ならば、本当のトップはどこにいるかといえば・・いない。たぶんいない。
プライドを守る熾烈な競争を勝ち抜いたところで、この小さな社会にプライドを守り切れるポジションなんて、たぶんない。
官僚としてトップに上り詰めたところで、それで何を得るのか、その実態を見れば、どうだろう・・・そこに魅力的に見える価値があるか、さほどの旨味があるのかといえば、たぶんない。
試験制度を生き抜いてきた人たちは、プライドの張り合いの中で生きている。多少偉くなったところで、局長、内閣官房付、事務次官あたりか。天下りといっても、本人がやりたくて「下る」わけではないし、楽しい、面白い仕事というわけでもない。
外から見れば「上級国民」みたいなレッテルを貼りたくなるかもしれないけれど、その実態は上級なんて呼べるようなものではない。
トータルで見れば、それほどでもないよ、と思う。官僚と言われている人たちも、案外地味に真面目に働いているだけだったりする。国を支えているという個人的矜持を支えに、激務を引き受けている人もいる(立派だと思う)。プライドだけの人もいる半面、御上先生のように自分の志をひそかに守っている人もいる。
でも、外から見えるほどの賞賛や権力や贅沢を享受しているわけでは、到底ない。おそらく。
哀しいことに、勉強に励んで東大という場所に入っても、そこはただの大学でしかない。しかも日本社会全体が、その先に知力や能力を伸ばし、活かせるような環境ではないかもしれない。
要は、人間が育たない。
人間が育ちきれないシステム。それが日本社会。のような気がする。
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そんな社会の中に、あのドラマの高校生たちも生きている。みんな人間的。自分の意見を言える(セリフだけど笑)。御上先生と対話ができる。自分を見つめる感性もある。
でも実在する試験巧者・試験強者は、もっと「サイボーグ」(笑)。なにしろ勉強さえできればいいという究極の合理性を研ぎ澄ませているから。
そういうリアルなサイボーグに、あの隣徳学院の学生たちは勝てない。多少勉強法を工夫しても、最後までサイボーグとして突っ走る、突っ走ってきた試験強者には勝てない。さながら疲れを知らないAIと人間が張り合うようなもの。少しでもスキを見せたら抜かれてしまう。そういう現実もあったりする。
と同時に、勉強だけしていればいい、成績さえ良ければいいという環境で、追い詰められて潰されていく人もいる。
本当は、勉強にとらわれずに、自分にできて、苦痛がない、いわば向いている仕事にたどり着ければ、それでいい。社会にとっては、それが最良の姿。幸せな人生を生きられる可能性が増えるから。
だが、そうした幅のある生き方を許容する懐の深さは、この社会にはない。知力・能力・感性を伸ばせる教育は、学校という現場に育っていない。
大人たちの意識も、使う教科書や教材も、そもそも試験制度自体が、実はきわめて偏っていて、その中でいくら優等生をめざして頑張っても、本当の知力は育たない。そんな場所になり果てていたりする。
できあがった学校、勉強、東大を頂点とする学歴社会と、官僚、政治、日本人全体の意識--本当はどれも偏っていて、古くて、中身が薄くて、
その中でいくら頑張っても、本当の知力は育たず、能力を発揮できず、その先の人生はアタマ打ち。たとえば、東大を出て官僚になっても、医学部を出て医者になっても・・思いきり大胆にいうなら、「その程度」でしかない。
職業としての尊さ・かけがえのなさは、言うまでもない。どんな仕事も価値を持つ。「その仕事がなくなれば、何かが回らなくなる、止まってしまう」ならば、その仕事には大事な意味がある。職業に貴賤はないというのは真実だ。そうした仕事観・人生観を持てることが、成熟というものだ。
だけれど、プライドを守る、人より高い点数を取るという目標を覆い被せた途端に、先にあるのは「その程度」の職業であり人生、ということになってしまう。
どんなに頑張っても、頭打ち。そういう志の低い社会ができあがる。教育が、その最大の原因だ。