人生を選ぶとは、手にしたものを何に使うかを選ぶことだ。
何を考え、何を語り、何を行動するか。時間を、お金を、何に使うか。
たいていは、自分が最初に思いつくこと、衝動、欲求、願望、都合、打算計算で選ぼうとするのかもしれない。
だが、仏教を知ると、別の考え方をするようになる。
手にしたものを、自分以外の誰かのため、世界のため、未来のために使う――という発想が入ってくる。
自分を越えた価値のために、手にしたものを何に使うか、を選ぶ。
今進めている「寺子屋」は、半世紀以上生きてようやくさずかったものを活かそうという試みだ。
いつも考えるのは、この場所は誰のためか?ということ。
自分のためでは、あきらかにない。自分の寿命(時間)なんて、そう長くはないのだから。
人はあっという間にいなくなる。私も同じだ。
だから、自分のためというより、自分の後に残る家のため。
未来に残るのは、自分ではなく家のほうだから。
では家は誰のためかといえば、その土地のため、その土地の未来に生きる人たちのためということになる。
土地にとって、未来にとって価値あるものを残せるかもしれない――そうした思いこそが、家づくりという冒険を引き受ける理由になる。
人生は短いからこそ、人生を越えた価値を見据えて生きることなのだろうと思う。
それがはたして可能かどうか、
今のところ、不可能ではないという場所にいる。可能かもしれないという地点に。
人が最後に選ぶのは、希望であり、未来につなごうというポジティブな意志であるべきだ。
そうした、自分を越えた本当に価値ある選択こそが、人生最後の選択肢。
そのことがわかっていれば、正しく生きている――価値あるものを選んで生きているという納得に帰ることができる。
何が人生で大事なことかという道を、見失うことなく生きていける。
2024年11月下旬