いわゆる瞑想について


瞑想 と呼ばれるものについて:

瞑想 を勘違いすると、一生路頭に迷います。

悲劇的なのは、路頭に迷っていることにさえ、自分が気づけなくなること。

大したことでもない体験を、過剰に美化したり意味づけたり、

考えても本当は意味がないことまで、言葉で考えて、解釈したり、分析したり。

それこそ一週間や一か月程度で、何かが変わる、得られると思うこと自体が、心が繰り出す勘違い。これは、ほぼ百パーセントと言っていいくらいの確率です。


人の心は狡猾。つねに自分に都合よく解釈しようとするし、都合のいいところだけを見ようとします。

瞑想することが目的化する。瞑想中に体験したことを特別視する。

あれこれと無意味なことを考えて、付け足して、本当に見なければいけないものを、あっという間に忘れてしまう。


瞑想は、正しく取り組もうとすれば「大変」なものです。楽ではない。むしろ苦しい。厳しい。どの分野においても、成長するというのは、そういう面を持っています。


本当の瞑想と、自我は、両立しません。

どれほどの歳月を費やしたにせよ、勘違いまみれの自分がそっくりそのまま残っているなら、瞑想したことにはなりません。

自我が繰り出す妄想、自己愛、執着、過去の隠蔽、逃避、美化、脚色・・・のエサとして瞑想の時間を利用しただけということになりかねません。


自我が罠になる。
言葉が枷になる。


それでも勘違いした人は(執着・都合のいい妄想に囚われた心は)、自分が何かを得た、見た気になってしまう。

客観的には無知にどっぷり浸かった姿でしかないのですが、自分は何かを知ったような気分になってしまいます。

まさに自我が繰り出すからくり――ブッダが「マーラ」(心の魔)と呼んだものに、まんまとハマった姿です。


瞑想はきわめて個人的、つまりは主観的な体験です。他者への証明は不可能。

だからこそ勘違いがはびこります。パフォーマンス、自己満足、執着のさらなる強化。

瞑想すればするほど、逆の方向に突っ走っていく。

いとも簡単に無明の闇(見えない状態)に絡めとられて、沈んでいく。

そうして真実(自分についての正しい理解)には、永久に届かない――。


そういうことも、瞑想と呼ばれる世界には、今も累々と起きています。

止めることは、誰にもできません。自分以外は。


そうした真実(危険)があるから、「瞑想(仏教)は、決して易しくはないよ、むしろ厳しい世界ですよ」と、正直にお伝えしています。



 

中高生の親にできること

ある親御さんとのやりとりからの抜粋です:

 

もうひとつ、ただ見守ることが危ういのは、心そのものがそれほど強くないからです。

もしスマホ、ゲーム、テレビ、インターネットなどを自由にできる環境にあるなら、これまた自立・前進はできません。時間を潰すだけ。

そうした心の弱さに輪をかけて、まだ中学生だから、中高一貫だから、口うるさいけれど甘えることも可能な親・家庭だから・・・という環境が影響している可能性もあります。

子供が本当にしっかりしていれば、こういうマイナス要素も自分でコントロールしていけるかもしれません・・・しかしもし親が過去に子供をコントロールしてきたとしたら(過干渉・過度に厳格・神経質etc.)、子供の側には自分をコントロール(自律)する能力は育ちません。結果として「子供時代」が長引くのです。



親子の間にしっかり線を引いて、受け止めて(理解して)、将来を見据えて、本当に今のままでいいのか、今後どうするつもりなのかを、一人の人間としてしっかり聞いて、本人の自覚を促していくことになります。

是は是であり、非は非――将来のことをきちんと見据えて、今しなければいけないことがわかっている、やろうとしているなら、是です。応援してあげることになります。それ以上に妄想しない。


非と言える(言っていい)のは、親の領域に属することです。お金のことや家の中のルール。親として肯定できないことは、毅然と「それは今は認められないよ」と伝えること。「異議があるなら、学校を卒業して自分で生きられるようになってから自分で選んでください、ここにいる間は、それは受け入れられません」と言えること。

ただ、こうした是々非々の対話が通用するのも、やはり親子がきちんと分離・独立できていて、親の領域・子供の領域を区別できることが前提です。

それができていなければ、過去のコントロールの延長、ただの押しつけになってしまう。結果的に反発・不信を買うか、現実逃避、あるいは過度な依存(甘え)を育ててしまうかになってしまいます。


正しく向き合うとは、親の側が➀自分を冷静に見つめて、②子供の心を理解しようと努めて、③子供の今を裁くのではなく、④よき将来につながるか、という視点をもって、対話を重ねることです。親の側に努力が必要。安易に「放っておく」「言っても無駄」「やっぱり助言せねば」みたいなことを考えても、親の側の堂々めぐり・・・あまり効果はありません。
 

その意味で、親の側できちんと向き合う型というか、親たる者としての”作法”をしっかり学ぶことだろうとは思います。親としてというより、「この人の言うことは間違っていない」と子供が感じられるかどうか。自分のことをわかろうとしてくれて、自分の未来を一緒に考えてくれていると思えるかどうか。


たっぷり書いてしまいましたが、少しずつ・・・健闘を祈ります。またおたよりください^^。


※今から10年~20年、親として生きることになる大人の方々へ:

親としてのあり方、子育てのコツなどを一緒に考えていきたいと思います。

このブログの<活用ガイド>をご覧のうえ、自己紹介も含めてお送りください。 koudounosato@gmail.com まで。

最新のトピックをお届けできるかもしれません^^。

 

 

 

 

こんな生き物でごめんなさい

出家は「川」として生きるしかない。

どんな理不尽に遭遇しようとも、川は川として流れるほかない。


しかも、淀んではいけないし、濁ってもいけない。透明な流れのままで、水を求める人たちの前にいつづけなければいけない――。

川のままであることの、難しさ――それがわかるのは、インドで生きる私の無二の友人のように、人に与え続けることを生き方として選ぶ人のみだ。

 

そうした人たちは、傷つけられる痛みも、絶望も知っている。たくさん涙を流してきたが、それでも人の幸せを願う。いつも人の苦しみに心を痛めて、何ができるかを考え、そしてできることを行動に移す。

私が、この世界でわかりあえると思える友は、インドに生きるあの青年である。

 

川のままでいよう――そうよく話をしている。

 

無理解に満ちた世界で生きることは、とても過酷である。その過酷さを知っている人たちは、世界に大勢いるだろう。心優しい人、一生懸命夢を見て頑張っている人。

美しいものを大事にしている人ほど、世界の無理解に傷つけられたり、毒されたりすることがある。

理不尽だが、この世界に溢れる毒は、そうした人々を、放っておいてくれないのだ。

哀しい現実が、この世界には無数に起きている。

 

だが――外の世界の不合理に、こちらの心が染まってしまっては、意味がない。あくまで「川」のまま流れるしかない。

つまりは、自分の輪郭をしっかり保ち、外の世界の毒に汚されることなく、正しい理解と思いやり(慈悲)に立って、生きてゆくしかないのだ。

そうして頑張って生きている人も、たくさんいるだろう。


出家もまた、そうした生き方の一つである。


流れる川として生きる。

水は、ときに汚されようとも、水そのものが汚れることはない。


自分は水である。決して汚されることはない――その姿を守り抜くのだ。

 



私の場合は、ブッダの教えに出会い、出家という生き方を得ることで、心を汚さない生き方を手にすることができた。

私が今の自分にたどり着くまで、50年以上の歳月を要している。

この長い道のりの途中でただひとつ、考え続けてきたことは、人間はどうすれば幸せにたどり着けるのか?――という問いだ。


その問いだけは、忘れたことはない。

その問いが、唯一の「希望」みたいなものになっていた。


だがひとつ、出家にも弱点がある。この弱点は、この十年で何度か体験をして、次第に自覚するようになったものなのだが、


救われていい人が、救われない――その現実を目前にしたときに、心が痛む。


心の苦しみには、必ず抜ける道筋がある。その道筋をたどれば、確実に抜け出せる。

心については、ブッダの智慧が、心の法則をふまえて、みごとに越える道筋を示している。

その道筋を進めばいい。進めば必ず苦しみは減っていく。やがて消える。


その道筋が、私には見える。実はすごく簡単なことだ。


だが、執着に支配された人は、自分が罠にかかっていることを、想像さえしない。


確実に救われる道があるのに、目の前の道が見えない。真っ暗闇の中にうずくまっている。

優しい人は、みずからを傷つける。

怒りに支配された人は、自らが作り出す慢に取り憑かれて、目の前に道があることさえ、見ようとしない。


私は、何度も手を差し伸べて、言葉をかけてきた。その中で、苦しみを卒業していった人たちも、確実にいた―― つもりだが、

手が届かず、再び闇の中へと戻って行った人もいる。


そういう出来事も過去に何度かあった。

そうしたとき、出家の心は痛みを覚える。

 
私は、人を信じるし、世の中を信じる。滅びではなく、可能性を信じる。

冷笑や傍観ではなく、役割を最後まで担う。

 

それが私という人間の本質だ。

この命が続く限り、自分なりの慈悲と智慧を精一杯伝えていく。


正直、それくらいしか、私にはできない。あまりに無力であり、とても小さな生き方でしかない。申しわけなくなる。


それでも、道に立って生きてゆく。

世にあって、世に染まらず。


自分自身が、真実を知り、人に誠意と慈悲を尽くし、人の幸せを願って、

人を利用せず、否定せず、みずからなしうることだけに心尽くして、

そうして残った言葉や出会いや歳月が、最後に残ってくれれば、


それだけが、出家にとってのご褒美――最高の納得――ということになる。


出家は、愚かな生き物だ。

幸せであれ――と、それしか結局は言えないのだから。


2023年12月25日


未来は慎重に


新年は4年ぶりにインドに帰郷します。

12年前、日本に帰ってきたときは、完全に文無し。出家とはそういうもの。

インドに帰るお金もなくて、小さな竹筒を教室において、募金を募っていました。

インドに帰郷できたのは3年半後だったでしょうか。

本当に進んでいるのかもわからないくらいの小さな歩みでしたが、「これが自分の道だ」と納得していたので、不安も焦りもなく黙々と。

当時はこれほど多くの人と出会えるとも思っていなかったし、

原始仏教も日本仏教も、講座を通してここまで新たな知見や言葉や方法を掘り下げ、また開拓できるとも思っていませんでした。
 

そして次に進めてゆくのは、未来を育てるプロジェクト。

考えてみたら、仏教と並んで、この命は、教育(教え育てるという双方向の関係性)についても、かなり独創的な内容とメッセージを紡ぎ出せる(かもしれない)体験を持っているのでした。

独学で完全にゼロから学び方を確立していった十代の頃の体験は、その一つ
 

学ぶとは、本来格段にスケールが大きく、ロマンがあるもの。そのことに覚醒したからこそ、独学で追いつき、追い越し、その先に進めた。


この命に宿ったものを自由自在に形にすれば、今の時代・この社会にとって、真新しくかつ先進的な、価値あるものを作り出せる気がします。


大事なことは、どれほど露出をコントロールできるか。

なるべく人の目につかないほうがいい。この場所が作り出す価値は、それこそ十年くらいは、しっかり、じっくり作り続けて中身を確立するほうがいい。

慎重過ぎるほど慎重に活動してきましたが、それでよいのだと思います。これからも。

人間として、まともであること。

自分の限界と本分を知ること。


誠実に、健全に、未来を育てて行こうと思います。

 

十代のお子さんをお持ちの親の方々(ただし学歴をブランド視せず、むしろそうした風潮に疑問を持ち、子供に良質の教育をと願う大人たち)、

さらに学び方・生き方を知りたいと願う十代の人は、おたよりくださいね。

興道の里代表・草薙龍瞬

 

2023年12月7日

 

 

 

人はなぜだまされるのか


今年の仏教講座も大詰め。最近取り上げたのは、一休さん(一休宗純)の生涯。

人間は、複雑に見えて、本当はすごくわかりやすい。顔、表情、語ること、やっていることを見れば、その人の思いはわかる。

だが、自分の「わかる」が、客観的な「わかる」(真実)になっているかは、案外あやうい。意外と人は、他人の思いが見えないことが多い。



一休さんの生涯(アニメではなくリアルなほうw)は、6歳で母から引き離されて寺に入って以来始まった執着と屈折を、「オレは坊主だ、本当はエライんだ」という自意識で上塗りし続けて、迷走したまま終わった印象が残ります(一般には「風狂」と呼ばれるけれど、要はこじれた心が作り出す風変わりな言動のこと)。

自意識をこじらせて、いつも不機嫌で、人にやたらとケンカを売って、バ〇ヤロー、コ〇ヤローと悪態ついて、周りから見れば面倒臭い人になってしまった大人は、現代にもいなくはないのかもしれません。



人間としてまともに生きるのに、それほど修行は要りません。

市井の人であっても、立派に善良に生きている人は、たくさんいますよね。

むしろ形だけの寺、修行、仏教、坊主然とした姿に色(脚色)がつけばつくほど、空疎に、また醜悪になっていくのかもしれません。

一休さんはその真実がわかっていました。だからこそ嫌っていました。

嫌いはしたけれど、嫌うのはまだ執着しているからであって、最後は執着を手放さなければいけないのに、執着を手放せなかった。結果としてのこんがらがった人生です。

大なり小なり、人は執着ゆえの矛盾・葛藤を抱えるもの。

「どの執着を手放せばいいんだ?」とみずからに問うて、突きとめて、「手放す時期」を自分で決めること。最後はエイヤと手放す。

手放した人が、自由になった人です。



講座でもうひとつ取り上げたのは、禅の世界で有名な<南泉斬猫>の答え合わせ。

つねに本質に立って生きているなら、答えを出すことは難しくありません。

でも人間は、その場の雰囲気に呑まれたり、相手の見せかけ(肩書・権威・自己都合の強弁)に惑わされて、本質を見失ってしまう。

自分の頭で考えればすぐわかること、見抜けることが、見えなくなる。

結果的にすぐだまされるし、振り回される。自分が信じたことさえ、勘違いであることはよくあります。

だが哀しいことに、本人にはそれが見えません。

虚仮おどしに弱いのは、人間そのものが虚仮(妄想)に囚われているから――。


講座終了後、猫のサラに <南泉斬猫>のエピソードを聞かせて、「汝、どう答える?」と訊いたら、ほんとに にゃあ と答えました!

すごい。わかっている(笑)。
 

(※講座受けてない人にはなんのことかわからないと思います。すみません)




2023年12月3日





「裏切られた」という人へ

手ひどく「裏切られた」思うことは、ありますよね。

考えれば考えるほど、くやしいもの。


裏切られたと感じた時に、次に出てくる問いは、はて、この思いをどう解消するか。

解消しないと、自分が苦しむから――自分が怒りに焼かれて、その怒りが周囲に伝わって、結局は自分が独りになってしまうから。

裏切られた時はつらいし、自分にとっては、それが百パーセントの真実・・・かもしれない。


ただ、自分にとって真実だからこそ、その真実から「次の一歩」をどこに向かって踏み出すかが、一番大事な問いになるのでは・・・と思います。


仏教を活かすなら、「裏切られた」という思いを作っている、さらなる思いの数々を整理していくことになります。

相手への期待があった。その期待がかなわなかった。

期待がかなわない理由があったのです。その理由は、本当にさまざま。

ほんの少しのすれ違いだったこともあるし、相手の考え方、価値観、方向性が違っていた可能性もあります。

受け容れたくないかもしれないけれど、自分の側にも見えていない部分も、あったかもしれません。

こちら側に見えていない部分というのは、他の人や世の中そのものには見えるものだったりします――みな思いは違うし、見えるものも違う。

 

違うことは、当たり前であり、「お互いさま」なのです。

人の心も、世の中のありようも、こちらが期待する通りにはならないもの。

自分と、人の心、この世界というのは、まったく違うものだから。


もともと交わっていないのです。まったく接点のない別宇宙みたいなもので。

ときに交わっていたような、通じ合っていたかのような、期待や夢が通じるような相手であり、社会であり、そういう状況だと思うこともあったかもしれないし、これからもあるだろうし、本当にそうである可能性もなくはないけれど、

それもまた、自分と相手と、この世界と、一人一人には見えないし、手が届かないさまざまな事情や原因があって、一時的に成り立っているものなのだろう、と仏教では理解します。


かろうじて、信頼が成り立つこともあるかもしれないし、期待が届く可能性もあるかもしれない。でもそれも、一時的なものなのです。決して続かないもの。

なぜなら、自分の思いや自分に見えているものは、自分の中にしか存在しないから。

そもそも、自分以外のすべての人は、他人なのですよ。自分ではない。

自分の心とも体とも違う。心に見るものも、過去も、この先転がる方向性も違う。

まったく違うのです。それが真実。

 

だから「裏切られた」というのは、本当は当たり前だったりします。そのこと自体が問題ではないということ。

裏切られたというより、相手が裏切ったというより――「期待が通じない」状況に変わっただけ。

「そうか、たまたま関わることができていたというだけで、状況は変わったんだな」ということ。

あるいは、自分が思い描いていた展開が、まるごと一方的な期待、つまりは妄想であって、そのことが今になって見えてきたということ。


状況が変わったか、相手が変わったか、最初から自分の妄想だったのか。


いずれもありえます。いずれでもよいのです。現実は、いくつもの要素の関わり合いによって成り立つものでしかないから。

状況が変わることは、避けられません。世界は、自分の外にあるものだから、当然に変わります。

変わることに罪はありません。

相手が変わった・・・としても責めることはできません。その人は、こちら側のために生きているわけではないのだから。

自分の側から見れば、裏切った、変わったように見えるかもしれないけれども、それは相手の選択。

人には選択の自由がある。人は自分の人生を生きる自由がある。

その人の選択を止めることは、他人にはできない。自分にはできません。何もできないのです。


唯一、できるかもしれないことは、自分の思いを伝えること――理解を求めることです。

ただ、理解が届くかどうかも、これは相手次第です。


もし相手に届かないことがわかったら?――それが、最終的な理解(答え)ということになります。

相手に理解を求めたが、伝わらない。

その時に最終的に見えるのは、その相手は自分とは違う存在なのだということ。

違う存在だとわかった――その時点で、答えは出ます。「そうだったんだな」ということ。

わかったら、それで落着です。「そうだったか」で終わりです。



あとは、自分の命の使い方だけが残ります。

「裏切られた」と思ったかもしれないけれど、本当のところ何を失ったのかは、冷静に考えてもいいかもしれません。

期待をかけて、期待した時間が続いたということは、その間は、期待できたということ。

その間は自分なりに得るものがあった可能性が高いのです。

なぜ関わったか、なぜ期待できたのか。「自分のため」になると考えていたから。それが自立した大人の受け止め方です。


自分のために、相手と関わって、自分のために、時間を過ごした。

その期間は、自分のために、自分が納得したからそうしていた。

だとしたら、何も失ったことにはなりません。「自分のため」だと納得していたから、時間、労力、思い、言葉、おカネ、その他のものを捧げた・提供したというだけです。

自分にとって価値あることを、相手のためにもなると思ってやった。

その時点では、相手のためでもあるけれど、自分のためでもあった。自分も価値を得ていた。


互いに得ていたのだから、本当は、何も失っていないのです。


だとしたら、いいんじゃないのかな。状況が変わったとしても。また自分一人で生きることになっても。

人は人(その人)のために生きている。

自分は自分のために生きている。

自分が誰か(他人)のために何かをしたのは、自分が選んだから。

 

自分のために、自分が納得したからそうしたんだ――というのが、基本です。


だから、「裏切られた」という言葉は、正しくありません。


関わったのは自分の選択であり、関われなくなった、関わりたくなくなった、関わる目的を失ったという事実が生まれた。ならば、自分はどうするか? 新たに進んでいくのみです。


自分がいかに生きるか、だけが問い。

相手は関係ないのです。


「裏切られた」と感じた後に、気をつけるべきこと:

➀「理解を求める」は善し。ただし、当事者である相手に向けてのみ。必要のない人を巻き込まない。
 

②「理解を求める」とは、自分にとっての事実。気持ち(感情)。相手への希望。それだけ。
 

③それを越える悪口や人格批判はしない。

人には、みな心があるから・・・誰も傷つけられたくはない。罵られたり、蔑まれたりされたくない。

人を一方的に傷つける言葉を言い放つことは、もはや一方的な虐め・辱め・公開リンチと同じ。その時点で自分が「悪人」ということになる。


④人がどんな人間かを決めるのは、行動である。

実際に何をしているか。何に時間を使っているか。価値あることに時間を使っているなら、その人は価値ある人になる。

 

裏切られたと言い募る言葉も含めて、他人への悪口は、世の中の悪意を単純に増やす。

その点で価値がない。自分が価値のない人間になる。

関わらない人のことは、放っておけばいい。自分の人生を生きればいい。

 

それで、みんなが価値ある人間になれる


あらためて・・・人それぞれの思い・生き方を尊重すること。

それが社会の中で生きる人のルール。

そのルールを破れば、社会を壊すことにみずから加担することになる。

 

傷つく人が増える一方の世界は、何ももたらさない。まさに分断と破壊と、、、絶望に至る。

 

人はだれしも、いいところを持っている。もし自分の良心を、体験を、知識を、時間を、もう一度自分のため、人のため、社会のために、プラスの価値を生み出すために使うなら、まだまだできることはある。


あなたは、何も失っていないよ。


苦悩している人に向けて


2023・11・27


出家の喜び


11月23日の坐禅会では、ブッダとバラモンとの超能力対決のエピソードをお話ししました(名古屋・栄の講座でも)。

ブッダを上回る超能力を見せつけてやると豪語していたバラモンに、ブッダはどう向き合ったか。ブッダはなぜ最強だったのか。

その答えが、〇〇〇でした。

人間、自分を大きく見せようとしないほうがいい。大きく見せようと無理するほど、等身大の己が見えなくなる。見えなくなって損するのは、本当の自分――成長したかもしれない自分。

だからこそ静寂・沈黙の時間が意味を持ってくるのです。


11月23日は、夜はミニ相談会(おそらく年内最後)。毎回、みなさん、ディープな内容を持ってきます^^。

この場所での学びが続く人というのは、やはり「自分を見つめる覚悟ができている人」です。他人を論じるのではなく、自分自身を見つめる人。

プライドの高さが邪魔している場合なら、地震のプライドの高さを直視できる人こそが、ブッダの教えをきっかけにして、先に進むことが可能になります。


5人目がお待ちだと知らなくて、待たせてしまったお詫びに、終電間際までお付き合い。



終了後は事務所に戻って、来年2月に始まる中日新聞連載の原稿執筆。

インド編からスタートして、ミャンマー編、日本編へと続く出家の旅物語です。



人の役に立っていることと、良質の言葉が生まれることが、自分にとっての喜びです。ぜんぜん疲れません。

自分を見つめて闘っている誠実な人の姿を見ることが、自分にとっての幸せなのです。心からの本心です。

長い孤独の先にたどりついた、力のようなもの。永久のエネルギー。

 

もうすぐ師走。よき日々をお過ごしください。


2023・11・24



『反応しない練習』は誰のためか

興道の里から

今回の著作物タイトル無断使用広告の件については、2023年11月30日付で該当広告が削除されました。

今回の広告に関係があった当事者の方々には、ご対応くださったことに感謝申し上げます。

今後同様の事態が生じることを防止するため、下記の文面は残すことと致します。

なお、今回の顛末につき、草薙龍瞬からの言葉を末尾に追記致します。

興道の里事務局

>>>>>>


世の中、節操がない場所であることは、重々承知しているが――

『反応しない練習』を、自分の事業の広告・宣伝に無断で使っている団体があるという。



『反応しない練習』は、私(草薙龍瞬)が、心を尽くして書き上げた作品だ。

一冊の本の背後には、膨大な体験と思索と研究がある。

『反応しない練習』というシンプルなタイトルにさえ、著者がミャンマーで学んだ原始仏教と、過去の体験から知見が、背景にある。


私の作品は、この世界を生きる、苦悩する人、それでも希望を失わずに生きている人へのエールであり、手紙として、一冊一冊、魂をこめて書いている。

大事な作品だ。そして多くの人が受け取ってくれた。長く格闘し続けてきたこの人生にも、多少なりとも意味はあったと思える。そういう証(あかし)になってくれた作品だ。


「善き人」たちは、活かしてもらっていい。

正しい思いに立って。人としての最低限の分別・常識をわきまえて。

この世界に、ひとつでも幸せが増えるように。


だが中には「利用していい」と思う人間たちもいるらしい。

分別・良心がある団体であれば、他人の著作タイトルを営利広告に利用してはいけないことは、容易に判断がつくだろう。

だが、そうした一線を簡単に超えて、バレない、これくらいかまわないと思うのかもしれないが、こっそりと人の作品を、自分たちの宣伝に利用してしまう。

そのことで、なんらかの利があると思うのかもしれない。

だが現実は逆だ。他人の作品を無断で使ってしまうあり方を見れば、世の多くの人は、こういうグレーの、やってはいけないことを平気でやってしまう団体・人物だと受け止めるだろう。

「借り物」で作った姿という印象を持たれる。エセ、偽者という印象を持たれてしまう。

その時点で社会的信頼を、ひとつ失う。


こうした無断使用の広告を載せてしまう企業の側の問題もある。もし信頼ある新聞やテレビ・出版社であれば、最初の時点で「倫理的に問題あり」として校閲するだろう。

だが、そうした倫理的問題を無視しているのか、調査不足なのか、グレーの広告を作って配信してしまう。

この時点で、広告企業もまた社会的信頼をひとつ失ってしまう。「こういうグレーな広告を出してしまう会社なのだ」と、世の人々は受け止める。


本当は、誰も得はしない。だが、得にならないということが、利欲に駆られた心には、わからないのだろう。

今の世の中、こうしたことが、平然とまかり通ってしまう風潮にある。

 

「利己」は、この世界を支える信頼を、破壊してゆく。

控えるべきは、控えること。互いの立場に敬意を保つこと。

それが倫理であり、まともな人の姿であり、企業の倫理、矜持(本当のプライド)というものだ。


グレーを重ねれば、限りなく黒になる。

黒になって損をするのは、本人たちだろうと思うのだが。

 
あらためて、『反応しない練習』は、著者が命を賭けてつむいだ大事な作品です。

殺伐としたこの世界の中で、生き方を求める誠実な人たちに贈った大切な手紙です。




2023・11・20


・・・・・・・・・・・・・・・・・

<追記>

この社会の中で活動するすべての個人と団体・企業は、人の幸福に貢献する役割を期待されています。

その期待を守る精神を、倫理と呼びます。コンプライアンス(法令遵守)は、明文化された倫理を守ることです。


今回の件は、倫理という見地から、配信広告の見直しが求められる事態となりました。

この件に対応してくださった当事者の方々は、個人・企業・団体としての倫理および矜持(本当のプライド)を持ち合わせていたものと受け止めています。

その事実に敬意と感謝の意を送ります。


今は、ますます多くの人たちが、苦しみを背負いつつある時代です。

だからこそ、苦しみを一つでも減らすことを共通の目標にして、それぞれが正しい動機に立って、みずからにできることを果たすこと。

そのことで、ようやく人々が社会への希望と信頼を取り戻すことが可能になります。


一人一人の役割は異なりますが、それぞれの場所で頑張ってゆければと思います。

正しい動機に立ち、誠実に働き続けるならば、必ず自らにも、そして人さまにとっても、価値あるものが生まれゆくはずです。


頑張って生きているすべての人に敬意と声援を込めて

 

2023年11月20日
草薙龍瞬敬白合掌



【ご注意】『反応しない練習』の無断使用広告について

興道の里事務局より

 

現在、『反応しない練習』を利用した下記の広告が配信されています: 

https://✕✕✕✕.jp/main/html/rd/p/000000050.000071987.html

(※2023年11月30日付で該当広告は削除されました。以下は今後のために残しておきます)


『反応しない練習』は、草薙龍瞬を著者とする書籍名に当たります(KADOKAWA/2015)。

 

上記広告内容および配信元と、草薙龍瞬およびその作品は一切関係ありません

 

上記広告は、著者および出版社への連絡・許諾なく作成・配信されたものです。

 

なお今後とも、作品名および著作内容を、こうした広告および営利事業で使用されることを許諾することはございません。

 

世間の皆様におかれましては、ご注意くださいますようお願い申し上げます。

 

2023年11月15日

興道の里事務局

 

 

 


怒る技法~ほぼ満願成就


『怒る技法』は、最後の「闘い」がほぼ終了――。

カバーも確定、帯も確定。後はカバーのソデ周りなどの細部のみ。

現時点での著者になしうることは、すべてやった感があります。出し切った・・・。

今回は、カバーイラストも、帯コピーも、本当に細部の細部まで、著者リクエストを、出版社&編集者&デザイナー様が汲んでくださいました。

『人生をスッキリ整えるノート』と並んで、今回もカバーイラストを著者自身が手掛けました。唯一無二。


今回、過去のどの作品よりも、著者自身の人間としての思いを託した感があります。

どれだけ世に届くか(売れるか)は別として、出す価値があったと思える作品。この作品だけは、今の時期に絶対に出さねばならない。それくらい、時代的・社会的必要性が高い本。

しかも現時点での著者の筆力マックス(最大限)を発揮。年末からスパートをかけて、同じクオリティのものをもう一度書けと言われても絶対に無理と思えるレベルに到達した感があります。

それこそ本の1ページ分書いていた内容を、わずか1行・1フレーズに凝縮して、サラリとまとめた(本当はもっと広げて書くこともできるが、ページ数の制約もあるし、読みやすさも考慮して、凝集・洗練させた)部分も、かなり多い。

いくらでも長く書ける内容でも、1行で伝わるなら、そっちを選びました。そういう箇所が今回多かった。読む人が、わかってくれれば成功。わかるように書いたつもりだけれど、はて結果はいかに?

『反応しない練習』から8年・・・いよいよ満を持して『怒る技法』の登場。

時代を画する作品になってくれたらと思います。

「正しく怒れる人になろう」が、帯コピー。



心優しい人にこそ贈ります



2023年11月2日



次の人生は

日本に帰ってきて、12年が経った。

物も過去も関わりも、すべてを捨てた身から始めた。

最初は、生きていけるかも見通せなかった。

ダメなら野垂れ死にでいいと肚を決めていた。


今、振り返ると、宝のような人と風景との出会いを授かった。
本という形で、自分自身が生涯かけて守り抜いてきた思いを伝えることもできた。

これだけの作品を世に、未来に送り出せたことは、予想を超えた収穫だ。
どの本も、心を尽くした手紙のような作品だ。


私の一生は、出家として、仏教にもとづく生き方を伝え、真摯に道を求める人と出会い、インドで育んだ稀有の友情を守ることで終わるものと思っていた。

それだけで十二分。それ以上のものはたぶん来ないだろうと思っていた。


ところが、この十二年、そしてここ数年で、日本という国がいっそう危うくなりつつあることが見えてきた。

社会が壊れつつある。
人の心から、希望が失われつつある。

このままでは未来が消えてゆく。

そうはしてはならないと思う。

 

世界を守ること。
未来を育てること。


はて何をすべきか、何ができるかと考えてきたが、ひとつ見えてきたものがある。

それを、次の人生において始めようと思っている。

私の人生は、いくつかの生と死を繰り返してきた。何度も死んでいる。何度も終わらせている。

出家として仏教にもとづく生き方を伝えることが、最後の生であろうと思っていたが、そうではなかったのである。


ブッダの教えは、普遍的な生き方であり、その中身は、まだ掘り起こされていないから、今後も私自身の活動の一環として、過不足のない良質な言葉で表現してゆこうと思っている。

だが、仏教そのものを、出家の体(てい:すがた)で伝えるだけでは、本当は足りない。

なぜならそれでは、仏教に価値を見出せる人にしか届かないからだ。


仏教を求める人に仏教を伝えることは、たやすい。それは私の役目だが、しかしもっと価値あることは、仏教にたどり着けなくても幸せに近づける、生き方そのものを人が知ることである。


己の生き方を知る。

世界を支える方法を知る。


その「知る」という営みに、仏教は要らないし、役に立たない。


この命は、それくらいに仏教からも“抜けて“いる。


いっさいの迷いや執着を解き放った自由な心で、


未来のために何をすべきか


を考えたら、ひとつアイデアが思い浮かんだ。


これなら、仏教と関係なく、また出家としての立ち位置からも自由に、この世界に希望を、幸せの可能性をひとつ、自分なりに増やすことができるかもしれない。

その新たな可能性は、別に特別なものじゃない。今の世の中で、心ある人たちは、みんな、それぞれの場所でやっていることだ。

私も、新しい場所で、その可能性を形にしてみようと思う。


生きることは、本来は楽しいものだ。そして素晴らしいもの。

学ぶこともそうだ。本当はもっと夢があって、楽しいもの。


いつのまにか汚されて、矮小化されてしまった、生きること、学ぶことを、二つ合わせて伝えてみようと思う。


人生は、美しい夢から始めるものだ。

明るい夢から始めよう。




2023年10月30日

善き人たち


今月(2023年10月)は、個人からの相談が比較的多かった。

相談者が遠方におられるときは、足を運ぶ。

見知らぬ土地を訪れた時は、その町並みや風景を心の目に焼きつける。

その風景を見つめて生きてきた人がいる。

その風景を最初で最後に見るかもしれないこの命がある。


その二つの命が交錯する。いつも思うが貴重な時間である。


私が個人的に出会う人たちには、多くの場合、共通項がある。


ひとつは、長い間、ひとりで苦悩し続けてきたこと。

よくこれだけの苦労と心の傷を抱えて、一人生きてきたものだと感じ入る。


もうひとつは、だからこそ自立していること。

自分の苦悩は自分で越えていかねばならない。人に安易に頼れない。

そういう覚悟のようなものができつつあるように伝わってくる。


というのも、こうした人たち(本当に苦しんできた人たち)は、さんざん外の世界に答えを求め、人や場所を頼って、答えにならなかったという体験をたくさんしているので、

本当のよりどころ、答えとなるべきものが、実はきわめて限られていることが見えてきているのだろうと思う。


そして三つめは、自力でこの場所(私という命に)たどり着くこと。

そのきっかけが、本であれ、インターネットであれ、スクールの折り込みチラシであれ、なんでもよいのだが、

「こういう人がいる」ということを知って、本を取り寄せて読んで、あるいはブログの文章を眺めて、「話を聞いてみよう」と思い立つらしい。


もちろん自分で連絡して来る。自分の言葉で、うまく表現できなくても、真剣に過去と今の思いを伝えようとしてくる。

全力であって、甘えがない。

(※もちろんそうでない場合もあります^^;)


実りあるやり取りを交わせる人たち、自分を見つめる強さを持っている人たちには、こうした共通項がある。


しっかりと私と向き合える。それこそ一度きりの機会かもしれないと思って、全力で聞き、全力で問うてくる。

時に厳しいことも伝えるが(でなければ変われないから)、自分を見つめる覚悟がある人は、謙虚に、心して耳を傾ける。

そして、この先、どう生きていけばいいか?という問いに、必死に答えを出そうとする。


こうした人たちは、”善き人”たちだ。新しい可能性が開けつつある人たち。


中には、真剣に、仏道――仏教に基づく生き方――を始めたいという人もいる。

過去さんざん苦悩し、ようやく過去を越える生き方が目の前に見えてきた。

だからこそ、仏道に立って生きる決意を固めようとする。

ようやく、「仏門に入る」ことが可能になって来る。


仏門に入るとは、寺に入るとか、アタマを剃って出家するということではない。

新たな自分として生き抜く覚悟だ。

理屈も執着も捨てて。ひたすら謙虚に、慎みを保って。

その同伴者として、仏道がある。



仏道と、歩き出した小さな己(おのれ)のみ――その覚悟が固まることが、道の始まりだ。

 

その道をゆくことを、私が支援する。


進むべき方角と、新しい道の歩き方は、伝えることができる。

だが、あくまで歩くのは、その人自身である。

本人が、執着ではなく、自己愛ではなく、傲慢ではなく、自己満足にならず、

自分の人生を最高の納得をもって完結することをめざす。

その道を手助けするのが、仏道を生きているこの命の務めということになる。


この場所は、わざわざ大仰な形を作らないし、いちいち世に知られようとか、広めようといったことはしない。

本当に志ある者、機縁ある者は、自然にたどり着くだろうと思っているからだ。

広げても、仏道にふさわしい者の数は増えはしないだろう。むしろ勘違いした者、執着する者が増えて、巷によくある勘違いに満ちた場所へと変容していくことが、定めというものではなかろうか。


この命は、おのれの道をゆく。

志ある者は、この命に出会って、己自身の道を延ばしていく。

道は、自立していなければ、成就できない。

自立した者は、この世にあって、この世に染まらず。

この世に無駄におのれを現わさない生き方をゆくものだ。


静寂と澄明とが、仏道の色(特徴)であろうと思っている。

 

2023年10月30日

宗教は要らないよ


*前回の話のつづき:


宗教にもいろんな中身があります。

困っている人に、本人が求めるものを差し出す活動をしているなら、「その範囲では」宗教は役に立っています。食糧や薬の配布、避難場所の提供など。

ところが、役に立たない宗教もあります。むしろそっちのほうが多い印象があるのが、現実かもしれません。
 
役に立たない宗教には、共通項があります:

〇妄想を利用している
(だが集う人たちは、それが妄想だと気づけない)

〇誰かが過剰に得している
(巨額のお金を集めたり、贅沢な暮らしをしていたり、自分が選ばれた者であるかのように派手に演出していたり。やっていることは俗そのもの)

〇信じることにお金がかかる。お勤め(義務・負担)がやたら多い。客観的に見ると決して幸せになっていない。

〇信じさせる側と信じる側の双方とも満足している(らしい)。だが、内輪の満足でしかない。信じない「外の人たち」と共有できない。たとえば豪勢な施設を作ったところで、信じる人しか入れない。

 
こうした宗教は、誰かが作り出した都合のいい物語、つまり妄想のてんこもり。その宗教の中では「神の言葉」とか「教義」と呼ばれています。

世の中には苦悩している人がたくさんいます。そうした人たちが、一見それっぽい理屈(神の言葉・教義)を聞くと、「そうかも?」と思ってしまいます。

「そうかも?」の先に何があるかと言えば、たいがいおカネ・・・あれを買え、寄付せよ、奉仕せよと、ありとあらゆるグッズや活動の類を繰り出してきます。

仏教と呼ばれる世界にも、そのパターンを見かけます。代表例が、意外に思われるかもしれませんが、「前世の業」かもしれません。そもそも語られている「お釈迦様」なるものが、誰かが勝手に作り出した妄想かもしれません。
 
それでも人間は妄想が大好き。だから、「あなたの苦しみの原因はコレです、これを信じれば、お金を使えば、解決できます」という言葉を信じてしまいます。

「一見それっぽい理屈」は、客観的に見ると変ではあるのです。でも、もともと心が混乱している人、逃げたくてたまらない現実の渦中にある人は、筋が通っているように見えてしまいます。

宗教の多くは、残念ながら、欲と妄想のカタマリみたいなものです。誰かが一見「それっぽく聞こえる」理屈を作り上げれば、その理屈に引き寄せられる、すがりついてくる人たちが一定数出てきます。


結果的に出来上がるのが、宗教という名の集金マシン。一部の者が過剰に得をする、富と権力の維持装置です。

こうして宗教は続いてきました。

人類が妄想を抜け出さない限り、宗教が消えることはないことでしょう。


欲と妄想でできた宗教は、実は役に立ちません。本当は必要もありません。

まず、やたらお金がかかること自体が嘘です。みんな生きていくことに必死です。過剰な負担が増えるのは、おかしいのです。絶対に。
 
信じる人たちの自己愛(特別意識)、出世欲、栄誉欲みたいなものが通用してしまう(奨励されたり組織内で出世したり)という組織も、非合理です。

一部の人間に過剰な利益が集中する仕組みも論外です。「過剰」は、生きるうえで必要ありません。これは宗教であれ商売であれ、本来同じです。

「真ん中にいる人」や「側近」「幹部」と呼ばれる人たちが、やたら崇拝・称賛される姿も、危険です。そもそも宗教の目的は、人間の幸せであって、個人の欲の満足ではないはずだからです。
 

結局、カネか、欲か。

たどり着くところが、その程度の人間の煩悩だとするなら、それは宗教とさえ呼ぶべきではないのかもしれません。
 

宗教は要らないのです。なくても生きていけるし、世界は回っていけるという意味で。

人も自分も苦しむことなく生きていく。そのためには関わりのルールがあればよく、宗教は要りません。

働ける人は働いて、誰かの役に立って、結果的に社会・経済が回っていく。

それが実現できるなら、宗教は要りません。
 

人間に必要なものは、そんなに難しいはずがないのです。

心と体を使って、ひとつ働き(役割)を果たして生きていく。

そうして生きる人たちが作る場所が社会であり、人と人をつなぐものが経済です。宗教は本当は必要ないかもしれないのです。

いったん宗教を「引いて」、生き方を考えてみてほしいのです。

宗教という名の妄想が、人生を複雑にし、いっそう苦しみを増やしている人が、あまりに多いからです。



2023・10・25

自分を引いて考える


みんな(この世界で生きている人たち)と共有できる話題は、たくさんあります。

最初に明らかにしておくべきは、この場所(興道の里・草薙龍瞬)の立ち位置。
どういう場所から語っているか、日々活動しているか。

結論からいえば、この場所は、なんでもありません。

おおげさ承知で言うと、「無」ということになります(仏教では「無」は当然の言葉だけど、こうして見ると、なんか特殊・・・笑)。


この場所(私)が最初に考えることは、「もしこの場所(私)が消えたら?」ということ。

どんな命もいずれ消えるから。私も含めて、人は永久に生きていられない。

いずれ無と化して消えていくものを前提に考えることは、この場所ではしない。
 

つまりは、欲の満足――自己顕示欲や経済的利益といった「自分のため」。こうした発想を最初に引く。平たく言えば「アホらしい」。

欲は汚物。欲が生み出す妄想も同じ。

世の中には、いろんな欲と妄想の産物が溢れている。宗教にもそういう一面がある。


欲と妄想を引け――というのが、この場所の思い。

つねに自分を引いて考える。この場所の基本。


この場所は「ひねくれて」いる、かなり。

世の中の常識(しいて言うなら俗な発想)は、通用しない。

本を読んで感じてもらうは善い。だがそれは、自分を成長させるためだ。

他方、自分を見つめる代わりに、この場所(私という人間)に「執着」する人がたまにいるが、間違いだ。過剰な美化や礼賛、あるいは真逆のつきまとい・・・?

そうした執着は、結局、本人を変わらないままにしてしまう。

自分の中の欲、怒り、都合のいい妄想。

自己愛、傲慢、支配欲、上昇欲。あるいは、怒りの憂さ晴らし。

そうした執着を、この場所は受け取らない。

ポジティブであれネガティブであれ・・だ。


受け取ってしまえば、その人が今後も苦しみ続けることになるだろうから。むしろ気の毒に思うから(慈悲)。 


もし場所を預かる側が(この場合は私だけれど)欲や妄想に囚われていたら、そういう人たちの執着に都合のいい妄想を語りだすだろう。そして利用し、利用される関係が作られる。

それが、世俗に溢れている関係性だ――もちつ、もたれつ。互いの利益をしっかり補完し合う関係。SNSやオンライン・サロン、セミナーや宗教がその一例かも。


共通するのは、欲と妄想との結びつき。

真ん中にいる人間に欲と妄想があり、それを取り巻く人たちにも欲と妄想がある。

その欲と妄想は、中にいる人には都合がいい。だが外から見れば、歪(いびつ)にして滑稽に見える。

閉ざされたコミュニティ。利益の共同体。真ん中が最も利益をむさぼり、それに群がる人たちも満足する一方で、外の人たちは無関係(むしろ冷ややか)。


こういう関係は・・・この場所は取らないし、取れない。生理的に。

 

この場所・私のことはどうでもいいから、自分の人生をしっかり生きてください、と伝えている。いつも。

執着を向けられていると感づいた瞬間に、この場所は「消える」。いさぎよく。

すると、執着していた人は、自分だけを見ることになる。自分の課題だけが残る。

残ってもらって、自分自身を見つめてもらう。


この場所が消えても、仮に仏教が亡くなっても、人間が幸福に生きるための挑戦は、いつの時代も、どの場所でも、できる。できる範囲で精一杯、生きていけばいい。


この場所は、人の執着のエサにはならない。

依存すること、執着することをつつしんでもらう。

あくまで自分自身を、自分だけを見つめてもらう。


いつかこの場所がなくなっても、

人が強く、思いやりをもって、

この世界を支える一人として生きていけるように。




2023年10月23日



「自由に生きる」が基本

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【仏教講座・親子編】
「自由に生きる」を基本にしよう
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生きることは、それほど難しいことではありません。そう個人的には思います。

生きるとは、自分のことは自分でやること。

自分が望むことを第一にすること。

少しでも嫌悪や違和感があったら、その理由はなんだろう?と考えて、自分なりに言葉にすること。

どれも当たり前の話。最初の二つは、動物でもやっている、自然界の鉄則みたいなもの。

三つめは、考える力を持った人間だからできること。

自分のことは自分でやるのが原則であって、この点は考える(議論する)ことは不要。

ご飯を作るとか、洗濯をするとか。やってくれる家族が仮にいるとしたら、それは例外扱い(本当はおかしなこと)くらいに思えるほうがいい。

勉強もそう。自分の未来のために学ぶ。

受験するのもそう。将来につながる次の一歩を踏み出すために受験する。

「自分のため」に、学び、受験して、進学する。あったりまえの話。問答無用でいい話。

だから自分で考えて、自分で調べて、自分で選んで、自分で願書取り寄せて、自分で記入して、自分で送る。当たり前の話。

もし「自分のこと」に、他人が手を出して来たら、それこそ異常事態だと思うくらいのほうがいい。

まして、親の期待に応えるためとか、「親がなんていうかなあ?」なんて考えているとしたら、もう立派な心のビョーキ――とまでは言わなくても、「動物でもやらないことをやってしまっている」不自然さは自覚しよう。

人は、自分のために生きている。生きていい。生きること。本当は簡単な話。

だから、自分のことは自分でやることから始めよう。

それを続ければ、次第に生活がスッキリしていく。無駄なプレッシャーやストレスを抱えずにすむようになる。



今度は親のあり方について--

自分のことは自分でやることが基本だとしたら、周りの大人、特に親は、子供が大きくなるにつれて、親にできることはなくなっていく(はず)だと自覚しなければ。

子供が一人でできることに、口を出していないか。
手を出していないか。
子供の代わりにやってしまっていないか。
子供が語る前に自分の言葉を押しつけていないか。

親の側がしゃべりすぎ、やりすぎ、考えすぎ、先回りしすぎ――その一つ一つが、「自分のことは自分でやる」という基本を侵す重大なミス。いや、重大な罪だと気づかなければ。

子供が一人でできることを、いつまでも親がやってしまっている、口を出しているというのは、親の側の「心の病気」だ。はっきり言う。病気。

この病気は、癌細胞みたいなものだと思ってください。癌は他の細胞に侵蝕し殺していく。

親の病気は何を殺すか。子供の心を殺す。未来を殺す。人生を殺す。

冗談で言っているのではありません。「殺す」のです。親が。子供を。

自分がとんでもないことをやってしまっていることを、親は自覚せねばなりません。

自分が「癌」になってしまっているかもしれないことを。

気づいた親は、引っ込んでください。口を出さない。手を出さない。先回りしない。増殖しつつある自分の危なさに気づくこと。

そして厄介な自分のあり方と闘ってください。退治すること。自分の中の癌を。


子供を殺してはなりません。子供を自由にしてください。




2023・10・14




滅びゆく世界で

旅の途上で感じたこと


10月某日
東京から西へ旅に出た。野山のどこを見ても、人の手が加わっている。古(いにしえ)の時代から、数えきれない人たちが、日々、野を耕し田畑に変えて、通行の便宜を図って道を拓いてきた。そうしてできあがった、この美しい風景がある。

だがここ数年、旅しながら思うのは、この風景がいつまで続くであろうという憂鬱めいた思いだ。人は減り、勤勉は美徳とされなくなった。今や農作業からも逃げ出す人たちが増えてきた。しんどいことを嫌い、コスパ、タイパと、ラクすることを正当化する風潮さえ出てきた。

列車の中で、ほとんどの人はスマホを見ていた。ある駅でドアが開いた。小学生の子が、スマホゲームに気を取られて、降りようとしない。子供の後ろに、両親と祖母らしき女性が立っている。急がせるでもなく「着いたよ」というだけ。子供は億劫そうに顔を上げてホームに降りる。

小さな光景だが、意味するところは深刻だ。何しろ外にいながら動けないのだ。

全国を回っていると、こうした光景をよく目にするようになった。あくまで個人的体験にすぎないが、日常レベルで人の心が大きく変容しつつあることを切に感じなくもない。


翌日、講演会場がある駅から一つ向こうにある無人駅で降りた。

駅には、新型コロナ克服3カ条のポスターが。「人と人 間が愛だ」というダジャレ標語のもと、テレワークの勧めや、動物を人の間に置いたイラストで、2メートル距離取ろうとか、おばあちゃんとは直接会わずに電話でつながろうとか。

この不毛、いつまで続けるつもりなのか。

こうやって人を引き離し続けて三年間。結婚数は50万組台に落ち込み、出生数は80万人を切った。

コロナ騒ぎが始まった2020年に、50万人の人口減少を記録。小さな県が丸ごと吹っ飛んだことになる。一年で止まらない。以後連続だ。逆に死者数は一年あたり140万人を突破した。統計上の予測を越える死者が、この三年、出続けている。自然死では片づかない超過死亡者の数だ。

かつては一年に270万人近く生まれていた子供の数が、80万人を切った。ということは、その数だけの可能性が、社会から消えたことになる。一年あたり二百万人分の人生が消えた。十年で二千万人に及ぶ可能性の喪失だ。

あの戦争では、三百万人の日本人が死んだ。だが、それをはるかに超える死が起きている。現実に起こる死と、生まれたはずの命が生まれないまま終わるという意味での潜在死が、凄まじい勢いで増えている。

死んでいるのは、戦争や天災ゆえではない。硬直した社会制度と人間の心ゆえだ。社会とは変わるもの、変えるものだという前提が忘れ去られ、勤勉を美徳とせず、未来に夢を描かず、保身のみで満足して、刹那の享楽に身を委ねながら、そんなおのれの姿を顧みなくなった人々の心が奏でる、滅びへの行進曲だ。

これほどに滅びの音色が痛ましいほどに軋み鳴っているのに、人間はまだ気づかない。

“コロナ克服”という勝てるはずもなく、勝つ必要もない幻想に、こうして今なおしがみついている人間がいる。

見るべきものを見ようとしない臆病と、見ることができない無知が、自滅への行進に拍車をかけている。


最近ずっと問うている――この命は何をすればいい?


2023年10月某日

いじめを受けている人へ

※最近あった胸の痛む出来事に触れて:

 

いじめを受けることは、とてもつらい。

おおげさではなく、人生の危機だ。今のままでは自分が滅ぼされていく。


いじめの構図には、共通項がある。

最初は、いじめる人間個人の悪意。

次に周囲の無視。なぜなら悪意を言動に移せるのは、立場が強い人(上司・先輩・先生etc.)だから。周囲も見ないふりをする。

さらに、上の人の保身ーーいじめを訴えた人が直面する異質の原理。


いじめを受ける人は孤立無援だ。その場所に愛着があるほど、絶望は深くなる。

憧れをもって入った場所なら、その場所にい続けたいと思うのは、当然だ。自分が努力すれば、きっと進級できる、夢がかなうと思う。そういう場所だと聞いていたから、そう信じるのは当然の話。「まともな場所」なら、本人の意欲と努力が正しく評価される環境になっているものだ。

だが、現実には、「悪意」と「保身」がその場所の原理であり、伝統、文化、校風だったりする。

もともと悪意を向けても許されてしまうような、上下の構造や力関係があった。

あるいは、「上の人間」の保身が通るくらいの惰性が続いていた。伝統、歴史、閉塞性。


陰湿ないじめがときおり発覚するが、共通するのは、こうした条件がそろっている場所だ。



いじめを抜け出すために、確実に正しい道筋というものがある。

一つ、小さな悪意を容認しないこと。

悪意は悪意だ。加害者が先輩だからとか、上司、先生、校長、社長だからといった理屈は通らない。相手の悪意を察知した時点で、「やめてもらえますか」と伝えること。

いつ伝えるかは考えてよいことだ。でも受け容れることは正しくない。悪意は続くものだから。

穏便に伝えても、悪意は止まらないかもしれない。ならば真顔で伝えることを選ぶ。怒ってもいい。泣いてしまってもいい。

「やめてもらえますか(わかりますか?)」と伝えること。それが正しい選択。


二つ、他の人を探すこと。

伝えても伝わらないことが、現実には起こりうる。何しろ悪意は続く。相手は悪意を通せるくらいに「強い」人間だ。無視される。笑われて終わり。あるいはいっそういじめが悪化したり、報復されたりという事態も起こりうる。

その時は、ちゃんと記録を取ること。そして、この事態を誰に伝えるか、わかってもらえる人はいるかを、その場をよく見渡して考える。

「まともな場所」なら、言えば伝わる。あっさりと。「事実」ほど強いものはない。事実を確認する。こちらの思いも受け止めてもらう。

事実は、人によって違うこともあるから、簡単にはわかってもらえない事態も起こりうる。だが、だからこそ「記録」がモノを言う。

事実と感情ーーこの二つは、受け止めることが基本だ。「まともな場所」なら、感情は受け止めてもらえるもの。そして事実ならば、再発防止の策を直ちに取る。「まとも」とはそういうものだ。

だから、いじめというのは「まともな場所」なら、続かない。

「まともな場所かどうか」ーーこれも、よく周りを観察して、考えてみてほしい。結局は、伝わるかどうか。


三つ、外の人を探すこと。

「どうやらまともな場所じゃない」ということが見えてくることもある。

個人の悪意が通ってしまう。事態を訴えても、無視される、はぐらかされる、隠蔽される、いっそう追い詰められる。

そういう場所は、「悪意」と「保身」がまかり通っている場所だ。では、そこからどうするか?

もし自分の怒りが強いなら、「外の人」に伝えていくことも、選択肢になりうる。行政、弁護士、NPO、さらにはメディアやSNS――なるべく平穏無事に解決したいものだが、そのままでは解決しないとなれば、「外の人」に理解を求めていくほかない。


四つ、こちらから捨てること。

伝えても、理解されるかどうかは、わからない。
その場所に、いられなくなるかもしれない。

だが、悪意を受け続けるくらいなら、その場所は、どんなに愛着があったとしても、やはり留まる価値のない場所なのだろうと思う。

その場所から離れるのは、くやしいし、みじめだし、寂しいし、本当につらいものだけれど、自分が「伝える」という一本の筋を最後まで通して、「伝わらない」ことがわかったならば、もはやしようがないのかもしれない。

その先は、その場所の異常さとは無縁の「まともな世界」を探して、その中でまともに生きていく。

新しい人生を生きる。

それが最後のゴールということになる。

 


今いじめを受けている人には、「外」の誰かを見つけてほしいと思う。

君が死ぬ必要なんて、ない。

外の世界でだれか一人と出会えたら、生きていける。

 

生きてほしい。君は決して一人じゃない。




自己愛はひそかなブーム?

最近ひそかなブーム(?)になっているかもしれないテーマとして「自己愛」がある。

自己愛――自分の承認欲を満たすために、人・物・情報・装い・ライフスタイルと、あらゆるものを利用しようとする心の動き。

たいていは、自分の姿を人に見せようとする(自己顕示)として現れる。


なぜ自己愛を取り上げるかといえば、自己愛に満ちた親のあり方が、子供にどれほど負の影響を与えるかを痛感することが多いから。

個人的に苦い気持ちになるのは、親の自己愛を満たす道具として子供を使ってしまっている姿を目撃する時。

小さな子供の姿をSNSやメディアで公開して、子供を通して自分の価値をアピールしようとしているところが見えてしまう時。日常を単純に共有するだけなら趣味といえるが、子供に接している私を見て、褒めて、という動機が見えることがある・・。

幼い子供にとって、他人の視線は有害だと思うほうがいい。子供は小さな日常の中で安心して遊べれば、それでいい。パパ・ママが自分を見てくれていたら十分に満足。それ以上のものは、求めていない。

ところが、自己愛に染まった親は、子供ではなく、外の他人の視線や評価、いわば「世間ウケ」のほうを見てしまっている。

子供とすれば、いつの間にか自分のプライベートが、人生の大事な一部が晒されているという状況になってしまっている。ご近所自慢もSNSもテレビ取材も、子供にとって本質は変わらない。

心にとって「イヤ」だろうと思う。何がイヤって、自分のプライベートを、自分の意志におかまいなしに晒されること自体が、イヤ。「勝手に決めないでよ」と思うし、そのうち奇妙な苦々しさを感じ始める。

愛されているのではなく、親の自己愛に利用されていることが見えてくるゆえの違和感だ。


さながら、強制的に舞台の上に立たされて、パパ・ママが求める演技を強いられるようなもの。楽屋裏でやればいいことを、わざわざ衆人環視の中でやらされる。

「わたしは、パパ・ママの自己愛のエサなんだ」――そんな言葉は子供から出てこないだろうけど、起きていることは、そういうこと。

剥き出しの自己愛を一方的に振るわれる子供は、顔がひきつっていたり、こわばっていたり、無表情だったり、不機嫌そうだったり、憂鬱そうだったり、泣いていたり、リストカットしていたりしているのだが、

親はまったく気がつかない。それよりも、「どう、こんなに輝いている私?」 というところに立ってしまっている。

こういう親は、自分が子供をどれほど圧倒し、打ちのめし、奪っているかに気づかない。たとえば、子供が気を遣ってこんな言葉を言ったとして--「お母さんはすごいね」「お母さんありがとう」「お父さんにはかなわない」――その言葉を簡単に真に受ける。感動して、泣いたりする。

自己愛のカタマリだから、親を賞賛してくれる子供の言葉に瞬時に飛びつく。エサに食いつく魚のように。


この時点で、親子関係は実は破綻している。言葉の裏にある子供の思いが見えていないから。

「お母さんはすごいね」という言葉の裏には、「私のことは、どうでもいいんでしょ?」という本音が隠れていることがある。

「ありがとう」の言葉の裏に「そう言ってほしいんでしょ?」という醒めた思いがあることもある。

「親にはかなわない」という殊勝な言葉の裏には、「どうせ私は及ばないから」という自己肯定の低さが潜んでいることもある。

自己愛のカタマリと化した親には、立ち入るスキがない。本人たちは、自分がおかしなことをしているという自覚がない。しかも、ご近所・世間の評判は良かったりする。

子供は、内心うろたえ続けるほかない。

「お父さん、お母さん、私のことはどうなるの?」
「私って、結局なんなの?」

という疑問が、いつまでもつきまとうことになる。

それが、自己愛の帰結。心理的虐待の一種。



「自分キラキラ、頑張ってます」という自己愛は、止まる気配がない。だが、そんなに大事なものだろうか。「なくても生きていけるし、持たずに生きている人は大勢いる」という点で、本当は必要がないもの。卒業したっていいものではないかと思えてくる。

自己愛は、結局、周りの人たち、特に子供の心を、自分に吸い寄せる効果しか持たない。

自分は満足。だが子供の心は確実に奪われる。親の自己愛に搾取され、傷つけられる。

それでも自己愛の快楽は、あまりに甘美なものだから、人は何歳になっても、どんな立場に立っても、子供がいても、なお自分をキレイに見せる生き方を続けようとする。

子供としては、立場がない・・・だが疑問をぶつけることは、自分の足元(生活)を掘り崩すことになるから、口をつぐんで、絶対に語らない。

自己愛で限りなく突っ走る親と、そんな姿に言葉を失った子供と・・・遠い距離のまま、歳月が過ぎる。

そして、いつか破綻する。



自己愛は、厄介なものだ。いくら満たしたところで、小さな自意識の満足にしかならない。それでも麻薬のように人の心をひきつける。

自己愛を卒業できれば、小さな自意識の満足以上の喜びが入ってくるかもしれないのに。

幼い子供が信頼してくれて、優しさや気遣いを精一杯向けてくれて、いろんな表情を見せながら日々大きくなっていく。

その姿をそばで見られるだけで、十分幸せではないのだろうか。なぜ自分が必要なのだろう?


目の前の子供の優しさと成長よりも、まだ自分が他人に賞賛されることを求め続ける。

「輝いていたい」・・・それが自己愛。


自分の姿を見なければ、それだけで卒業できるものなのに。





2023年10月7日


「学校に行かなくていい」は正しいか


ときおりフリースクールの現場に立ち会うことがあります。もともと私自身も、かつて同様の場所を立ち上げたり、顔を出したりしていた経緯があるので、関心を持っています。

不登校の子供の受け皿を作ることは、大事なこと。でも少なくない割合で、活動が頓挫していくケースを見ることもあります。

いくつかのケースを見てきて思うのは、
 
その場所での活動が、大人たちが良かれと思う内容に偏っていきがちということ。

つまり、学校は行かなくていい、本当の学び・教育は別のところにある・・というメッセージを大人の側が打ち出してしまって、

子供にとって必要な「学び」が置き去りになってしまうことです。

ここでいう「学び」とは、「学校の勉強」という意味ではありません。社会の中で仕事を見つけて生きていくための経験や基礎的学力のことです。
 
いわば、世の中に居場所を見つけるため、「社会に着地するため」の学びです。

学びは、個人的営みで終わるものではなく、社会的な意味を持ちます。社会という場所は、どうしても、一定以上の教育を経ていること(体験・知能・技能・知識ほか)を求めてきます。学びは、それに応える部分を持ちます。
 
社会とはどういう場所かといえば、人の求めに応じる役割を果たす場所であり、そうすることで自分が生きていく糧(特に報酬)を得る場所だといえます。

人は社会の中で生きていきます。だから何を学んだか、どんな体験をしてきたかを、社会に知ってもらう必要が出てきます。

自分を知ってもらう手段が、教育であり、経歴であり、資格や学歴といわれるものです。「義務教育を終えた」も、自分を伝える手段です。どこの高校で学んだ、専門学校に行った、大学を出た、院を出た・・・というのは、社会での居場所を見つけるための手段です。
 
だから、学校に行かない選択はアリだけれど、代わりにどこで何を学んだかを示せることは、将来居場所を見つけるためには、やはり必要になってきます。
 

「学校に行かなくていい」ということと、「ではどうやって将来、社会に居場所を見つけるか」は、別の問題です。人生全体を眺めてみれば、圧倒的に大切なのは、後者です。

なにしろ学校は十代まで。だが社会で生きていくのは、その後さらに五十年以上。「学校に行かない」で片づくはずもありません。

社会に受け入れてもらうための学びまで放棄してしまったら、社会の中に居場所を見つけることが難しくなるかもしれません。
 
だから「学校に行かない」選択をした・しようとしている親と子が気をつけなければいけないのは、

その後を、どこでどのように過ごすか。世の中に居場所を見つけるための学びを、いつ頃から、どんなやり方で始めるか、ということになります。
 


一定レベル以上の学びを求めてくる社会の仕組みは、はっきり言って変わる可能性は、ほとんどありません。まして教育的・経済的格差を容認しつつある社会は、この先かなり酷な場所になっていくおそれもあります。

ときおり危うさを感じるのは、大人の側が、学校を相対化すること(≒学校だけが学ぶ場所じゃないよという理解)を越えて、

学校なんて嫌いでいい、行かなくていいというところまで答えを出してしまっていることです。

ならば社会とはどういう場所か。この先、子供がどんなルートで学びを得て、社会の中に居場所を見つけるのか。それをどのように手助けをするか。手助けできる力があるのか。

そこまで問うに至った時点で、その場所のあやうさのようなものが露呈することがあります。その場所・そこにいる大人が導こうとしている先には、自分たちがよかれと思うもの(いわば人生観・教育観)以外にない--ということが見えてくることがあるのです。
 
やがて親たちの期待は裏切られ、子供は外に放り出されて、空中分解・・・ということも、実はけっこう起きています。


「学校なんか行かなくていい」といっても、その「学校」は、がんじがらめの公教育の姿でしかないかもしれません。本来の「学校」とは箱のようなものです。いろんな要素が詰まっています。体験、知識、能力、技術、コミュニケーションの方法など、いろんなものを学べる可能性があるのが、学校という箱です。
 
「学校が合わない」と一言でいっても、校則・校風や、教師の性格や指導力、教室にいる生徒の顔ぶれ(相性)、授業のスタイル、教材の内容、家庭での生活習慣や(一見気づかない)親子間の問題など、その理由はかなり幅があったりします。
 
また、「親のあり方が影響している」ことも、実は少なくありません。親のクセ、性格、気づかぬうちに子供に伝わってしまっている言外の雰囲気やふるまいや言葉、家でのすれ違い・行き違いなどが、子供の心身に影響を与えて、学校に行くだけの気力・体力・適応力を奪っている・・・ということも、意外と多いものです)。
 

学校という箱そのものは変えていいし、抜け出すことは、選択肢としてアリです。とはいえ、箱そのものを放棄すること、つまり社会に出る準備としての学びまで放棄することは、子供にとって意味があるとはいえません。むしろ危険です。
 


しかも、世に出るための学びを得るための教育は、子供の側から出てくるものではありません。

子供の自主性・自発性を尊重すれば、子供はみずから学び、世に出て行こうとするか?――残念ながら、心はそれほど強くありません。

学びは高度な営みです。伝えなければ伝わりません。何もしなければ、心はラクを選びがちです。特に今の時代のように、ゲーム、ネット、動画など、時間を漫然と費やす道具が身近にあれば、心がいっそう流されていく自体も起こります。いや、すでに起きていますよね。


学校に行かない選択をしたまでは良しとして、その後どんな時間を過ごすか、どこで学びを得るか。家に閉じこもって、スマホをいじって、ネットやゲームで時間を潰して、ほんの少しの時間を使って参考書を開く日々の延長に、社会における居場所はあるか。難しいかもしれません。

下手をすれば、学校という箱を上手に使って世に出ていく子供たちと同じ場所に立てなくなるおそれもあります。
 
こうした可能性をも、周りの大人たち、そして本人は考える必要があるように思います。


とりあえず、学校外の学び・教育を考えている親子には、こんなことを伝えます(あくまで私自身の過去の体験にもとづくもので、正解はさまざまにありえます):


●学校にこだわる必要はない。学びの方法は、人の数だけある。

●社会が求めてくるもの(理解力や、基礎的な知識や思考力、人と関わる技術など)は、大して変わっていないし、この先も変わる可能性はあまりない。
 
●学ぶのは、社会の中で居場所を見つけるため。「点数・成績を上げる」ことではない(ここを間違えると、勉強が嫌いになりやすい)。

●学校に合わなかったからといって、勉強が嫌いか、苦手かは別の話。場所を変えれば、先生が変われば、使う本が変われば、「わかる」「できる」かもしれない。勉強が楽しくなるかもしれない。


こうした可能性を見て、どれだけ自分で工夫して、努力できるか。それこそが本当の挑戦じゃないかなと思います。

学校は一時的な場所(通過点)に過ぎません。学校を否定できても、社会そのものを否定して一生を生きることは、しんどいものです。

 
みんないずれ大人になります。この世界のどこかで生きていきます。

最終的に世に出る。そのために必要な学びをする。
 
それが今。ここから数年の最も大事なこと――だろうと思います。

 

世の中は、居場所が見つかれば、楽しい場所になります。
 
学校という箱もそうです。わかってくれる大人や、一緒にいてくれる友が見つかれば、楽しい箱に変わることもあります。
 
もし学校に居場所がなくても、社会に出れば居場所が見つかるかもしれません。いや、高い確率で見つかります。なにしろ学校とは比べ物にならないくらいに、いろんな人間・さまざまな仕事があるのが、社会だからです。
 
社会で居場所を見つけるために、学ぶのです。
 
 
もし私が十代のみんなと勉強できる場所を見つけたら、世に出るための学びをちゃんと伝えたいと思います。





2023年10月6日

この国は「裸の王様」


10月といえば、例年は秋ですが、今年はまだ夏の暑さが続いています。

着実に気候が変わりつつあるのに、世界は別のことに忙しく、命運がかかっているかもしれない問題については、奇妙な無関心が続いています。

あと百年、千年経った時に、この国・この世界で今起きていることの意味が明らかになってくるのかもしれません。

基本は、自分にできる範囲で正しく生きること。生き貫くこと。それに尽きます。



この国は、いつの時代からか「裸の王様」がまかり通るようになってしまったのだろうと思います。

誰も「王様は裸だ」と言わない。いわゆる忖度。馴れ合い。

「王様は裸だ」と言えば波風が立つから、語らないほうが無難。

だけれど、裸は裸だと言わないと(別の視点を維持しないと)、裸そのものが装いだ(≒まがい物が真実だ)と思い込む人が増え、

ひいては本当の真実すら忘却される事態にもなりかねず、

「裸は裸」(≒真実は他にある)ということを言葉にしておかないと、結局、正しい物の見方が滅びてしまう。

結果的に、人間の強欲がのさばって、苦しみが増える。


日本は、いつの頃からか、そういう事態を繰り返してきたのかもしれません。特にこの百年。

「裸は裸だ」と言わない、その場しのぎ・現状維持・現実回避・先送り――それが、日本社会の歴史。

破綻するまで、露呈するまで、なかったことに、正しかったことにされてしまう。

変わる力がないからこそ、行き場のないエネルギーは自壊・自滅へと向かっていく。

それくらいしか、変わる方法がない。あの戦争はまさに一例。代わるのは天変地異か外からの圧力か。


私にできるのは、言葉を遺すこと。

残された時間の中で、言葉を遺す。

あとは見つけてくれた人が、自分の中で活かしてもらえれば。

そして、自分にできる範囲で、少しでいいから、周囲にいい変化を起こしてもらえたら。







2023年9月30日


親たる者の最後の目標

*あるお母さんから

(ブログ「親という名のノーコン投手」にちなんで)

(略)

情けなさばかりで前が見えなくなりそうになります。
自覚するとこんなにも苦しくなるのだと、

我が子にはこれ以上の苦しさを
長きにわたり感じさせていたのかと気づき愕然としています。

今やれることから逃げずに、自分の業と向き合います。
身体の感覚を付けていく練習をし
無駄な反応を減らすことを継続していきたいと思います。

(略)


・・・・・・・・・・・・・・・・・・


とても勇気づけられる正直な言葉です。

多くの親が、無自覚だった過去の自分を知るに至って、胸に痛みを感じます。

痛みを引き受けようとしない親は、幼く姑息。

痛みを引き受けようとする親は、大人です。

これだけのことを伝えられるお子さんも、奇跡に近いくらいに、大人になったのだと思います。

親としては尊敬と感謝を向けるしかない立派なお子さんです^^。

子に恥じない親にならねば、です。それこそが親たる者の最後の目標。

 


 

 

 

生きられる限りは(ハンディを持つ人に向けて)

*障害を抱えて生きている、ある人のおたよりにちなんで:

 

おたよりありがとうございます。

生きられる限りは、堂々と生きていく。

生きられる範囲で、無理を背負わず生きていく。

人間は、生きていける限りは生きていくだけです。

それが命の本然(本来の姿)。否定することは、誰にもできません。

本来、人が人の生きる意志を否定することなど、不可能なのです。


生産性とかなんだとかという概念をもって、命の価値を選別しようなどという妄想は、聞くに値しません。

そうやって他人の価値を選別し、排除しようとする人たちは、結局、自分自身がいずれ選別され排除される定めを作り出していることに、気づいていないのです。

たとえば、国民の安全を確保するために全力を尽くすことが、国の務め。

その務めを簡単に放棄したのが、小泉政権時代のイラク日本人人質事件(2003年)。

あの時、「自己責任論」という言葉が流行りましたね(言い出したのは当時の内閣にいた政治家です)。

危険な地に足を運んだのは自分だから、自分で責任を取れ、国は、自分たちは、何もしなくていい、むしろいい迷惑だという論調でした。


「人に迷惑をかけるな」という日本人が好きな言葉は、「自分が安全なら、利益があるなら、他人など知ったことではない」という無関心と排除と表裏一体です。一見、人を思いやっているように見せながら、その本音は、自分に都合の悪い他人を排除せよという利己的なもの

「自己責任論」は、 その後20年経って、働けない人は生産性が低いとか、老人は自ら命を断てばいいなどという(言葉にするのもおろかしい)排除論へとつながっていきました。ごく一部の人間だけが得をする社会に変わっていったように思います。


こうした排除論を語る人間は、なぜか自分は例外だと思っている様子です。自分は働けるぞ、若いぞ、少なくとも誰かよりもマシだぞといった優越感を隠し持っている様子。

「くだらない」とあえて言うのは、そうした理屈は、すぐさま自分への否定・排除に転じることが、見えていないから。自分は例外、自分は特別、自分は他人を見下し、排除する資格があると思っている。だがいずれ、自分自身が排除される側に回る。その現実が見えていない。

そのうえ、苦しみが増すことも見えていない。ごく少数の人間だけが得をして、残りの人間は排除される――それが当然だと言ってのけるような社会が、本当に幸福なのか、目指すべきあり方なのか、という全体に対する問いがない。

都合の悪い他人を見下して、蹴落として、自分の利益だけを確保できれば満足。富か学歴か名声なのか、何かを勝ち得たと勘違いした自分に陶酔して、排除された他人をフフンと鼻で笑うような人間たちが、社会にどんな価値を生み出せるのか。

そうした発想が拡散する先に、社会の幸福が増えるかといえば、絶対にない。


逆に、一人一人が生きて、できる範囲で役割を果たして、生産性とか労働力とか貢献の大小とかそういう社会的記号とは関係がなく、生まれてきた人がみんな等しく大事にされて、「生きたい」という意志を尊重してもらえる社会のほうが、

その中に生きる人たちは安心できるし、そういう社会を大事にしようとも思える。社会への信頼も持てる。だからこそ優しくなれる。社会も発展していゆける。

社会がめざす方向性は、後者でなければなりません。自分だけがよければいいという短絡は、利己と排除と分断に満ちたディストピアを招きます。それはもはや社会ではありません。

これは、歴史を通して人類が出した結論にしていい。それくらい自明の(議論する必要もない明らかな)価値です。



選別や排除という発想が持つ危険に思いが及ばない、そうした発想が自分の足元(社会)を掘り崩す最大の愚策だということがわからない。

そういう大人たちが、世の中には一定数いるらしい。自己都合の妄想に囚われた姿です。


心の性質を見れば、こうした姿へと化していく・増えていくのは、自然です。だが正しいはずはありません。


心ある人は、しっかり一つの前提に立ってください――


人が何を語ろうと、世界がいかに狂っていようとも、

人間は、生きられる限りは、生きていく。

 
ためらうことなく、迷うことなく、堂々と。

生き抜く。


それが答えです。上がり。




2023年9月25日

この国で起きていること

この場所は、世の中の苦しみを見据えて、

正しい理解と

慈悲にもとづいて

人の苦しみを増やさない最善の選択を探していく場所です。

だから、あくまでニュートラル(中立)。


もし世の中で起きていることが、「何か変だ」と感じたら、どこから始めるか。

まずは事実をよく見ること。理解すること。

「自分はこう思う」「これが正しいはず」という妄想ではなく。


そして「原因」を探ること。

これも、曇りなき心の眼で。

これまでの自分が正しく見ていたとは限らない。

もしかしたら事実を見逃していたかもしれない。


世界は欲と妄想に覆われているから、世界が、社会が信じていることが、正しいとも限らない。

たとえば、事実を重ね合わせると、こんな事実も浮かび上がってくる――。


感染者数・重症者数・死者数の増減(波)に影響を与えている「原因」は、何なのか。


人が語る言葉より、事実のほうが、真実を語ってくれていることもある。




看護専門学校の講義(医療倫理)の資料から

WHOおよびジョンズ・ホプキンス医科大学が公表していたグラフを時間軸で重ねたもの

接種回数と陽性反応者数・重症者数・死亡者数の増減の波が連動しているように見えます


幸せな生き方が、人それぞれに違うように、

苦しみを増やさないための医療も、

人それぞれに答えは違う。

それが真実ではないのかな?



 


看護という世界に生きる人へ2

とある看護専門学校で講義を持たせていただいて、はや8年。

看護師さんは、私にとって、最大限の敬意を払うプロ中のプロの方々です。

本を読んでくださっている看護師さんもたくさんいるし、このブログをのぞきにきてくださっている看護師さんもいるようなので、前回に続けて、看護学生のみなさんにお話ししている内容を紹介します:

 

レポート課題 なぜ看護に感情は要らないといえるのか?
 
<講評>
看護=まず見えること=理解すべき点を正確に理解すること(「観察」はその一つ)
 
そこまで置き換えたうえで、何を理解すべきかをちゃんと書く。<視点>を使ってまとめてくださいとありましたね。

患者の心と体、特にその苦しみ+原因+方法+選択の基準を理解する 患者の苦しみを増やさない正確なケアを理解する。

こうした点を理解するうえで、感情は要らない。

と言うことを書けば加算しました。

<残念だった点>
「患者と同じ感情を持つ(共有する)こと」「看護師が感情を抑制して、患者を喜ばせてあげること」といういわゆる「感情労働」が必要だと書いている人がいました。大きな間違い。

「理解」と「共感」は違います。患者と同じ感情になって喜んだり悲しんだり怒ったりというのは、看護に必要ありません。状況によっては、そういう姿が、患者を喜ばせる・癒やすことはありえますが、そこまで求められては、看護師が疲弊してしまいます。考えてみてください。

「感情労働」「感情規則」というテーマは、今後も出てきます。看護の業界で最も誤解されているところ。もともとホックシールドというアメリカの学者が提唱したものですが、「キャビン・アテンダント(スチュワーデス)には感情労働が必要だ」と言いだしたのですよ。

乗客の理不尽な要求にも、平静に笑顔で対応しましょう、そうやって乗客の満足度を上げて、利益を上げましょう(そしたら給料も上げてあげます)という経営者目線で言い出したことなのです。組織のマネジメントとして採用されて、研修内容になって、あっという間に広まりました。

これが、スッチー(スチュワーデス)と似ている(と勝手に思われてしまった)看護師・介護士などにも当てはめられた(いい迷惑)。

相手の感情に寄り添うことが大事だ、こっちの感情はコントロールすべきだ、感情労働頑張れ、我慢しろ、いつだって明るくスマイル、看護師は白衣の天使、微笑みと慈愛をふりまく聖職者たれ――という話になっていくのです。
 
「患者の前で泣いてはいけない、泣くならトイレで泣きなさい」・・・おいおい。でも本気みたい。調べてみてください。

(※ちなみにここから、アンガー・マネジメントというストレス管理の発想につながっていきます。いかにも資本家に都合のいいアメリカ的発想かも。結局、ストレスを強いられる側が努力しろというのです。
 
いや、それはおかしい。コントロールやマネジメントだけでは片づかないよ、という理由で登場したのが、草薙龍瞬著『怒る技法』マガジンハウスですw。感情で怒るのはまずいけど、正しく怒れる技は必要という--19日に大阪で講演やります。)

なんで患者の感情にあわせなきゃいけないの? 理解してあげることは人として大事だけれど、理不尽な相手にも怒っちゃいけないとか、むしろ患者の感情を「操作(コントロール)せよ」・・・「やってられない」と思いませんか? 

あきれた患者にも感情を出さずに優しくケアしましょう--なんていう阿呆な勘違いがまかり通ってしまったから、看護師さんはみな苦労を強いられているのです。

看護師に真の尊厳と敬意を。皆さんはプロ中のプロ(高度な専門職)です。しなくていいことは、しなくていい。イヤな患者(暴言・八つ当たり・わがまま・セクハラetc.)には怒って当然。毅然と対処すべし。

感情は要らないのですよ。もっと大事なことがある。理解すること。心と体。苦しみとその原因。原因を取り除く方法――こういうところを正確に理解して、適切なケアを提供する。

それができれば十二分。看護師は天使じゃない。プロです。

見るべきものが見えるプロになれば、それで上がり(満点)です。違いますか?


 
某看護専門学校にて
2023年9月10日

看護という世界に生きる人へ(コロナと看護)


とある看護専門学校での講義(医療倫理)にて:
 

レポートを返却前に、講評します。今回は第3問「コロナ禍の3年間を振り返る」について――

感想をひとことでいうと、「考えていないな」です。厳しい指摘になりますが、みんなびっくりするくらい、考えていませんでした。

今回最も多かったのが、コロナ禍はしんどかったけど、その中でもこんなに楽しいことがあった、意味があったというポジティブな解釈。
 

完全黙食して、文化祭も中止になって、入試の機会さえ危うくなって、祖父母の死に目にも会えなかったのに、「今後も感染対策を徹底したい」みたいな意見もありました。

そうした見解が間違っているというわけではありません。しかし。

「検証」した人がゼロ。コロナ禍でいろんな我慢や苦痛を体験したなら、本当にこの3年間は正しかったのか?を考えてください。少なくともそういう疑問を感じたというところまでは、考えを進めることです。


たとえば「コロナ禍」といっても、➀新型ウィルス自体の客観的危険性(毒性と感染力)と、②社会の対策(コロナへの向き合い方)は、まったく違います。


客観的危険性がそれほどではないと判断したから、イギリスやオーストラリアをはじめ、海外のほとんどの国は「コロナは終わった」という認識です。完全に過去になっています。

しかし日本の場合は、まだ「第9派到来」と言っていますね。第六回目のワクチン接種も始まりました。今なお「コロナ禍」が完全に終わっていないのは、日本だけです。なぜ? 説明できますか?

つまりは、コロナ禍と一言で言っても、社会の対応、ひいては皆さん一人一人の認識(理解度)が作り出している部分があるのです。その場合の「コロナ禍」とは、ウィルスが起こしているものではなく、「社会が作っている騒動」です。

マスクをすることが感染防止になるのですか? マスクをしても、日本の場合は、陽性反応者数は減りませんでしたよね? 一般のマスクでは、飛沫感染は防止できるけど、空気感染は防げません。デルタ株までの糞口感染(排泄物経由の感染)も防げません。また「パーティション」や多少の距離を取るくらいでは、感染防止の効果は認められていません(このことは今年初めに厚労省分科会で結論を出しています)。

客観的危険性を冷静に吟味せずに、あいまいな理解のまま行動制限をしてしまえば、皆さんが体験したような、いやそれ以上の社会的な損失が生じます。社会活動の制約、経済の低迷、心への負の影響、ひいては未来の可能性の縮小--関わること自体に過剰な不安・警戒を持ち込めば、当然社会そのものにしわ寄せが来ます。その影響もあってか、結婚数も出生数も、危険ともいえるカーブを描いて激減中です。


しかし感染しても、やはり大多数の人は治癒するし、医療がきちんと発症者への初期治療に当たれば、重症化を防げるケースも多数です(デルタ株当時でさえ、日本人の98%以上は無症状または軽症でした。オミクロン株以降は、重症化率はその30分の1に減ったという指摘もあります)。

「PCR検査で陽性反応が出たら、症状の程度を問わず、即自宅隔離・待機。他の病気があっても、一般病院は対応しない」という方針が、本当に正しかったと思いますか? 実際、自宅療養を強いられている間に重症化して死んだ人も、少なくありません。そういう事実は見ていなかったのかな?


(講義で学んだ)「看護の技法」を思い出してください。ウィルスの客観的危険性を見誤ると(➀)、その後の「方法の選択」(②③)を、すべて間違えるのです。「感染しても無症状」「発症しても数日寝れば治る」という人にとっては、風邪の一つであるに違いない。それなのに、死亡報告事例が2000件を超えているワクチンを、年齢・健康状態を問わずに接種しようとする。

こうした選択は、個人を苦しみから救う医療として、正しいことだと思いますか?

「感染爆発」といいつつ、日本の場合は、最初の一年は、他国に比べるときわめて低い割合の陽性反応者数しか出ていませんでした。その後は日本だけ増え続けて、昨年秋から感染者数世界一が続いて、今なお「第9派到来」と言っている。

「波」が続いているのは、日本だけです。配布した資料をじっくり読んでみてください。あれは事実であって、誰かの意見をまとめたものではありません。


みなさんのレポートを見ると、この3年に起きた「コロナ禍」という現象を、自分のアタマで考えていないことが伝わってきました。「貴重な体験をした」という人が多かったけれど、同じことが起きたら、また同じことをするのですか? 始める根拠は? 効果は? いつまで? 終わらせる基準は? 「検証」したのかな?


2020年12月の時点で、全国の保健所を代表する会長さんが「早く5類に落としてくれ」と政府に要望書を出しています(教材p39)。事務処理量が尋常でない。データを冷静に見れば、5類相当の危険性しかない。むしろ医療の初期対応こそが大事だという主張です。同様の見解を支持する医師たちは、あるアンケートによれば7割近く。

でもメディアは大騒ぎをやめなかったし、多くの人々が皆さんと同じような認識で選んだがゆえに、この3年間の「コロナ騒動」が起きたのです。


こう言うと、「反〇〇」みたいなレッテルで議論を遮断してしまう人も、この世の中にはいます。しかしこれは「私はこう思う」という思い込みや、反対・賛成で片づく問題ではないのです。

倫理、すなわち議論を整理する技法が必要。きちんとデータを踏まえて、客観的危険性を把握して、とりうる方法をすべて網羅して、人それぞれに苦しみを増やさない選択をする。医療・看護とはそういうものでしょう?

みなさんが、コロナ禍でこんな体験をしたというのは事実です。でもコロナ禍そのものを、どう見るべきか、何が正しい選択だったのかを、少なくとも「問おう」(検証しよう)としなければ、どんなにポジティブに受け止めても、状況が変われば、また同じことを繰り返すでしょう。

 
ある20代前半の看護師さん(女性)は、高校時代の親友を失くしたそうです。原因は自殺です。みんながコロナを恐れて、陽性反応が出ただけでもクラスター発生(クラスターの意味を知っていますか? 「2名以上の陽性反応」が出れば、クラスターです)。自粛、隔離、休校。授業はオンライン。部活も試合も文化祭も卒業旅行も中止。外に出られず、友だちとも会えない。顔もわからない。精神的に追い詰められて、心が病んで、みずから命を絶ちました。

そういうことがこの3年間たくさん起こったのに、「いい体験だった」とだけ言って終わっていいのかな? 人の苦しみが見えない看護師になろうというのでしょうか。

みんなのレポートを読んでいて、「自分」のことしか見ていないことが、気にかかりました。


みなさんが見るべきは、「患者」です。自分じゃない。患者さんは人の数だけ違う苦しみを負っています。みんなが別の人生を生きています。わりと健康な人もいれば、孤独な人、癒えない苦しみを抱えている人もいます。そういう人たちに向き合って、自分にできることは何かを問い続ける。それが、みなさんが今後歩みだそうとしている看護の道です。違いますか?


コロナ禍の3年間についても、自分以外の人のことも考えてください。感染(正確にはPCR検査であぶりだす陽性反応)を恐れて、余命わずかな老人が孫にも会えない。家族が死んでも、死に目を見られない。そうした社会の対応が正しかったのか。

人それぞれの人生・生活の質(いわゆるQOL)に最大限配慮して、むしろなるべく会える機会を保証する。制限が過剰にならないか気をつける(それが社会への責任というものでは?)。人々が過剰な不安に駆られないように、客観的なデータをもとに、冷静に受け止めること、そして負担を増やさない選択を、その都度アップデートして告知する。もし感染したら、その時こそ医療がフル稼働して(指定病院だけでなく)迅速に対応する。そういう方法もありえたはずなのです。そうした可能性を見ようとしたのかな?

この3年間で、中高生の自殺数が、過去最多を記録しました。みなさんが「それでも楽しかったです」といえる3年の間に、別の場所では多くの人たちが追い詰められていたのです。死ななくていい人たちが死んだ。お店も潰れた。いろんな体験が奪われた。それが事実です。

こうした苦しみをも「自分の体験」として見つめた人は、本気で考え始めるはずなのです。「他に方法はなかったのか?」という問いを。

新型コロナ・ウィルスへの対応は、国によってみごとに違います。今なおコロナ禍が終わらず、国を挙げてのワクチン接種を推進しているのは、日本だけです。みなさんは、そういう特殊な社会に生きているのです。


「良質のメディアや官公庁の情報を見て判断する」と書いた人もいたけれど、情報の信憑性を判断する「基準」は、君の中にありますか? ワクチン接種後の死亡報告事例はすでに2000を越えているけれど、ほとんどのニュース番組は取り上げない。厚労省の情報がつねに正しいなら、過去の大規模薬害訴訟は起きていません(調べてごらん)。

どうやって情報の真偽を判断するのですか? ただ信じるだけなら、素人と同じ。でもみんなは、素人を救うプロになろうという人たちなのですよ。

「コロナ禍でも、大事なことを学べました」というだけなら、「戦争中でも、こんなにいいことがありました」というのと変わりません。当時について問うべきは「あの戦争は正しかったか」「始める必要があったのか」を検証することです。


「コロナ禍」という社会現象も同じです。人の命を救わねばならない皆さんは、「本当に正しかったのか」「他に方法はなかったか」という問いから始めなければならない。苦しみを見逃しては絶対にいけないのです。

それなのに、看護師になろうというほとんど全員が、この3年間の社会のあり方(医療・看護のあり方)は「これしかなかった(正しかった)」と思っているらしい。思考停止。

医療・看護は、人によって違うことが当然なのに。「みんな同じ」は、医療・看護には本来ありえない。また、苦しむ個人を差し置いて、社会がどうだった、学校の先生がどう言った、周りがこうしていたというのは、「素人」でしかない。みなさんは、命を救うために、素人である彼らとは違う「問い」から始めなければならないのに。


現実が見えない人は、余計な苦しみを背負うし、簡単に人を苦しめます。

見えない看護師、見ようとしない看護師が、人の命を救えるはずはない。と思います。


「見える」とは何か。「技法」を使って整理すること。

今回の「コロナ禍」という現象を、「苦しみを増やさない方法は? 正しい選び方は?」と検証できることです。


皆さんの先輩看護師さんたちも、「コロナ禍」に振り回され疲弊するほかなかった人たちもいれば、「視点」を持って冷静に分析して、疑問を発してきた人たちもいます。ワクチン接種後の後遺症に悩む人たちをケアする活動に全力を挙げている看護師さんたちもいます。
 
(※ちなみにコロナに感染して亡くなった看護師は、潜在看護師も含めた210万人のうちゼロです。しかしワクチン接種直後に死んだ看護師は複数名いるし、報道もされています。後遺症で苦しんでいる「元」看護師さんもいます。こうした事実は無視はできません。)


何が正しいか。それは、個人によって違う。しかし個人を越えて守らねばならない一線があります。それが苦しみを増やさない選択をする」ことです。倫理。

それは「信じる」だけでも「コロナ禍にも意味があった」と前向きに受け止めるだけでも足りない。それは「見えていない」ことと同じです。

いいですか――今後は必ず「問い」を持ってください。本当に正しいのか。自分は正しく見ているのか。現実を無批判に受け入れるのではなく、「苦しみが見えているか」「他に方法はないのか」と、疑問を持つから始めること。

そのことで、「これが正しい」という自己満足に歯止めをかけることができるのです。


今回は、みなさんが「体験」を書いてくれたので、全員満点です。体験したことそのものは嘘じゃないので。

ただ、加点できた人はいませんでした。「問い」をひねり出した人がいなかったからです。みんなが、まだ(目的意識のレベルで)素人さん。

でも、プロというのは、素人に見えないところまで見える人、素人が問えないことを問える人をいうのです。

 


これ以上、この国の人たちが苦しみ続けませんように


 
某看護専門学校にて
2023・9・7
 

日々是好日


今回はゆるやかモード^^。

インドの〇〇〇とオンラインで話をした。
息子の〇〇は7歳、娘の〇〇〇は9月〇日が誕生日なので、あと〇日で満1歳。

子供は大きくなっているけど、〇〇〇と妻の〇〇は変わってない。元気な様子。

来年インドに入ることに。現地の社会活動家たちが待っているとのこと。

日本に伝わることと、現地で起きていることは、かなり違う。よくある話。

インドの仏教は分裂状態。セクト同士で対立しあっている。坊さんたちは儀式か縄張り争いがメインで、社会へのメッセージを語らない。

衣だけもらって地元に帰り、出家のフリをして語ったり活動したりしている者もいる。

だが一般の人には区別がつかない。かなり問題になっている。

なんだかブッダが批判的に見ていたバラモンたちの姿と変わらなくなっている。


現地のことは、現地の人たちに聞かねばわからないものだ。

 

いくつかの場所から招待を受けているので、来年は必ず来てほしいとのこと。もちろん。

出家というものは、痛みからすべてを始めなければならない。

安逸と退廃というぬるま湯は、厳に慎まねば始まらない。




モンゴルの人からも連絡がきた。モンゴルからは今回が2度目。

『反応しない練習』に感銘を受けた。今、現地語に自主的に翻訳しているという。内容を考えながら翻訳するので、理解が深まるそうだ。自分のためにやっているという。

ただ、モンゴルはチベット密教の影響が強く、「反応」の元の言葉がわからない。中国語にたどり着けない。サンスクリット語は何か教えてほしいという(いろんな連絡がある^^)

中国語 有漏
パーリ語 āsava
サンスクリット語  āśrava/aasrava/
英語訳 leaking of mind

反応 reaction of mind は草薙龍瞬が選んだ比較的新しい訳語だ。ミャンマーで勉強していた時に使いだした。

『反応しない練習』のモンゴル語版の作成が今進んでいる。できあがったら進呈するとお伝えした。

台湾、韓国、中国、シンガポール、フランス、アメリカ、その他いろんな国の人たちが、便りをくださる。

 

 

この命は、場所を変え、人を変えて、いろんな役割を授かっている。

ただ、面白いのは、自分がいなくなった後のことをいつも想っているということだ。

自分はいずれ消える。自分はいなくてかまわない。自分を伝えようという意図はなく、自分の思いを形にしようという発想もない。

自分も、形も、あってもなくてもかまわない。

ただ、無色透明にして中立な「生き方」が、残るならば残ればいいと思っている。

空があり、川があるのと同じように、生き方もまた、普遍的なものだ。

ブッダがダンマと呼んだもの。ブッダ自身は虚空へと消えゆくことを善しとした。

この命もそれでよい。

人が幸せに生きられるなら、それ以外に必要なものは、この世界には存在しない。



2023・9・5

旅の終わりに想うこと


今年の全国行脚、ある場所で参加者がこんなことを言っていた。世の中はこんな状況で、この先もっと悪くなるかもしれない。こういう現実の中で子供を産んで育てることに意味があるのか、ふと考えることがあると。

気持ちは痛いほどわかる気がする。実際に、世界がこんな状況だから、子供を持たないほうがいい、社会がこんなに生きづらいのだから結婚しないほうがいい、という人はいる。

だが人間として何が正しい生き方か。まずは命をまっとうすることだ。その上にどれほどの満足を載せることができるかという問いが来る。人間もまた生命である以上は、誰かと結ばれて、子供を育てて、未来へとつなげていくことが、普遍的に価値あることだ。その前提が維持されて初めて、個人の選択(自由と多様性)が可能になる。

今は、多様性の時代だと言われる。結婚するか、子を持つかは、個人の自由。性差さえ主観によって選んでいい。いわば自分の心が選ぶことこそが正解だという、そんな価値観の変動が起きている。

それは一面では価値あることだし、社会における正解としてよい部分もあるとは思う。だが、未来がどうなるかわからないから、現実にこれだけの悲観すべき理由があるから、結婚しない、子も持たないと考えるのは、少し違う気がする。

命の本来の姿は、時代や社会のあり方に関わりなく、人が人を信じ、子を育てて、未来につなげていくことにあると思えてくるからだ。

多様性をいうなら、結婚してもしなくても生き方として尊重されるべきだし、結婚しないカップルが子を持つこと、あるいは人の子を養うことも、同じように認められていい。そういう「親」を社会がサポートする体制があってもいい。

変化を拒む社会・価値観が硬直した社会が、結婚しづらい、子育てしづらい環境を作っているだけであって、だからといって結婚しない、子を持たないことが、時代の趨勢だとか、多様性がもたらすライフスタイルだと考えることは、若干筋が違うように思う。

結婚することを、そんなに難しくしては本来いけないはず。子を育てることも、さほど難しいことではないはずなのだ。生き物なら、みな当たり前のようにやっている。

子供には衣食住を親または社会が保証して、最低限の教育を与えて、その後は何かひとつ仕事をしてもらって、生涯生きていけるだけのサポートを国が受け持つ。これがそんなにも難しいことなのだろうか。

難しくしている理由は、結婚や子育てという営みそのものにあるのではなく、人間が必要以上に難しくしている部分があるような気がする。みずから難しく考え、また人にも難しさを強いている。

難しくしているのは、人間の意識(心の持ちよう)だ。人と結ばれ、子を育てるという本来シンプルな営みが難しくしているわけではない。何が本当の原因かが見えてない可能性はないか。これもこの国を覆う思考放棄の産物ではなかろうか。

特に子育てに決まった答えがあるはずもない。人は時間が過ぎれば大人になる。その時に、この世界でひとつ働きを果たして生きていくだけである。

それができるなら、教育さえそこそこでよい。小中を義務教育と定めるなら、それ以降は、それこそ、いつの時点で仕事を引き受けるか、世の中のどこでどんな役割を果たすかは、個人の選択の問題だ。まさに自由であり多様であるべきもの。

本当はそれくらいに子育てに求めるものを緩く、ハードルを低くしてもよいはずなのである。

重くしているのは何か、誰か。この社会に生きる人間に他ならない。

親がどんな人間であれ、とりあえず独り立ちするまでなんとか面倒を見ることで、親の務めは果たしたことになる。あとは本人次第。親が過ちを犯したからとて、子供がいつまでも責めることは反則というものだし、親もまたいつまでも子供を追いかけることは、間違いである。

親たる仕事は、期間限定のお務めだ。これもまた命本来の姿。普遍的な生命界のルールである。

人は大人になり、働いて、生きられるだけ生きていく。それだけで十分だ。その中で命としての務めを果たす。結婚できるならしてみる、育てられるなら育ててみる。

体験すること自体に価値がある。成功せねばと思いつめる必要があるだろうか。思いつめていないか。

育つ、働く、生きる、結ばれる、育てる――そうした当たり前の営みを、当たり前のこととして続けていくのが、命本来の姿ではないか。社会の状況がどうだとか、未来がどうなるかといったことは、こうした命本来の姿の「次」の問題だ。

 

たしかに困難はあるし、危機は急速に増えているのかもしれないが、「命として自然になすべきこと」を左右するものではない。命本来の営みを、外の世界のあり方を理由に左右させること自体が、本末転倒なのかもしれない。

 

こうしたことを言うと、個人の選択を尊重しないのかとか、結婚できない人・子供を持てない人もいるではないかと考える人もいるだろう。無論そういうことではない。

人それぞれにどう生きるかは自由に選べばよいことだとしても、命としてごく自然な営みをまっとうできる人は、臆せずに、未来を恐れずに、堂々と生きて、めぐり会った人と生きて、子を育て、未来へと送り出す。それは議論無用の価値あることだというまでである。

結婚しない、子を持たない人生を生きる人は、その人生をまっとうすればいい。人と同じ生き方をせねばと考える必要はなく、また自分と同じ生き方を他人に期待する(同調を求める)ことも間違いだ。

生きることの中身は、同じでなくていい。いかなる生き方も正しいのである。

他人の生き方を否定することも、羨むことも、また自分の人生を否定したり卑下したりすることも、しなくていい。堂々とおのれの人生を生きればいいのである。

さまざまに生きる人々の中で、もし自分がほんの少しでも「未来につなぐ」という意識を持てるなら、自分にできる範囲で、未来につなぐ営みに参加すればいい。

「子供・子育てに寛容になる」ことは、最初の一歩。ボランティアで子供たちに関わることも一つだろうし、ほんの少し財産を提供することも、自分亡き後に寄付することもありだ。

ちなみに仏教では、物に限らず、言葉やふるまいや、それこそ微笑みだけでも、「与える」ことに含まれる。与えることが荷が重いと感じる人は、「未来につなぐ」という価値を知っているだけでもいい。

自分の人生に並べて、「この世界の未来」というもう一つの価値を理解することだろうと思う。

自分が生きることは、この世界を支えること。仕事のあるなしに関わらず、生きるという事実が世界を作る。生きるだけでこの世界を支えているという真実は忘れないようにしたい。

自分が生き抜くことで世界を支え、その事実が未来へとつながっていく。未来につなぐという意識を持って、人を苦しめることなく、生きられる限りは生きていく。

それだけで十分に意味がある。人はその事実を「人間の尊厳」と呼んでいる。


世の中にはいろんな考え方があるが、考えすぎるには及ばない。真実はシンプルなものだ。

世界がどんな状況であれ、未来がどのようになるにせよ、自分自身が精一杯生きること。

正しい(≒苦しみを増やさない)生き方を貫くこと。

未来につなげようという意識を持つ。

できる範囲で役割を果たす(生き抜くだけで役割を果たしているという真実も含む)。


それが、一人一人が選び取るべき最終的な答えということになる。

人は生きるだけであり、未来を育てるだけだ。

生きるという営みに、ためらいも否定も迷いもいらない。

 

まっすぐに生きて、育てて、命を完遂するのみである。


日本全国行脚2023完遂

草薙龍瞬

世界はまだ輝いているぞ

 

2023・9・5



親という名のノーコン投手


親であることは本当に難しい。

と、親の姿を目の当たりにするたびに、痛感する。

私が出会う親というのは、たいてい子供の姿に悩んでいるか、子供の育て方について試行錯誤している人たち。悩んでいる時点で、親としては上等。悩まない親は、まず私と遭遇しないから(しかし問題がないわけではなく、むしろ悩む親よりはるかに問題を抱えていることが多いのだけど)。

悩む親には、「まず悩んでいることを話してみてください」と伝える。たとえるなら、野球のピッチャーをやっているが、キャッチャー(子供)がまともにボールを受けてくれないから悩んでいる、そう語るピッチャーに「ではボールを投げてみてください」というようなもの。

そして投げてもらう。日頃どんな姿で子供にボール(言葉・表情・ふるまい)を投げているのかを、確認してみる。

悩める親のみなさんには本当に申し訳ないのだけど、とんでもないボールを投げる。こちらがかまえているミットに入ってこない。とんでもない暴投。腕を伸ばしても、はるかに届かない。とんでもないところにボールを投げて、バックネットにぶつけたり、観客席に投げ込んだりする。

つまりは・・・子供の心がわからない。子供の目に、親である自分がどう見えているのか、想像がついていない。


子供の側に立った時に湧いてくる思いを言葉にしてみると、

「そこじゃないんだけどな(それはどうでもいいんだけど)」
「また自分の話?」
「どうせ私が悪いんでしょ」

みたいな感想が出てくる。親の無理解に対する感想。最初は「ん?」という小さな違和感。次に湧いてくるのは、イラだち。やがて烈しい怒り。だが親はまったく無自覚に暴投(無理解)を続けるものだから、そのうちあきれて、最終的には絶望になる。

「この人には何を言ってもダメだ(何も聞いていないもの)」


それが、(本当に申し訳ないのだけど)ノーコン・ピッチャーたる無理解な親に対して子が思うこと。

実はかなり早い時期に、子供はそういう思いにたどり着いている。怒りから不信。不信から絶望へ。その時点で本音を言わなくなる。

その時点で親子関係はいったん「断絶」している。だが、親子関係という形は続く。子供としては、親がいないと生活できないから。しようがない、と子は思う。だからケンカにはならない。

親にわかってもらおうと期待を向けている子供も多い。そういう子供は、親に合わせて、いい子供としてふるまう。たとえば勉強第一と思っている親の前では、勉強している振りをする。自分が勝利者であろうと世間の中で闘っている親に対しては、親のことをすごいと持ち上げる。

こういう関係性は<役割演技>だ――親がなりたいと思っている役割を親自身が演じられるように、子供がサポートしてしまう。と同時に、親が期待する、親に都合のいい役割を子供も演じようとする。

勉強を求める親の前では勉強しているが、勉強が好きかと言えば別の話。親のことを尊敬していると言ってはいるが、実は不信や怒りを隠し持っていたりもする。


いうなれば、ミットに全く入ってこないノーコン投手にあわせて、キャッチャーである子供がそれこそ立ち上がったり、ジャンプしたり、わざわざバックネットによじのぼって、ヒイヒイ言いながらボールをキャッチして見せてきたのに、

ピッチャーである親は、なぜか目に「補正」がかかっていて、自分は親としてストライクを投げ込んできた、子供はしっかりキャッチしてきた、だから自分はコントロールのいいピッチャーだと思い込んでいるようなもの。




親がノーコン・ピッチャー(暴投投手)であることの弊害は、子供がいつまで経っても親のためのキャッチャーでい続けなければいけないことだ。子供としてはいいかげん立ち上がって、別のポジションも守ってみたいし、バッターボックスにも入ってみたい。野球というゲームを楽しみたい。つまりは社会に出て、自分に何ができるかを自由に試してみたい。

親がある程度コントロールが良くて、かまえたミットにボールが入ってきて、ラクに「受ける」ことができれば、子供は親専属のキャッチャーを卒業できる。

だが、親がノーコンだと、子供はいつまでもキャッチャーでいざるをえなくなる。先に進めない。他のポジションやボールを打つという経験もできない。親がどんなボールを放って来るか、どう受けなくてはいけないか、必死で考えなくてはいけない。そのことでノーコン投手に振り回される。

また、子供の側にも期待がある。いつか、かまえたミットにまっすぐ投げてくれる――きっと私の思いをわかってくれる--と。

悲劇の理由は、ここにある。実はノーコン投手は、いつまでもノーコンだ。投げ方(生き方)を知らないから。

暴投しまくりのノーコン・ペアレントに、子供がお付き合いしてしまう。結果的に子供の人生が振り回されてしまう。




この不幸なバッテリー(親子関係)を解消する方法はあるのか? 二つある。

ひとつは、キャッチャーである子供の側が、「このピッチャー(親)はダメだ」と(いい意味で)見切りをつけること。「この人のボールを受けていたら、自分の野球人生が始まらない。別の人とキャッチボールしてみよう」と思えるかどうか。

そして別のクラブに入るとか、別の選手(大人)とプレーしてみる。すると、世の中にはもっと上手な選手がいることもわかる。そういう選手に野球を教わる。すると上達する。

上達した選手(子)は、いつか元々バッテリーを組んでいたノーコン投手(親)を見て、思うだろう。「よくあんなメチャクチャな球を受けていたなあ」と。

親に向けて「あなたは、ノーコンだからね、私はもう受けないよw」「まともなピッチャーだと思っていたけど、とんでもなくノーコンだったんだね」と笑って言えるようにもなる。

この時、親の側が「そうなんだよ、ごめんね。よくボールを受けてくれたよね、ありがとう、でももういいからね」と笑って言えれば、別の形で関係を続けていける。最後は「私はノーコンです」と親がいえるかどうか。


もう一つの方法は、親のほうからノーコン(無理解)だと自覚すること。とんでもないフォームで、とんでもないところにボール(言葉・態度)を投げてしまっていると自分から気づいて、愕然とすること。

自分のノーコンぶりがどれほどのものかを知るために一番効果がある方法は・・・

親がキャッチャーに回ってみることだ。つまりは子供の側に立って、自分の姿を見てみること。
 

自分が子供になったつもりで、親としてふるまっている自分の姿を想像してみるといい。

いろんなことに気づけたなら、自己理解が進んだということ。たとえば、

「この人(自分のことだけど)、ものすごくエラそうだな」
「話すことが自分のことばっかりだな」
「うわ、すごく子供に残酷」

そんな気づきが出てきたら、親だった自分の姿を子供目線で見ることが、少しはできたということ。


「仮にわかったとして、それが本当に意味があるのですか?(それがなぜ解決策になるというのでしょう?」と思う親もいるかもしれないが、実は計り知れない効果がある。

わかれば、ボールの投げ方(関わり方)を考えるようになるから。それまでの関係を改善できる可能性が出てくるのである。それ(わかる)とこれ(問題の解決)は、別ではある。だが、つながっているのだ。

もちろん難しいからこそ、手助けが必要になる。たとえば私にボールを全力で投げ込んでもらえたら、「とんでもない暴投ですよ」と言える(※子供との関係に困っている人は、いちどぜひ会いに来てください^^)。

親の側が、自分がノーコン投手だとわかって愕然としたところから、正しいボールの投げ方(親としての、いや人間としての関わり方)を学んでいくことになる。

めちゃくちゃを続けてきたピッチャーがフォームを矯正してストライクを投げられるようになるには、相当の時間と練習が必要になる。

ただ、自分が暴投ピッチャーだと自覚して、一球ずつフォームを矯正していけば、やがて球筋がまとまってきて、たまにキャッチャーが腕を伸ばせば、ボールをミットで捕らえられることも出てくる。

子供の言うことがわかってきた。

子供の気持ちをそのまま受け止めるということがわかってきた。


そうか、こういう投げ方をすればいいんだ--。


そういう「わかる」経験が親というピッチャーの側に増えてくれば、それは同時に、キャッチャーである子供にとっては、こう感じる機会が増えてくるということでもある。


「そう。それが私が伝えたかったことなんだよ、お母さん、お父さん」

 

それがキャッチボールが成り立った瞬間。

ほんとは、すごくシンプルなこと。どうということはないこと。

投げて、受けて、また投げて――そのどうということのないやりとりが楽しい。幸せだと思う。そういうもの。特別なことではない。特別なボールは要らない。

それがわかる日まで、ノーコン・ペアレント(ごめんなさい・・)は、自分の暴投(無理解)ぶりにショックを受け、あきれ、恥ずかしく思いながら、正しく投げる練習を続けるのです。





次に挑むものがあるとすれば

(旅の道中で考えたこと)


大人になると、十代までの体験を忘れてしまう人も少なくない。だがそれは、生活に追われて思い出す余裕がないだけで、心の底には刻み込まれているはずだ。人生の最初期に刻み込んだ原体験を、作品や思想・事業へと昇華させた人たちが、芸術家や思想家というのだ。

彼らは、子供の頃の体験と、大人になってからの活動とを、運良くつなげることができた人たちといっていい。不幸なことに、二つの時期を分断されてしまった人たちは、日々の仕事や義務に追われて、子供の頃に得た宝を忘れてしまう。いわゆる大人である。

理想の教育とは、十代のうちに美しいもの・良質なものを体験したうえで、その体験を表現・事業・活動を通して、社会的に価値あるものへとつなげる(昇華させる)ことを可能にするものだ。理想の成長であり、自己実現を可能にするもの。

子供時代と大人時代とがつながることが理想であって、分断されるのは不幸だ。だが現実は、せっかく子供の頃に良い体験をしても、その後の学校教育や受験・就職、社会が強いる義務によって、分断(スポイル)されてしまうことが少なくない。子供時代に得たものを忘れることが大人になることだ。そう半ば本気で思い込んでいる大人もいる。

人生という軌道から、なるべく分断(スポイル)をなくすことだ。継ぎ目のほころびをつなぐこと。欠落を埋めること。子供の頃の体験が、そのまま大人になった後の活動につながっていくくらいの一貫性を作り出せないものか。

私の場合は、二歳から始まって小学校卒業までが、原体験。だが中学でスポイルされかけた。あのまま潰されていたら、つまらぬ大人になり果てていただろう。東京で一人学んだ時期が、第二の原点。その頃に培った教養と思想が、今に生きている(見事に生きている。あの時期がなければ、今の活動も著作も成り立たない)。

だが大学に入って再び壊されかけた。十代までの良質な体験をみずから全否定して、再びつまらぬ大人になりかけた。せっかく生きた道のりを守りたい衝動と、過去のすべてを捨てて何も考えない大人の一人になりたいという自暴自棄。

その両者の葛藤を長いこと経験して、やむなくぜんぶ、つまりは自分を丸ごと捨てて出家してみて、価値ある経験と技術と思想だけをつなぐことができた(正直、捨てた・忘れたまま戻ってきていないものもある。その量も膨大だ。あの頃に得た知識・技術・思想・意欲をすべて取り戻せたらとも思うが、致し方ない)。

幼い頃の体験を腐らせず損なわせることなく、その延長に社会的に価値を持つものを形にする。それができる状況になりつつある。面白いことに、やはり気が向くのは教育である。

自己を表現すること、個人における創造は良し(形になった)。次は・・・・・といえば、やはり教育だと思えてくる。子供時代と大人時代を、良質にして純粋な体験を、社会的に価値ある仕事・事業・活動へとつなげることを可能にする教育だ。

年齢や学年という概念にとらわれず、最初から良質なものを、生涯使える普遍的な知識と知的技法を授ける教育。

本気で考えてみようかと思わなくもない。

2023年8月


断るか従うか 親子の葛藤を越える計算式

 
<おたよりから> 
※本人の許諾を得て、一部編集してお届けしています

私の母は、今までも何かあると一番に私に電話してきます。必ずそれにこたえる形で動いてきました。

私自身は、子供の頃はバカ扱いされ、兄弟と比較され、そのうえ一番上という事もあり、大学費用は出せないという事で、奨学金をもらいながら働いて、親にお金を出してもらうことなく〇〇〇になりました。

それに対して、兄弟は皆大学まで親がお金を出し、生活を援助してもらい、ぬくぬくと学生生活を送り社会人になるという、あまりの違いに憤りさえ感じています、

なぜか何かあると一番に私に連絡が来て、私がお金を出したり動いたりしています。なぜそのようにしなくてはならないのか、なぜ兄弟が弟たちがやらないのか、不服を感じながら黙ってやっていました。

先日になって母から電話が何回かあり、何回話しても理解してもらえず最終的に仕事もあって断りました。
自分でも気がついているのですが、イラつきの強い口調で話しています。母も、変わったね、きつくなった。と言っていました。

私の中で何か変化が起きているのはわかっていますが、この変化が良い方向性に向いているのか、悪い方向性に向いているのか? 自分でも理解できていません。

後々両親がなくなった時後悔するのでは?と思ったりもします。特に今までの経緯で色々言われてきた母とは一線を引きたいと思っていますが、それが正しい事なのか。

過去に引きずられている私がいることも問題だと思うし、後悔しそうだし。私の身の振り方は誤っているのでしょうか。


◇◇◇◇◇

<おこたえ>

ここまでに起きた出来事は、本人の感想はともあれ、間違ってはいません。

過去には拒めなかったことを拒めるようになったのだから、成長しています。

その心を見れば、親・兄弟たちは、自分たちに都合の悪いことはこの相談者がやってくれるもの、それが当然、と思っているのでしょう。もともとそういう扱いだということ。生まれ持った環境における、家族の中での位置づけ・役割というのは、簡単に変わるものではありません。

この人は、いいように利用されてきたのです。他の兄弟に比べても、ろくな扱いを受けていない。兄弟が受け取ってきたものを、自分は受け取っていない。

この人は、自分の力で生きて、自分の力でここまで来たのです。恩に着る必要はありません。


「都合のいい時だけ頼るのは、やめてください」
「私は応えるつもりはないから、別の手段を考えてくれますか」
「他の兄弟がやってくれることになった? そうですか。別に私に報告しなくていいです」

くらいでよいのです。


ただしこの人は、ずっと昔から、「応えるのが自分の使命であり務め」と思い込まされてきた様子もあります。さらには親に愛されたいという子供の頃からの願望も、まだ覚めることなく残っている可能性があります。

そういう捨てきれない願い(妄想)があるから、応えないことに罪悪感を覚えるのでしょう。声(連絡)がかかると途端に落ち着かなくなるのです。応えなくてはいけないのでは?と思ってしまう。

罪の意識、良心の呵責・・・こうしたものは、相手の一方的要求に「応えてあげなければ」とつい持ち前の執着を向けてしまうことから生じます。かりに親が亡くなっても、執着は続くから、「もっと応えてあげればよかった」という思いが残ります。

さらには、応えないのは人でなし、冷たい人間、自分は人としてどうなのか、みたいな、自分を疑う妄想も噴出してきます。


こうした心情は、わかる人も多いのではないでしょうか。しかしこれを整理する計算式は、つねにシンプルです(『怒る技法』から)。

➀相手の思い(もっといえば魂胆)を見抜く。
 
②自分は自分の人生を生きる。できることはできるし、できないことはできない。
 
③相手の思いに利用されない。人は人、自分は自分だから。

➀については、「問いただす」ことが可能です。

過去覚えている相手の仕打ち(自分がされたこと)を振り返って、「どういうつもりだったのですか?」と直接聞く。

「兄弟に与えたものを、私にはくれなかった。そのことに理由はあったのですか? どんな理由?」と聞く。

「私が今思うのは、あなたたちは、都合よく私を利用してきたということ。その自覚はありますか? さすがにひどいと思いませんか?」

「単純に人として腹が立つ。私をなんだと思っているのでしょうか」

そうやって、自分の思いを偽ることなく伝えてみればよいのです。それに相手がどう答えるか。その答えによって、相手の思惑・魂胆・正体がわかります。

相手の思いが見えれば、その次にすべきは、その思いに利用されることを拒否することです。

他人に自分を利用する資格はない。人をいいように利用していい人間など、この世界に本当はいない。いてはならないのです。

だから、もし向こうが自分たちの思惑・都合だけを見ていて、こちらの思いを理解しようとしないなら、その先関わっても、相手に利用されることになってしまうから、関わること自体を辞退する。

「もうこれ以上、私にできることはありません(したくありません)から、連絡しないでもらえますか?」と伝えることも、選択肢の一つです。


その後に残るのは、「かわいそうかも」という罪悪感かもしれません・・。

しかし罪悪感を背負わせること自体が、実はおかしいのです。その関係性が対等ではないということ。

かりにもし相手が精神的に自立していて、子供たちを平等に思いやる、まともな親であるなら、

「そうだよね、あなたの気持ちもわかるよ(わかるように努力するよ)」
「甘え過ぎていたね、これからは自分も頑張るよ」

みたいな言葉が最初に出てくるものです。ちゃんと相手を思いやれる人から出てくるのは、第一にありがとう、すまないね、という言葉です。

それが出てこないのは、「利用して当たり前」と思っているからかもしれないのです。連絡してくるのも、まだ都合のいい期待を捨てていないから。語る言葉は、不満げ、ものほしげ、そしてイヤミ。
 
「やってくれないの・・・ああそう(あなたは冷たい子だね)」という言外のメッセージをわざわざ伝えようとするのです。
 
もしそれが相手(親)の本音だとしたら、こう切り返すことになります。

「自分の都合が通らない相手を、冷たいとか勝手だとかわがままだとか、そういう言葉しか出てこないあなたが、いかに身勝手か。今の私はそう感じます」
 
「自分勝手? その言葉、そっくりお返しします」


言いなりになるよりも、相手のご機嫌をうかがうよりも、ついキツくなってしまっても、仕方ないではありませんか。言い返せるほうがはるかにマシです。

どんどん言い返せばいいし、怒りが湧いてくるなら、怒りを伝えてよいのです。怒らないより、怒れるほうが、はるかにマシ。

慈悲(優しさ・思いやり)というのは、向ける場面が違うのです。一方的に利用してくる身勝手で無理解な、どうしようもない相手に対しても、慈悲を向けることはできますよ。でもリアルな関係においては、特に自分が苦しめられている場合は、まずは怒れること、伝えること、斬って返せることのほうがはるかに大事。混同させないことです。場面が違います。

総じて、この相談者は、執着まみれでぐちゃぐちゃになっていた一時期よりも、はるかによく見えるようになっています。正しい道の途上にいるし、これまでの選択は、何も間違っていません。

伝えるために努力するは、ヨシ。そして、伝わらないとわかった時点で、それが可能ならばですが、関わりをリセットすることです。関わらねばならぬ人間は、本当はいないものです。親であれ兄弟姉妹であれ、です。
 
「そんなことはない」という声も聞こえてきそうですが、なぜそう言えるのでしょう? もし自分が苦しめている側なら、「そんなことはない」と思うのは、まさに都合を押しつけているから。
 
もし苦しめられている側はそう感じるなら、「執着」があるのかもしれません。そんな(自分を苦しめるような)相手でも、まだ愛されたい、わかってほしい、あきらめきれないという執着が。


ともあれ、この人は間違っていません。すごくよく見えてきています。

自分の感情を大事にすること。

そのうえで技法をもって関わり方に答えを出すことです。


『怒る技法』マガジンハウス

 
2023年8月9日

寺子屋・国語キャンプ始めます

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日本全国行脚2023
福岡・久留米
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7月末
朝JR八代駅まで行ったが、豪雨のため電車が動いていない、新八代から新幹線に乗ってくれという。新幹線代はJR持ち(なんとありがたい。JRもたいへんだ)。

新八代から熊本へ。駅近くの食堂で昼食。さらに久留米へ。

明治期の洋画家・坂本繁二郎の生家を訪問。短冊に願いを書いたら入館無料というので(200円くらい貧乏性の私でもむしろ進んで納めたくなるが)、久留米の地がこれからも栄えますようにというようなことを書いたら、ボランティアで管理人をしているという高齢のご婦人が「ありがたいことを言ってくださって」と喜んでくれた。

婦人もまた「日本はなんでこうなってしまったのでしょう」という。いつ頃が一番いい時代でしたかと聞くと、「やっぱり幼少期かしら」という。戦後間もない頃? 日本人が自分の国をここまで信じられなくなった時代というのは、明治期以降はじめてかもしれない。

茅葺屋根の武家屋敷。樋を90度まがる雨戸とかスライド窓など、昔の人の工夫が見える。

久留米の人たちは、近代化にあわせて武家屋敷を軒並み壊してしまったそうだ。繁二郎の生家くらいしか残っていない。残っていたら今ごろ地域振興の役に立っていたかもしれないのにと婦人は言う。


繁二郎の生家は貸し出し可。ここで<寺子屋・国語キャンプ>を開くのもよいかもしれない。

ひと夏の寺子屋体験♪
夏休み(7月下旬から8月末)期間に、寺子屋・国語キャンプを開催。
読んで楽しい、しかも国語力が身に着く良質の文章をつかって、国語の授業。
読み方、書き方、考え方、そして生き方が身に着く立体的な授業。

先生は、僧侶兼作家の草薙龍瞬。過去に学んだすべての学び方・生き方を惜しみなく伝えます。

対象は、小学生5年から高校生あたりまで。国語力を身につけたい/言葉に触れる楽しさを体験したい/夏休みにちょっと変わった体験をしたい十代のみんなとご両親(ただし、中学生以上は親の同伴ナシ。自立への準備として(笑))。

授業の後は、中高生の相談に応じます。


場所と世話役になってくれる地元の人が一人見つかれば、すぐ実現できる。
未来を育てなければ。


<告知>

さっそく2024年の夏の全国行脚から実施します。寺子屋(国語キャンプ)を開いてほしいというお父さん・お母さん、または中学生・高校生の人がいたら、興道の里までご連絡ください^^。場所さえ見つかれば、全国どこでもOKです。


洋画家・坂本繁二郎の生家


2023年7月28日