今日は、おめでたいことが2回続きました。
その2回とも、内容は限りなく近いものでした。
離婚して、自分の人生に踏み出すことを決意したという女性からの報告でした。
しかも新しい部屋を借りて自分だけの生活をまもなく始めることも、共通していました。
いや、すばらしいというか、おめでとうというか、よくがんばりましたね(祝)というか。
結婚生活を続けてきた背景は若干違いますが、今回の栄えある決断をした相手(夫側)には、共通項があったのです。
どちらも、やはり一言で言うなら「慢の人」だったという。
男という生き物は(と一応男に分類される私がいうのも妙ですが)、慢の生き物であることが多いものです。
それは、男の側が、同じく慢の生き物である父親から学んだ(刷り込まれた)部分もあるだろうし、
母親に甘やかされて慢を育てていった部分もあるだろうし、
生物学的性に由来する部分もあるかもしれません(攻撃性から来る慢。育てる本能を持つ生物学的女性とは異質のもの)。
最初の段階では、その慢はあまり表に出てこなかったとしても、女性の側が合わせたり、そもそも女性が逆らえない性格だったりして、
そういう「一歩下がる」「一段下に立つ」女性の姿を見て、男性(夫)側の潜在的慢が刺激されて、「こいつの上にオレは立って(君臨して)いいんじゃないか?」と思うようになってきて、
こうした潜在意識レベルのやり取りが積み重なっていくと、いつの間にか、男(夫)が完全に上で、女(妻)が完全に下、という関係性にたどり着いている、ということが、頻繁に起こるものなのです。
慢で固まった老いた男という生き物は、共通して、視野が狭く、自己中心的、独善的で、ケチ臭い。
しかも女性(妻)を、絶句レベルで見下し、モノ扱い(私有物)扱いする。
さらにこうした男に共通するのは、中身が空っぽということ。仕事くらいは真面目にやる男もいるけれど、総じて家の中では何もしない。あるいは、妻の領域を脅かすようなふるまいをする。
つまりは口うるさく干渉し、やりたいようにやりたがり、妻がやることは(自分のやり方と違うという判断をもって)否定したり、干渉したり、「教育」しようとしたりする。
妻は奴隷か、人形か、ペットか・・言葉にするととんでもないけれども、それくらい妻が人間であるということが見えない。わからない人間。
こうした男は、妻が言い返してくるということを想定していない。妻が反論すると、生意気とか、素直じゃないとか、性根が曲がっているとか、心を持った人間だということさえ認めないような物言いをしてくる。まさに何サマ?と思わざるを得ない言いざま。
その心理には、自分の都合しか見えていない。自分が完全であり、支配者であり、主人である。
対する妻(と「オレが認めてやった女」)は、不完全であり、従順であるべき奴隷であり、奉公人である。「なにしろ養ってやっているんだから」みたいな思い上がりを本気で持っていたりする。
こうした思いを、男は無自覚のうちにやっている(問題だと思っていない)。
無自覚だからこそ、本音・本心がポロポロとこぼれ出てくる。
女性は次第に、自分が対等な人間扱いされていなかったことに気づき始める。
本当はもっと早くに気づいてもよかったかもしれないけれど、こちらの心にもいろんな課題があって混乱してもいたから、気づけなかった。
でもようやく見えるようになった・・・で、見えたから決断して、行動に移した。離婚、そして脱出。
そういう女性が複数いたのが、今日という日。
3連休最後の祝日は、離婚(報告)記念日だったのです。
別れて生きること(離婚)を持ち出した時の、慢の生き物(夫側)の反応は、2タイプあるような気がします。
1つは、何を言っても無駄だというあきらめに立つタイプ。もともと他人だから・・と切り替えてしまう。つまりはそれくらい、実は最初から別の目で見ていた(見下していた・身勝手だった)かもしれないタイプ。
もう1つは、このオレ様に別れを切り出すとは生意気な、許せない、と根に持つタイプ。こちらのほうが多いかも。
こうした人は、過去の財産をどうするかなど、お金のことを言い始める。「損したくない(オレのものだ)」というのが、その本音。
前者のタイプなら、ラッキーと言えなくもない。こちらの執着を手放しさえすればいいのだから。あとは自分の人生を生きるのみ。
後者のタイプなら、脱出まで、もうひと苦労が必要。離婚後の人生のために、守るべきものは守らなければ。そのための作戦を練らなければいけない(ぜんぶ手放しても生きていけるという状況にある女性なら、出ていくだけでいいけれど)。
新しい人生に踏み出す女性が知っておきたい真実をいくつか:
◆長く続いた相手・生活から脱出することは、変化を嫌う心にとっては、それ自体が未知の挑戦であり、恐く、荷が重く、憂鬱で、不安を誘うもの。
でも、それは通過儀礼みたいなもので、避けては通れないが、一日一日を重ねていけば、次第に慣れていってしまう程度のもの。
◆失った時間は、喪失(間違っていた、無駄だった)に見えるかもしれないが、これは心が「そう見せる」もの(いわば錯覚)にすぎない。
心は過去に価値を見たくなる。意味があった、頑張った、報われた・・・と思いたがる。
そうした思いを通してみるからこそ、過去は意味がなかったように見える。だが、過去そのものは妄想だから、意味があってもなくても、実は大差ない。
大事なことは、この先の新しい時間をどう生きるか、だ。
◆女性によっては、恐くて足がすくむ・・・といった心理に駆られるかもしれないけれど、住む場所と仕事(生計の手段)があるなら、いずれ必ず新しい生活になじんでいく。
と同時に、自分のために使える時間が増えていく。もう誰にも支配されず、気兼ねすることなく、自分の毎日は自分で選べるようになる。
トータルで見れば、自由が増えて、不自由が消えていくということ。
別れる直前というのは、いわば、久しぶりの長旅に出る直前のようなもの。荷造りがめんどくさいな、やっぱり家にいようかなと思ったりもするが、いざ旅に出て、旅に慣れると、旅の楽しさが入ってくる。
そういうものです。
◆もし新しい自由な人生に足がすくむ思いがする女性がいたら、
いったん目を閉じて、自分のためらいや怯えを自覚して、
「この足を踏み出すんだな、恐いな」と思いつつ、
目を閉じたまま、実際に一歩踏み出してみよう。
あら、しっかり足がつく! ことを確認する。そう、それが本当の現実。
足がつくし、歩いていける。地面はどこまでも続いている。そっちが本当。
そのうち歩き慣れると、地面がある(足がつく)ことが当たり前になる。かつて落ちるかも、先がないかもと不安がっていた自分こそが、妄想だったのだとわかるようになる。
不安なく、歩きたい方角に歩いていける。
どこに出かけるも、どんな景色を見るのも、自由。
それが離婚した後に始まる人生です。大丈夫。
ある有名な短歌になぞらえるなら、
自分を生きようと決めたから
〇月〇日は離婚記念日
(自由記念日 のほうがいいかも?)