SNS vs. オールドメディア


今日の講座(栄中日文化センター2024年11月)では、SNSとオールドメディアについて話をした。


必要なのは、<事実>と<主観>と<知見>という3つの視点。

<事実>  調査・分析・裏付けが必要――マスメディアに期待されてきた取材力。

<主観>(自分はこう思う・こうに違いないという意見)――人の数だけ存在する。歯止めはかけられない。SNSという便利な道具ができれば、それぞれの<主観>が語られることは当然。

多くの<主観>が並び立つ状態は、プラスの価値を持ちうる。自由。公平。多角的。そもそもマスメディアはこうした企業倫理を持つべきものとされている(されていた?)。

<事実>と<主観>をどう見るか――<知見>が大事になる。専門的な知見を<専門知>と呼び、人々が共有できる全体の利益についての知見を<公共知>と呼ぶ。

これは個人の<主観>を越えた、全体に通じる利益・価値につながるものでなければならない。

<事実>を掘り下げ、多様な<主観>を並べたうえで、どのように見ればいいかを、「全体の利益につながる」ことを前提条件として、整理し、提示する。それが<知見>というもの。

そうした力を持つものが、社会的に信頼される情報および言論だ。

信頼されるからこそ、権威にもなる。

独占・寡占・旧態依然による権威ではなく、社会全体の利益に貢献する<知見>を提示することが、権威の源泉になる。


<主観>だけなら、陰謀もゴシップも誹謗中傷も、良心にもとづく訴えさえをも、フラットに並べられてしまう。「私はこう思う、こうに違いない。ゆえに正しい、正しいに決まっている」。そこで思考停止してしまうのが、<主観>の特徴だ。

これは致し方ない部分がある。人間は一つの脳しか持っていないから。


SNS・ネットが信頼を得ることが難しいのは、<主観>だけが並ぶ空間だからだ。<主観>は無限に増えるが、これを<知見>へと昇華させることは難しい。

これを可能にする役割を担う筆頭が、公共放送・報道と呼ばれるものだ。

今やオールドメディアと揶揄されている媒体は、こうした役割を期待されていた。<事実><主観><知見>を示す役割。資本、人材、情報網、調査・分析能力、発信力を持つからこそ、こうした役割を果たすことが可能になる。

断片的な事実だけではなく、さまざまな事実を、調査し、分析し、裏を取って発信する。

多くの主観(自分はこう考える)を、偏ることなく、「公平に」「多角的に」報道する。

さらには、個々の主観にとらわれがちな一般の人々に、事実・主観はこのように見るべきだという<知見>をもって整理する。

その<知見>には、もちろん独自の視点や価値観が含まれることは仕方ないが、それでも「社会全体の利益に奉仕する」という使命を担う前提は一貫している――

それが、マス(大衆)に向けてのメディア、つまり新聞・テレビだとされてきた。


マスメディアがこうした姿を過去どれほど実現していたのかは、冷静に考えるとわからない部分もある。あの戦争当時も、薬害報道も、今回の選挙についても、報道機関・マスメディアは、「本来の姿」からかけ離れていて、偏向、党派対立、イデオロギー、スポンサーへの迎合や忖度、無視や決めつけにとらわれていた可能性はある。

今まではそれしかなかったから、目立たなかった(気づかれなかった)だけなのかもしれない。

だが、今はインターネット・SNSという別の媒体(メディア)がある。これらもまた<事実>の欠落や、偏った<主観>の発信という性質はなくはない(もっとひどい面もある)のだが、


全体を見れば、欠落した<事実>を補い、多角的な<主観>を発信するという機能を果たしつつあるようにも見える。

たしかに社会的価値から程遠い内容も多い。多すぎる。一定の内部手続を経て発信するマスメディアと同じ信頼性を持つことは、全体としてみればまだないし、今後も完全に得ることはないかもしれない。だが、

それでもマスメディア以上に<事実>に迫り、また多くの<主観>の発信に、つまりは公平・多角的な報道・放送に「貢献」している面も出てきている。そうかもしれないとは思う。


SNSを越える信頼性をマス(オールド)メディアが得るには、①<事実>についての調査・分析・取材の力を見せること、②公平で多角的な<主観>を並べて見せること、さらには③どのように見ればいいかという<知見>を掲げる必要があるのだが、

今やマスメディアもまた、都合のいい一部の<事実>を切り取り、偏った<主観>を発信し、専門家・学者・コメンテーターという肩書きを掲げつつも結局は「自分はこう思う」という主観を語るだけ、というレベルに留まるならば、

その情報はSNSと変わらなくなる。これは「敗北」というより、みずからが招いた役割の劣化なのだ。


最も危惧すべきは、マスメディアが、<事実><主観><知見>いずれの面においても、劣化してきたこと。果たすべき機能を果たしていない。

多くの人が、マスメディア(テレビ・新聞)の報道の偏り・不足・独善・退屈をかぎ取り、テレビ離れ・新聞離れという現象を起こしつつあるのは、

こうした機能をみずから果たさなければ(取り戻さねば)という使命感というか矜持というか、マスメディアがマスメディアたりうる根拠を、みずから放棄しつつあるからかもしれない。

 

思えば、コロナ騒動の3年間は、マスメディアの凋落を広く知らしめる出来事だったのかもしれない。人々の不信は、この期間に大幅に増えた気がしなくもない。

さらに危惧すべきは、SNSにせよマスメディアにせよ、価値ある情報とはどういうものか、つまりは<事実><主観><知見>がそろっているか、あるいは、それぞれを構成するどの部分(取材力・分析力・公平性・社会全体の利益への配慮etc.)が欠けているかを指摘する「知力」が欠落しているかもしれないことだ。

こういう部分を示す知力を備えている職業人が、本来の学者・専門家・知識人・思想家であるはずだが、

いつの間にか、だれもが「自分はこう思う」という主観レベルの言葉を語るだけで満足し、罵り合い、結果的に、

社会全体の利益・価値というものを、そろって棄損しているかのような現実が見えなくもない。

<主観>のみを語り、その主観以外の主観を想像することや、まだ見えていない事実を掘り起こすことや、どのように見ることが、社会全体の利益につながるのかという全体を考えない。

全体知の欠落。思考停止。知の劣化――これこそが、最も憂慮すべきことなのかもしれない。


SNSが、マスメディアが拾いきれない、拾おうとしない<事実>を拾い、多くの<主観>を取り上げて、それをもとに人々が考えて動くことを可能にするなら、その点においては、オールドメディアだけだった時代よりは、進歩といっていいかもしれない。

他方、社会全体の利益というものを無視して、事実を捏造・改竄・隠蔽しようとしたり、無責任な主観を一方的に発信して、主観と主観の対立・分断を際限なく増やしたりしていくだけならば、SNSは、社会全体を壊す危険を持ちかねない。

結局は、社会全体にプラスになる価値を増やす方向をめざしてこそ、SNSもオールドメディアも等しく価値を持つ。その方角をめざすべきなのだろうと思う。

 

いずれの側にも課題・問題は山積みなのだが、何が問題で、どこが欠けていて、何を補わなければいけないかという全体像を思い出す必要がある。そのための<事実><主観><知見>だ。3つがそろったメディアこそが、価値のある媒体ということになる。

 

この3つを通して情報の価値を検証する役割を、世に立つ誰かが担ってほしい。

 

ちなみに、事実も主観もうつろいゆくもので、消えてゆくもの、入れ替わるものだ。だが今回お話した<事実><主観><知見>という3つの視点は、メディアが担うべき不可欠の機能であり、時代・社会を問わず通用する、通用させるべき普遍的な知の一つだ。つねにこの3つをもって検証していくことだ。一過性の出来事に騒いで終わりにするのではなく。


こうした普遍的な内容・価値を持ちうる思考を、仏教においては「智慧」と呼び、「ダンマ」と呼ぶ。

もっと智慧が必要だ。こういう話をそれこそSNSで発信すれば価値あるものが生まれるか? そんな話にもなった。



2024・11・19