考えてみたら、学校の勉強を真面目にやれば志望校に近づける・・というノー天気な発想を持っている中高生は、今の時代も多いのかもしれません。
そういう人たちは、2、3年生になって、そろそろ受験だ~という周囲の雰囲気を感じてようやく「勉強しなきゃ」という気になって、
塾や予備校に通うのだけど、結局ゴールを見ていないから、真面目に通うしお金もかけるのだけど、「見切った」(これをやれば受かるという見きわめ)レベルに到達する前に、受験本番を迎えて、
運が良ければ受かるし、運が悪ければ落ちる――「やったー」(前者)「残念だったね」(後者)という感想をもって、それぞれの進路に進んでいく・・というパターンが多い気がします。
こういうのは、「通過儀礼」としての受験であって、「狙って確実に突破する」受験とは違います。
正直、もったいないと思います。そもそも学校と受験は、まったく別の世界だから。二つは連続していない。受験は独自の世界。学校の勉強とは別物。
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今考えてみると(記憶を検索・・・)、超進学校の勉強が得意な生徒は、学校の勉強はほどほどで、受験を見据えた勉強は、別のところでしっかり、ちゃっかり、ひっそりやっていたように思います。
彼らはどこか余裕こいてる(笑)。学校の勉強はそこそこ、ほどほど。遊んでいるように見えなくもない(これは地方の進学校より、都会の超進学校に顕著。彼らは受験とはどういうものかが、肌感覚でわかっている・・情報格差か。うーむ)。
でも押さえるべきはしっかり押さえていて、受験直前になってスパートかける。競馬でいう「まくる」感じ? で、あっさり合格していく。なんか憎たらしい(笑)。
冷静に分析すると、彼らは受験を先取りしていたから、そういうことができるのだと思う。中学生だからといって、中学の教科書や参考書を使ったりしない。先取りして、高校の参考書を使っていたりする。高校になったら、大学受験参考書。浪人生が使うのと同じ本。
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数Ⅰ・数Ⅱみたいな不自然な分類が、数学の世界にないことも知っていた。彼らは「ベクトル」とか「代数」とか、そういう体系別の(先取りした)本を使っていた。
「難しそう」と思うのは、学校の勉強というトリック・罠にかかっているから。実は先取りしたほうが、よくわかる。そういうもの。
受験は、下から(学生や学校の先生から)見れば「受験」なのだけど、出題する大学の先生から見れば、ふだんやっている「学問の棚卸」(たなおろし)みたいなもの。日頃やっている研究や関心を「問題」という形に変えて、受験生向けに聞いている。
だから受験の成功を決めるのは、終わりから、ゴールから、上から見ること。
英語も国語も歴史や自然科学や数学も、「学年」「学校」という不自然な枠を取っ払ってみたら、それぞれの科目・分野を貫く手順や知識というものがある。
※ちなみに昔、私がやっていた寺子屋では、中2男子が東大の現代文をフツーに解いて正解を出していた。特に優等生というわけでもないフツーの子。ある程度文章を読める力があれば、あとは「論理的な読み方」をマネれば、学年を問わず問題は解けるということ。共通一次も二次も同じ。
どの科目にも、学年を越えた「本質」とでもいえるものがある。その一端が試されるのが、入試。というか前者が本質であって、後者(入試)は人為的・制度的な区切りでしかない。
本質部分は変わらない。入試制度がどんな改正・改悪を重ねようと、学ぶべき本当の対象は「本質」部分だ。
本質は、目先の勉強ではなく、目線を上げて、もっと先のゴールを見据えた方が、よく見える。
入試は、「下から」見上げずに、「上から」見下ろしてしまうこと。先取りしちゃう。中学生・高校生なら、大学受験用の参考書や問題集を使いつつ、「上から目線で」学校の勉強にも「お付き合いしてあげる」w。
「難しそう」と思わないでほしい。先取りするという発想が身に着けば、学校の勉強は簡単に見えてくる。簡単に見えるような勉強の仕方を始めよう。
他にもいくらでもアドバイスはできる。来年夏には寺子屋が完成するから、最初は志望校が決まった中高生相手に、とっておきの受験指南、いわば秘儀を伝授しようかと勝手に思っていますw。
2024年11月下旬