たぶんもうひとつの根の深い問題は、
事実は何か(まだ解明されていない、それだけの客観的な資料・材料がそろっていない)ということを忘れてしまっていることにあるように思います。
いつの間にか事実が置き去りにされて、それぞれの「こう思う(こうに違いない)」という推測・仮説・期待・希望のほうが真実であるかのように見え始めてしまっている。
「主観」と呼ばれるもの。オールドメディアと揶揄されるに至った媒体にも、SNSにも、それはある。
一番危ういのは、それぞれが「主観」しか見なくなっていることかもしれません。主観だけを選び、語り、発信し、「きっとそうなのだろう、そうに違いない」という主観が増えていく。
そしてもうひとつの問題は、時間という大事な視点が、その場の主観にとって代わられつつあること。時間とは、時系列や文脈ともいえるもの。
過去の出来事(これも事実を通してとらえないといけないものだけれど)と並べて、つなげて、どこがどう変わったのか、あるいは一貫しているのかを考えること。
そうすれば、矛盾、変容、嘘、あるいは確かな変化、反省、成長かということも、見きわめることが可能になる。
もし人それぞれが、個人的に選ぶ主観と、こうかもしれない、きっとそうなんだという妄想だけで今を切り取って、それを真実だと判断するようになれば、過去とのつながり・文脈という視点は切り落とされてしまう。
そうなると、過去をすぐ忘れる。すると嘘や矛盾にも気づかなくなる。善は簡単に悪に、悪は簡単に善に変わって見せることが可能になる。
結果的に、真実も見えなくなる。
「事実」と「時間」の二つは、真実を浮かび上がらせるうえで欠かせないもの。
その二つが、どうやら、どの立場においても危うくなりつつある――というのが、本当は最も目を凝らさねばならないところなのだろうと思います。
ただ、事実と時間を置き去りにして、都合の良い主観のみを切り取って大々的に流すということは、もしかしたらテレビや新聞というマスメディアから始めてしまったことかもしれず、
彼らが信頼を回復するためには、事実と時間を通して真実を浮き彫りにするという知力(過去、取材力、分析力、公平な報道と言われてきたもの)を、
理屈ではなく、実際に発信する情報の中身によって示すことが必要になるはずです。
その努力ができるかどうか。できない、しなくていいというなら、凋落と不信(影響力および売り上げの低下)は避けられない――そういう状況なのかもしれません。
社会という大きな器にとって、「時間」を忘れた「主観」だけの言説は、さすがに危うさを秘めているだろうとは思います。
何が嘘で何が真実かわからなくなる。「主観」がつながりあって大きな「主観」を作る一方で、別の「主観」も同じような動きをする。
主観だけなら、分断が生まれます。社会においては分断であり、個人においては孤立と対立です。
主観は価値を持つのだけれど(大切なのだけれど)、主観だけじゃ足りないのです。
社会という共通の器を未来につなげるためには。
すべての人は社会という器の中で生きることになるのだから。
※補足ですが、時間を忘れた主観だけの発信は、マスメディアのほうこそ顕著なのかもしれません。その影響力の大きさも考えれば、なおさらそう思います。
SNSにおける主観は、案外、時間(時系列)を精査して事実を掘りこそうという努力が見えることもあります。
ジャーナリズムの役割を、SNS上の私人・市民がやっている・・。
そうした点を見ると、いっそうマスメディアの価値は相対化して(揺らいで)くることも真実です。
2024・11・18