メディアの方々へ

(あるネットメディアへの返信として)


私は、有名になることは望んでおりません。

全ての仕事(出版・出演)について、”人間の幸福にどれだけ貢献できるか?”を応諾の判断基準としています。

この世界が明日も続く保証はありません。

この世界がいつ滅びるかわからない危うい状況にあります。

そうした状況への危機感と、人間としての正しい生き方を伝えることが、出家である私の役割となります。

メディアへの出演・露出には慎重でありたいと思っております。

仏教は、世俗の価値観とは一線を画しております。

皆様も、営利中心のビジネスとしてではなく、”世界の幸福の総量を増やす”という大きな使命のもとにご活動ください。

その場合は協力できる可能性がございます。

草薙龍瞬謹白

 

 
動機(大きな方向性)を共有できるかどうか。

よき世界を作るために、自分の手が届く範囲で真剣になれるかどうか

真剣でありたいと願っています



2024年3月上旬



自由を知るということ

過去のこと、親だった人たちへの思いも、まさに“執着”です。

許す、許さないという判断さえ不要。

慈しみを向けて自分の中の執着(わだかまり)を無化することも不要。

自分の視界に入れるのも入れないのも、自分次第、自由自在。


それが執着を手放した状態です。


そうすると、心というリソースを、百パーセント、自分にとって価値あるものに使うことができる。

これが、人が本来めざすべき心境です。

自分らしさを知るということ。

本来の自分を取り戻すということです。

 

 

 

2024年3月

心に論理を持つと何が変わるか

(おたよりの抜粋)

実は、おそらく2年ほど前になると思うのですが、ご著書「独学でも東大に行けた超合理的勉強法」を取り寄せ勉強し続けてきました。

特に数学は、論理をみっちり練り上げるというやり方を繰り返してきたおかげで、重度の数学アレルギーだった私が、数学は友達だ!とまで思えるようになったのです。

この本は将来娘が勉強に行き詰まったときに贈りたい本です。
今もすぐ手の伸ばせる位置に置いて、勉強に行き詰まると読んでいます。

自分のいる立ち位置によって、読んで心に響く文章が変わるので、草薙先生の本は息をしている生き物のようです。

この勉強法が院試にも大いに力になってくれました。

「独学でも東大に行けた超合理的勉強法」は、当時もう新書では手に入らなかったので、中古で取り寄せたのですが、なんでこんなに素晴らしい本がもう絶版?されているのか理解できず、中古でも手に入った幸運に感謝しておりました。

まさか先生ご自身が文庫本のお話をお断りして、完全書下ろしで書くと決断されていたのですね。

「客観的には確実に価値を持つのに、主観的には価値がないと判断してしまって、世に出さない――ということになってしまう。いつもこの繰り返し。」とおっしゃっていましたので、先生の本は買えるときに買っておかないとと改めて肝に銘じました。いつも手に入るとは限らないということをお話されていたこともあって、そのとき手元にない先生のご本をア〇〇〇でポチっとしました。

その中の一つ「消えない悩みのお片付け」で知ったタイムバーや純金タイムなどの考え方は「なるほど!」と共感し、実践しています。人生は作業の連続。作業に集中していたら妄想は減る。本当だなと実感しています。


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<興道の里から>

本というのは、本当に難しいのです。『勉強法』の本は、実は昨年(2024年)末に文庫本を出す話がありました。

でも、読み返してみると、筆者としてはウーンと思うことが書いてある・・「今ならこれは書かないな」「今ならこう書くよなあ」というダメ出しが増えてきて、

「やっぱり出しません(完全書下ろしの新刊を書きます!)」とお答えしてしまったのです(で、まだ新刊原稿書いていない・・)。

筆者としては「今ならもっとこう書けるのに」という思いが出てくる。でも作品そのものは、こうして探して手に取って(※筆者としては市場に出回っているものを回収したいのですが、できないために起こること笑)、

読んで役に立ててくれる人がいる(そういう人が少なくないのは事実です。ありがとう)。


つまりは、客観的には確実に価値を持つのに、主観的には価値がないと判断してしまって、世に出さない――ということになってしまう。いつもこの繰り返し(業?)。



数学は、世の中にデキる人たちは数えきれないほどいて・・それこそ歴史マニアと同じく、数学マニアの人たちも数多くいるらしく。

私自身は、小学生の頃は算数が苦手で、独学時代にようやく数学の本質が少し見え始めて、大学受験で数学的思考(とにかく論理でつなぐ、つなぐ・・これ文系的表現ですが笑)の真似事を始めて、

「面白いな、もっとやりたいな」と感じ始めた頃にはもう入試が迫ってきていたので、数学の本質は極めずじまいで終わってしまっています。

ごくたまに「もう一度大学受験しなければ」という夢を見るのですが(18歳に戻っている笑・・ありませんか?)、

「数学やりたい!」と思っている自分が夢の中にいます。数学は楽しいと感じている――何が楽しいか? 論理だけで答えを出す。途中に不純物が混じらない(矛盾や破綻がない、妄想がない笑)。

その美しさゆえのカタルシスは・・そうか、瞑想にすごく似ています(笑)。

瞑想も、自分の心に残っている不純物を取り除くために、①気づいて反応しない、②別の思考を組み立てる――ということをやります。

スッキリするための思考を考える、のです。なるほど、これは数学に近いのかも(今気づいた笑)。

数学的思考と瞑想と本の執筆は、私の中では、ほぼ一つです。本の場合は、書き出し(前提)を考えて、そこから論理でつないでいく。途中に破綻や矛盾が生じないようにする。

読む人の心を煽らない、凹ませない、傷つけないようにと気をつけながら(いわば前提条件)書く。最後は必ず励ましの思いを込める。

数学をやっていなかったら、瞑想も進まなかっただろうし、本も書けなかったと思います。

「わかりやすい」と言ってくれる読者は、論理的思考がもたらすスッキリ感の一端を感じてくださっているのかもしれません。

論理をフンフンとうなずきながら追っているうちに、いつの間にか答えが出ている。「そうか!」という浄化の快を感じている。だとしたら、数学的思考の賜物です。



誰かに向けて書く言葉というのは、本にせよ、研究論文にせよ、この人も言っているとおり、何のために、誰のために、どんな意味・価値を持つのかという、客観的な(他者を意識した)視点が必要になります。

「これは届ける価値のある言葉か?」を自問する。これもひとつのロジックです。

ちなみに世の中に飛び交う言葉が不毛にして殺伐としているのは、価値ある言葉かを吟味するという発想がないからです。思いついたことは、他人にとっても意味があると思い込んでいる。何でも言っていいと思っている。

そうやって守備範囲を外れて発する言葉によって、誰かの物騒なリアクションが返ってきたり、炎上したり、不毛な議論にもならない議論が勃発したりするのです。

しかも、発した自分自身が本当は一番害を被っている。いつも人の目(リアクション)を気にして、余計なことを言って、心無い言葉を浴びて、言わなければ嫌われないのに、言うことを選んでしまうことで自分を嫌う人の数が増えていく――。


「真実かつ有益な言葉のみを語る」という戒律(マイ・ルール)は、その点ですごく大事。

この言葉は人に届くだろうか、どんな価値を持つだろうか?と考えながら、テーマを選び、情報を集めて、整理して分析して、「これを届けたい」と思える内容・結論へと洗練・凝縮させていく。

すると、おのずと響く言葉が生まれてきます。言葉が熱を、力を持ち始める。

他者に届く言葉を繰り出せるようになると、関係性も変わります。関係性を自分で作っていけるようになる。

過去は関係性に支配されてきたかもしれないけれど、これからは関係性を選び、創造し、育てていけるのです。

その人生は、過去とはまったく違います。