碾き臼 ~『 御上先生』にちなんで 1


この冬は何本か(だけ)TVドラマをフォローしました(日本を離れていたので全回見きれず・・TへT)。
 
その一つが、日曜劇場『御上先生』。

いろんなテーマが広く取り上げられていた。日本社会の闇、というより陰。見ようと思えば見えるのだけど、光が当たらず忘れられがちに。結果的に社会全体を覆う思考停止の一要因になってしまっている部分。
 
このドラマは、それぞれのテーマを「知ってもらう」ことを意図して作られたのだと感じた。答えを出すのではなく、問題を知ってもらって、それこそ「考えて」もらおうという。
裏口入学のラストエピソードは、ドラマであるがゆえの(こうしないと1クールにわたるドラマにならない)致し方ない設定でもあったんじゃないかな。本当に伝えたいことは、セリフで語らせていた(特に最終回)。

 
御上先生の言葉を受けて、こんなことを「考えて」みた――。
 
教科書検定問題は、古いテーマでもあり、最新のテーマでもある。家永教科書訴訟は60年代から(もう半世紀以上前だ。びっくり)から、奈良教育大付属小の授業問題まで(2024年3月、ちょうど一年前。もう陰になってしまっている)。

後者では、国語の書写で毛筆を使わなかったという程度のことで(他にも理由らしきものは言われているけれど)、学長・校長・教員らが懲戒処分に。
 
「二度と起こらないように厳しく監督していく」と奈良国立大学機構がコメント。

印象的なのは、このコメントだ。「何様?」と唖然とするほかない口ぶり。病的な上から目線。いうなれば、システム・ハラスメント。組織という体裁を使って、実は内部にいる人間の主観を判断基準として強要している姿だ。

ドラマの中で教科書検定制度を支える法的根拠(法律・省令)に触れていたけれど、実は法令の文言が問題を引き起こしている(法令を変えれば現場が変わる)とも言いきれない。

というのも、法令上の言葉は、解釈・運用次第で異なる意味を持つからだ。もし運用する人間の解釈(人生観・価値観・教育観)が変われば、現場のありようも大きく変わる。教育を阻害しているのは、実は人間だったりする。制度ではなく、人間が原因。意外と多い。

だから、あのテーマに関するもう一つのアプローチは、支配者目線で現場に干渉している「人間」そのものにスポットを当てることだ。どういう人物か、経歴、年齢も含めて。省、局、機構といった隠れ蓑の向こうに潜む、システム・ハラスメントを犯している人間のほうを見る。浮き彫りにする。

たとえば初等中等教育局内で教科書や授業内容をコントロールし、結果的に現場の意欲を削ぎ、疲弊させている人がいる。本人にその自覚はない。
 
たまにNHKなんかが教育問題をめぐって取材して、その肉声を拾っていたりする。びっくりするくらいに、上から目線で現場無視。日本の教育は(といいつつ本人は現場を見ていない)自分がその一存で決めていいといわんばかりの言い方をしていたりする。老害ならぬ官害。結局は、人間特有の慢が根本にある。
 
こういう人間に光を当てて、何を根拠にそのような判断をしているのか、その根拠(法令)は、そのような解釈しかできないのか、しっかり問い詰めていくという手もある。組織や立場の裏側に隠れたままにしないことだ。



個人的に想像したのは、御上先生が、実際の文科省に入ったとして、あれだけの思慮や感性を保ち続けられるかな・・というところ。

霞が関の職場はあんなに明るくきれいではないし、人間関係もあれほど風通しは良くない。ドラマでは癖のある人たちとして描かれている(ゆえにわかりやすい)けれど、実際は比べ物にならないくらいに、考えも表情も明かさない。人間の輪郭が曖昧。それでも自分の評価については内心すさまじく神経を使っている。結果的に、周囲への同調を選んでしまって、最終的には、組織の論理を死守する官僚になっていく。

 
きわめて主観的な印象でしかないけれど、官僚(ごめんなさい、こうした言い方は好きではないのですが)の中には、プライド第一で、その上に仕事が乗っかっているという精神構造の人がいる。日本の教育を良くしよう、みたいな真っ当な動機をもって文科省に入る人は、決して多くはない。

というのも、国1(国家公務員総合職試験)においては、どうしても試験巧者が上位に来る。試験巧者が最も多く集まるのが、東大(国1試験合格者数は今もトップらしい)。

その東大に入るために、少なからぬ学生は、中・高、さらにその前にもさかのぼって、筆記試験用のトレーニング(いわゆる勉強)をしてきている。

試験慣れした猛者・強者は、あのドラマに出てくる学生たちのような人間味はない(こういう言い方も申しわけないのだけれど)。

幼い頃から「東大しかない」みたいな刷り込みをされてきた学生も少なくない。学校の勉強なんか手段でしかなくて、手段として役に立たないと判断すれば、内職したり休んだり。先生が何を感じるかなんて考えない。もし御上先生みたいな人が大事なことを語っても、冷めた目線で内職し続ける、みたいな学生もいる(あのドラマの中にも、実はいたのかもしれない)。

考えるとか悩むとか支え合うとか、そういう人間的な部分は一切捨てたサイボーグみたいなメンタル。勉強以外は「役に立たない」から目を向けない。受験に役に立つかどうかという物差しだけで日常を切り分ける「合理性の塊」みたいな人間。

試験というのは、点さえ取れれば評価されてしまうのだから、点を取れる勉強に特化できる人間が、どうしても強くなる。上に行きやすくなる。

徹底して無駄を排し、学校の授業や人間関係は最小限に抑えて、内心は自分のプライド死守と東大合格という目標だけをターゲットに、冷徹に、緻密に、虎視眈々と、さまざまな計算をめぐらせて、優等生としての自分を維持し続ける。

哀しいかな、そうした人が東大に進み、国1に受かり、いわゆる「官僚」になっていく。


御上先生は、そういうプライドのせめぎあいの世界を生き抜いてきた人。殺伐とした現実を見据えつつも、過去の体験や心情や今なお続く苦悩の種(自死した兄や母親のこと)を脳裏に抱えて、官僚の世界を生き延びてきた人。

そういう人も実際にいるかもしれない・・いるのかな。でもあの世界は(進学校も東大も官僚の世界も)、少しでも人間味を残していると、それが隙(甘さ)となって遅れを取る、取り残される、見下される。そんな世界だから。

試験制度というシステムが変わらない限り、試験に勝てる(いい点を取る)という戦略(いわば頭脳と時間の重点配分)が正解になる。その戦略を守り抜くことで、プライドの奪い合い、自尊心のサバイバルゲームを生き残れる・・その可能性が生まれる。

「死ぬ」のはイヤ。つまり落ちこぼれること、劣後すること、見下されることはイヤ。自分はアタマがいいと言われたい、大学は絶対に東大でなくては許せない、そういう価値観に思考を占領されている。本当の考える頭、良心をみずから握り潰して、勉強マシーンと化す。

そういう人が、東大に行き、官僚をめざす。
 

さらにこの殺伐としたゲーム(心の殺し合いといってもいいのだけど)は、もう少し盤は広くて、アタマがいいという承認を勝ち得るために試験勉強に特化できる特殊技能の持ち主たちは、東大、中でも理Ⅲから医学部、文Ⅰから法学部、そして司法試験や国家公務員総合職(上級)試験の合格をめざす。
 
受けられる試験は全部受けて合格してから、一つのキャリアをやむなく選ぶ。やむなく、というのは、彼らにとっては、仕事の中味は大して興味がなく、本音は自分がどれだけ優秀か(試験巧者か)を証明し続けたいだけだから。

公務員試験をパスした学生は、プライド最優先で省庁を選ぶ。ひと昔前なら、大蔵、通産。今の財務、経産省。プライドを守るうえで最も確実、安全な省を選ぶ。

ドラマの中では、御上先生は試験を勝ち抜いてきたエリートとして描かれているけれど、東大卒の官僚の中で、文科省組は存在感は薄い(こうした表現が成り立ってしまうこと自体が悲しいけれど)。プライドを守り抜ける省と、負けを受け入れて入る省庁とがある。かつてはあった。
 
今はどうかな・・大学受験までの教育環境がさほど変わっていないなら、中高時代に身に着ける価値観も、プライドを守るための戦略も、ほとんど変わっていないはずだから、東大に入った後のキャリア選択の基準も、おそらく大して変わっていない。

今は上級職の人気にも陰りが出ているとは聞くけれど、ただそれも、東大に入って、次はどんな職業なら自分のプライドを守れるか、という打算計算の基準が揺らぎつつあるという程度のこと。

「プライドを守る」ことが至上命題、人生の最高目標であり最低ラインでもあるというメンタルの人が、「ならばどこに行けばプライドを守れるのか」という感度一つで、自意識のアンテナを張りめぐらせている様子は、変わっていないような気がする。
 
ドラマの中では、御上先生はトップエリート。でも、実際の闇、いや陰、というか今の試験制度の硬直はもっとどうしようもなくて、御上先生さえセカンド、サードのポジションかもしれないということ。東大生としても、官僚としても。
 

(長くてすみません、続きます)

 

 

リンク貼っておきました(明日、最終回)


2025・3・22