報道する。

さらには、個々の主観にとらわれがちな一般の人々に、事実・主観はこのように見るべきだという<知見>をもって整理する。

その<知見>には、もちろん独自の視点や価値観が含まれることは仕方ないが、それでも「社会全体の利益に奉仕する」という使命を担う前提は一貫している――

それが、マス(大衆)に向けてのメディア、つまり新聞・テレビだとされてきた。


マスメディアがこうした姿を過去どれほど実現していたのかは、冷静に考えるとわからない部分もある。あの戦争当時も、薬害報道も、今回の選挙についても、報道機関・マスメディアは、「本来の姿」からかけ離れていて、偏向、党派対立、イデオロギー、スポンサーへの迎合や忖度、無視や決めつけにとらわれていた可能性はある。

今まではそれしかなかったから、目立たなかった(気づかれなかった)だけなのかもしれない。

だが、今はインターネット・SNSという別の媒体(メディア)がある。これらもまた<事実>の欠落や、偏った<主観>の発信という性質はなくはない(もっとひどい面もある)のだが、


全体を見れば、欠落した<事実>を補い、多角的な<主観>を発信するという機能を果たしつつあるようにも見える。

たしかに社会的価値から程遠い内容も多い。多すぎる。一定の内部手続を経て発信するマスメディアと同じ信頼性を持つことは、全体としてみればまだないし、今後も完全に得ることはないかもしれない。だが、

それでもマスメディア以上に<事実>に迫り、また多くの<主観>の発信に、つまりは公平・多角的な報道・放送に「貢献」している面も出てきている。そうかもしれないとは思う。


SNSを越える信頼性をマス(オールド)メディアが得るには、①<事実>についての調査・分析・取材の力を見せること、②公平で多角的な<主観>を並べて見せること、さらには③どのように見ればいいかという<知見>を掲げる必要があるのだが、

今やマスメディアもまた、都合のいい一部の<事実>を切り取り、偏った<主観>を発信し、専門家・学者・コメンテーターという肩書きを掲げつつも結局は「自分はこう思う」という主観を語るだけ、というレベルに留まるならば、

その情報はSNSと変わらなくなる。これは「敗北」というより、みずからが招いた役割の劣化なのだ。


最も危惧すべきは、マスメディアが、<事実><主観><知見>いずれの面においても、劣化してきたこと。果たすべき機能を果たしていない。

多くの人が、マスメディア(テレビ・新聞)の報道の偏り・不足・独善・退屈をかぎ取り、テレビ離れ・新聞離れという現象を起こしつつあるのは、

こうした機能をみずから果たさなければ(取り戻さねば)という使命感というか矜持というか、マスメディアがマスメディアたりうる根拠を、みずから放棄しつつあるからかもしれない。

 

思えば、コロナ騒動の3年間は、マスメディアの凋落を広く知らしめる出来事だったのかもしれない。人々の不信は、この期間に大幅に増えた気がしなくもない。

さらに危惧すべきは、SNSにせよマスメディアにせよ、価値ある情報とはどういうものか、つまりは<事実><主観><知見>がそろっているか、あるいは、それぞれを構成するどの部分(取材力・分析力・公平性・社会全体の利益への配慮etc.)が欠けているかを指摘する「知力」が欠落しているかもしれないことだ。

こういう部分を示す知力を備えている職業人が、本来の学者・専門家・知識人・思想家であるはずだが、

いつの間にか、だれもが「自分はこう思う」という主観レベルの言葉を語るだけで満足し、罵り合い、結果的に、

社会全体の利益・価値というものを、そろって棄損しているかのような現実が見えなくもない。

<主観>のみを語り、その主観以外の主観を想像することや、まだ見えていない事実を掘り起こすことや、どのように見ることが、社会全体の利益につながるのかという全体を考えない。

全体知の欠落。思考停止。知の劣化――これこそが、最も憂慮すべきことなのかもしれない。


SNSが、マスメディアが拾いきれない、拾おうとしない<事実>を拾い、多くの<主観>を取り上げて、それをもとに人々が考えて動くことを可能にするなら、その点においては、オールドメディアだけだった時代よりは、進歩といっていいかもしれない。

他方、社会全体の利益というものを無視して、事実を捏造・改竄・隠蔽しようとしたり、無責任な主観を一方的に発信して、主観と主観の対立・分断を際限なく増やしたりしていくだけならば、SNSは、社会全体を壊す危険を持ちかねない。

結局は、社会全体にプラスになる価値を増やす方向をめざしてこそ、SNSもオールドメディアも等しく価値を持つ。その方角をめざすべきなのだろうと思う。

 

いずれの側にも課題・問題は山積みなのだが、何が問題で、どこが欠けていて、何を補わなければいけないかという全体像を思い出す必要がある。そのための<事実><主観><知見>だ。3つがそろったメディアこそが、価値のある媒体ということになる。

 

この3つを通して情報の価値を検証する役割を、世に立つ誰かが担ってほしい。

 

ちなみに、事実も主観もうつろいゆくもので、消えてゆくもの、入れ替わるものだ。だが今回お話した<事実><主観><知見>という3つの視点は、メディアが担うべき不可欠の機能であり、時代・社会を問わず通用する、通用させるべき普遍的な知の一つだ。つねにこの3つをもって検証していくことだ。一過性の出来事に騒いで終わりにするのではなく。


こうした普遍的な内容・価値を持ちうる思考を、仏教においては「智慧」と呼び、「ダンマ」と呼ぶ。

もっと智慧が必要だ。こういう話をそれこそSNSで発信すれば価値あるものが生まれるか? そんな話にもなった。



2024・11・19



とある出来事(知事選)にちなんで

 

たぶんもうひとつの根の深い問題は、

事実は何か(まだ解明されていない、それだけの客観的な資料・材料がそろっていない)ということを忘れてしまっていることにあるように思います。

いつの間にか事実が置き去りにされて、それぞれの「こう思う(こうに違いない)」という推測・仮説・期待・希望のほうが真実であるかのように見え始めてしまっている。

「主観」と呼ばれるもの。オールドメディアと揶揄されるに至った媒体にも、SNSにも、それはある。

一番危ういのは、それぞれが「主観」しか見なくなっていることかもしれません。主観だけを選び、語り、発信し、「きっとそうなのだろう、そうに違いない」という主観が増えていく。


そしてもうひとつの問題は、時間という大事な視点が、その場の主観にとって代わられつつあること。時間とは、時系列や文脈ともいえるもの。

過去の出来事(これも事実を通してとらえないといけないものだけれど)と並べて、つなげて、どこがどう変わったのか、あるいは一貫しているのかを考えること。

そうすれば、矛盾、変容、嘘、あるいは確かな変化、反省、成長かということも、見きわめることが可能になる。

もし人それぞれが、個人的に選ぶ主観と、こうかもしれない、きっとそうなんだという妄想だけで今を切り取って、それを真実だと判断するようになれば、過去とのつながり・文脈という視点は切り落とされてしまう。

そうなると、過去をすぐ忘れる。すると嘘や矛盾にも気づかなくなる。善は簡単に悪に、悪は簡単に善に変わって見せることが可能になる。

結果的に、真実も見えなくなる。


「事実」と「時間」の二つは、真実を浮かび上がらせるうえで欠かせないもの。

その二つが、どうやら、どの立場においても危うくなりつつある――というのが、本当は最も目を凝らさねばならないところなのだろうと思います。


ただ、事実と時間を置き去りにして、都合の良い主観のみを切り取って大々的に流すということは、もしかしたらテレビや新聞というマスメディアから始めてしまったことかもしれず、

彼らが信頼を回復するためには、事実と時間を通して真実を浮き彫りにするという知力(過去、取材力、分析力、公平な報道と言われてきたもの)を、

理屈ではなく、実際に発信する情報の中身によって示すことが必要になるはずです。

その努力ができるかどうか。できない、しなくていいというなら、凋落と不信(影響力および売り上げの低下)は避けられない――そういう状況なのかもしれません。

 

社会という大きな器にとって、「時間」を忘れた「主観」だけの言説は、さすがに危うさを秘めているだろうとは思います。

何が嘘で何が真実かわからなくなる。「主観」がつながりあって大きな「主観」を作る一方で、別の「主観」も同じような動きをする。

主観だけなら、分断が生まれます。社会においては分断であり、個人においては孤立と対立です。

 

主観は価値を持つのだけれど(大切なのだけれど)、主観だけじゃ足りないのです。


社会という共通の器を未来につなげるためには。

すべての人は社会という器の中で生きることになるのだから。


※補足ですが、時間を忘れた主観だけの発信は、マスメディアのほうこそ顕著なのかもしれません。その影響力の大きさも考えれば、なおさらそう思います。

SNSにおける主観は、案外、時間(時系列)を精査して事実を掘りこそうという努力が見えることもあります。

ジャーナリズムの役割を、SNS上の私人・市民がやっている・・。

そうした点を見ると、いっそうマスメディアの価値は相対化して(揺らいで)くることも真実です。



2024・11・18


いつかはチョキン✂と


苦しみの原因は執着だ、とブッダは言ったけれども、これはかなり深い洞察に基づいた言葉です(まさにinsight:内側を見抜いた言葉)。

というのも、反応だけなら、いずれ消えるし、生きていくうえで反応は欠かせないものでもある。

(※たまに「反応しないなんてムリだ」と言う人もいる様子だけれど、本で伝えているのは「ムダな反応をしないこと」だ。本の冒頭で言っているのに・・伝えることは本当に難しい^^;)

業については、人生を丸ごと作る(支配する)くらいに強い力を持っているけれども、なぜ業が人生を支配するかといえば、執着してしまうからだ。

業を抜けて、自由を手にして、自分自身の(納得のいく)人生を生きるには、執着を切って捨てることが必要だし、それが始まりになる。


人がなぜ苦しみを背負うのか。苦労を重ねてしまうのか。

そこには、相矛盾する執着が潜んでいることが多い。

ちなみに苦労して家を支えるとか、苦労して子供を育てるというのは、自分で選んで納得して背負っているかぎりは、ここにいう執着ゆえの苦しみには当たらない。納得して頑張って生きている人たちは、尊き人たちだ。

ここで考えようとしているのは、慎重に選んでいるつもりが裏切られたり、うまく行かなかったりする場合。「なんで?」と自分でも首をかしげる事態に遭遇してしまう人のケース。

たいていは、親、子、結婚相手が絡んでいる。身近な人との間で苦労を背負う。

身近だからこそ重い。そして、報われない。

そうした日常の中を、暗中模索、五里霧中気分で生きて、いつの間にか報われない事故のような出来事に遭遇してしまう。

その出来事は、たいていは「外から」だ。事故のようにやってくる。だが不思議なことに、事故に自分から突っ込んでいっているかのような状況もある。

なんで?(なぜ私だけが?)と本音では首をかしげている。でも本人は殊勝に頑張り続けている。頑張れる体力がなぜかある。苦労を背負い続けて、心の体力だけはついているのかもしれない(それも限界があるけれど)。

なぜ望んでもいない苦労をいつの間にか背負ってしまうのか。

たいていは、執着が原因だ。しかも一つじゃない。二つ以上の執着。相矛盾する、ほんとは両立しない執着。

その執着を抱え続ける限り、人生を間違う。


一体自分は何に執着しているのか。どの執着を手放さなければいけないのか。

じっくり見つめて考える時間が必要だ。


それが、その人にとっての人生の転機。再生--人生のやり直し――の始まりになる。


どこで謎が解けるか、つまりは自己矛盾、二律背反の精神状態に気づけるかが、人生の分岐点になる。


最初の転機を迎えるのは、多くは三十代後半だ(※『心の出家』参照)。

しぶとく頑張って(執着して)いるうちに四十代に入る人も多い。

五十前後にもなれば、たいてい持ち前の業と、相矛盾する執着に取り憑かれて、「わけがわからない」状態になっている人もいる。

ブディズムという視点を通せば、なぜ自分の人生がかくもこんがらがってしまったのかは、ほとんど解き明かせる。

どんな迷走も混乱も、「必然」だったとわかる。その必然とは、執着が作り出すものだ。


その執着をほどくことができれば、矛盾、混乱は解消する。本来の自由な心、本人が「自分らしい」と思える自分を取り戻せる。

本当の人生は、そこから始まる。

執着さえ突き止めて、チョキン✂と切って捨てれば、人生をやり直すことは可能だ。おそらく何歳になっても。


今は熟年離婚も増えている。ひそかに「家出」する既婚女性もいる。逆に、振り回されて生き血を吸われてきたかのような夫が目を醒ますこともある。

本来、家とか子育てとか男女の仲とか、社会を未来につなぐために必要とされてきたもの、それはこれからも欠かせないはずのものが、崩れつつあるのが、今の日本かもしれない。

それはそれで痛ましい話ではあるのだが、間違った関係性を続けても、苦労が続くだけで、一人一人が病んでしまうから、

いったん関係性を解消して、自由を取り戻して、本当の生き方を一人一人がつかみ取って、できればその状態で未来につながる関係性をもう一度育てていく、という方角の方がよいだろうとは思う。

(人生は短すぎるから、解消するところまでで精一杯になることが多いけれど。でも始まらないよりは、まだそのほうがいいだろうとは思う。まずは自分らしい生き方をつかもうということだ)。


ともあれ、人生の迷走、混乱、行き止まりは、相矛盾する執着を抱え込んでしまった状態から来る。

その状態のままでは、まっすぐ進んでもなぜか事故る。そういうものだ。

何に執着しているのかをじっくり見つめて、答えを出すこと。

「これか」と突き止めて、チョキン✂と切除する。そうすれば、人生の病気は治る。何歳であっても治せる。


その希望だけは覚えておいてください。

頑張っているあなたに敬意を表します。


2024年11月中旬




踏み出すか、留まるか


『反応しない練習』『大丈夫、あのブッダも家族に悩んだ』などの著作に託した内容が、「社会常識」になってくれるくらいに、広く知ってもらえたらという思いはあります。

今はSNSはやっていませんが、近い将来ネットメディアを活用して、もっと情報発信していく時期が来るような(始めなければいけないような)気もしています。

大きな目でみれば、日本という社会から次第に希望が減りつつある気が(ある程度の年齢を重ねたからかもしれませんが)してなりません。

「心の使い方」という合理的な視点を貫くからこそ、広く受け入れてもらえる余地が広がり、その分、希望を増やすことに貢献できるかもしれないと感じています。

ただ、現時点では、ネットメディア(SNS:Y○○T○○○も含む)に出ていく心の準備ができていません・・・。

こうした媒体ではたしてどこまで伝わるのか。時間潰しに使われるだけではないか(お気軽に視聴できるだけに、お気軽な範囲でしか心に残らない)と思わなくもなく、

でもそうした傾向はあるとしても、ならば軽い範囲で届く内容を伝えればいいのではないか、伝わらない(伝えない)より、伝わる可能性があるほうが、よいのではないか、

こうしたメディアを通してでないと伝わらない、出会えない、でも受け止めてくれる人たちもいるのではないか、という思いもあります。

特に思うのは、毎日仕事に追われているであろう勤め人の人たちとか、遠い場所でひっそり暮らしている人たちとか。

そうした人たちに届く、伝わる、出会えるという純粋な価値だけ作れるのなら、やってみる意味はあるかなと思わなくもありません。
 

この点は、ずっと考え続けてきたけれども、まだ答えは出ていません(ずっと思春期(笑)?)。


もし踏み出すなら、みんな幸せになって(なろうよ)、元気出そうよ、という思い全開で、つまりはもとのキャラを全開にして届けたいと思っていますが、そんな動機が通用するような世界なのかどうか・・。






こんな感じ?(『人生をスッキリ整えるノート』家の光協会から)




2024年11月中旬

ブディズムの可能性


いや、この一週間はたいへんだった。いわゆるテンパるという状態が続いていた。

『反応しない練習』のコンテンツを講演用のスライドにしていたのだ。引くべき文章はそのまま引き、関連する仏典の引用やパーリ語の解説や本文注釈、最新の話題、仏教以外の関連図書(社会学・経済学・心理学等)のリストや、未公開原稿を付けたりして。

名づけて、『反応しない練習 The Upgrade』。

スライドだが、百ページ近くになった。今後さらに膨らませていくから、最終的にはもっと増える。

徹夜が続いたが、やっと終わった。そして成果を活かす機会が、さっそく完成当日にあった。

『反応しない練習』を解説し、実際に体験してもらう講演会だ。

講演というのは生ものだから、本の活字よりは、伝わる情報量や表現の正確度は落ちる気はしている。だがライブで直接伝えることには、正確さとは違う価値があるらしい。

(考えてみたら、アーティストの音楽も、スタジオ収録とライブ・コンサートは、伝わるものが違う。前者が作品としてのクオリティを上げることをめざす半面、後者は、目の前の観衆にダイレクトに伝える、まさに訴えることをめざす。ライブのほうが圧倒的に声に迫力があったり深みを感じたりすることがよくある(だから泣く観衆も出てくる)のは、それだけ送り手・受け手の心が激しく動いているからだろう。まさにライブだから伝わるものがあるのだ。)


今回は、50ページを超える本に近いスライド資料も用意したから、それなりに価値のあるコンテンツを作れたような気がしなくもない。「読む講演」的な。


『反応しない練習』『大丈夫、あのブッダも家族に悩んだ』『怒る技法』は、現代社会を生き抜くうえで欠かせないスキルを集めた3部作だ。

これらの作品は、今を生きていくうえで不可欠。だが、ほとんどの人は知らない。合理的な心の使い方、業(ごう)、そして正しい怒り方について(※怒ってはいけないなんていうムリな発想は卒業してくださいw)。

これらを知っているかどうかで、人生はまったく変わってくる。本当は、企業に入った最初の時点で学んでおくべき内容が含まれている。

きちんと読んでもらえば、人生に見通しがつくようになる。ラクに生きられるようになるだろう。そうあってほしいと願う。


一人一人の人間は、広い世界の歯車に過ぎないかもしれない。だが、それぞれが小さな役割を果たすことで、この大きな世界が回っている。

どんな仕事であっても、その人が元気に働いている。それが、社会にとってどれほど大切なことか。

だから、一人として欠けてほしくない。働ける人は、働ける限り働いてほしい。元気に、幸せに。

そういう人としての思いをこめてお伝えして帰ってきた。充実した一日だった。


一人打ち上げとして外食しようと思ったが、いつの間にか値段がグンと上がっていた。久しぶりに(?)スーパーに行ったら、お米だけでなく、いろんなものが高くなっていた。値上げぶりが容赦ない。もはや隠そうともしなくなったようだ。

収入が連動して上がるわけではないから、急に暮らしが厳しくなったと感じる人は多かろう。さながら不意に水位が上がって溺れかけるかのような気分か。

そんな時勢に〇〇党は、ろくでもないことをやっている。あの党は壊れている。だから国を滅茶苦茶にしてしまっているのだ。任せていたら、ますます国を壊して復旧可能になるぞ。ガチで終わらせないとダメだ。この国全体を覆う閉塞感と為政者の絶望的な愚昧さは、この国は過去何度か体験しているはずだが、はてこの先変わる機運は高まってくるのだろうか。


これでようやく休めると思ったら、新聞連載のイラスト描きが残っていた。また徹夜か・・。

でも久しぶりに、集中を継続できた。働いたという実感を思い出した(笑)。

そろそろ本の執筆でも、この継続モードを起動せねばなるまい。



2024・11・13

離婚記念日のススメ

(決断であり、卒業した女性たちへの素直な祝福の記・・)
 
 
今日は、おめでたいことが2回続きました。

その2回とも、内容は限りなく近いものでした。

離婚して、自分の人生に踏み出すことを決意したという女性からの報告でした。

しかも新しい部屋を借りて自分だけの生活をまもなく始めることも、共通していました。


いや、すばらしいというか、おめでとうというか、よくがんばりましたね(祝)というか。


結婚生活を続けてきた背景は若干違いますが、今回の栄えある決断をした相手(夫側)には、共通項があったのです。

どちらも、やはり一言で言うなら「慢の人」だったという。

男という生き物は(と一応男に分類される私がいうのも妙ですが)、慢の生き物であることが多いものです。

それは、男の側が、同じく慢の生き物である父親から学んだ(刷り込まれた)部分もあるだろうし、

母親に甘やかされて慢を育てていった部分もあるだろうし、

生物学的性に由来する部分もあるかもしれません(攻撃性から来る慢。育てる本能を持つ生物学的女性とは異質のもの)。

最初の段階では、その慢はあまり表に出てこなかったとしても、女性の側が合わせたり、そもそも女性が逆らえない性格だったりして、

そういう「一歩下がる」「一段下に立つ」女性の姿を見て、男性(夫)側の潜在的慢が刺激されて、「こいつの上にオレは立って(君臨して)いいんじゃないか?」と思うようになってきて、

こうした潜在意識レベルのやり取りが積み重なっていくと、いつの間にか、男(夫)が完全に上で、女(妻)が完全に下、という関係性にたどり着いている、ということが、頻繁に起こるものなのです。


慢で固まった老いた男という生き物は、共通して、視野が狭く、自己中心的、独善的で、ケチ臭い。

しかも女性(妻)を、絶句レベルで見下し、モノ扱い(私有物)扱いする。

さらにこうした男に共通するのは、中身が空っぽということ。仕事くらいは真面目にやる男もいるけれど、総じて家の中では何もしない。あるいは、妻の領域を脅かすようなふるまいをする。
 
つまりは口うるさく干渉し、やりたいようにやりたがり、妻がやることは(自分のやり方と違うという判断をもって)否定したり、干渉したり、「教育」しようとしたりする。

妻は奴隷か、人形か、ペットか・・言葉にするととんでもないけれども、それくらい妻が人間であるということが見えない。わからない人間。


こうした男は、妻が言い返してくるということを想定していない。妻が反論すると、生意気とか、素直じゃないとか、性根が曲がっているとか、心を持った人間だということさえ認めないような物言いをしてくる。まさに何サマ?と思わざるを得ない言いざま。

その心理には、自分の都合しか見えていない。自分が完全であり、支配者であり、主人である。

対する妻(と「オレが認めてやった女」)は、不完全であり、従順であるべき奴隷であり、奉公人である。「なにしろ養ってやっているんだから」みたいな思い上がりを本気で持っていたりする。

こうした思いを、男は無自覚のうちにやっている(問題だと思っていない)。
 
無自覚だからこそ、本音・本心がポロポロとこぼれ出てくる。
 

女性は次第に、自分が対等な人間扱いされていなかったことに気づき始める。

本当はもっと早くに気づいてもよかったかもしれないけれど、こちらの心にもいろんな課題があって混乱してもいたから、気づけなかった。

でもようやく見えるようになった・・・で、見えたから決断して、行動に移した。離婚、そして脱出。


そういう女性が複数いたのが、今日という日。
 
3連休最後の祝日は、離婚(報告)記念日だったのです。


別れて生きること(離婚)を持ち出した時の、慢の生き物(夫側)の反応は、2タイプあるような気がします。

1つは、何を言っても無駄だというあきらめに立つタイプ。もともと他人だから・・と切り替えてしまう。つまりはそれくらい、実は最初から別の目で見ていた(見下していた・身勝手だった)かもしれないタイプ。

もう1つは、このオレ様に別れを切り出すとは生意気な、許せない、と根に持つタイプ。こちらのほうが多いかも。

こうした人は、過去の財産をどうするかなど、お金のことを言い始める。「損したくない(オレのものだ)」というのが、その本音。

前者のタイプなら、ラッキーと言えなくもない。こちらの執着を手放しさえすればいいのだから。あとは自分の人生を生きるのみ。

後者のタイプなら、脱出まで、もうひと苦労が必要。離婚後の人生のために、守るべきものは守らなければ。そのための作戦を練らなければいけない(ぜんぶ手放しても生きていけるという状況にある女性なら、出ていくだけでいいけれど)。


新しい人生に踏み出す女性が知っておきたい真実をいくつか:

◆長く続いた相手・生活から脱出することは、変化を嫌う心にとっては、それ自体が未知の挑戦であり、恐く、荷が重く、憂鬱で、不安を誘うもの。

でも、それは通過儀礼みたいなもので、避けては通れないが、一日一日を重ねていけば、次第に慣れていってしまう程度のもの。


◆失った時間は、喪失(間違っていた、無駄だった)に見えるかもしれないが、これは心が「そう見せる」もの(いわば錯覚)にすぎない。
 
心は過去に価値を見たくなる。意味があった、頑張った、報われた・・・と思いたがる。

そうした思いを通してみるからこそ、過去は意味がなかったように見える。だが、過去そのものは妄想だから、意味があってもなくても、実は大差ない。

大事なことは、この先の新しい時間をどう生きるか、だ。


◆女性によっては、恐くて足がすくむ・・・といった心理に駆られるかもしれないけれど、住む場所と仕事(生計の手段)があるなら、いずれ必ず新しい生活になじんでいく。

と同時に、自分のために使える時間が増えていく。もう誰にも支配されず、気兼ねすることなく、自分の毎日は自分で選べるようになる。

トータルで見れば、自由が増えて、不自由が消えていくということ。

別れる直前というのは、いわば、久しぶりの長旅に出る直前のようなもの。荷造りがめんどくさいな、やっぱり家にいようかなと思ったりもするが、いざ旅に出て、旅に慣れると、旅の楽しさが入ってくる。

そういうものです。


◆もし新しい自由な人生に足がすくむ思いがする女性がいたら、

いったん目を閉じて、自分のためらいや怯えを自覚して、

「この足を踏み出すんだな、恐いな」と思いつつ、

目を閉じたまま、実際に一歩踏み出してみよう。
 

あら、しっかり足がつく! ことを確認する。そう、それが本当の現実。

 
足がつくし、歩いていける。地面はどこまでも続いている。そっちが本当。

そのうち歩き慣れると、地面がある(足がつく)ことが当たり前になる。かつて落ちるかも、先がないかもと不安がっていた自分こそが、妄想だったのだとわかるようになる。


不安なく、歩きたい方角に歩いていける。
どこに出かけるも、どんな景色を見るのも、自由。


それが離婚した後に始まる人生です。大丈夫。


ある有名な短歌になぞらえるなら、


自分を生きようと決めたから
〇月〇日は離婚記念日


(自由記念日 のほうがいいかも?)
 


「なぜ似たタイプの人と出会ってしまうのだろう?」と思う人へ

 






2024年11月初旬


マイペースは老化のあらわれ?


出家の独り言――

最近、仕事が遅くなった気がしてならない。

仕事とは本づくり(執筆)のこと。

週イチの新聞連載は確実快調に進めているが(落としたら犯罪級なので、これは当然のこと)、

単行本の執筆となると、なかなか進まなくなった気がしてならない。

(気がするというより、確実にそうなっている・・『これも修行のうち」』と『大丈夫、あのブッダも家族に悩んだ』は、『反応しない練習』の翌年にほぼ同時期に上梓したのに・・客観的に見ても、あの2作は中身の詰まった本だと思う。それを半年以内でほぼ同時に書き上げたのだ。)

仕事のペースが遅れがちなのは、なぜか。執筆以外の雑事が増えてきたのか・・。

正確にいえば、できることなら新しいもの(路線・内容)をという自分に課するハードルと、慎重にという性分はそのままに、いろんな物事が上乗せされてきたからというのが、正しいかもしれない。

本づくりについても、新たな作業が入ってきた。

新しいものをというハードルをクリアするには、「勉強」せねばならない。

ところがこの勉強が、率直に告白して面白いのだ。

映画を観たり、小説を読んだり・・正直、これだけをやり続ける暮らしがあってもいいかもと思ってしまうくらいに楽しい作業ではあるのだ。

(楽しんでいるだけでなく、作品にどう活かすかという視点で、表現の技法や演出の方法や展開の順序を学んだりと、かなり心はせわしなく働かせているのだが)。

だが、こうした作業は、あくまで自己満足にすぎない。いうなれば、自分優先で、出版社・編集者様本位ではない。

自分のことを優先させて、仕事で関わる人たちにもうしばしの猶予を求めてしまう・・というのは、プロの仕事人としては、劣化であり、老化、退化なのだと思う。

自分で配分やペースを選んでしまう、それが許される気がしてしまう・・・このあたりが、物書きの、いや独立自営業者の老化の現れだ。そんな気がしてきた。


本来なら、依頼者(出版社・編集者)様目線で、速攻で書き上げる! 中身も素晴らしい! しかも多くの読者に届く!! というのが、理想なのだろう。そうは承知しているのだが。

わがまま、マイペースは、老化の現れ。これは受け入れてはならない。

もっと速く! おまえならできる! やれ! 急げ!! と鈍亀になりつつあるかもしれない自分に危惧を覚えつつ、ムチを打つ。

(まずは時間割を工夫しよう・・書く日は書くだけにしないとダメだ・・とまずは初歩的な反省から・・)


もっと頑張れよ、自分。



2024年11月1日
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