「宗教は嫌いです」という人に向けて

 

この場所とご縁いただいてまだ日が浅い人もいると思うので、あらためてお伝えしておくと、

・この場所は宗教を語る場所ではない。

・「仏教」と便宜的に呼んでいるが、本当は仏教でもない。

・人それぞれのテーマを解決する頭の使い方(若干おおげさに言えば知力)を育てる場所である。

そういう場所です。

付け足すなら、貪欲(過剰を求めること)が嫌い、自己愛も嫌い(自己愛とは承認欲が作り出す自己の正当化・美化)、

つまりは、虚飾も虚栄も我欲も自己演出も自己顕示も、すべてが嫌い(なんとひねくれた場所・・^◇^;)。

嫌いというのは「判断」になっちゃいますが、あえてそういう言い方をしておきます(笑)。俗世用の表現。

出家(仏教)の世界では「関わらず」ということです。



宗教とは、他人に見えないもの(理屈でもイメージでも)を信じることをいいます。つまりは、妄想を信じる(在るとみなす)ということ。

本人には「在る(見える)」のかもしれません。だからありがたいと思うし、信じることに快を感じます。

自分にとっての快・やすらぎ・満足を得るというだけなら、自分の輪郭内のことなので、第三者は関係ありません。「そのままでいい(その人にとっては正しいこと)」のです。

でも、「在ると信じる(見える)」ということは、それ(信仰)以外のものは見えなくなるということです。

周りの信じない(無いように見える)人たちとの間に、その時点で距離が生じます。

その距離は、無関心・無理解・勘違いを作り出します。



さらに利欲(信じること・信じさせることに利益がある)が絡むと、自分が信じるものを他人にも信じさせようという圧力や攻撃につながっていきます。

一見、人を救うためとか、誰かの役に立ちたいとか、それっぽい美徳・大義名分を作り出します。

しかしその動機の根底に、自分の信仰や正しさをわからせたい、もっと利益を上げたい、富、名声、権力を手に入れたいという(お決まりの)欲望が潜んでいると、

自分たちの信仰をもっと広めるため、信じさせるため、自分たちが求める利益を手にするために、さまざまな「戦略」を作り出していきます。

常識的にはありえないような利益(信じたことでこんな奇跡が!的な)や、

自分たちの信仰共同体の美しさや特別感をアピールするとか、

人の妄想(不安・心配・現実逃避願望)につけこんで、脅したり、いっそう不安がらせたりとか、

相手の妄想をぜんぶひっくるめて、自分たちの信仰にすげ替えることをもくろんだりとか(いわゆる洗脳)、

とにかくありとあらゆる無理--つまりは妄想の拡張、もっといえば侵略につながっていきます。



客観的に存在しないもの、つまりは信じない人には見えないものというのは、

存在するとは言えない(言わない方がいい)し、

存在するものと思い込んでしまえば(信じてしまえば)、その分必ず、見てもらえない、つまり認めてくれない、愛されない、放置されたり無視されたりする人が出てきます。

その最たる犠牲者が、子供や家族です。



信仰を持つというのは危うい面もあります。客観的に見れば、妄想に思考を委ねてしまって、考えない状態になるというかもしれない。現実逃避であり、思考停止。

「考えない」ことはラク。ただ言われるがままに、言われたことをやるだけでいい。

「自分は一生懸命にやっている」という自己満足が得られる。現実が見えなくなり、自分が信じているものしか見えないから、ますますこの信仰が絶対に正しい、自分は正しいことをやっていると思えてくる。


しかし客観的に見れば、周囲との距離はいっそう広がり、ちゃんと見てほしい相手(たとえば子供)を深く傷つけ、周りとの関わりを失い、

しかも信仰の実践という名目で、膨大な時間とお金と労力を奪われ続ける。



儀式的なもの(いわゆる宗教行事、読経も含まれるかもしれない)は、ある程度までは、行いに意識を使うという点で、感情が落ち着いたり、心の状態が整うという効果はあるかもしれない。

でも過剰になれば、それはただ無思考を延長させるための手段、まさに「無思考の儀式」と化してしまう。

「瞑想」なんて、とんでもない間違いかもしれない(笑)。目をつむって、現実から目を背けて、都合のいい妄想に浸る状態なのであれば。

こういうのは、瞑想ではありません。というか、瞑想という言葉が本当は間違いなのです(仕方ないのでこの場所でも使ってしまったりしていますが)。



信仰を持った親との関係で苦労している人であれば、

①自分自身の妄想グセを克服することと、
②焼きついた親の映像(姿)をも妄想として消してしまうこと

が、課題になります。

具体的にはどうすればいいか。日頃お伝えしている方法が役に立ちます。

あえて足すなら、「徹底して距離を取る」(物理的に最も遠い彼方に親を置く)ことが必要になるかと思います。

それが難しければ、自分にできる範囲で徹底して「妄想を退治する」こと。

まずは「方法」を実践することが、当面の方針です。


2025年10月末日



人に伝える資格

(ちょっとネガティブかもしれない話題:)


人に伝えるというのは、

特に、社会的な役割(職業)あるいは対価を得るプロフェッショナルとして伝えるというのは、

当たり前だけど、それだけの価値を自分が持っている必要があります。

知識、技術、ノウハウ(方法)、さらに決定的なものは、体験です。

体験がオリジナルであればあるほど、他人(人様)が聞く価値が出てきます。


たまに大丈夫かな?と思うのは、自分は伝える資格があるという装いをし、実際にプロとして活動していながら、

この場所にその分野について ‶教わりに‶ 来ようとする人がいることです^◇^;?


特に仏教、瞑想その他、心・生き方について、人に伝えるプロとして活動していながら、教わりに来るというのは、どういう状況なのでしょう?

すでに資格・立場を得たと自認しているわけでしょう?

だったら自分の力でやっていかないとね。

 

厳しい言い方になってしまうけれど、

伝える資格がないと感じているなら、資格があるフリをしてはいけないし、

伝える資格があるという看板を掲げているなら、その姿に責任を持たないと。

でないと、自分が偽者(はりぼて)、嘘をついている可能性が出てきてしまう。

それはね、絶対にしてはいけないことなのですよ。


過剰な見栄や野心など、承認欲が暴走した時に、人はつい自分以上の自分であろうとしてしまう。

「これくらい盛っても、見せかけても、通用するだろう」と妄想してしまう。いうなれば、虚飾。



虚飾は、等身大の自分を見えなくする。社会に欠かせない本当の価値を枯らせてしまう。

世の中、「なんちゃって〇〇」という立場・肩書、名乗った者勝ちという風潮も少なくないようだけれど。


この場所は、真っ当であること、誠実であろう、本物であろうという意志を大事にするところなので、

自分のあり方について悩んでいるような、真っ当な心がある人については、人として相談に乗りたいと思っています。



本当の人生は、飾り・ごまかしを捨てた時に始まるものです。

本当の自分を見極めたいという思いでいる人に向けては、応援したいという思いでいます。




2025・10



『反応しない練習』イギリス&アメリカ上陸

 
『反応しない練習』の英訳本がそろそろ出版されるようです。

イギリスからアメリカへ。アメリカのほうが早いみたいです(2026年1月予定)。

ThePractice of Not Reacting.jpeg



なんだかむっちゃ地味・・というか、このモチーフから何が伝わるというのかな^^?

禅の本だと思ったのかな?

売れてくれることを神様に祈りましょう(笑)。


書誌情報の翻訳(Google機械翻訳):

著者紹介:草薙龍瞬氏は、仏教僧であり、学者でもあります。
128ページ
自己啓発、個人の成長

草薙龍瞬氏が、30万部以上を売り上げたベストセラー『より良い人生のための、極めてシンプルなフレームワーク』を提唱。

最悪な初デート。愛する人との口論。うまくいかない就職面接。私たちの心は、失敗や挫折に対して怒りや不安で反応し、自信を失わせ、まるで自分がコントロールできていないかのような気分にさせてしまいます。

しかし、私たちの幸せを失わせるのは外的な出来事ではなく、それらに対する私たちの内なる反応です。

「反応しない実践」は、永続的な心の平安への鍵を提供します。それは、不必要に反応するのをやめることです。

草薙氏のアプローチは、悩みを消したり抑圧したりするのではなく、理解し、論理的に対処しようとするという原始仏教の考えに基づいています。

簡単なステップを踏むことで、以下のことを学ぶことができます。

状況を「良い」とか「悪い」と無意味に判断するのをやめる

ストレスや心配といったネガティブな感情の痛みから解放される

他人の評価に左右されることなく、ありのままの自分らしく生きる

他人の成功や失敗と自分を比べる癖を捨てる

私たちのネガティブな反応の根源は、常に自分自身の欲望や不安に遡ることができます。この自己認識を得ると、人生をありのままに見ることができるようになります。

その受容の中に究極の心の平安があります。「反応しない実践」は、その道を示してくれます。

著者について
草薙龍瞬は仏教僧であり、学者です。仏教に関するベストセラー著書を数冊執筆し、東京で仏教センターを運営しています。

※なんか著者像だけ盛ってるような・・(実際の地味~~な姿はみなさんご存じの通り笑)。



2025・10・23





『ブッダを探して』未公開原稿


明日(10月21日)は名古屋で講座です。

中日新聞・東京新聞連載中の『ブッダを探して』は、

インド帰郷編が終わり、いよいよ現代日本編に入ります。

毎回800字くらいにまとめないといけないので、掘り下げたり広げたりはできません。

書き手には膨大な記憶と感情があるので、そうした部分を振り返りながら、最終的に800字にエイヤと詰め込む作業をしています。

これは無執着じゃないとできないかも。無執着というのは、客観性でもあり、冷徹さでもあり。思いっきり突き放さないと、客観性のある文章は書けません。

とはいえ記憶は膨大――。書いていて、「長い話だなあ」と思います(笑)。

「どこまでこの人、苦労するねん?(まだ苦労続くの?)」と現代日本編を書きながら感じてしまいます。

最終編は「たどりついた未来」になる予定。ようやく皆さんにご一緒いただいている、今そして未来の話に入ります。

2026年2月末に連載終了予定。いや、長かった。よく頑張りました(まだ終わっていませんが笑)。

進行ペース(読者にとって冗長感が出ないように)を考えて掲載しなかった原稿がいくつかあります。その一本を特別に共有します:


◇◇◇◇◇◇◇
ブッダを探して
インド帰郷編〇 微笑み


 ウダサ村で一人の女性が亡くなった。まだ四五歳だが、心臓発作で急死した。
 この地では、人が亡くなると夜通し音楽を鳴らす。通夜用の歌手がやってきて、ひと晩中歌い続ける。
 
 通夜の翌日、その家を訪れた。床に横たわる女性の亡骸があった。老いた母親が覆いかぶさるようにして泣いている。その周りを縁者の婦人たちが囲み、その外側に村の女性たちが座る。部屋は、弔いに来た村人で一杯だった。

 娘に先立たれた母親は、むせび泣きながら歌っていた。

「あなたが微笑んでいるだけで、わたしは幸せだった」。

 娘が生きていた頃の姿を思い浮かべているのか。ともにいた時間が、母としてどんなに幸せだったかを、娘に伝えようとしているのか。

 歌いながら、母親はみずからの頬を流れる涙を何度もぬぐい、硬くなった娘の手を握り締め、その頬や額を掌で撫でていた。

 母親の腕はか細く、飴色の肌は無数の皺を刻んでいた。村の女性の多くは、十代で嫁いで、子を産み育てている。早朝に起きて水を汲みに出かけ、家族の朝食を準備し、清掃し、農作業や村の共同行事に身を捧げる。

 子供には優しい母親であり続け、婦人同士は快活に笑いあう。働きづめの生涯だ。これ以上に偉大な生き方があるだろうか。

 私は、女性の亡骸のそばに座り、その体の上に置かれた二つの手をそっと握った。目を閉じて、穏やかな顔をしている。額に掌を当てると、優しい冷たさがあった。

 むせび泣く母親のほうにも手を伸ばし、その額に掌を当てた。小さな額は驚くほどに温かかった。どうか、その心に浮かぶ娘さんの姿がいつも笑顔でありますようにと願った。

 掌を当てられた母親は、不思議なことを体験したかのように神妙そうな、驚いたようなまなざしで私を見つめて、泣くのを止めた。

 静かになった部屋から私は離れた。

 村の子供たちがほどけた笑みを浮かべて駆け寄ってきた。亡くなった人と、これからの子供たち。失う悲しみと未来に臨む喜び。

 死すること、生まれることを、そばに見る。世界はこうして続いていく。せつなく美しい村人の中にいる。



2025・10・20

出家の秋

<おしらせ> 

11月1日(土)18:00~21:30
座禅会

11月2日(日)18:00~21:30
特別講座 仏教で思い出そう「あの日の幸福」を

*詳しくは公式カレンダーをご覧ください。
*東京での講座は年内最後となる可能性があります。

◇◇◇◇◇◇

東京も急に寒くなりました。

サラ(猫)の家も冬仕様に(ボックス内に毛布を敷く。今年は素直に入ってくれました)。私も冬物を取り出しました。

そろそろ新しいものを買っていいかなと少し探しましたが、安いものは、ぜんぶ売り切れ。後はお金持ち、あるいは服にお金をかけていい人向けの、出家目線からすると見上げてしまうような値段の代物。

とはいえ実際の額を言えば、全然高くなくて笑われてしまうかも。


この貧乏性というかしみったれ根性は、育ちのせい。

考えてみたら、十代も貧乏。二十代も貧乏。三十代も貧乏(というか出家してからは無収入)。

四十代で日本に帰ってきて、貯金通帳見たら2万円しか残っておらず、転がり込んだ部屋に、段ボール箱で机作って、魚屋でもらった発泡スチロール箱に百均で買った氷入れて簡易冷蔵庫にして(冬は窓の外に吊るせば足りた。自然冷蔵庫w)。


当時の私に同情してくれたのか、ある人がチャージ入りのSuica(交通IC)をくださった。改札通るのもドキドキ(いよいよ妄想ワールドに突入した気がした)。

冬に毛糸の帽子をくれた人もいた。おおお!(あたたかくて感動)

冷蔵庫をくれた人もいた。これで夏もひと安心。

電子レンジをくれた人もいた。冷たかったものがチンすれば湯気を立てる。マジック(魔法)!

2度目か3度目かの冬に、灯油ストーブを買った。寒い冬の朝に「ボッ」と火がつくあの感動。

安いトースターを買った(安売りで2000円だったトースターを奮発)。みるみるこんがり焼けていく姿に感動(なぜか縄文時代の暮らしを連想した。それだけ感動したということらしい)。

一番ドキドキしたのは、百均でゼムクリップを買った時。どうせ全部使わない。なのに買う? 百円がものすごく贅沢に感じる・・「許される? 許されない? 許されるよね?」と自問自答してようやく購入。

 
いくつかのこんな鮮明な感動が記憶に残っています。いや、よく生き延びた――。
 

※ちなみに、なぜそこまで??と思われるかもしれない半生については、ただいま連載中の『ブッダを探して』で少し触れていく予定です(来年2月連載終了)。

 

貧乏性のDNAは入れ替わるわけではないので、この先も貧乏性で生きていくことになると思います。

なので、冬服も同じものを。まだまだ使えそう。どうせ春になるし。

「どうせ春になるし」は、冬を凌ぐための出家のキラーワード。2年前に札幌に行った時に、東京と違ってずいぶん寒く、古着屋に行ったら冬物ジャケットが1500円。

500円なら、あるいは1000円までだったら買っていたかもしれない・・でも1500円というビミョーな値段。こういう「ガラスの天井」が多い。ものすごく多い。

どうしようかな・・と思案した時に浮かんだのが、「どうせ春になるしな」という言葉。

で買わずにしのいで、結局、本当に春になったのでした! すごい!


ここから秋、冬と旅が続きます。寒さを噛み締めることにも妙な至福を感じてしまう(>w<*)のが、出家の性分です。

どんな寒さに出会えるか、と想像すると胸がときめきます。


年々短くなるであろう日本の秋と冬を愛おしみましょう、みなさん(誰に呼びかけてんねん)。


2025年10月中旬



全体を見てプラスなら・・


他人の評価(学校の先生の評価を含む)は、当てになりません。理不尽の最たるもの。建前としては「公平に」「客観的に」と言ってはいるものの、内心はどうしても分け隔て・選り好みはあるものです。

(親がわが子の兄弟姉妹を扱う時も同じはず。公平なんてありえない(笑)。)

だから得する人(世渡り上手な人)も、割を食う人(世の中の理不尽・不条理を体験しやすい)も、出てきます。


一番大事なことは、そうした現実は避けられないものと受け止めた上で、「トータルで得する」自分を作ることなのかなと思います。

先生の評価に疑問があっても、他の先生・科目・勉強・進路については、プラスを増やせるように努力する。どれかがイマイチでも、他がプラスなら、トータルで見れば得する可能性は出てきます。

最終的には「前に進めればいい」ので。中学生なら(納得のいく)高校に上がれればいいし、高校生なら(納得のいく)卒業後の進路にたどり着ければいい。

ひとつのマイナスについては、「世の中こういうものだ」と割り切って、それ以上は追いかけずに、プラスのほうを見て、プラスを増やすことを楽しむのです。


「しんどい部分」は、自分だけではなくて、他の人もみんな味わって(噛み締めて)いる部分だったりします。その意味では、独りではありません。

その部分はしばらく続くとしても、自分の全体を見れば、他の部分はプラスだったり、楽しかったり、有意義だったりするので、

トータルで見た時に「プラスなんだ」と思えることが大事なのかもしれません。




2025年10月中旬


モンスター祖母(モンババ)

とある場所で出てきた話題:


子供(自分)の側が親にいつの間にか執着してしまっていた、ということはよくあります。

自分自身がもっと昔に取り込んでしまった親のイメージに、自分自身が執着していて、その陰に怯えて、勝手に反応してしまっていたという場合です。

この場合は、自分の側の執着に気づいて、いざ意を決して親に話をすると、親の側はそれほど執着していなくて、あっけなく距離を取れたりすることがあります。

もっとも、親も自分も、心という狡猾なものを持っているので、現時点で見えるものが正しい理解とは最後までわかりません。気は抜けない(油断してはいけない)ということです。



今回出てきた知人の女性については、いっそう要注意です。

母親というのは外面はすさまじくよいのです。名女優以上の演技ができてしまいます。

だから家の中で娘にどう接しているかは、外の人にはわかりません。とんでもない毒親・鬼親である可能性もあります。

思いやりや気遣いというのが、自分に有利になるようにという打算計算から来ていることもあります。「いい人(親切)」を演じることで、自己愛(承認欲)を満たしていることもよくあります。

こういう場合はたいてい、母親中心――母親にとっては自分自身が一番可愛くて、自分が輝いていなければいけないという前提に立っているので、

母親ファーストで、娘はつねに脇役という位置に置かれたりします。

そうすると、子供は自尊心を奪われ、自己肯定感が低く、外で人間関係を作ることが苦手というか苦痛にさえなってしまうこともあります。

こういう母親ファーストな母親というのは、いろんな類型があります。

完全に娘を支配している場合(はっきりと指示・命令・干渉している場合)、

娘を自己愛の餌にして、母親の凄さをことあるごとにアピールして、「母は偉いけど私はダメ」という自己否定を刷り込んで(いわば洗脳して)しまっている場合など、

いろんな場合があるものですが、共通するのは、

母親が病的に自己中(しかも自覚無し)であることです。 

自分の思惑しか見えないので、心の境界線を簡単に越境・侵蝕して、娘の心を傷つけ続けるのです。

こうした母親は無反省のまま、娘の自尊心や生きようという意欲を奪い続けます。


その最果ての姿が”モンスター祖母”、通称”モンババ”です(通称と言っても勝手にここで名付けただけですが笑)。

モンババは、いろんな場所に棲息しています。一見優しげに見えるし、外では常識的な人、それどころか活躍している人に見せるすべてに長けているので、外の人には正体がわかりません。

それでも、娘の側から母親を突き放すことは、凄まじく勇気がいる、難しいことでもあるので(※)、

娘が関係性のおかしさに気づき始めるまで、かなりの時間を要します。

※「あなたのためよ」と優しい母を演じたり、自立の芽を摘んでおいて娘が持っていないものを突如突いて(攻撃して)反論を塞いだり、同情を引くようなことを言ってみたり、お金などのメリットで懐柔したり、あからさまに抑圧して異論を封じ込んだり・・ほんとにさまざまです。


人間の心というのは、本当に狡猾で計算高くて自己愛に満ちたおぞましいものだったりします。

家の中のホラーに早く気づいてもらえたら、と思います。

モンババの退治法については、この本で(筑摩書房刊)





辛抱する人に贈る言葉


人生は山あり谷あり。

快調に進める時もあれば、辛抱強く日々を重ねるだけの時もある。

すべては因縁が決めることでもあるので、

倦まず、撓まず、焦らず、奢らず、

黙々淡々と日々を重ねることだけが、

正解なのだろうと思います。


2025年10月上旬

 

 

せめてこの世界の美しさを


翌日5日は京都・丸太町。ランチで入った食堂では、「群馬・伊勢崎41.8℃「14か所で40℃超え」のTVニュース。画面には、真っ赤に染まった日本列島。

MCの男が「いつまで続くんでしょう?」。気象予報士は「さあ」と笑ってごまかす。昼間は日陰に入れとか、冷たいものを握れとか、うわっつらの暑さ対策で尺を稼いでいる。

テレビ番組は、いつもこの調子だ。軽薄なノリでごまかし、原因も対策も未来のことも考えない。無思考の典型。コロナ騒動中もそうだったし、あの戦争中もこの調子だったのだろう。


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原因も対策も突き詰めて考えない こういう大人にはなってほしくない


年々、気温は上昇して、制御しきれなくなりつつある。いや、すでに制御しうる臨界点を超えている。

こうして人類は滅びるんだよ。
 
原因は明らかであるにもかかわらず、 誰も本気で取り組もうとしない(自分も含む)。
 
周囲におもねって、善良なふりをして、波風立つことは見ざる聞かざる言わざるを決め込んで。 
 
700万年にわたる連綿たる種の努力が、もうすぐ水泡に帰する。
 
こうして世界は滅んでゆくんだよ。

 
近頃ずっと、この世界を末期の眼で見てしまっている。滅びるのは、自分が先か、世界が先か。
 
さすがに自分が先だとしても、世界の終わりもそう遠い未来ではないような。
 
予感のような、妄想のような、晴れない憂いを抱えて続けている自分がいる。



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せめてこの世界の美しさがわかる自分のままでいよう



2025年8月5日





鳥取境港・水木しげる記念館2


水木しげる記念館は、想像を超えた迫力とスケールだった。本人の人生が深く広すぎて、この場所はどちらかといえば大人向けであって、子供にとってはむしろ難物(理解が難しい)場所かもしれないと感じた。

水木しげる(先生)は、大正11年(1922年)生まれ。よく寝てよく食べて、伸び伸びと育った。近所の「のんのんばあ」に、迷信・伝承・死後の世界や妖怪の話など、いろんな話を聞いたとか。のんのんばあと遠出もして、いろんな場所に出かけたそうだ。

この頃の体験が決定的な影響を与えたらしい。子供特有の好奇心と観察力に加えて、伝承の物語をたっぷり聞かされて育った独特の自然観。尋常小学校時代に父に油彩絵具をもらったことがきっかけで、絵に描く技術を育てていった。

水木しげるの感性は、柳田國男や南方熊楠に似ているところがある(※)。共通するのは、自分を取り巻く外の世界への尋常でない好奇心だ。柳田は若干社会への興味が強かったために官僚を経て民俗学へ、南方は自然への興味にまかせての博覧強記(しいていうなら生物学)、水木の場合は絵による表現につながっていった。水木持ち前の観察力は、戦後の子供向け漫画よりむしろ戦争漫画や緻密な風景描写に生かされている。

※柳田と南方は生前交流があったらしい。

明治・大正の頃は、彼らのような知的野生児が大勢いた印象がある。まだ学校も親も大らかだった時代だ。今のように塾に通う必要もない。誰もが進学せねばという社会的圧力もなかった。端的に自由だったのだ。その自由さが、彼らの感性と知力を育んだ。

今の時代のように、優等生であるとか学歴を手に入れるとか近所に褒められるとか有利な職業に就くとか、そういう欲目本位の打算計算が世に蔓延する前の話だ。彼らのような知力と生命力と表現力の傑物は、今の時代には育ちにくいだろうと思う。



水木は絵の才能は早くから認められていたそうだが、勉強とコミュニケーションは、能力の欠落といってもいいすぎではないほどに、苦手だったようだ。

園芸高校も1人だけ不合格。大阪の印刷会社に入ったが、ヘマばかりですぐクビに。会社勤めも新聞配達もダメ。野生育ちの青年の脳は、他の人とは違う育ち方をしていたのだろう(今なら発達障害とレッテルを貼られたかもしれない※)。


※少し脱線するが、発達障害というレッテルを貼ったときに問題となるのは、ではどう生きていくのかという方針がどれほど見えるかという点だ。
 
水木の場合は、外の世界に適応しきれず、異物としての自分をつねに感じていながら、自分に唯一できることとして絵を選んで(しがみついて)、道を拓いた。「できないことは多々あれど、唯一できることをもってわが人生となす」という潔さがある。

もし水木やその家族が「勉強して進学して就職することが望ましく、それができなければ世間に顔向けできない」というような偏った価値観にこだわっていたら、水木は社会不適格者として引きこもるしかなかったろう。そして社会との接点を一度も見出せずに消えていったはずだ。

人というのは、何か一つできることを見つけて、どこか一か所に居場所を見つけて生きていれば十分だ。そうした生き方さえ低俗な見栄で潰しているのが、今の社会の風潮であり、一部の親の認識であるとしたら、凄まじくもったいなく、残酷で、発想が貧しいことをしていることになる。


水木が19歳の時に太平洋戦争が勃発(つくづく愚かしいことをこの国は始めてしまったものだ。戦争をしない世界線だってあっただろうに)。20歳になった水木青年も徴兵されて、南洋ラバウルへ。

爆撃を受けて左腕を切断。マラリアにかかって高熱で寝たきりに。熱帯ジャングルの中を移動する途中に、いつ死んでもおかしくない極限の状況を経験。もともと胃袋が丈夫だったことが功を奏した。よく寝てよく食べて育った幼少期が、水木の生命力を育ててくれた。

こういう部分が因縁というものだ。本人が選び取るだけでなく、時代が、環境が、人々が与えてくれるもの。のんのんばあとの出会いも、その一つ。水木の命は、見えない因縁が支えてくれていたように見えなくもない。

水木は漫画家とは別に、戦争作家としての側面も持っている。記念館の内部は、戦争に関する絵と言葉の展示が半分を占めていた。水木が遭遇した軍の上司たちがどれほど卑小な人間だったかを、水木は絵で伝えてくれている。

日本人の心性というのは、自分の中に軸がないのだ。言われたことに従う、周りがやっていることに合わせる。そうやって目立たないこと、上の立場におもねることをもって、身の安全(保身)を図る。

だからこそ、褒められれば満足してしまえるし、嫉妬して足を引っ張ろうとするし、人のミスを執拗に責め続けるし、立場を手に入れれば、我を張って、威張り散らして、立場が弱い人を追い詰めようとする。

他方、都合が悪くなると真っ先に逃げ出す、人のせいにする、忘れたふりをする。反省しない。だから成長もない。形勢が不利だと見れば、反省しているフリはする。だが見せかけだけだ。実は「空っぽ」なのだ。

あの戦争末期の人間魚雷も、特攻隊も、片道だけの燃料を積ませての出航も、そうした中身のない人間が思いついた所業だ。空洞の人格。その心に動いているのは、小さな我欲と保身のための姑息な計算。そういうふうにできているのが、日本人の心性か。

だからこそ、世間やお上に弱い。唯々諾々、付和雷同、阿諛追従を、なんの臆面もなくしてしまえる。あの戦争を、国が滅びる寸前まで続け、負けを知って本気で涙して、終戦後は駐留米軍のために女性をあてがう慰安施設を急ごしらえして“外から来たお上”に取り入るという、下品にして計算高い人間なのだ。

今の時代の同調と忖度も、同じ文化的遺伝子から来ている。日本人は考えない(すべての日本人がとは言わないが)。考える軸がない。自分さえ安全ならそれでいいという姑息さを隠し持って、表面的にはいい子・いい人を演じている。

社会が良い方向に向かおうと悪い方向に走ろうと、社会のあり方を問うことはない(空っぽだから)。代わりにどんな社会にも適応してしまう。それが日本人というものかもしれない。


ああ みんな こんな気持ちで 死んでいったんだなあ
誰に みられることもなく 誰に語ることもできず
……ただ忘れ去られるだけ……

(展示中の漫画内のセリフ)


水木が作品の中で語っていた「わけのわからない怒り」は、そうした中身のない姑息な日本人の心性に対するものではなかったか。見ているようで何も見ず、考えているようで何も考えていない。そのくせ立場や権威をかさに着て、理不尽以上の理不尽を平気で強いて、都合が悪くなると真っ先に逃げ出す。力弱き者は、そうした生き物に取り囲まれて抜け出せない。

なぜこんな目に遭っているのかまったくわからないままに、最悪の死に方を強いられ、蛆虫に食べられて、見知らぬ熱帯林の土と化した日本人が累々といた。
 
こうした不条理、いや狂気とさえいえる現実への憤り、つまりは中身のない日本人という生き物への怒りを、水木は描き出そうとした。

戦後の水木は、心に溜まった不条理の汚物を吐き出すかのように、執拗に戦争物の漫画を描いている。どの作品も絶望的に暗く、狂気かと思わせるほどの執着をもって緻密に描いている。もともと人並みはずれた観察力の持ち主だ。その眼に焼きついた戦争という名の極限は、生涯焼きついて離れなかっただろう。

救ってくれたのは、これまたのんのんばあが教えてくれた“見えない世界”だったのかもしれない。妖怪、心霊、死後の世界。その心に見ている世界が豊穣だったからこそ、狂った現実の世界でも正気を保てたのではあるまいか。


記念館の中には、小さな子供も大勢来ていた。何も記憶に残らないかもしれない。だが、映像の光や漫画の線など、何かひとつが記憶の片隅に残ってくれれば、それが将来、感性や思考へと育っていく可能性がなくはない。

無理につきあわせるのは幼い子供には酷なこともあろうが、この年頃の子供は、自分で選ぶこと以上に「体験する」ことのほうが、意味を持つ。むしろ大人が行きたい場所・見たい物に付き合ってもらう、それくらいの働きかけのほうがよい気がする。



水木の人生はさらに続く。日本に帰ってきて、残った右腕で絵を描いて、紙芝居作家から漫画家へ。最初は赤本(貸本)、読み切り、さらに月刊誌・週刊誌の連載へ――テレビと並んで紙の本が娯楽として求められていた時代だ(※)。

※今なら動画か。媒体が変わるだけで、その時代の需要に応じて自らの才を発揮するという生き方の原型みたいなものは、時代を超えて変わっていないのかもしれない。漫画が価値を持つなら、動画も価値を持つということか。動画の場合は、際限がなく、反応を連鎖させて結果的に中毒状態に陥らせるという仕掛けこそが、独特の難点なのだろうが。


39歳で見合い結婚。妻は29歳。漫画家という得体のしれない男と結婚生活を始めるとは、妻となった女性にもそれなりの因縁があったのかもしれない。夫婦円満の秘訣を聞かれて、「相手に何も要求しない 何も期待しない」と水木は語っていたそうだ。たしかに(笑)。

「テレビくん」で講談社児童まんが賞を受賞して、売れっ子漫画家に。水木プロを結成。妖怪を描き始めたのは、49歳。まもなく鬼太郎が登場する。思うに、50代に入ると現実の自分が安定してきて、過去に体験したことが“引き出し”として活かせるようになる(それだけ余裕が出てくる)のかもしれない。



もしアイデアで文化を創ることができるなら、私なら「幸せを増やす妖怪」(を考える)という文化を創るだろう。廃棄物を消化する妖怪とか、遺伝子を組み換えて病気を治す妖怪とか、養分をかきあつめて食べ物を作り出せる妖怪とか。神様となると、人は求めすぎてよくない。妖怪のような、一つのことしかできない、不器用で小回りが利く生き物のほうがよい。

どんな働きをする妖怪かを想像して、具体的な造形をもって表現する。そういう発想が身に着けば、「幸せを創る」ことを考えるようになるだろう。

学校の子供たちに取り組んでもらう。そういう妖怪が一堂に会する「妖怪フェス」をやる。どこかで実験的にやってみることはできないものか。
 

夕方に妖怪列車に飛び乗って、米子から新見を通って一気に山陽に出た。岡山、姫路を通って、京都で一泊。

この夏は、金子みすゞと水木しげるの人生に触れた旅だった。こうした出会いが一つずつ心に積み重なれば、生きることも悪くないと思える。


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空想というのは偉大な力を持っている これも生命なのだ



2025年8月4日



鳥取米子・水木しげる記念館

朝9時過ぎ、米子駅発の妖怪列車に乗り込む。駅の階段はねずみ男で、列車はねこ娘。ホームにも鬼太郎と一つ目小僧をはじめとするオブジェが並ぶ。しょっぱなから水木ワールド全開だ。夏休みということもあって、車内は子供連れがいっぱい。


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終点・境港駅まで、どの駅にも妖怪名がついている。すねこすり駅とか、こなきじじい駅とか。精緻なイラストと解説つき。「次の妖怪は何かなあ?」と同乗の家族連れ。でも中には、すでに疲れたらしく、ぐずりだす子供も。

駅ごとの妖怪をまめに写真に撮るのは、もっぱらお母さん(平日のためか、お父さんはいない家族が多かった)。なんなら子供以上に興味がありそう(親子あるある?)。

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ある程度思考力が育った子供なら、駅の妖怪に興味を持てるようだ。だがある駅に来て、妖怪を隠すように車窓にシェードがかかったままであることに気づいた。そのままでは妖怪が見えない。

窓際に座っているのは、二十代前半と思われる若い女性2人。米子からずっと手鏡を見つめて化粧し続けていた。窓の外の妖怪には目もくれない。

妖怪見たいなあ、開けてくれないかなあ・・という面持ちの家族連れに気づくことなく、最終駅まで一度も窓の外を見ることなく、2人は自分の顔だけを見つめていた。

境港駅も水木ワールド全開だった。駅を取り巻く妖怪のオブジェ群。駅近ビルにはお化け屋敷も。

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駅前のオブジェ 漫画ってほんとに訴求力がすごい



水木しげるロードには、精巧な作りの妖怪オブジェが並んでいる。どの妖怪も造形がリアル。すさまじい想像力。

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妖怪伝説は、どこから始まったのだろう。思いつくのは、古代のヤマタノオロチ伝説や、古事記の因幡の白兎、八百万の神々か。日本列島に棲息していた動物と、死の恐怖が作り出した幽霊と、超自然現象と、日本霊異記(平安時代)に代表される説話文学と。

説話は古代インドのジャータカ物語にさかのぼることができるから、仏教も影響を与えているのだ(※)。いろんな要素がない混ぜになって、日本独特の妖怪イメージが造られていったように思える。

※奇しくも「妖怪」という呼び名を定着させたのは、井上円了だとか。寺の息子で、のちに仏教改良運動を展開して、哲学館(今の東洋大学)を創立した思想家だ。

ちなみに西洋の場合は、一神教に由来する異物・異端の排除と、中世の未開の森を通して形成されたであろう、闇を恐怖するという自然観、この二つが影響して、あの殺伐とした幽霊(ゴースト)のイメージが形成されていったのではないか。 『グリム童話』はけっこう残酷だし、 風俗としてのハロウィーンは禍々しいし。 行き着いたのが、現代のゾンビ。

その源流にあるのは、フォビア(嫌悪)とフィア(恐怖)なのだろう。だから愛嬌がない。アニメキャラでさえ、素直な顔をしていない(アナ雪とか?)。

他方、日本の場合は、豊かな自然とアニミズムを背景としているから、動物も神々も身近な存在だ。だからみんな人間的で親しみが持てる。これが今日のゆるキャラにつながっていく。

空想上の生き物さえ、心に見えるもの(深層心理)が影響しているということか。西洋人は、日本人が作り出す妖怪や愛嬌満点のゆるキャラを真似しようにも、できないだろう。想像の原点がまるで違うからだ。

驚いたのは、あの列車の中でシェードを締め切って一心不乱に化粧をしていた女子2人組が、水木しげる記念館に入っていったことだ。

えええええ(げげげのげ)? 子供たちと同じ目的で来ていたの?? 妖怪見に来ていたのかい?? 


てっきり妖怪に飽きた地元の人かと思っていた。なぜあそこまで化粧に入れ込む必要があったのか? 妖怪級の謎といえなくもない――。


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いよいよ到着 水木しげる記念館



2025年8月4日


山口仙崎・金子みすゞ記念館

<おしらせ>

10月26日(日)18:00~22:00 
個人相談会 東京・新宿

11月1日(土)18:00~21:30 
座禅会 東京・神楽坂

11月2日(日)18:00~21:30 
生き方として学ぶ仏教講座特別編 
仏教で思い出そう「あの日の幸福」を 特製オリジナル資料つき


◇◇◇◇◇

日本全国行脚2025 
山口仙崎・金子みすゞ記念館


翌8月3日は、朝の列車で仙崎に向かった。宿でゆっくりしたくもあったが、便が少ないので朝イチの列車に合わせるほかない。浦部からは代行バス。見知らぬ山道や海岸沿いを走る至福の時。長門市駅まで運んでもらって、そこから仙崎まで一駅。


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ふと降りて浜辺を歩いてみたくなる
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ここにもあった夏の青


金子みすゞ美術館へ。みすゞ(本名テル)は幼い頃から想像力が傑出していた。ひときわ弱者への共感があった。光の裏にある陰を見る。嬌声の背後に隠れた寂しさを想う――この感受性は、どんなきっかけで育っていったのだろう。3歳の時に実父が亡くなったことも影響したのだろうか。

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両親はここ仙崎で書店(金子文英堂)を経営。本が、みすゞの感性と思索を育てたか。当時は多くなかった女学校への進学組。片道40分かかる登下校の道を、一人で物語を空想しながら歩いたそうだ。

卒業後は、下関で暮らす母のもとへ(母親はみすゞが16歳の時に再婚して下関に出ていた )。みすゞは、義父が経営する書店(上山文英堂)を手伝う。

当時の下関は、海の幸を全国に送り出す港町で、不夜城とも称される賑わいを誇っていたという。 “都会”の華やぎに創作意欲を刺激されたところもあったのか、二十歳を過ぎて“みすゞ”名で童謡詞を投稿し始める。幼い頃に養子に出された実弟と、弟とは知らずに“友情”(おそらく一部恋心)を育み始めたのも、この頃からだった。

書店に奉公として入ってきた男と見合い結婚。だがこの男が慢と怠惰の生き物で、みすゞの人生は暗転する。家父長制のもと、どんなに自堕落で乱暴な男であっても、家の権力を握ることができた時代だ。当時の女性にとって、家を出て自立することは、どれほど困難だったことか。しかもみすゞのような感受性が強く聡明な女性にとって、田舎のダメ男と夫婦生活を続けることなど、極限の拷問にも等しかっただろう。

結婚した年(23歳)に、かねてからみすゞの作品を高く評価していた詩人(西條八十)に勧められて、童謡詩人会へ。のちに広く知られる「大漁」「お魚」が詩壇で発表されたのは、この頃。同年秋に長女ふさえが誕生。

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書いたのは地元・仙崎小学校の子供たち 
ふつうこんな優しさを持っていたら、生きてはいけない


その後、夫との関係にますます追い詰められて、重度のノイローゼに。娘が4歳の時、みすゞは26歳にして自死を選んだ(※山頭火の母親もそうだった・・あの頃の女性の自殺率は、今以上に高かった可能性はないか)。

生前のみすゞは、童謡詩人として注目する人も多かったというが、自死によって投稿は途絶え、次第に忘れ去られていった――。


みすゞの作品が“発掘”されたのは、みすゞが亡くなった五十年も後のこと。みすずの童謡詩を十代の頃に見つけて以来のファンだったという男性(矢崎節夫氏)が、みすゞの痕跡を探し求めて、実弟(上山雅輔氏)にたどり着き、みすゞ手書きの童謡集3冊、全512編を受け取ったことが始まりだという。

みすゞの童謡は、日陰に追いやられるか弱き命に思いやりの光を当てることで、くっきりとした明暗と陰影を浮かび上がらせる。そのコントラストの鮮やかさが、人の心をせつなく打つのだ。広がっていくことは、自然な流れだ。まもなく学校の教科書にも掲載され、知らない人はいないといっていいほど著名な童謡詩人になった。

みすゞの生涯は、幼い頃の孤独からスタートしたように思えなくもない。寂しさゆえの弱者への想像力と、その思いを表現する言葉の力と。童謡詩は、幼い頃の自身の思いの最も自然な発露だっただろう。

自分が最も自分らしくいられた時期に書き表した童謡詩集を、親友でもあった実弟に託して、結婚によって予期せぬ苦悩を背負わされて、憔悴しきって自死を選んで――。

もしみすゞのファンだったという男性が探さなかったら、そして実弟が詩集を失くしていたら、みすゞの哀切に満ちた詩が脚光を浴びることは、永久になかった。小さな漁村で哀しく自死した名もなき女性として、永遠に埋もれていたことだろう。

なんというか、みすゞの生涯そのものが、土に埋められた金魚や、大漁の夜に海の中でひっそりと仲間のとむらいをした鰯に通じる気がする。みすゞ自身が陰の中で哀しい輝きを放つ命の一つだった。
 

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みすゞは幸運にも見出されたけれども、この世界には、人知れず消えていった、哀しく、せつなく、美しい命が無数に存在するのだろう。そうか、そうした見えない輝きが存在することを知り、その輝きを見つけたいと願ってやまない心の持ち主こそが、詩や文学に傾倒したり、旅し続けたりするのだろうか。

みすゞのような言葉の力がなくても、輝きを放っている命は、この世界に溢れているに違いない。そうした輝きは、言葉を紡ぐ必要さえない。その時、その場所で、笑ったり、涙したり、美しい景色を眺めたりして、心が動いたその瞬間に、美しい輝きが刹那の光を放つ。

この世界はきっと、そうしたキラキラした輝きに満ちていて、ただその輝きは、もしかしたら本人も気づかず、まして他の誰かが見つけることもなく、光を放って瞬時に消えるということを、無限無数に繰り返しているのかもしれない。

そんな奇跡のすべてを目の当たりにすることは当然できないけれど、それでもときおり、誰かが放っている輝きを見つけることがある。そんなときは単純に見惚(と)れてしまうし、こんな美しいものがこの世界には溢れているのだという思いを新たにして、輝きを見つける旅に出ようと改めて思える。

仙崎への道中で見た景色も、みすゞの切ない生涯も、この世界に溢れる無数の輝きを思い出させてくれる絶好のきっかけになった。よい旅をしたものだとつくづく思う。



記念館の中で、小4の女の子とおばあちゃんと再会。仙崎への電車の中で一緒だった二人。女の子は東京から来たという。おばあちゃんは元気だが、女の子は退屈そう。みすゞの言葉は少し早かったかもしれないね。いつかこの日を思い出して、再び仙崎を訪れることもあるのだろうか。

金子みすゞ美術館のイラストは、長門市在住の尾崎眞吾(おざき しんご)氏が手がけているという。

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透明感と色彩の豊かさが共存する画風 純粋にきれい 原画はもっときれい




16時過ぎの列車に乗って、山陰本線で鳥取・米子に向かう。影を増す海岸線に並ぶ家々。いろんな場所に、いろんな暮らしがある。途中下車して歩いた、人影まばらな町並みも好(よ)き。

列車を乗り継いで、米子に着いたのは23時過ぎ。7時間のローカル列車の旅。車窓の景色も、車内の人々の姿も眺めることができるので、退屈しない。腰痛になることもない。気力、体力ともにまだ大丈夫。


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仙崎の碧い海 きっとみすゞには真昼の青さより夜の漆黒に潜む命のほうが身近だったのかもしれない




2025年8月3日