長文ですが、宮崎県・清武の方々への敬意をこめて、安井息軒記念館でのひとときをまとめてみました:
宮崎初上陸。清武という土地に、安井息軒記念館という場所があることを知った。
失礼ながら聞いたことがなかった。
江戸末期の儒家だという。清武が誇る当時の知識人。最も興味を引かれたのは、当時この地は(失礼に受け取られぬことを願いたいが)、今は想像できないほど”田舎”だったであろうということ。江戸や長崎、大坂とはまったく違う土地柄だったに違いない。
そうした地域で一心不乱に学問に励んで、江戸に上って名声を得たというなら、そのバイタリティだけで目を瞠るものがある。いったいどんな人物だったかと興味が湧いた。
JR清武駅で降りると、 記念館があるらしい場所は、夏の植物が鬱蒼と生い茂る小高い山の上だと判明。地図で見ると駅から近いが、遠回りして山を登らねばならない。猛暑だ。やむなくタクシーを使った。
山の坂道を上りつめて、記念館に到着。
真夏の清武駅で下車
入館無料どんどん人が訪ねてくるようになればいいな
◇青年時代
忠平は幼い頃に天然痘にかかり、顔に痘痕(あばた)が残り、右目をほぼ失明。成人後も身の丈五尺に及ばぬ短躰でもあったという。「猿が本を読んでいる」とずいぶんからかわれたようだ。
身分も見た目も財力も、人に張り合えるだけのものはない。だが忠平には学問があった。江戸・京都に学んだ儒者である父親・滄州(そうしゅう)は自宅を開放して子弟の教育に当たっていた。父の手ほどきを受けて、幼い頃から漢学を修めた。
15歳にして、父の蔵書はすべて読破。学問で身を立てることを早々に決意したという。
18歳で寺(中山寺)にこもり、3年にわたり学問修行。途中19歳の時には長崎に遊学。21歳で大坂へ。近くの蔵書家(篠崎小竹)のもとに通って、読書と書写に勤めた。大豆を醤油と塩で煮たものをおかずとして食いつないだ。
ここでも他の学生たちに容姿をからかわれたという。片田舎出身の風貌の冴えないひときわ小柄な青年が、鬱屈と野心を胸に秘めて必死で学んでいた姿が目に浮かぶ。25歳の時に江戸の昌平坂学問所へ。
写真撮影OKでした 大坂で学問に励んでいた頃の忠平
行灯に徳利をぶら下げて、就寝時に熱燗をすすって上気した頭を冷まして眠りについた様子
実に勉強ばかりだ。しかも資格や学歴のためという現代人の実利ではなく、生粋の知的探求心・向上心からだ。
ふと思うのだが、偉くなるためとか見栄を張るためといった世俗的動機を一切取り払った時に、それでもなお学ぼうと思える人間は、どれくらいいるのだろうか。
俗な動機がないほうが、純粋に知ること・考えることを喜びにできる気がする。私自身はそうした部類の人間だ。
知の喜びは、知性が発達した人間にとって純粋な喜びではなかろうか。欲目を捨て、単純に知ること・考えることを喜びにした時のほうが、学ぶことが楽しくなる。プレッシャーも打算計算もないからこそ、自由になれる。自由だからこそ、やる気も出る。本来の学びとは、自由を本質とするのではなかろうか。
◇結婚
ところがその妹が、破談を聞いた直後に「わたしでよければ」と嫁入りを申し出た。佐代(さよ)という名の、忠平より13歳年下、まだ15歳の娘で、村人がみな嘆息するほどの器量良し(仏教になじまない形容だが、見とれるほどの美人)。
これだから男女の縁というのは、わからない。忠平のどこに惹かれたかは謎だ。尊敬すべき何かが見えたのかもしれない。
ちなみに見合いを断った姉(豊:とよ)のほうは、もし忠平が美男子だったら即応じていただろうが、見た目で判断するようなごく普通の女性と、学問に打ち込む忠平とは、まったく合わなかっただろう。
また、もし忠平が自分の風貌に負い目を感じ、屈折した人間になっていたら、佐代からも疎まれていたかもしれない。忠平には学問があった。努力も誰にも負けなかった。学問によって矜持を支えていたからこそ、佐代の目にも尊敬すべき男に映った。
面白い因縁だと思う。人間、何か一つ打ち込むことがあり、自分を偽らなければ、確率は決して高くはなかろうが、生涯に一人くらいは相愛の相手に巡りあえるということかもしれない。忠平のまっすぐな生き方こそが、その生涯にわたる幸運を招き寄せたということだろうか。
◇教育家としての息軒
当時の門生によれば、「滄州先生、人を教ゆるに厳ならず。門人これを敬すること厳父のごとし。清瀧(息軒)先生は厳確なれども、門人これを親(したし)うこと慈母のごとし」(若山甲藏『安井息軒先生』)
息軒(忠平)は、風貌こそ厳めしいが、愛嬌も漂わせていたらしい。なるほどそうした目で肖像画を見直せば、想像できなくもない。すごい人というより、愛される人でもあったかもしれない。
ちなみにある漁師の男が、息軒に面会した時に、佐代の姿を見て感心し、「先生のような器量よろしくない男に嫁ぐとは、先生以上に学のある方なのですね」というようなことを言ったら、息軒は手を叩いて笑ったという(平部嶠南『日向纂記』)
息軒は自身の容姿を受け入れていた。だから笑えたし、『岡の小町」と噂されるほどの美女とも気後れすることなく添い遂げることができた。息軒は剛情だが、素直なところもあった。本当の人柄が見える気がする。
だが父・滄州が亡くなった翌年に、息軒は江戸に上がっている。38歳の時だ。そもそも息軒の博識と先取性、および父・滄州に遺言代わりに気をつけるようにと諫められたその頑固一徹の気性が、保守的な藩政と相容れるはずもなかった。
父の死は、早く江戸に出よという合図に聞こえたのかもしれない。
江戸に上がって始めたのが、私塾「三計塾」だ (1841年)。
三計とは「一日の計は朝にあり、一年の計は春にあり、一生の計は少壮(若い頃)にあり」。若いうちにこそ将来にわたる志(計画)を立て、無駄なく過ごすなという意味らしい。
師に当たる松崎慊堂(まつざきこうどう)が息軒を高く評価していたこともあり、儒者界隈で息軒はたちまち知られる存在となった。水戸斉昭のブレーンである藤田東湖とも交流し、政治に意見する機会も増えてきた。
黒船来航(1853年)に動揺した幕府は、朱子学以外にも智慧を求め、古い漢学(漢・唐代の古典)に立つ息軒に白羽の矢を立てた。最高学府・昌平坂学問所の「幕府儒官」に任命したのだ(息軒63歳の時)。塩谷宕陰(しおのやとういん)・芳野金陵(よしのきんりょう)と並ぶ「文久三博士」。在野の儒者として上り詰めうる頂点に達したといってよい。
三計塾も盛況だったようだ。開塾してすぐ江戸の儒者界隈で知られるところとなり、有志の若者たちが続々と集まってきた。借家から通う地方の学生も多く、最終的には二千人を超える若者を送り出したという。
知られるところでは、外交官の陸奥宗光、政治家の谷干城、井上毅(1843-1895)など。息軒は、たしかに時代に影響を与えていたのだ。
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※陸奥宗光(むつ むねみつ)は、紀州藩を脱藩したほどの反骨の若者だったが、江戸に上って三計塾に入門。そのプライドの高さは、周囲の門弟からは嫌われていたそうだが、息軒の博識と真剣さに感服して、生涯恩師として敬い続けたという。のちにカミソリ大臣と呼ばれ、欧米列強との不平等条約を改正する先陣を切った。
なお、関税自主権の完全回復を成し遂げ、日露戦争の終結や日英同盟締結を果たした外務大臣・小村寿太郎が、息軒の教え子から学んだことは、先に出てきたとおりだ。息軒の影響力はたしかに深大だったのだ。
※小野梓(おの あずさ)は、土佐(高知県)出身で、後に大隈重信を支えて明治政府の役人となり、東京専門学校(のちの早稲田大学)の開校に尽力した。現実社会をよくするための学問と、人材を育てるための教育という理念は、息軒から学んだものだという。
※谷干城(たに たてき)は、西南戦争の際に、熊本城司令官として西郷隆盛率いる薩摩軍と対峙した。息軒を生涯の師と仰ぎ、塾卒後も息軒にしばしば手紙を送り指導を乞うた。のちに政府の要人(農商務大臣 )となった谷は、晩年の息軒の生活支援や著作の出版・復刻に力を注いだという。
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息軒の思想は、観念的な議論とは真逆で、徹底した実用・実学を志向していた。歴史や経書を学ぶのは「現実の社会問題を解決し、民を救うため(経世済民)」 。江戸から郷里・飫肥(おび)藩へ、養蚕技術や牛痘(天然痘の予防接種)をいち早く紹介し、導入させもした。
頭でっかちな若者には、厳しく叱責した。ある門弟(幕臣にして大政奉還を推進した佐々木高行)は、息軒先生に叱られて腹が立って仕方なかったと回顧している)。「口下手で短気、𠮟りつけるような講義だった」と語る者もいる(東大教授をつとめた漢学者・重野安つぐ)。
頭でっかちな若者には、厳しく叱責した。ある門弟(幕臣にして大政奉還を推進した佐々木高行)は、息軒先生に叱られて腹が立って仕方なかったと回顧している)。「口下手で短気、𠮟りつけるような講義だった」と語る者もいる(東大教授をつとめた漢学者・重野安つぐ)。
息軒の気性の激しさは、父親・滄州に気をつけなさいと臨終間際で戒められたほどだというから、青年にとって相当おっかない先生だっただろう。その一方で愛情豊かで、地方から出てきた若者たちを、三計塾の寮に迎え入れて面倒を見たともいう。
塾生同士で教材を読み解いて議論する「会読(かいどく)」を勧めた。塾生の意見を頭ごなしに否定せずに、その思索と議論を歓迎したという。厳しくはあったが、冷淡ではなかった。
塾生同士で教材を読み解いて議論する「会読(かいどく)」を勧めた。塾生の意見を頭ごなしに否定せずに、その思索と議論を歓迎したという。厳しくはあったが、冷淡ではなかった。
息軒の若者に対する姿勢は、一貫していた。身分・外見などの体裁を問わない。世間の栄誉をみずからは好まない。
三計塾で学んだ者は、自分の利益ではなく故郷や国家に還元しなければならない。自分の学と才を、どのように天下・民のために使うつもりかと問い続けたという。
このあたりの高い志と一流の知識と影響力が、息軒という器の中に併存していた。こうした人間が各地で塾を開き、寺子屋を開いて、若い世代の薫陶に当たっていたのが、江戸末期という時代だった。◇息軒の不遇
だが、息軒の年譜をたどって見えてくるのは、どうにも時代の波に乗り切れない不器用さ、というか、そもそも生まれる時期が少し早すぎたかと思うほどの不遇さである。
江戸の知識人にも知られるようになり、三計塾が評判となり、ようやく幕府に一目置かれるところまで進みながら、飫肥潘以上に石高が大きな土地(奥州塙)の代官に任じられたことを、高齢(65歳)を理由に辞退。
幕府の儒官に上り詰めた途端に、黒船来航を受けて幕府の権威が揺らぎ、戊辰戦争(1868年)に巻き込まれないようにと、三計塾をたたんで、一時期、江戸から疎開。
明治に入って、勝海舟・山岡鉄舟が直接訪れ、天皇の侍講に推挙したが、これも病気を理由に断っている。なお地べたを張って生きてきた息軒だ。その目には、明治政府に仕える者たちに、器用と打算を感じ取っていた可能性はある。
明治政府が、支配者としての面目を露わにし始めたのは、そのあとだ。廃藩置県、廃仏毀釈、学制公布(1872年)。せっかく彦根藩主の求めに応じて、江戸に戻って三計塾を再開したのに、藩は廃止され、官費学生が私塾に通うことを禁じられた。学生たちは潮が引くようにいなくなった。
老いとともに身も縮み、左目の視力もほぼ失い、足腰も立たなくなった最晩年の息軒。
この時すでに妻・佐代は亡くなっていた。長男・棟蔵(とうぞう) は、息軒が手塩にかけて学問を仕込んだが、22歳で病死。次男の 謙助(けんすけ)は、28歳で自殺していた。
息軒の目に見えたものは、何だったか。虚無の闇であったか。ほぼ死んだも同然の闇。自分は何のために生きている? 自分はなんのために生きてきた?
瓦全(がぜん)――当時の正月に、息軒が書き初めた言葉だ。瓦礫のようにただ息をしている骸(むくろ)。実感だったかもしれない。
なんともせつない。息軒はたしかに生きていた。江戸から明治への端境期に、大きな影響を与えていたのだ。
だが今はほとんどその名を聞かない。その見えなくなった今が、何かこの国がとてつもなく大きなものを見落としていることの証左のような気がしてならない。
◇息軒が無名の理由
息軒の学者・思想家・教育家としての業績は、どのように評価されるべきだろう。あまり現代に知られていない理由は、その著書がほぼすべて難解な漢文で書かれているからなのか、仮に現代の言葉に訳せば、さほど評価できるものが乏しいからなのか、それ以外に理由があるのか。
息軒の著した論考(いわゆる考証学)を読んだ清(中国)の学者(張之洞ら) は、その内容の緻密さを称え、「日本随一の儒者」と評したという。息軒の論文(『左伝輯釋(さでんしゅうせき)』や『論語集説』などの経書研究)は、現地で翻刻(出版) されたともいう。
当時の中国の学術界は、世辞を好まず、矛盾や欠落を厳しく突く文献批判を基本としていた。まして中国古典の考証において遅れているはずの日本の儒家を、根拠もなく褒める理由もなかったはずだ。また、息軒のキリスト教への批判的分析を書いた『弁妄』は、イギリスで翻訳出版されてもいる。
つまり評価されるべきことは多くあった様子である。だが無名。いったいどうした理由からだろうか。
ひとつは、その著作のほぼすべてが、漢文で書かれており、いまだに現代語訳が進んでいないことが挙げられる。単純に、まだ理解されていないのである。あくまで在野の思想家・教育家であり、歴史ドラマの表舞台に出てくるような役回りではなかったことも挙げられようか。
対照的なのが、息軒に36年後(おく)れて生まれた福澤諭吉だ。同じ九州の出身で、貧しい藩士のもとに生まれたことは、共通している。だが諭吉は緒方洪庵の適塾に学び、オランダ語・英語に通じて、アメリカ、ヨーロッパを視察。帰国後に著わした『学問ノススメ』は300万部を超えるベストセラーに。のちに慶應義塾大学を創設した。
経歴の華やかさだけではない。若い頃には剣術を収め、当時の日本人の平均身長を15センチ上回る長身に、彫りの深い顔立ちだった。今でいう超イケメンのハイスペック男子にして時代の寵児。すくすくと伸びた明るい大樹のような存在感。息軒とは対照的だ。
息軒は、時代の波に乗れなかった。ちょうど古い波と新たな波の狭間に生まれ落ちた印象がなくはない。
そもそも息軒の思想を支えた古学そのものが、幕府が重用した朱子学と相反するものだった。断髪した門弟との面会を謝絶するほどの西欧嫌いでもあったという。
ことごとく主流から外れていた。息軒はアウトローとして生きる宿命みたいなものを背負わされていたかもしれない。これはよほど努力して発掘しない限り、市井の人々の視界に入ることはないだろう。まずは息軒の言葉が現代語で読めるようなればと思う。
◇息軒の魅力
もうひとつ、個人的にもったいないと思うことは、安井息軒の業績、その人生の社会的意味を探るうえで、息軒の ”表” から見た業績・著作にどうしても目が行ってしまうことだ。
これは、平賀源内や福澤諭吉の記念館を訪ねた時にも感じたことだが、「地元の先生」として持ち上げ「歴史に名を遺した偉人」として見上げてしまうと、結果的に、本人の凄み、哀しみなどの人間的魅力が見えなくなってしまう。
息軒の魅力と凄さは、儒学者としての歴史的評価ではなく、その生きざまを通して見るべきような気がする。清武という土地に生まれ育ちながら、学問をを積み重ね、都に出て私塾を営み、その知識・見識が世間にも幕府にも認められた――その上昇ぶりと野生の生き方そのものが、魅力的であり、評価されるべき点なのだ。
完全な自立自尊。これほど自力で学び、人生を切り拓き、人に伝える、人を育てるという活動を、己自身の自然な発露として形にして見せた人というのは、稀少な存在だ。
そのあたりを掘り下げれば、息軒の人間としての魅力が、もっと伝わってくるように思える。
息軒の家族が、これまた興味深かった。15歳で息軒に嫁いだ佐代は、26歳の若さで故郷・清武を去り、小さな子供たちを抱えて江戸へ。夫は朝から晩まで難解な書籍を読み込み、執筆に励み、客人をもてなし、三計塾創立後は、押し寄せる若者たちの面倒を見た。そのすべてを、息軒のすぐそばで、陰から支え続けたのが、佐代夫人だった。
長女・須磨子が父母について江戸に出てきたのは、まだ11歳の頃。言葉が通じず、何も変えずにとぼとぼと帰った須磨子に、母・佐代は「父上、ご出世は疑いなし」と言ったという(若山甲蔵『安井息軒先生』)。
佐代にとって、夫・息軒は世に認められるに違いない「先生」でもあったのだろう。終生、息軒を仰ぎ見てけなげに尽くした佐代は、苦労が祟ったか、正月明けに50歳で息を引き取った。
長男、次男、そして妻の佐代が亡くなった時の息軒の落胆ぶりは、凄まじいものだったという。父として、夫として、もう少しいたわりを向けていたらと悔やんだかどうか。
ちなみに佐代が亡くなって3年後に、息軒は子連れの女性(槇子・47歳)と再婚している。よくできた妻だと褒める手紙を、清武の地に戻っていた長女・須磨子に送っている。他方、佐代についての言及はほとんど残されていない。
佐代を失って、多少は妻のありがたみがわかるようになったのかもしれない。遅きに失した感があるが。
◇遠い星のような
他方、森鴎外のように、夫にひたすら尽くして人生を全うした女性として、格別の思慕(思い入れ)をもって振り返る人もいる。
だが、夫に尽くして消えていった女性というのは、当時おそらく大勢いたのである。そういう時代だった。嫁いだ先に、愚痴もこぼさず仕え続ける。そうした女性は、佐代に限らずたくさんいた。
佐代がひときわ魅力的に映るのは、そうした時代における妻の役目を果たしながら、その内心に、夫への尊敬や愛情といった、人間らしい動機がほの見えることだ。
実際には、その苦労が報われることはなかったし、生涯なんの贅沢も余裕も許されなかった。だが佐代はおそらく、そうした苦労を感じ取ることが、ほとんどなかったのではあるまいか。
質素な暮らしの中で、はたから見れば苦労ばかりを背負いながらも、心は満たされている。そうした素直な心性を持っていた。学によるものではなく、その人がその人であるがゆえの等身大の高潔さと聡明さだ。そうした自然の輝きこそが、佐代の魅力だったような気がする。
なんだか遠い星のように見える。目に見えるが、手は届かない。佐代は、もはや歴史の中の人であって、誰がどれほど想像を尽くしても、その姿を間近に見ることはできない。だがその絶望的に遠い距離を隔て、それでもなお伝わってくる美しさこそが、佐代の存在をひときわ輝かせている本質のような気がする。
安井息軒という人が、この宮崎清武の地にいた。その生きざまも、身の回りの人たちも、つい引き込まれざるをえないほどの魅力を放っていた。
なお、息軒の孫(長女・須磨子の息子)であり安井家の家名を継いだ安井小太郎氏の子孫は、現代に生きておられるそうだ。少し救われるというか、息軒先生が報われた気がするのは不思議な感慨だ。
いや、さまざまなことを考えさせられた。記念館を出て、息軒の生家でいっときを過ごして、余韻にひたりながら、清武中野の山を歩いて降りていった。
安井息軒の生家
安井息軒の肖像画
2026年8月16日