親戚の子との向き合い方について
まずは一般論。相手を変えたい・影響を及ぼしたいと思う――
そんなとき、人は言葉か態度を使います。そうして及ぼす影響力のことを、広い意味で「権力」(パワー)と表現します。
これは物理的な暴力や、妄想の押しつけ(圧力)とは違うので、要注意。
自分の思いが届くかどうか。伝えることで、相手の考え方や振る舞いが変わるかどうか。
届く、変わるなら、権力(影響力)を持っている、と表現します。
人間関係、特に大人が子供に関わる場合は、はてどの範囲で、どの程度の権力(影響力)を、どうやって及ぼすか。及ぼしていいのか。
多くの場合、それがテーマになります(権力という表現はあまり穏やかではないけれど、社会学ではよく使われるし、思考を整理する記号としては役に立つので、今回はあえて使ってみます)。
たとえば、自分がおじさん・おばさんの場合。親戚の子供(甥・姪)が学校に行かないとか、ゲームばっかりやっているとか。
そばで見ている大人の自分としては、いいことだと思わない。本人の様子を見ても、決していい状態じゃないように思う。
でも、肝心のその子の親たちは、クセがあったり、無関心だったりと、子供たちになにもしようとしない。
なんか割り切れない、やきもきしてしまう。そんな状況にあるとしましょう。
そんなとき、心あるおじさん・おばさんとしての自分は、どうするか?
結論からいうと、「自分に何ができるだろう?」と考えて、「使える範囲で上手に権力(持っているもの)を使う」ことになります。
子供に最も権力を持っているのは、親です。お金を出さない。真剣に叱る。あるいは、じっくり話を聞いて、考える時間を与えて、一定の時間が経った後に、何を体験したか、何を考えるか、今後どうするかを、よく聞いて、親の側の思いも伝える。
これはプラスになる権力の使い方。大事です。
親ならば、子供との距離は選べます。その選び方があまりに下手というか、考えていない親も多いことが、今の世の中の問題の一端でもあります。
他方、最も権力がないのが、公立校の先生や塾の教師かもしれません。子供への影響力が限られている。学校の先生なら業務に追われてそもそも一人一人の生徒をフォローする余裕がなかったり、制約が多すぎたりする(義務教育というイケスの中でしか動けない)。塾なら、生徒はお客さん。辞められたら困るし。生徒からの評価・評判を落とせないし。
では、親戚の子を憂うおじさん・おばさんはどうか。
子供といい関係を築けているなら、会話の中で自分の思いを伝えることも可能です。だから、まずは子供との関係作りがテーマになります。
他方、それほどの関係が育っていない場合は? その場合は、自分が権力(影響力)を持てる範囲を確認することになります。
一番わかりやすい権力の発動どころは、お年玉・お小遣いをあげるとき。その時に話をするか、交換条件としてこちらの思いを伝えるか。
もちろんそれが届くかどうかは、子供次第。「うざい」と思われて終わるかもしれない。そうした関係性においては、権力はゼロということになる。
自分の直接の子供ではない子供に、自分の思いを伝えるには、それなりの関わりが育っていること、あるいは権力を持っている必要がある。
わかりやすい例を挙げれば、
「話ができない(伝わらない)なら、与えない」
「あれを頑張ったら、これをあげる」という権力。
わかりやすい。ドライすぎて戸惑う人もいるかもしれないけれど。
もし親戚の子供がゲームばっかりやっていて、はたから見てマズイなと思ったら、本人にどう思っているのか直接聞いてみることから始めて、「〇〇ができたら(努力できるなら)、おこづかい・お年玉をあげる」という話に持って行く。
達成できなければ、自分としては何もしない。与えない。それが自分にできる最低限の権力行使ということになる。
◇
えてして親戚の子については、おじさん・おばさんは権力ゼロのことが多い。
特に、親がその子をスポイル(ダメに)している場合。無関心、甘やかし、将来について無計画。中には、子供には自分を越えてほしくない、自分の支配下に置いておきたいという、子供の足を引っ張る毒親(蜘蛛親と呼ぶべきか)も、たまにいる。
親がこういう人だと、子供は、社会も未来も人生も何もわからない段階で、「何をやってもいい」という状況に置かれてしまう。そこにスマホ、ゲームなどがあれば、あっという間に染まってしまう。「依存」レベルに達すれば、勉強どころではなく、学校にも行けなくなり、脳が、未来が、壊れる。
こういう親子・家庭も、今はものすごく増えている。
残念ながら、こうした家については、心あるおじさん・おばさんの権力はゼロ。ほぼ何もできません。
唯一の権力である(という言葉自体があまりにしょぼくて無粋で悲しいけれど)、お金(おこづかい・お年玉)さえ、親がザルなら、子供にあげても無意味。ドブに捨てるようなもの。
そのときは、いったん権力を行使しない――つまり何も与えず、何もしないことが唯一の正解になる。「本当に今のままでいいのかい?」と、ラストチャンスで声をかけるくらいは可能かもしれないけれど。
もし誰かが、中学生くらいの甥っ子・姪っ子におこづかいやら進学祝いやらのお金をあげてしまって、それをゲーム課金に使われてしまうようなことがあったら、
それは、その人が「負けた」ことを意味します。ムダなことをしてしまった。あるいは、唯一権力を行使できる機会をうまく活かせなかった。
本来は、自分の思いをその子に伝えて、せめて交換条件を提示する。そこまでが自分にできること。
伝わらない、聞かない、交換条件を受け入れない――というなら、権力を行使しない。与えない。
自分にできるのは、そこまでです。
◇
親であれ、先生であれ、その他の大人であれ、自分の手が届く(影響力を行使できる)範囲で、適切に権力(いい意味ですよ)を使う訓練を積むことです。
気兼ねしたり、言葉が出なかったり、相手のご機嫌をうかがったりして、権力をうまく使い損ねた時は、自分の負け。まだまだ力不足(智慧と覚悟が足りない)ということです。
子供になくて、大人にあるのは、体力だったり、言葉だったり、お金だったり、智慧だったり、体験だったりします。いろんな権力の源泉がある。うまく使えば、プラスの影響力を行使できる。
それをうまく使える大人を目指すこと。
力が及ばないことには、ヤキモキしない。相手と自分は違う人間なのだから。妄想を広げない。
でも力を及ぼせる限りは、子供の状況を理解し、将来のことも想像して、どうしたいのか、どうするつもりなのか、このままでいいのか、
子供の立場に立って、子供自身にまだ見えていない部分のことも考えながら、
でも押しつけるのではなく、理解者であろうと意識して、なおかつ毅然と向き合う――という自分をめざすことになります。
大人が子供に向ける思いには、執着も、慈しみも、慢も、妄想も、混じるものです。距離が近い関係性なら、なおさらです。大人の側の思いをきれいに区別する必要はないし、できない可能性のほうが高いものです。
むしろ、自分が権力を行使できる範囲--まだ言葉が届く、影響力を及ぼせる範囲を明確にして、
そうした範囲(立場)に自分がまだいる間に、
自分なりのベストを尽くす――子供の将来にとって何が価値あることかについて、自分なりに答えを出す、伝わる範囲で伝えようと努力する。
大人として関わることは、その繰り返しであり、それだけでよいのだろうと思います。
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