本気で叱れる親になれるか

 
子育ては、そんなに難しいことではないはずです・・。「大変」ではあるけれども、「難しい」ことではないはず。というか、難しくしてはいけないし、難しいままにしておいてはいけないものだと思います。

難しいとしたら、どこか勘違いしていると思い直すほうがよいのかもしれません。というのも、

子供の「体験」に同伴して、将来の「自立」まで、そのそばにいる。
 
自立への後押し(必要な支援)をしてあげる。
 
時期(一定の年齢)がきたら、自分で稼いでもらう。そして自分の人生を生きていってもらう。

その時に子供に依存しないように、自分の生活や老後については、自分なりに準備しておく。

老いた親としての自分も自立、子供だった人も自立。それが親子の基本線。

心がけるべきは、「体験」と「自立」です。


体験については、子供のもの。子供が選んでいいもの。

親が期待した反応や結果が返ってこなくても、そこにとらわれてはいけなくて、もし親の側ががっかりしたり、不満に感じることがあったら、「求めすぎているな」と自覚してセーブする。それも基本。

体験したことを、子供が好きと感じるか、嫌いだと思うか、何も残らなかったか、というのは子供の自由。

体験したことが、身に着いたか、その先につながったかというのも、本来は子供の自由。

これは、学校、運動、勉強、遊び・・なんでも同じ。


ただし、体験さえ、めんどくさいとか、何もしたくないと言い出して、そんな状態が長く続いて、「自立」を妨げるおそれがあると思えるような状況にまで至ったら、

そのときは親としては、きちんと話をする必要が出てきます。

「話をする」ということは簡単じゃない。本当は難しくないはずだけど、親の実感としては、やっぱり難しい。

というのも、子供を一人の人間として、自分とは別の人格として、きちんと線を引いたうえで、まずは話を聞く、理解する(裁かず、過剰に反応せず)という心がけが大事になるからです。

今の子供の状況と思い(心の中にあるもの)を、理解しようと努める。

「理解したいと思っている」という立場に立つ。

そのうえで大事なことは、子供の立場(同じ目線)に立って、「自立」について真面目に考えること。

学校に行かないことは選択肢としてアリとしても、自立への準備、つまりは基本的な学びと進学(学びを体験する場所に進む)ことは、考える必要がある。

その準備さえ崩れてしまっている、近い将来の自立さえ決定的に危うくなりつつある・・そんな状況を目の当りにしたら、親としては、「あわてる」ことも「放っておく」ことも正しくなくて、

「よく聞く」(理解しようと努める)という一線は守りながらも、子供の立場に立って、「この先の人生、どうするつもり(今の考えを聞かせて)?」というところは、しっかり伝えていいし、
 
そうした問いから逃げているように見えたら、「待て」と本気で言える覚悟は、必要であるように思います。

子供が、体験することさえイヤがって、生活が不規則になって、学校に行かなくなって、将来への準備もしなくなって、

では何をしているのかと言えば、ゲーム、ネット、動画ばかり・・・というなら、

それは自分を甘やかして、つまりは怠惰を正当化しているだけで、本人はどこにも進んでいない。

そのままでは何も育たなくなる。そのうち動けなくなる。
人と関わることや社会に出ることさえ、めんどくさいことになってしまう――。

そういう可能性が見えた時にどうするか。その時にこそ、親としての役割が問われます。

時代がどんなに変わっても、人間は自分の力で、社会の中で生きていく必要がある。何もしないわけにはいかない。

だから「自立」が遠ざかりつつあるように見え始めたら、どこかで真剣に向き合うことが必要になるのです。

その時には、親として、そして一人の人間として、自分の思いをぶつけてもいい。人間なのだから、関わっているのだから、当たり前。

本人の人生がどんどん危うくなっているのに、何も言わない、怒らない、叱れない親というのは、

結局、自らの関わり(責任)を放棄しているだけで、本当は「ずるい」のかもしれないのです。


「ここまで行ったら、自分の人生が危うくなる」というラインは、本人には見えにくいもの。溺れている人、流されている人、みずからをコントロールする力が弱い人、将来を想像するという発想が乏しい人には、見えにくい。

だが、そうした人の姿を許容してしまったら、その人にとっての判断基準は、「今、自分の気が向くこと」しかなくなってしまって、

体験することよりラクをすること、社会の中で生きることより、自分の世界に引きこもることを、選びがちになってしまう。

そうやって、人生の時間が止まったまま、物理的な時間だけは、十年、二十年と過ぎていく。子供だった人も、気づけば「大人」になっている(少なくない)。


よくある傾向は、そうした人の親というのは、存在感が希薄で、「自分はこう感じている、こう思う」ということをストレートに伝えないこと。

叱れない、怒れない親。そういう親の姿は、怖くもなんともない。子供は、ラクに流されても許されることを「体験」してしまって、「自立」への準備という、体験、学習、成長するための作業が、めんどくさい、しんどいことになってしまう。

社会というのは、自分以外の他者と出会い、関わる場所。

親がその最初の他者であるはずだし、他者にならなければいけないのに、子供からすると親は存在しないに等しい、都合のいい存在になってしまう。つまり他者がいなくなってしまう。

そして家庭は「自分しかいない場所」と化す。

他者とぶつかったり話をしたりして、考える、変わる、自分を律することを少しずつ学んでいく機会が失われて、「自分」と「時間」だけが流れていく。

そして歳月が経って、社会(外の世界)はますます遠くなり、何もできなくなった自分が残って、

中にはそこまで行ってから、「親は何もしてくれなかった」「自分がこうなったのは、親のせいだ」と言い出す”大人”も出てくる。

一面で、その言い分は正しい。そう、親は何もしなかった。向き合おうとしなかった。

子供だった自分は未熟で、弱くて、たしかにだらしなくて、甘えていたのかもしれない。

でも、そういう自分に、親は何も言わなかった。

言わない親より、言ってくれる親のほうが、

だらしなかった自分を叱ってくれる親のほうが、

自分の姿を見て、嫌いなものは嫌いだと言える親のほうが、

そんな親の反応や言葉を聞いて、少しは考える可能性も生まれたかもしれないし、子供にとってはありがたいし、必要だったのに、

親は何もしなかった――。

これが、「体験」と「自立」という、子供にとって欠かせない要素を欠いた場合の結果です。


怒れない親よりは、本気で怒れる親のほうが、

叱れない親より、真剣に叱って見せることができる親のほうが、正しいということです。

もちろん、怒ってばかり、叱ってばかりの親が正しくないことは、言うまでもなく。なぜなら、こうした親は理解していないから。理解しようとしない。こういう親には、子供は苦痛、不満、不信を育てていって、親を信頼しなくなる。今さら親が聞こうとしたって、話しても無駄だと子に思われてしまう。

でも今お伝えしているのは、そういうことではなくて、

「体験」と「自立」という欠かせないテーマがおろそかになっているのに、そのことに気づけない、気づいても真剣に向き合えない、本気で怒れない、叱れない親についてです。


最終的には、

子供が何をしても怒らない(人間として向き合わない)親と、

子供の人生が危ういかもと感じた時には真剣に怒れる親と、

2種類に分かれるような気がします。そう表現しても間違いではないのでは。


自分はいざという時に本気で叱れる親か。本気で向き合う時はいつか。

しっかり考えてゆかねばなりません。




2025年3月