3月16日は朝6時に出発して名古屋へ。今年最初の講座。
3月18日の講座がすぐ満席になったため臨時増設。これも満席。4月からのレギュラー講座も満席(新たな出会いが嬉しい。生きているというのは大きなこと)。新聞連載を見て、という人が多い(印象3割強)。
生きるとは○○することであって、自分とは○○に過ぎない。その当たり前の真実を妄想をもって簡単に超えてしまうから、真実が見えなくなり、人生は途端に難しいものになる。
この理解こそが、すべての命に当てはまる普遍的真理。プラス、社会内に生きる存在としての生き方がある。すなわち十歳未満は○○、十代は○○への○○、二十代は○○○○、三、四十代は○○〇〇、五十代以降は○○をテーマにするという生き方だ。
世の中、生き方をめぐる説はさまざまあるが、これも①普遍的な真実(誰にとっても当てはまる、また誰もが守らねばならないもの)と、②人それぞれに違う主観的真実(信条・価値観・個人的な意見や思想)というものがある。
人間と社会が、なかなか前に進まず、むしろ後退したり混乱したりするのは、この「誰にとっても外せない真実」と「人それぞれであっていい真実」との区別がついていないからだ。みんなが好き勝手なことを考え、その思いつきを主張して終わってしまう。政治的言論も学問的知見もジャーナリズムも、どれも同じだ。人の脳はあまり器用ではない。
だが、本当の思考というのは、「自分はこう思う」の前に、「自分がどう思うか以前に守らねば、保たねばならないもの」を先に置くものなのである。
たとえば、働きたいかどうか、どんな条件の仕事が有利かといった「自分にとって大事なこと」以前に、「働ける人間はまずは働くこと(働くべき・働くことが原則)」というのが、誰にとっても外せない真実だ。なぜなら働かなければ、「社会が」回っていかないから。働くことが、働かない生き方に先立つ。いわば社会を支える下部構造になる。
もちろん「働ける」こと、つまり働くことがその人にとって可能であること、心身の苦痛や負担がその人の限界を越えていないことが、大前提にはなる。
結婚するか、子供を持つかというのも、個人の生き方であり価値観だという見方も真実だが、それに先立つ真実は、子供を育てられる人は育てることが、正解(自然なあり方)だ、なぜなら子供が生まれなければ、未来につながらない(いずれ世界が滅びる)からというのが、正しい思考だ。
これも、「育てられる」こと、つまり子を持ち、育てることが自然にできる(過剰な負担を感じずにできる)ことが、前提になる。
無理を強いることは、社会の成熟ではないし、「かくあるべき」という立場にとらわれることは、社会共通の正解にはならない。
本当は、どんな生き方も尊重されるし、可能である――それがめざすべき社会のあり方だと思うし、近づけることが、社会の成熟であり進歩ということになる。
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今回伝えたかったことは、人はえてして自分の考えを正当化したい、他者にも認めてほしいと願うものだけれど、そうした思いとは別に、自分が今後の生き方を選択するうえで、「自分以外の価値」をも考えることができるか、という点だ。
この世に生きる人たちが、苦しみなく暮らせる社会を作ること。
この世界が、未来にも続いていくことを信じることができること。
そうした価値こそが、本当は自分を越えて、大切なことだ。
そう”自然に”、つまり自分の生き方として、思えるかどうか。