この世界は妄想の海。誰もが言いたいことを言い、嘘を本当だといい、本当のことを嘘だという。滅茶苦茶だ。いや、これが世界の現実だ。
真実を決めるのは誰だろう?
自分? 違う。自分に見えるものは、自分にしか見えないから、妄想かもしれない。
自分にとっての真実を、人にとっても真実だとするには、どうするか。
徹底して事実のみを語り、事実を裏付ける証拠をそろえることだ。
証拠、事実、自分にとっての真実――3つがそろってはじめて、自分に見える真実が、人にとっても真実たりうる可能性が出てくる。
真実は人の数だけあるし、自分にとって間違いない真実に見えるとしても、それだけでは足りないから、問題が生じる。
その問題を解決するには、自分以外の人の理解が必要になる。直接には相争う相手。その相手が受け入れないなら第三者。「世間」だ。
諍い・争いに巻き込まれた当事者にできることは、事実と、裏付けとなる証拠をそろえること。そして「真実は人さま(世間)が決めること」という諦念に立つことだ。いさぎよく。
人が往生際悪くなるのは、証拠、事実、真実がつながっていないからだ。
自分は真実と言い張る。だが隠している別の事実がある。
事実っぽく見せている主張がある。だがそれを裏付ける証拠がない。
証拠があれば、事実であると主張することも可能になる。自分にとっての真実が、客観的にも真実だと認めてもらえる(世間が受け止める)可能性も出てくる。
逆に、自分が訴える真実が、事実と異なるか、証拠がないか。その場合は、真実ではなく、「無理」を訴えることになる。
被害を被った側が、無理を訴えざるをえない場合は、苦しい闘いを強いられる。だが証拠があるなら、世間に訴えることも可能になる。自分にとっての真実を、世間を受け入れてくれた時に、本人にとっての真実が社会的真実だったことになる。
たちが悪いのは、逆に害を与えている側、いわゆる加害者が、都合のいい真実だけを一方的に訴え、実はそれは事実ではなく、もちろん証拠もない場合だ。
本当は本人もそうと知っている。だが都合の悪い真実にフタをして、都合のいい真実をさも客観的真実であるかのように言い張って、押し通そうとする。
そういう人間は、嘘をついていることになる。そのうえ誰かに苦しみを与えているなら、苦しみを想像しない欺瞞か、冷酷か、傲慢か、非常識な人間ということになる。
傲慢な人間は、平気で嘘をつく。
未成熟な人間は、都合の悪い事実を認めない。受け入れる強さがない。
自分の都合を守るために、人に責任を転嫁しようとする姑息な人間も存在する。
それぞれが主張する真実が食い違うとき、人は自分にとっての真実を守ろうとするばかりに、事実を隠し、ごまかし、歪曲し、改善して、都合の悪い証拠を隠すか、消すかしようとするが、
これは悪と罪の上塗りであって、正しい選択にならない。悪は悪であり、罪は罪だ。その先に待っているのは、世間における恥だ。
人がまっとうな人間として生きていくには、事実をいさぎよく認める勇気が必要になる。いずれが証拠を持っているにしても、客観的に確認しうる事実こそが、真実かどうかを決めるのだ。
証拠をともなう事実。これが最も確かなもの。ここから離れようとしてはいけない。
事実から離れようとすること――いかなる強弁、屁理屈、嘘、言い逃れ、他責の言葉も、重ねるべきではない。
そうした言葉を謹んで、事実を受け入れることが、その人の誠実さであり、人間としての品格になる。
あやまちは詫びるしかないのだ。そして事実を受け入れて、事実にもとづいて相応の責任を取ること。法を犯した場合は裁きを受けること。どんな痛みを伴うとしても。
そこまでいけば、悪も罪も解消できる可能性が出てくる。
あやまちを犯した人間は、そこからやり直すしかないのだ。
2024年11月末