閉ざされた檻

<興道の里から>

8月30日(土)午後 個人相談会 臨時増設しました。

8月31日(日)夏納め国語キャンプ~言葉を力にかえる in 千葉・野田 まもなく開催

参加希望の方は、このブログまたは公式カレンダーをご覧のうえ、お申し込みください。

◇◇◇◇◇◇◇◇ 

 

※長いです(教師あるある笑)。


都内の大きな書店に行ってみた。印象的な点がいくつか。

ひとつは、「〇大本」が溢れていたこと。〇大という大学名をなんの臆面もなく売りにして、体験記やらノウハウ本を出している。


〇大というのは、ただの大学名。〇大生というのは、ただの学生であって、近い将来、社会で役割を果たすための準備期間にあるというにすぎない。本来価値はないはずなのだが。

大学生というのは、本当は肩書ではない。何者かになるまでのプロセスの呼び名(文字通りの学生)であって、何かを達成した人ではない。

こうした勘違いを育ててしまったのは、「〇大」というだけで価値を持つかのように、煽って、崇めて、そして今なおその価値観から抜け出せない、視野の狭い大人たちなのだろうと思う。

結局は、社会が、こういう幼い文化を育ててしまったのだ。



こういう臆面も分別もない「〇大本」が大量に並んでいることにも、ゲンナリしてしまったし、

小・中・高・大学受験というステージと、科目・分野別の参考書が、あいかわらずできあがった学校制度を前提として不自然に分類されていること(学年で分けたり、数Ⅰ、数Ⅱと不自然な概念で区分したり。数学の体系にそんな概念は存在しない)も、不自然に感じたし、

カラフルなわりに、雑多な知識が視点もなく並んでいるだけで、こんな本で地理や世界史や日本史を学んでも、「物語」も「体系」も「視点」も身につかず、

バラバラな知識の断片を一部覚えて一部忘れて、結局、この地球の上に何があって、どこで何が起きていて、過去どの場所でどんなことがあったから、今の国や地域や風土や国際関係になっているのかを説明できるようになる、という「まともな学び」が限りなく難しくなってしまっている(変わっていない)ことも、甚だ嘆かわしく感じた。


こういう分類や教材の作り方をして平気でいられるというのは、教える側も「学びとは何なのか」を、あまり突き詰めて考えていないからだろうとも思ってしまう。

学校では教科書を教えるもの、何年生の何学期にはこれを教えるもの、受験用にはこれを教えておけばいいという、型にはまったイメージが固まっていて、

教えた後に自分に何が残ったか、学んだ側に何か意味あるものが残ったかを検証しようという発想が、教師の側にないのかもしれない。まさに「仕事だから」教えているという姿なのだろうか。

ちなみに楽しい授業というのは、教師の側に楽しい感情が残ったかどうかでわかる。不満や迷いが残ったとするなら、その授業はやはりどこか間違っている(工夫の余地がある)ということなのだろうと思う(違いますか・・?)。



学生の側も、不幸な時間を過ごしている。中学ではコレ、高校ではコレ、何学期はコレ、というお決まりの内容しかない、と思い込んでいる。学校の成績のため、受験のため、いい高校、いい大学に行くため、という形でしか、勉強というものをとらえられない。

「そういうものだ」という思い込みだけで授業に「お付き合い」して、なんとなく学年が進んで、卒業して、進学して。

だが後で振り返って、数学とは、文学とは、古典とは、自然科学とは、歴史とは、といったそれぞれの体系や面白さというものを、まったく思い出せない。「教養」が残らない。

まったく栄養にならないものを、教師は教えているのかもしれず、学生は学んだ気になっているのかもしれない。なんだか不幸な関係性だ。



もうひとつ印象的だったのは、大型書店に足を運ぶ親子連れの「意識の高さ」である。親のほうが、熱心に参考書をチェックしていたりする。

子供(小学生)は、そんな親に付き合って、素直に勉強する意欲を見せていることもあれば、あきらかにヤル気のなさそうなこともある。

親の目から見た勉強や受験というのは、親が見る妄想であって、そんなものを押し付けられても、子供は楽しくとも何ともないだろう。小学生くらいの子供が、意識高い系の親につきあっているのは、まだ素直で、親のことが好きだから(勉強が好きな子については、ひとまず問題ナシとしよう)。

親が敷いたレールの上を進むことに、もう少し大人になった子供が、何を感じるかだ。自分のこととして頑張るか、反発して拒絶するか、あるいはどちらも選べずに、ただ気力を削がれてスポイル(無気力化)されてしまうか。



さらに印象的だったのは、幼稚園・小学校受験の参考書コーナーが充実していたことだ。「行きつくところまで行ってしまっている」と思わざるを得ない、充実・発展ぶりなのだ。

「○○的思考」とか「○○学習法」とか・・これ、大人向けの本ではなく、4,5歳児対象の参考書なのだ(実際は親が読むのだろうが)。

子供向けの自己啓発本も、恐ろしいまでの充実ぶりだ。プログラミング、ジャーナリング、生成AIの活かし方、傾聴力、マネジメント、SNSの使い方、心を知る、時間活用法、整理整頓、文章がうまくなる・・あらゆる分野の、いやこれ大人が学ぶことじゃんと思うようなタイトルの本が並んでいる。

しかも、中身がなかなかなのだ。「文章がうまくなる」という本を開けば、「日記は事実と気持ちを分けて書こう」なんて、プロのノウハウまで書いてある(私の『怒る技法』には、怒りは事実・感情・願望に分けて書きましょうと書いたが、似たようなことw)。

大人が読んでも「なるほど」と思ってしまう。どこまでレベル高いねん、今の子供(笑)。



だがしかし・・だ。なんだろう、この閉塞感は。まず価値観が限定されている。外の輪郭は、せいぜい学歴を身に着けるため、名の知れた大学に行くため、アタマがいいというステイタスを得るため・・・「その程度」の価値観しか伝わってこない。

学びの先にあるもの――つまりは、人生は何のためにあるのか、幸せとは何なのか、知力はなんのために使うのかといった、最も大きな、突き抜けた問題意識が、伝わってこない。つまり、本当の<知>とつながっていない。

<知>の本質とは、それほど難しいものではない。命が抱える苦しみを減らすこと、快(喜び・楽しさ・希望・信頼などの感情・思考)を育てること、

そして、絶え間なく変わりゆく世界の現実を見て、生き延びていくための方法を探っていく。地球規模でいえば、なるべく長く人類という種が生き延びる、その可能性をめざすこと。

苦しみを避けられない定めを持つのが生き物であるなら、<知>を持つ人間の最大の特質は、こうした生き物を越えた価値をめざすことにある。

こうした究極の価値をめざし、共有し、実現するための方法を探り、実用に持ち込んで、現実を変えていく。

それを可能にする<知>こそが、アタマの良さというものであって、学校の勉強ができるとか、たかだが大学に行くとか出たとか、そんなことは、本当は「どうでもいいこと」(妄想による自己満足か、制度化されたただの概念か)なのである。

人間には、世界には、もっともっともっと広くて大きくて切実なテーマがあるというのに、子供たちを取り巻く教育、勉強、進学、学校、教科書、参考書の、この“貧しさ”はなんだろう。

噛むのに苦労する干物のようなものか。必死に噛んで呑み込んでも、あまり栄養にならない。

価値観の貧困、方法の貧困、目標の貧困――だが、勉強とはこういうもの、学校とは、進学とは、社会とは、こういうものだという巨大な決めつけによって、学びが持つ可能性を極限まで狭くしているような気がしてくる。

教育のシステムが、ほぼ出来上がってしまっている。成熟というより、硬直化、もっといえば化石化だ。もっと他にシステムがあるはずなのに、前提となる価値観が貧しいものだから、作り込まれた教育の外に、一歩も出られない。

「よくできた参考書」は、たくさん出ている。だが、他の可能性を探る余地を許さないという大人のエゴのように見えなくもない。

分厚く頑丈な「勉強とはこういうもの」という、大人側が築きあげた監獄というか檻の中に閉じ込められて、その中で適応して結果を出すしか、選択肢がないのだ。

うまく順応して「お利口さん」として生きていける人間は、この閉ざされた檻の中でプライドを満たし、築き上げられたシステムの中でうまく立ち回って、他の人より「相対的に豊か」と思える程度の人生を生きていけるのかもしれない。

だが、その豊かさが、肩書や収入や世間からの賞賛といった程度のものであれば、結局は、妄想の自己満足に過ぎないし、

社会的に価値ある働き――つまりは苦しみを減らし、快を増やすための働き――を果たせるわけでもない。

何より悲劇的なのは、「その程度のことで満足してしまえる人間」を育てる程度にしか機能していない、今の教育システムにさえ順応しきれなかった子供は、何も得られなくなることだ。

周囲は、しょうもないことをめざし、必死になり、得意になる、しょうもない大人であり、学校であり、価値観のみ。

それに順応できなかった自分には、何も残らない。

部屋にこもって、スマホやゲームで気を紛らわせても、そんな自分を自分で肯定できないし、かといって外に出れば、相変わらずしょうもないことしかやっていない大人や学校や社会を見ることになる。

「どうせこうなる」ということが見える気がするから、何もヤル気が起こらない。


大きな書店の参考書コーナーに足を運んだだけで、そんな感想が出てきた。「そりゃ、病むやろ・・」という納得の言葉。

小学、中学、高校、大学受験で「病む」子供は、かなりの数に及ぶはずだ。そりゃ病むのも道理である。目標も、方法も、自分の胸の内にも、何ひとつ意味が見えないのだから。



こんな閉ざされた檻のような環境で、子供たちは生きているのか。キレてしまう子が出てきたって、おかしくない。

その一方で、元気で、素直で、前向きな子も多い。環境に恵まれているのか、持ち前の生命力か、幸運にも病むことを回避できている子も少なくはない。それは「救い」ではある。

とはいえ、学ぶ以外に費やす時間が、動画、音楽、ゲームというエンドレスなデジタル微反応でしかない(そういう子供が劇的に増えていることも事実)というのなら、健全とはいいがたい。体も脳も生き方も育たないであろうから。


時代・社会が変われども、どのような環境の変化にも適用して生き延びていくための、最低限の知力を育てる必要はある。

怠ることを容認してはいけない。スマホやゲームに浸りきった毎日を絶対に肯定してはいけない(社会の風潮がどのようであろうとも)。怠惰とほぼ変わらない「微反応モード」だけで、貴重な十代を終わらせてしまうのは、もったいないし、危険だし、取り返しがつかない。

どのような正当化を試みようと、こうした時間だけでは育たない能力がある。理解力、思考力、集中力、持続力、人間関係を作る力、役割を見つける力、働く力、稼ぐ力――。

自分が幸せになるために最低限守るべき生き方と、社会の中で生き抜くための知力と気力というのは、それなりの「体験」をふまえて学んで(勝ち得て)いくものだ。

だが、体験を潰してしまうのが、スマホやゲームやSNSといったデジタル・ツールなのである。単に崩れているだけ、流されているだけ。抜け出せない最大の理由は「ラクだから」。

その本音があるかぎりは、結局は、大事な能力は育っていないということだ。生き物として弱化・劣化しているという事実は否定できない。



知力を育てるための学びは、時代を超えて必要だ。

だが今の世の中が不幸なのは、学びと異なる、意味の見えない教育・勉強・試験・学校制度が、あまりに強固に確立されてしまって、

そうしたものに積極的に飛び込む理由もモチベーションも湧かなくなってしまって、

かといって代わりにできることは、デジタル機器への依存(ダラダラ時間)だけという状況だ。

その姿を外から見れば、狭い檻の中に閉じ込められていることに変わりはない。

つまらない勉強しか知らない子供は、「なんで勉強しなければいけないの?」と自然に思うだろうし、

そうした勉強しか自分も知らない大人・親・教師たちは、その問いに説得力をもって答えるだけの言葉を持っていないだろうし、

運よく適応して勉強ができるようになった子供も、結局は、見栄やプライドという妄想を満たして終わる、つまりはしょうもない世間の価値観に身の丈を合わせて満足してしまう大人になる可能性が高いし、

ならば勉強しないとどうなるかといえば、今の時代なら、スマホ、ゲーム、動画、SNS、音楽にエンドレスに時間を使って、脳内の微反応だけで生きていく――いや、生きているようで生きていないかもしれない人生に、いつのまにか落ち着いて(堕ちて)しまっている。そんな圧倒的多数の「微反応に支配された人間」の一人になってしまうくらいしか、選択肢がなくなりつつある。




いうなれば、ゆりかごから墓場まで、見栄のための形だけの勉強か、微反応にしか時間を使えなくなりつつある今の時代にあって、

「いや、他にも生き方がある。本当の学びというものがある」と声を挙げて、実際に形にして見せて、わかってもらうというのは、

かなり至難の業であり、無謀な試みではないかと思えてきたりもした。

学ぶための教材は、今の時代、出尽くした感がある。さらに付け足せるものなど、あるのか?

自分に見えている学びのイメージを形にするには、どれほどの実践が必要か。その時間・体力は残されているのか?

そういう場所を開いたとしても、学校・受験のためのお勉強とデジタル機器への微反応に慣れきった子供たちが、本当に集まってくるのか?


なんだか、壮大な失敗をするような気がしてきた(笑)。


さながら、大和朝廷の大軍勢に立ち向かい、あえなく滅びていった地方の名もなき豪族のようなものか。

滅びを覚悟して闘いを挑む。挑んで散っていった勢力も無数にあろう。挑んで、滅んで、勝った者もまた滅んで。

諸行無常が人の世の常だとしたら、時代を超えて価値があることは、挑むことそのものであろう。

――なんていう膨大な妄想を繰り広げつつ、疑問と危機感と使命感と一緒に、十代向けの本を買って帰路についたのでありました。

『人生をスッキリ整えるノート』から



2025年8月中旬





やれることをやる


ここ一週間は、怒涛の忙しさ。生きるというのは、矛盾まみれの支離滅裂。

このブログも、全国行脚の続きとか、子育て論とか、さまざまな話題を用意しているのですが、まとまった時間が取れず。

音沙汰がないと心配する(?)人もいるかもしれないので、生きていますと報告する程度のおたよりをお送りしている次第です。



講座の本格的再開は、来春になるかな、と思っています。「ブッダの生涯」(原始仏教)をやるか、「大人の寺子屋~言葉で生きる(言葉で人生を作る)」講座(通信添削つき)をやるか、それとも両方やるか。

できることはやる。「やりたい(それを望む)」からではなくて、自分にできて、しかも価値がある(役に立つ)可能性があるなら、まずはやってみる。

与えられた時間は、可能性に挑戦する時間。いや、挑戦というより、やってみる程度の気楽さでいい。

できそうだから、やってみよう――その思いでやろうとしているのが、この先の活動です。


自分にとっては、命を使い切ることであり、

人にとっては、なにか役に立てることであり、

それは、苦悩を減らし、幸福を一つでも増やすことであり、

ある程度の年季を経た今となっては、「未来を育てる」という方向性に向かうことでもあります。


生きるというのは、必要なこともそうでないことも、価値あることもそうでないことも、バラバラに同時進行で背負うこと。整理しきれるものではないし、選び取れるものばかりでもない。もともとそういうものなのでしょう。

雑多な出来事を、それでも心のバランスを失わずにやっていけるのは、「この手を使ってできること」という確かな輪郭(限界)があるからです。


この手を使ってできることだけが、できること。

手を使ってもできないことは、現時点ではできないし、やらなくていい。


そういう線引きをはっきりさせていれば、外の物事が雑多かつ混乱しているとしても、心そのものは混乱しない。

この場所は、これからも、やれることを淡々粛々とやっていきます。


以上、近況報告でした。



2025・8・23

子は親をかばうもの


この場所には、いろんな親が来ます(子のほうが来ることは、ごくまれ)。

親にはもちろんいろんなタイプがあります。ただ、子供のことで悩んでいると語る親については、大きく2パターンに分かれるように思います。

ひとつは、子供の側に事情がある場合。学校生活につまずいたとか、勉強がうまくいかないとか。この場合の親は、子供の味方であり、理解者であろうとしている親ということができます(完全にそうだと言い切れない、怪しい部分もあることが多いものですが)。

もうひとつは、親自身が問題である場合です。案外、こっちのほうが圧倒的に多いものです。

親の側が、しようもない見栄やプライドや自己防衛を隠し持っていて、子供のことで「悩んでいるフリ」をしている狡猾な(小ずるい)親もいます。

親の側が、ネガティブな解釈に凝り固まっていて、端(はな)から子供を否定し、子供に問題がある、子供にはこれができないと勝手なダメ出しを、子が幼い頃から浴びせ続けている場合もあるし(仏教的には「疑(ぎ)の妄想」と表現します)、

さながら閻魔大王のような厳格な裁きの王様的な地位に君臨して、コレをしろ、コレはダメ、と異常なまでに細かく指図、命令、支配して、子供の自由を一切認めない場合もあります。

あるいは、親自身がしょうもないプライド(せいぜい学歴だとか職業だとかその程度の妄想なのですが)にしがみついて、プライドに振り回されて、尊大になったり卑屈になったり、感情的に上がったり下がったりして、子供がいい迷惑、というか激しく翻弄されて消耗して、怯えて、傷ついて、心の安定を体験できない場合もあるし、

これまたプライドの亜種だけれど、自分が人間として空っぽ(価値観の点で空っぽ――つまり何が本当に価値あることか、確かな人生観を持たずに、周りの目を気にして、世間体に合わせるだけで親になってしまったこと)をごまかし隠す、その反動で、

子供の話を一切聞かない、あるいは聞く前に結論を出して、わかったフリをして、本当の対話を遮断してしまう(逃げてしまう)場合もあります。

こうした段階にある親(段階とあえて言うのは、今後、親の側が変わる可能性もあるからです)は、総じて、無理解という暴力を振るう絶大な権力を握った暴君、あるいは操縦不能なブルドーザーみたいなもので、

自分の感情や思惑や見栄やプライドや世間体や自己防衛を、分厚い鎧としてまとって、子供を圧倒し、その心を踏みつぶしていくので、

子供の心は育たないままになってしまいます(「育たない」とあえて大まかな表現をしていますが、その内容は実に様々です。そして根深い)。


親が、そのまま、無理解という暴力をぶん回し続けるのか、多少なりとも、自分自身の危うさ・やばさを自覚して、気をつけて、過去を謝罪して、子供の側が「少しはわかってくれるようになってきたか」と思えるようになっていくか。

道は大きく、この二つに分かれます。おそらく前者が圧倒的多数(つまり子供が心理的暴力を振るわれ、傷つき、病んでいく場合)。

後者は決して多くありません。ただ、この場所にたどり着いて、ある程度この場所での「対話」を重ねた人の中には、後者の可能性が育っていくことはあります。


ときおり親の側から「その後の報告」を受けることがありますが、「よくここまで来ましたね(正しい理解ができるようになりましたね)」と素直に肯定できることもあるけれど、

逆に、親のほうが、本当はまだ真相(正しい理解)に到達していないのに、「わかった(変わった)気になっている」ことが見えることもあります。

この場合は、過去の無理解という暴力を、親が気づいていなかったりします。自分のプライド、自己美化、自己正当化、いわば自分に都合のいい解釈はそのまま守り続けて、「きっとこういうことなのだろう」という理解(実は勘違い)に留まってしまうことも、なくはありません。

このケース、実は子供の側も加担してしまうこともよくあります。親をついかばってしまう。「あなた(お父さん・お母さん)は悪くないよ、他に原因があるんだよ」と言ってしまう。

子供としては、自分が親を苦しめてきたのかと感じてしまうのかもしれない。そんな親がかわいそう、自分にも悪いところがあった、だから自分(親)を責めないで、とつい言いたくなってしまうのかもしれない。

子は、親をかばうもの。「そのとおり。やっとわかった?」と言い放てない。

子供は優しい生き物。やはり親は親のままでいてほしい。謝ってほしくない。そんなことをされたら、苦しんできた過去が無意味だったことを認めてしまうことになりそう、親が親でなくなってしまいそう・・・

過去の関係性があまりに長く続いたがゆえに、一つの関係性が固定されていて、その関係性を変えていくことへの怖さやためらいも、心の中には作動する。

なにより子にとって親は親。やっぱり嫌いたくはない。いい関係でいたい。褒めてもらいたいし、愛されたい。そういう子供の心が残っている限り、親を悪者にすることは、どうしても、できない。

そうした子供の優しさに触れて、親は、「そうだよね、そっちが本当の原因だよね」と内心感じて、安堵を覚えることもある。かりそめの、あやうい安堵。

心と心の関わりは、本当に微妙、繊細で、複雑。


別に、すべてを理解しつくさねばならないというわけではありません。だいたい、およそ、なんとなく、で続いていけるのなら、それで十分。特に親と子であるならば、どうしたって離れるための斥力よりも、近づく引力のほうが強いものだから、分かり合えないまま、でもなんとなく続く、という状態で進んでいくことは可能です。そのことは、悪いことでもありません。

だけれど、中途半端に子が親をかばい、親が自分自身を見つめる厳しさという“切っ先”を鈍らせてしまうと、

子供の側の傷や、怯えや、不安グセや、その他なんとなくモヤがかかったような精神状態が、長く続く可能性はあります。

親をかばってすませたとしても、子供の側の人生は、長い期間にわたって負の影響を受け続ける。どこか軌道に乗り切れない、勢いが出ない、終始モヤがかかったかのような心であり、日々の繰り返し――。


子は親をかばうもの。親は親をかばうもの。子供をかばうのではなく、自身をかばう。

そういうずるさ、あやうさが伝わってくることは、よくあります。ただ親の側は、それが正しい理解だと思っている様子。

そういう時は、この場所は何も伝えません。自分でわかったことにしてしまう――その「自分可愛さ」(自己愛)の姿を見れば、

伝えられる言葉は今のところない、とわかるからです。


ひとつだけそうした親に伝える言葉があるとしたら、「わかった気になってはいけないよ」ということ。「親というのは(つまりあなたという人間は)、本当にずるい生き物だから」。


本当にわかったかどうかは、親の側ではわからない。わかったかどうかは、生涯わからないかもしれない。

それくらいに、親が子を理解して、子が親を越えて自由になるということは、ときに難しいテーマなのです。




2025年8月中旬


日本全国行脚2025 博多から下関へ


船旅2日目は、船上でゆっくり過ごす。

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テレビでは刑事ドラマの再放送・・岡江久美子さんが主演。

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どこで見ても美しい夕日


門司港に朝5時半に到着。ゆっくりと船着場に入っていく船の看板に上がると、ほの明るむ東雲の空が見えた。

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船旅は悪くない。時間の余白が多い。気が赴くままに仕事したり、デッキに上がって海原を眺めたり。恋愛中のカップルにもお勧めだし、失恋した後の傷心旅行にも最適・・というまったく縁のない妄想を勝手にしちゃったりした。

今回のフェリーの弱点は、送迎バスがないこと。相乗りタクシーで門司駅まで。予約券一人440円。でも同乗客は私も含めて3人しかおらず、メーターは駅についた頃には3000円近くに(けっこう距離があった)。

運転手さん、朝5時すぎにユニフォーム着て、タクシーで来て(もう一台には一人だけ乗っていった)、正規運賃を下回る額。なんだか申しわけない。このせつなさも、旅につきもの。


JR門司駅から博多まで。地下鉄で天神まで行って、じょいふるで朝食(船の中で一風呂浴びればよかった)。2階クーラーが故障中とかで一階だけ。徹夜明けらしき若い男女が上機嫌で歌を歌い始めて、店員の老婦人に叱られている。いや、元気だ、頼もしい(笑)。

昼過ぎまでお世話になって、歩いて会場施設へ。

はて何人来てくれるか、でも一人でも来る人がいるなら続けなければという思いで、東京ではやってきた。東京から博多まで足を運んで参加者数名というのはいささか残念と思っていたが、予想以上に多くの人が来てくれた。普通の規模の勉強会になった。


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毎回話題が変わるのも面白いところ


終了後は、希望者一人ずつ面談。オーディブルを聞き始めたばかりという女性も、今日は方に向かう途中でイベント検索したらたまたま出て来て、予定変更してやってきたという女性も。今年もやってよかった、と思う。

終わって、再び一人に戻る。とたんに街の景色が“凡庸”になる不思議。物欲がないので、豪華なビルも賑やかしい店の装いにも、ぜんぜん関心が湧かないのだ。ひとまず博多駅に戻って、JRで西の方に行けるところまで行く。

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西へと急ぐ


夜9時半過ぎに下関に到着。下松(くだまつ)行きの接続列車があった。昔バイトで教えていた美術学校の学生が下松出身だったと、この駅に来るたびに思い出す。結局地元の下松に戻ったのだが、もう三十年近く経っている。どんな大人になっているのだろう。探しに行きたくなる。

前回の旅でもいただいた定食屋がギリギリ開いていたので、鯨汁定食をいただく。最後の客だが、ちゃんと調理して熱々にしてくれた。

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すきっ腹には熱い鯨汁が沁みます


この一帯も、かつては不夜城と言われた港町だったそうだが、人も減って、すっかり寂しくなってしまったそうだ。店の周りには、色を失って久しい商業施設が、夜の帳の中に音もなく沈んでいる。鮮やかな色が褪せて行って、陰の色が増えていく。日本中どこに行っても同じ。今のうちに目に焼きつけておきたい。

駅近くの宿に泊まる。野宿する予定だったが、5千円分の贅沢と堕落を選んでしまった。潮の匂いを嗅ぎながら夜を過ごせたであろうのに。出家たる私も弱くなってしまったものだ。


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夜の下関 前回来た時はバス停で腹痛に苦しむ20代の女性と遭遇して、救急車を呼んだのだった あの人もどこかで暮らしているのだろうか


2025年8月上旬

もし学校の先生だったら

<おしらせ> 十代の子を持つ親の育て方&生き方学習会 千葉県野田市

子育て&子供との関わり方について考えます。 

8月16日(土)13時から 参加希望の方は<申し込みフォーム>まで。

 

もし学校の先生だったら、この夏の”狂暑”をテーマに授業を組み立てます。

まず、関連する素材をピックアップ:

・夏の情景を素材にした小説系の入試問題(中学入試から大学入試まで)

・環境問題・気候変動をテーマにした論説問題

・上記テーマに関連する時事ネタ(記事・ニュース)

・石油産業・オイルマネー・気候変動の実態を描いた映画・ドキュメンタリー(いっぱいある)

・科学・産業の歴史(科学史・世界史・経済史)

・何もしなければどうなるか~近未来の地球環境を描いた映像や文章(SF含む)

・かつての夏はどんなものだったか(古典・俳句・短歌から「夏っぽいもの」)

・地球温暖化を防ぐ政策・企業活動・国際協調の枠組み、および現状

などなど。


文学、科学、政治、経済、歴史、未来予測など、関連する分野についての文字情報と映像を、ひととおり集めてワン・パッケージの授業(ワーク)にする。

科目でいうなら、国語(現代文)、古典、社会(政治・経済・現代社会)、理科(気象・物理学・海洋学・地質学)、数学も入ってくる。


小学生なら、体験・感覚レベルで理解できるものから――つまりは小説系の国語の問題と映像と。夏っぽいエモ系の文学・ライトノベル・映画・アニメ。大人も楽しめる。

中高生と年齢が上がるにつれて、評論・哲学・学術論文にも取り組む。英語も入ってくる。


ひととおり素材を集めて(毎年アップデート)、「何に、どのように取り組むか」を提示して(課題化して)、それぞれ興味を持ったところから取り組んでもらう。

・毎日の課題を決める~メイン課題とサブ課題 自分で選ぶ・組み立てる
 
・ひと夏のテーマを決める ~ 地球温暖化でも「あの戦争」でも

1日の終わりに報告、週のまとめ(シェア):

夏をテーマに、何を知ったか、何を考えたか、何を知りたいか、をシェアしてもらう(記述して提出してもらう)。


「このままならヤバいぞ」という問題意識を持ってもらう(持たないほうがおかしいのだから)。

「何ができるか」「なぜしないのか」も考える。

人類という種が続く保証はない、ということも自覚する。


「そんなこと子供に伝えていいの?」と思う大人もいるかもしれないが、そういう人は、現実から目を背けさせるズルい大人かもしれない。

生きるとは、現実と向き合うということだから、現実を知ることが欠かせない。正の部分も、負の側面も。

現実が危うさを増しているのなら、そのことをも知らなければいけない。親も子も。

 

もし私に子供がいたら、「ほんとに人類は滅びてしまうかもしれないよ」という話をちゃんとするだろうと思う。

「今すぐじゃないよ。君が生きている間に来るかもしれないし、来ないかもしれない」

「どんな現実も、ちゃんと見届けないとね。それが生きている人間の務め」

と伝えるかもしれない(考える力があることが前提だけれど)。



現実を見すえて、自分に何ができるかを考える。

それが、知力を育てるための土台になる。生き物の基本でもある。


小学校でも、中学校でも、高校でも、こういう授業はすぐできるはず。特に自我が肥大し始める中学に入りたて(12,3歳)の頃がいいかもしれない)。

というのも、この頃を過ぎると、大人の言うことは聞かなくなりがちだから(笑)。代わりに、心そのものの危うさ(甘え・怠惰・思い上がりなど)も増えていくことが少なくないから。

「このままでいいのだろうか」という問いは、人生のどこかで持つ必要がある。そうした思いが宿れば、大人(親)の言うことを聞かなくなっても、自分で道を見つけていけるかもしれないから。

現実からかけ離れた「しようもない」授業をやっている場合ではない。生きた、現実に直結した学びを提供しないと。でないと、先生だって面白くないのでは、と思う。


週に一度、一回4、5時間くらいの授業ができれば、これくらいの立体的・広角的な学びを創れる。やっぱり土曜の午後か。終わったらご飯を食べる?

平日は、実利も大事なので、学校の勉強や受験用の時間を作る(車での送迎が必要)。

金・土は泊まってもらっていいのだが、男子と女子を分けねばならない。どちらかを誰か(保護者)の家に泊めてもらうか。

実利(学校・受験にも役立つこと)がはっきりしていれば、こうした構成でもついてくる十代はいるのではないか。

ただ、それだけの意欲・モチベーションを持った小中高生がどれだけいるか。スマホ・ゲームに流されずに、「生き抜くうえで大事なことを学ぶんだ」とわかる十代がどれだけいるか。いや、このあたりは、伝える側の人間力、つまりは働きかける力にもかかってくるだろう。

一番いいのは、デジタル機器にも学校のつまらない勉強にもスポイルされていない、まだ白紙かつ柔軟な心を持った小学生あたりから、ゆっくりと本当の学びを体験してもらうことなのだが。


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とりあえずこの映画から見てもらおうかな




2025年8月上旬



未来の世界 日本全国行脚2025

<おしらせ> 十代の子を持つ親の育て方&生き方学習会 千葉県野田市

子育て&子供との関わり方について考えます。 

8月16日(土)13時から 参加希望の方は<申し込みフォーム>まで。


今回の目的地は博多。東京からは新幹線が早いが、交通費がかさむ。飛行機は性に合わない。改悪された18切符だと、3日または5日の間に博多に着かねばならない。しかも移動中の車内では何もできない。バッテリーが切れたらPCもスマホも使えないし、本を読むのは目が疲れるし、運ぶのは重い。途中の宿泊に費用もかかる。

こうした事情を考慮して最後に選んだのは、フェリーの旅。東京有明から北九州・門司港へ。2泊3日の旅。船内なら電源の心配は不要。原稿を書くか、本を読むか。値段も陸路より安く浮く。

東京港フェリーターミナル行きのバスに乗る。八重洲、銀座、晴海を通って、有明ゾーンへ。途中、タワーマンションの群れ(広大な敷地はまだ造成中)やレインボーブリッジや東京ビックサイトや、その他何が入っているのかナゾの近未来的な建造物の数々を通り抜ける。都市工学の粋をきわめて設計したであろう道路とモノレールと地下鉄と高層ビルが華麗に交錯する街並み。

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これでも開発の初期段階にすぎないらしい


メタル色に輝くビルの一階がガラス張りのジムになっていて、マシンを使ってジョギングしているお金持ち(じゃないかな、たぶん)の姿が見える。うねるような湾曲形状の巨大なビルも。もうSFの世界だ。スターウォーズに出てくる惑星コルサントの実写版。
バスの窓から未来の世界を眺めながら考えるのは、「あの生垣の間なら野宿できそうだな」というようなこと(笑)。通勤する人たちを見上げるホームレスの目だ。

いやこんな世界もあるんだ~(すごい)という新鮮な感動。おのぼりさんと出家というダブルの目線で見上げる世界。フェリーに乗る前に元を取った気がして大満足(笑)。


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レインボーブリッジが見える 未来都市



いざ、乗船。一人で乗り込む人も、小さな子供連れの家族もいる。ペットと過ごせる個室もあるそうだ。

私が借りたのは、カプセルホテル的な共同スペース。小さなブース(寝床)があって、電源もあって。ラウンジには机も自販機もあるから、時間を過ごすのに不自由はない。浴場やシャワールームもあるし、トイレはウォシュレット付きの最新設備。かなり贅沢な造り。時代は進んだものだ。でも、ほんとの豪華客船は、この船の比ではないらしい。これまた別の世界。

舟はレインボーブリッジの下を潜って、海原を進む。有明、晴海、築地の明かりを一望できる。宝石を並べたかのような輝きぶり。


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さあ出航!

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東京の夜景を楽しめる絶好の出航時刻(午後7時)

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東京ゲートブリッジを潜る

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宝石をちりばめたような東京湾岸の夜景


羽田空港に発着する飛行機が、夜の空にライトを明滅させながら行き来するのが、頭上に見える。海を走る風と、潮のにおいと、陸のきらめきと、夜空を飛ぶ未知の飛行船と。今が西暦3000年と言われても信じてしまうであろう未来の景色。あれは土星観光に向かう船で、あれは恒星間旅行に向かう宇宙船――そんな時代も、いずれやってくるのだろう。
 
平和と繁栄が続く未来。千年前の人類は戦争ばかりしていた。そんな歴史もあった。そう思えるような時代が、いつか来るのだろうか。

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宇宙飛行船といわれても信じてしまうであろう完璧な未来の光景
 


2025年7月末

 

 

 

溶けていくアタマ(学力低下問題)

<おしらせ> 十代の子を持つ親の育て方&生き方学習会 千葉県野田市

子育て&子供との関わり方について考えます。 

8月16日(土)13時から 参加希望の方は<申し込みフォーム>まで。

 


文科省が公表した「経年変化分析調査」。

小中学生の大幅な学力低下。最近のニュースで聞いた人も多いかも。

夏休みの図書館には、小中高生が大勢来ている。

参考書を形だけは開いている。が、大半の時間は、スマホ、タブレット、音楽。一人でも、友達同士でも、やっていることは同じ。


こんな状態でアタマに入るわけがない。テレビ中毒と同じ。コンパクトなテレビ(つまり無思考のままダラダラと眺めるだけ)を、どこにでも持ち込めるようになったというだけ。

かつては「テレビの見過ぎに注意しましょう」なんてことを大人たちも言っていた。「勉強とテレビは別」という線引きができていた時代。

今や、勉強に使うという名目で、スマホ&タブレットで音楽も動画もSNSも見放題。

彼らの姿を見ていると、スマホ&タブレットで遊んでいる時間のほうが圧倒的に多い。

というか、こんな状態では何も身につかないことを、自分でわからないのか・・。

勉強する時は、余計なものを持ち込まない。机に並べない。

それはあくまで自分自身のため。ちゃんとケジメをつけること・・・そんなことさえ通じなくなっている?


これは、時代や社会の変化のせいにしてはいけないことだ。自分の脳(頭)を考えれば、わかることだ。けっしていい状態ではない。

「ヤバい」と思う思考力さえないということ???

最低限の線引きさえできない。大人たちも言わない。

ダラダラと時間を消耗して、何も身につかない半ば溶けてしまったかのような脳の状態で過ごしているだけ。学力どころの問題ではない。

野放しになっていることが恐ろしい。社会全体が許容してしまっている。

なぜこんな状態を放置しているのだろう。本当は、勉強とスマホを並べていること自体が、脳には致命的に問題であるはずなのに。

こんな状態で何が育つというのか???
 

人生、何も始まらなくなるぞ。




子育て中の親のための学習会

草薙龍瞬の日本全国行脚2025~旅する寺子屋

大人向けの学習会のおしらせ 

  

8月16日(土)に千葉県野田市を訪問。

子を持つ親のための生き方&育て方をテーマに学習会を開催します。

対象は、十代(小・中・高生または不登校中)の子供を持つ親全般です。

親と子両方の側から見た「十代のうちにやっておきたいコレだけは」を整理します。

参加者の質問・悩みをテーマとする座談会もあります。

個人的に相談したい方は、学習会終了後に無料の面会時間を設けます。


子育てに後悔したくない親の方々は、この機会をお見逃しなく。

参加希望の方は<申し込みフォーム>にご記入ください。

 


 

 

 

『怒る技法』オーディオブック配信開始!

 

いよいよ『怒る技法』オーディオブックの配信が始まりました(2025年8月1日)。
 

『反応しない練習』『これも修行のうち。』『大丈夫、あのブッダも家族に悩んだ』に続く、

著者・草薙龍瞬による朗読シリーズ、第4弾です。
 

いつものように、ついついサービス精神(←慈悲の心の世俗バージョン)で、笑える(←本人は後悔する)演出や、ボーナストークの特典もついています。楽しくて役に立つ、充実のトラック。

本とは違う臨場感が味わえるはず。活字だけでは読み取れない深いニュアンス(意味合い)も、声を通してなら伝わります(聴く側からすれば、「そうか、そういうところを伝えたかったのか」という)。


足かけ1年半以上・・ずいぶん時間がかかりました。手がけてくださった皆さま、ありがとう!

ここからアクセスできます(←クリックしてください: 試し聴きもできる様子です^^)

いざ発進(配信)!


怒っていい。でも正しく

今の時代に伝えなければいけないことを、
著者一杯の思い(応援)をこめて



2025・8・1
 


博多に行きます~8月2日(日本全国行脚2025)


草薙龍瞬の夏の全国行脚2025博多入り、まもなくです。

毎年恒例の内容充実の特別講座(勉強会)です。この日この場所でしか得られない数多くのヒントが見つかります。

予約無しでも参加できますので、当日のご都合があう方はぜひいらしてください。

当日および翌日は九州に滞在します。個人的な相談がある方はお声がけください。

<日時>
2025年8月2日(土)
13時30分~16時30分

<会場>
福岡市内の公共施設(ご連絡くださった方にお知らせします)

<内容>
今年で13年目の草薙龍瞬・夏の日本全国行脚。九州・博多を訪問します。参加者の質問・関心に答える形で内容を構成します。これからの生き方、働き方、夫婦・親子の悩み、子供の進路や学び方など、幅広いテーマを取り上げます。仏教の考え方をフル活用しますので、内容は幅広く、かつかなりディープです。

<参加費>
1組 2500円

※1組=家族3人まで
※経済的ご負担の大きい方はお気持ちでかまいません
 
<その他>
*乳幼児をお連れの方を歓迎します(途中退室も自由です)。
*小学生・中学生が同伴する場合は勉強道具・本などを必ずご持参ください(ゲーム・タブレット等の電子機器は禁止です)。

*終了後に希望者に向けて個人相談の時間を設けています(希望者数によりますが、お一人20分ほどを目安とします。希望者はお声がけください。

<個人相談>
*当日および翌日以降は九州&西日本を回ります。個人的に相談したいことがある方は別途ご連絡ください。


全国行脚縮小版.png
さあ行くよ!


2025年7月27日
・・・・・・・・・・・



言葉にならない時間

この季節になると、多くの人たちと同様に、「人類は滅びるのではないか」という懸念がよぎり始める。それくらいの猛暑だ。

今は、茹でガエル現象の途中。そのうち大気が沸騰して、水が枯渇し、農作物が枯れ、何十億人もの人間が、熱死するか餓死する。

それくらいの温暖化が顕著に進んでいるのに、奇妙なことに、誰も文明のシステムを見直そうとしなくなったように見える。人の価値観も行動様式も、気候変動が始まる前と変わらない。むしろ退化したかもしれない。大量消費と廃棄と炭素排出。まるで何も問題が起きていないかのように、人々は環境の変動に無関心になった。ひと昔まえのほうが「このままでは危うい」という警告のシグナルが強く点灯していた気がする。

ミクロの人々が見ているのは、どこにいてもスマホ。小さな画面以外は「どうでもいい」こと。度を増す高温に嘆息を吐きながらも、気にしているのは自分にとっての不快指数だけ。


マクロで見れば、気候変動に取り組もうという国際的機運は、ほぼ消失した感がある。どこを見ても、戦争か武力衝突。ばかすかミサイルを撃ち込んで、破壊だけでなく、その分大量に酸素を消費し、炭素を大量に排出し続ける。ウクライナ戦争だけでも排出量は爆上がり。大気の高温化に拍車をかけているはずだが、気にかけるという発想さえ枯れつつある気もする。

こんな世界が、あと百年と続くと、誰が楽観できるだろう。

殺し合うことを人類がやめようとしなくても、そうした愚行を可能にする地球環境そのものが破綻するかもしれない。このまま高熱化が進めば、近い将来、どうしたって生存不可能になる時期が来る。地球の大気が茹で上がる。どこにも逃げ場はない。


外の環境に関心を持たなくなった時が、ひとつの文明の転換期なのかもしれないとふと考えてしまう。



ひるがえって個人的な話題といえば、毎年夏になると、生活のパターンを微調整する。ここからは、人類がまだしばらく続くことを前提とした話。

滅びゆく世界の中でも、個人の生活自体はほとんど変わらない。私もまた能天気な茹でガエルの一匹であるには違いない。

まずは定期券を買う。これは昨年から始めたこと。で、お目当ての場所に通う。電車の中は空調が効いている。快適な読書空間を満喫する(茹でガエルは実に罪深い。結局、自分のことしか考えないし、動こうともしないのだ)。

地上に出る。車窓の外に、夏の青い空が広がっている。





夏の光と大気の暑さと。狂暑とさえいえる暑さではあるが、これもまた今年一度きりの夏の姿ではある。なお道を歩く時は、多少の暑さには目をつむり、夏の風情に心の感度をチューニングする。これぞ夏だ、ということをしっかり感じ取る。

電車の外に、巨大な東京スカイツリータワーがそびえ立っている。あのタワーは、私がいなくなった後も、百年後でさえも、同じ姿で屹立しているのだろう。今見ているのは、未来でもあるわけだ。



80年前の大空襲で亡くなった人たちも、焼け野原に立ち尽くしていた人たちも、その後一度も戦火を交えなかった東京が、ここまで復興して、こんなにもバカでかいタワーが出現するとは、夢想だにしなかっただろう。

戦争さえしなければ、街を破壊しなければ、これだけの繁栄が現れる。変わらない世の中への不平不満は続くにしても、退屈ではあっても、やはり平和のほうがいいに決まっている。激動なんてなくていい。平凡で少し退屈なくらいの日常が、百年、千年と続いていくほうが、はるかによいはずである。

人は人としての生涯をまっとうできるだけで十分なのだろうと思う。生きて、働いて、遊んで、ときには退屈をもてあまして、いっとき家庭を持って、新しい命を育てて、時期が来たら静かに身を退く。それだけで十二分。激動の十年よりも、退屈凡庸な百年のほうが、きっと価値はある。

この世界は、私という茹でガエルが一匹いなくなっても、きっと続いていくのだろう。遠い未来には、人類もこの地球も宇宙にも、やがて必ず終わりが来て、その後は果てしない虚無が永劫続く定めだとしても、人類という種は、もうしばらくは続く可能性が残っている。

今見ているこの夏の景色は、あの戦争を生き延びた人にとっての未来に当たる。80年分の過去を振り返って平和の証を見届けていることにもなる。今を生きる自分なき後の未来を見ている部分もある。

未来でもあり、過去でもあり、今でもある。今見えるのは、純粋に美しい青と光と、夏らしき暑さ。いろんなものを見ている今が、ここにある。言葉できれいにまとめることのできない「何か」。

きっと本当に美しく、せつなく、愛おしいものは、言葉にならない。「生きている」としかいえないもの。生きているとは、そういう時間。今がその時。


夕暮れの隅田川 いつもの景色のはずだが、未来を見ている気にもなる



2025年7月末




褒められるのも叱られるのも


この場所はとても素直なので(笑)、善いところは褒めます。

たぶん多くの人が、褒められる人生をあまり生きてこなかったので、ストレートに褒められると、うろたえてしまうのかもしれませんw。

 一般的に、日本人は褒めることも褒められることも上手じゃないという話を聞くことがありますね。

自分の身内をわざわざ貶めたり・・(愚妻とか愚息とか・・そのくせ愚夫という言い方はあまり聞かない・・要は男の側のマウントカルチャー? 自分を棚に上げて? ひどい言葉です笑)。

誰かに褒められると、「いえいえ、そんな」と必死で打ち消さないといけなかったり・・平然と受け止めてしまうと、「え、否定しないの? なんか調子に乗ってるな」なんて、褒めた側が考えたり・・めんどくさい(笑)。

承認欲が旺盛で、褒められたいという本音があると、いざ褒められた時に、「いや、そんな(照)・・肯定していいのか、否定した方がいいのか」と心の中で妄想をめぐらせたり、

自己否定が根付いている人だと、「とんでもない!」と必死で打ち消して、ネガティブな自己イメージを確認しようとしたり・・。

褒められて舞い上がるのも、うろたえるのも、必死で否定するのも、「なんか裏があるんじゃないか」と勘繰ったりするのも(笑)、

結局は、承認欲にもとづく反応です。

この場所は、「正しい理解」に徹しているので、できているところはちゃんとできていますよと褒めるし、できていないことに自ら気づいていなければ、ストレートに指摘する(いわゆる喝を入れる)こともあります。

励ましの意図はもちろんあるので、褒められた時は、素直に喜んでもらえればよいと思います^^。

逆に喝を入れられた時は、感情で反応せずに、事実として受け止めることです。動揺する必要はなく「事実として在る」と理解して、「ならば次はどうするか」を考えるだけでOKです。

在ると理解して、次はどうするかを考える――これは、瞑想で自分の心を観察している時にやることと同じです。自分で見るか、人に見てもらうか。いずれにせよ、事実を理解して、前に進む。

その理解のきっかけが、自分の気づきか、誰かの指摘かは、どうでもよいのです。「誰か」は流してしまえばよくて、ただ自分だけが残ればいい。自分だけを見ていればいい。

お寺の修行というのは、まさにそういう世界です。



ちなみに、この場所(草薙龍瞬)が褒められた時は、シンプルに「お役に立っているらしい。よかった」と確認するだけで終わりです。

自身の動機が、承認欲ではなく、慈悲由来の貢献一心なので、判断の基準は「役に立っているか」どうかだけ。

だから「嬉しい」という感情はないし、逆に根拠のないネガティブな声を受けることがあっても、それはその人の妄想であって、こちらの輪郭の外にあるので反応しません。

慈悲 → 貢献 → できることはやっている という自己理解に留まるので、人のリアクションに影響を受けることがないのです。「われはわれを知る」。

でも、このニュートラルぶりは、世俗の価値観にてらすと、退屈に見えるかも。「何が楽しいの?」という。

楽しくはないかも(笑)。でもそれでいいのです。みんなの幸せを見ているだけで満足できてしまえるので。


2025年7月

『怒る技法』著者朗読版、いざ公開


夏らしく?連続ニュースです:

『怒る技法』マガジンハウス

いよいよ、Amazonオーディオブックで配信されることになりました。

大ヒットの『鬼滅の刃 無限城編』の1000万分の1くらいの方には聴いてもらえたら・・と思っております。

『怒る技法』は、さまざまな格闘技をモチーフにして、理不尽な現実に立ち向かう「心の技法」を解き明かした本です。

マーシャル・アーツならぬ、メンタル・アーツ。宮本武蔵も出てくるし、アントニオ猪木も、日本武尊も、五条悟(五条センセイはポッドキャストに)も出てきます。

章扉は、鬼滅の刃(特に煉獄さん)をイメージして著者(私)が描き下ろしたもの。闇をかっさばく炎の剣を描いています(本をお持ちの方は、ご確認ください)。

Amazonオーディオブックのカバーアートも、草薙龍瞬が手がけました。


闘うべし、ただし、正しく――。


「現実と闘う心の剣士」をめざす皆さんに向けて書き下ろし&語り下ろした、ワザとエールに満ちた熱く優しい作品です。

8月1日配信予定です。ご予約あれ。








2025年7月25日





『看護教育』

医学書院が発行する『看護教育』No.66(2025年第4号)巻頭インタビュー記事 で取り上げていただきました。

十年間なんとか続いた看護専門学校での講義について。

『看護教育』は、分厚く、隅々まで良質な情報満載の専門誌です(その内容充実ぶりにびっくり)。


看護というのは、私の眼から見ると、尊いけれど、じれったい、もどかしい業界だったりします。

看護なくしては、生きていけない人がいる。看護は世界が回っていくためにか欠かせない大事な仕事。

とはいえ、現場の看護師さんは、もう限界。患者の数も業務の量も増えているのに、看護師の数は増えないし、地位や待遇は上がらない。

無理なものは無理と言っていいし、改善すべき点は改善せよと上に突き上げていい(はず)。

どれほどの理不尽・非合理が、看護の現場に蓄積されているか、見える部分は明らかに見えているのに、

みんな忙しすぎて、優しすぎて、いい意味でも悪い意味でもタフ過ぎて、なかなか気づかない。気づいても声を挙げられない。闘うために動くことができない。

大変であることはみんな実感しているのだけれど、現場の声が集約されない。

「そこまで背負わなくていいですよ」と言いたくなるし、でも、看護師さんがいなければ途端に頓挫してしまう現場の実態もあるし、その点では尊いし。

だからこそ、うーん、うーん(いいのかな、なんとかしてほしいな、なんとかできないものかな、でもみんな頑張っちゃうんだな、偉いな、でも気の毒だな・・)という思いが回り続けて、

でもそんな自分は、ただの坊さんでしかないしな、というところにずっとい続けているという状況です。

坊さんというのは、いろんな分野に通じる ”心の使い方”(智慧)を伝えることはできるけれど、すべての分野について外様(とざま:部外者)であるという疎外感・淋しさを脱することができない仕事。

問題が見える割には、何もできない・・私の場合は、全方位に向けてずっとそんな感じなのだけれど、

中でもひときわ、背負わなくていいものまで背負っている、でも背負わなければ回っていかない、そういう現実を垣間見て、もどかしく思い続けているのが、看護の世界です。
 

心優しき全国の看護師さんたちみんなと、つながることができたらと願っているのだけれど。

 


2025年7月25日


8月・9月の講座スケジュール

興道の里の最新スケジュールです。

詳しくは公式カレンダーをご確認ください。

*愛知(栄および高蔵寺)の講座は主催者が異なりますので、スクールで直接お手続きください。

・・・・・・・・・・・・


8月16日(土)
子を持つ親の生き方&育て方学習会
13:00~17:00 
千葉県野田市

子育て中の親のための学習会を開催します。親と子供の両側から見た「十代のうちにやっておきたいコレだけは」を整理します。子育てに後悔したくないお父さん・お母さんの参加を歓迎します。

参加申し込みフォーム>にご記入ください

 

8月31日(日)
小中学生向け夏の国語キャンプ 
13:00~17:00
千葉県野田市 

<内容> 小5から中3の子供と親を対象に ”国語キャンプ” を開催します。教材を草薙龍瞬が用意して、国語の読み方・解き方・学び方をわかりやすく紹介。なんでも話せるゆるめの座談会つき。勉強の仕方もわかるし、学校・勉強・友だち・世の中のことも話しあえる一石二鳥のお得なイベントです。親子での参加を歓迎します。

参加申し込みフォーム>にご記入ください

 

8月29日(金) ※8月30日は満席のため臨時増設しました
18:00~22:00
個人相談会
東京・神楽坂

<内容> お一人45分のミニ個人相談会を開きます。自分では答えを出せない悩み・課題を抱えている方で、代表・草薙龍瞬への相談をご希望の方は、①お名前 ②自己紹介(お仕事・生活など) ③相談内容(可能な範囲で具体的に) ④ご希望の時間枠 ⑤連絡先(臨時連絡用) を koudounosato@gmail.com まで。折り返し詳しいご案内をお送りします。

※初めての方は、公式サイト内の<活用ガイド>をご覧ください。

※すでに満席の場合および相談内容にてらしてお役に立てる可能性が低い場合は、返信しておりません。その場合はお寄せいただいた情報を消去する形で対応しています。あらかじめご了承ください。 

<時間枠> ➀18:00~18:45 ②18:50~19:35 ③19:40~20:25 ④20:30~21:15 ⑤21:20~22:05


9月6日(土)
18:00~21:30
座禅会
東京 要予約


※登録制です。初めての方は、公式サイト内の<活用ガイド>をご覧ください。



9月13日(土)
18:00~21:30
自己ベストの生き方&働き方を考える~大人のための学習会
東京 要予約


<内容> 仕事や日々の暮らしに悩み・課題を抱えている大人のための勉強会。当日までに寄せられた悩み・疑問を、仏教の智慧を使って解決します。「自分で考えて答えを出せる」ように考え方の道筋さらに個別の解決策まで取り上げます。当日用の特製資料を用意します。オンライン受講可(要登録)。

★事前の質問・相談を募集します。積極的にお寄せください。

参加ご予約は、①お名前 ②自己紹介(お仕事・生活など) ③当日のテーマ(質問・相談などを可能な範囲で具体的に:内容を一般化したうえで当日お答えします) ④連絡先(臨時連絡用)を koudounosato@gmail.com まで。折り返し詳しいご案内をお送りします。


9月15日(祝月)
13:30~15:30
愛知高蔵寺・公開講座「仏教で思い出そう『あの日の幸福』を」
無料相談会つき


「あの時は幸せだった」と思える時間をいくつ覚えていますか? 幸せを忘れて、ストレスや心配事ばかりに追われているのは、なぜでしょう? どうすればこの先、楽しい時間を増やしていけるのでしょうか? この講座では、人がつい幸せを忘れてしまう原因をつきとめ、楽しい時間を取り戻す「暮らしのヒント」を紹介します。少しの工夫で「万年・幸せ上手」になれるかも。まずはこの講座から。

会場 高蔵寺中日文化センター  

予約・問い合わせ 0568-92-2131
https://www.chunichi-culture.com/programs/program_195300.html





事態が改善しない理由

今抱えている課題を解決するには、まずは自分自身のこだわりを捨てる必要があります。

自分のプライド、自分の考え、自分のキャリアや立場・・中には「そんなに私が悪いのか」的な自己防衛をどうしても解除できない人もいます。

心情的にはわからなくもないのだけれど、そうしたこだわりは、事態の解決には役に立ちません。

なぜなら、そうしたこだわりがあるからこそ、今の悩みにたどり着いたのだからです。

自分自身のこだわりなんて、どうでもいい。取るに足りない、ガラクタのような妄想でしかありません。

もし相手(特に子供)との関係に悩んでいるなら、その相手の言葉をそのまま受け止めて、相手の思いをちゃんと受け止めることが、「当たり前の務め」です。聞くことに、こだわりは要りませんよね。

相手が訴えてくること・伝えてくることは、すべて相手にとっては真実なのです。「そうなんだね」「そうだったんだね」と受け止めてあげるだけ。なにも難しくありません。

自分のあり方が、相手を苦しめていたなら、その事実を素直に受け止めるだけです。素直に受け止めた時には、まずは「ごめんなさい」「悪かった」という言葉が自然に出てくるものです。

別に相手は、その正しさを押しつけようとか、こちらを屈服させようなんて思っていません。単純に「わかってほしい」だけなのです。

だから、わかってあげればいい。聞いてあげればいいだけです。

そうしたシンプルなあり方を頑なに拒んで、「こっちが悪いというのか?」「そういうあなたはどうなんだ?」みたいな、プライド発のこだわりを発散しているというのは、「だから問題がこじれるのですよ」と言うしかない不毛な姿です。

そんなに自分が可愛いのかな? そんなにプライドが大事? ただの妄想でしかないのに?

そうした妄想にこだわる背景には、自分自身も誰かを許せないという不満が隠れていることもあるし、「自分は正しい、エライ」というしょうもない思い込みがあることもあります。

そうした自分、自分、自分という強烈な自意識、自分へのこだわりがあると、

相手(特に子供)の訴え・異議申し立てに、激しく動揺してしまいます。

相手は「わかってほしい」だけなのに、

こちらは「なに? 私が間違っているというのか?」と、自意識で反応し返してしまう。

だからこそ動揺するし、怒ったり落ち込んだりと感情の起伏が極端になるし、激しく消耗するのです。

そうした状況に陥ってなお、「だから相手(子供)が問題(≒私は悪くない)」という自意識を抜け出そうとしない人もいます。

そうなると、相手(子供)には、もう絶望しかなくなります。

単純にね、関わるというのは、互いが幸せを感じるために関わるのですよ。苦しめ合うのではなくて。

苦しめ合う理由というのは、力関係でいえば、「上」の人間が作り出しているものです。ほとんどの場合。

だって、素直に受け止めて、謝るべきは謝って、互いに快適に過ごす関わりを作る努力ができるなら、苦しみは生まれないからです。そうした努力をしないでいられるのは、自分へのこだわりを押し通せる「上の人間」だからです。

自分が上だと思っているから、努力しない。聞かない。わかろうとしない。想像しない。

上だと思っている、その思い込み、自分へのこだわりから、潔く降りる必要があるのです。自覚すること。地べたに立つこと。素直になること。

これは何歳になっても同じ。親であっても、まったく変わらない真実です。



久しぶりの坐禅会

7月は、大阪・看護専門学校での講義に始まり、市民講座や企業向けの講演や奈良入りや名古屋での講座を経て、東京での久しぶりの個人相談会&坐禅会、さらには連載中の原稿&イラスト描きと、かなり忙しい時期が続いて、

昨日、7月ラストの坐禅会が終了して、ようやく一息(といいつつ実感としては半息くらいだけれど)つけるようになりました^^。

昨日夜の坐禅会は、みんな久々に来てくださったのに、それぞれの近況を聞き損ねてしまいました。申しわけなかったな・・と思います。今度一人ずつ感想・近況を聞くようにしましょう。

でも、みなさんのお顔を見ることができて、よかったと思います^^。

個人相談会も、いろんな人と有意義な時間を過ごせました(今回は昼夜開催だったので、合計10名)。十代の若い人も、人生の締めくくりを一緒に始めようという人も、関西から来た人もいました。

相談内容もほんとに個性的。一人一人が、まったく別の課題に向き合っている。そうした人生の大事な場面にご一緒できることは、とてもありがたく、幸せなことです。前に進んでもらえたらと思います。

9月にも、個人相談会と坐禅会、生き方勉強会を開催します。いずれも、毎回かなり有意義な時間になっています。

前に進みたい人は、ぜひいらしていただければと思います。



2025年7月




家の中の“圧”を避けるには


家庭であれ、職場であれ、人と人とが関わる時の基本は、

反応するのではなく、妄想を押し付けるのではなく、「まずは理解する」ことに努めること。

相手の言葉・行い、そして背後にある思いを、自分にできるかぎりの観察力・推測力を使って、「正確に理解しよう」と努めること。

※推測は、厳密には妄想に当たるけれど、最終的な正しい理解にたどり着けるなら、意味を持つ。いわば仮の理解として役に立つ。

家庭においては、理解したうえで、各自の自立を保ったうえで関わる(自立とは、互いに苦しめ合わない適度な距離感を保つこと、そして子供に対しては、将来の独立という方向性を見すえて関わること)。

つまり、理解 +(プラス)自立。

理解に努める段階においては、関係性はフラット。対等だ。

そのうえで、大人(親)の側には、自分の将来(いわゆる老後)をどうするかという方向性があり、

子供には、将来何者として生きていくか(進路・職業などの将来設計)という方向性がある。

理解 + 自立 + それぞれの方向性 だ。

(方向性というのは、「家族共通の」ではない。「それぞれの」だ。要注意)



だが、家の中で“圧”が生じることがある。圧とは、妄想の押しつけだ。

よくあるパターン(ここからが今回の本題)は、

親の側が、「こうしなさい」「こうするのが当たり前」「なんでこんなこともできないの、わからないの」と、自分の中にある妄想を押しつけて、

やらない、できない子供に勝手にイライラするという場面。

親によっては、「私が同じ年頃の時はできたのに」と考える人もいる。


ちなみに今の時代なら、学習障害、発達障害、自閉症、ADHD・・その他の概念を子供に押しつけて、「やらない・できない」子供の姿をわかったことにしてしまうこともある。

危ういのは、「うちの子は○○だから」という説明をもって、現実を正当化して、つまりは理解しようとする努力を止めてしまって、

親の側が持ってしまっているかもしれない都合のいい妄想に、気づけなくなることだ。


やらないことには、理由があるのかもしれないし、できないことが問題だとも限らない(ここ、すごく大事)。

もし理由があるなら、じっと姿を見守って、どんな思いがその心の奥底にあるのか、冷静に(思いやりをもって)理解しようと努める必要がある。

理由がないこともある。本人もあまりわかっていない、考えていない可能性もある。実はそれがその子の自然な姿であって、冷静に考えると、問題がないことだってありうる。

何か理由はあるのだけれど、本人もうまく伝えられない・・そうした時は、大人の側で言葉化してあげる必要があるけれど、

「こういうことかな?(どう思う?)」という言語化が役に立つ、つまり子供が聞いてくれるには、

それまでに、よく聞いて、理解に努めて、話をすれば聞いてくれると子供が思える、「信頼関係」が育っている必要がある。

つまりは、どうしたって、親の側が「反応せず、妄想せず、理解する」ことにどれだけ努力しているか・してきたか、が重要になるということだ。



親によっては、都合のいい妄想をさも当たり前の前提にすえて、「子供はできない」「問題がある」「この程度のことさえできないなんて」と、圧倒的な高度の上から目線で、子供をジャッジして、見下して、傷つけて、

それでいて、「親として心配している」と信じ込んでいることもある。おそろしい無知、無自覚。

そのうえ、その妄想の背後には、自分が親になる前に育て上げてしまった“業”が働いていることもある。

子供への怒りは、もしかしたら親への怒りかもしれない。話を聞いてくれない不満、自分勝手な親への不満。自分もかつて、こんなことを感じていたかもしれない: 

「なんで自分の話を聞いてくれないの?」

「もう、いいかげんほっといてよ」

「そうやってすぐ先回りして勝手にやってしまって」

「文句を言ったら、どうせすぐキレるんでしょ」

そういう小さなイライラが長い歳月の間、蓄積されていって、いつの間にか「何かに怒っている大人」になっている。

そうした怒りを隠し持ちながら、結婚して、親になって、いつの間にか、自分も親と同じように、話を聞かない、ほうっておけない、先回して勝手にやって、文句を言われたらムッとしたり、自分のプライド大事で「なに、その態度は?」「オレが悪いというのか?」と今度は自己防衛に走ったりしてしまう。

そういう姿を見た子供は、「ほらやっぱり。そうやって、いつも話を聞いてくれないじゃないか」「どうせわたしが悪者なんでしょ」と不満を感じ、失望し、親を信じなくなっていく。「話しても無駄だ」と学習してからは、口も利かなくなる。



こうした関係性は、いたるところで起きている。客観的に見れば、起きている現象の正体はシンプルだ。

一方が(力を持つ側、つまり妄想を押しつけられる立場・体力・言葉数を持っている親の側が)、

自分に都合のいい妄想と、過去の記憶やら怒りやらプライドやらのうえに乗っかって(ふんぞりかえって)、

「自分は正しい、子供が間違っている」という図式(ジャッジメント)を強固に築き上げて、崩そうとしない。そういう姿だ。

どうしようもなく強固になってしまって、もはや親もどうしたらいいかわからない。

わからないことに悩まない――自分が正しいという傲慢に固まって老いてゆく親もいる。

わからないことに悩む親もまた、「こんなに悩んでいるのに」と、さらなる自分の正当化(自己都合の妄想)を選んでしまう親もいる。

違う。そうじゃない。自分の心を見つめないと。いったい自分の何が、この問題を引き起こしているのかを、冷静に考え始めないと。



自分の都合のいい妄想を自覚しないと始まらない。

なんと無自覚だったか、なんと傲慢だったか。「ああ、こんな自分のままなら、子供が聞いてくれるはずもない」と痛感しないと始まらない。

自分の無自覚を自覚したら、最初にすべきは、純粋な思いで謝ることだ。ごめんなさい、と言えるかどうか。

純粋な思いというのは、自己の正当化、ちっぽけなプライドを捨てること。親として生きて来て、いつの間にか思い上がっていた、妄想の上にふんぞりかえって、自分がいっぱしの、正しい、「当たり前」を押し付けていい親なのだと思い込んでいた、そういう自分の愚かしさ、情けなさを噛み締めることだ。

そうした地平に立てるかどうか。立つことができれば、子供と対等に向き合える。

「理解し、理解される」関係性にシフトできる可能性が出てくる。

優しくて、聡明で、子供の言葉をよく聞ける親。

話し合うことにストレスが生じない、風通しの良い家庭。

そうした未来をめざすことは、いつでもできる。努力は必要かもしれないが、その努力は、損のない努力だ。

努力に比例して、子供との関係が良くなっていく。プラスしかない努力だ。

自分次第。親次第。ということです。

消えない悩みのお片づけ(ポプラ新書)から
 
 

家の中でも”反応しない人”になれますか?

<興道の里から>
7月18日は、久しぶりの東京でのライブ(教室)講座でした。

<自己ベストの生き方&働き方を考える>は、参加者のリアルな課題・質問を仏教的に掘り下げていくというスタイル。この場所の仏教の実践・応用編、しかもその究極であるような気がします。

毎回かなりディープ。視点、切り口、組み立て方・・いずれもこの場所だけのオリジナルです。参加した人は、ぜひココだけの学びとして、日常に活かしていただけたらと思います。



「ポイ活」は、今回限りとします(笑)。ポイントが着くからと半ば無理やり質問を作って参加しようとする人(?)もいなくはないようなので。もちろん直接お会いできる喜びは、別のところではあるのですが。

やはりこの場所の方向性にはそぐわない(笑)。煩悩・俗情をいささかなりとも刺激してしまうような仕組みは、採らないほうがよい様子です。

切実なテーマをリアルタイムでお持ちの人に来てもらえれば十分なので、あえて”キャンペーン”しなくてもいいですよね(笑)。



<おたよりから>
仕事では「思考」も「判断」も行います。ときには厳しい判断も必要です。一方で、家庭では「慈悲喜捨」だけにしたいものです。その両立がなかなかできません。

仕事が終わっても「買い物をして夕食を作って・・・」など思考が続く中で、「玄関開けたら反応しない人!」みたいなことが皆さんできているのでしょうか?

ブッダでさえ、すべてを捨てなければ「反応しない」境地に達することがなかったのなら、この世界にあって自分はどうしたらよいのか? 何かヒントがあればと思っています。


<興道の里から>
講座の中でお話しましたが、仕事では確かに思考と判断が必要ですね(ただ仏教においては、それは正しい理解とあくまで慈悲にもとづいて・・という一線は貫くことになります)。

家の中でも同じです。やはり理解と慈悲。

もっとも、外の仕事と家庭内とで、ひとつだけ関わり方を決める原理が違います(おそらく)。

それは、外の仕事は、立場・役割で決めることになるけれども(判断と判断がぶつかった時には、立場・役割にもとづいて、一方の判断を選ぶことになる)、

家の中では、もちろん立場・役割もあるけれども、それは少し緩いものになって、代わりに働く原理が「自立」であるということです(たぶん。このあたりが仏教的)。

自立というのは、「縁あって同じ家で暮らしているけれども、あくまでそれぞれが別人格で、別の人生を生きている、子供であれば、子供だけの未来・人生がある」という前提です。

親だからといって、子供の心情を傷つけていいことにはならないし、何をしてもいいわけではなくて。

あくまでよき理解者であろうと努めて、子供がいい人生を、自分の力で生きて行ってくれたらという思いをもって、適度な距離を保って、必要なかぎりで後押し(応援)するという関わり方です。



たしかに家も俗事も捨てないと、”究極の無反応”は達成できません。

でも、家の中・世俗の世界における「反応しない」というのは、

それまでの我流かつ過剰な反応を制御できること、

価値ある反応はするけれど、無価値な反応はしないということ。

そのためには、自分の反応をつねに見張って、自分の反応のクセ・思考のクセを自覚して、その都度自己反省の”痛み”を感じて、

「もうこのパターンは卒業しよう」「もうこんな自分はいいかげん卒業しよう」と、何度も自分に言い聞かせるなかで、次第にできるようになることです。

これは場数の問題であり、自覚の問題。これくらいであれば、日頃の心がけひとつで、けっこう近づいていけるのではないか、と思います^^*。

ひきつづき




2025年7月中旬


色とりどりの皿回し


今年の全国行脚、ぼちぼちスタート。皮切りは、大阪の看護専門学校での3日連続講義。

完全徹夜で大阪入りして、翌朝8時に車で運んでもらって、午前は3年生。午後は1年生。


「患者目線で向き合う」が、最初の約束。

だから、だらしない姿を見せた時は、遠慮なく喝を入れさせてもらう。今回は2回ほど。 

今年の講義は、中身もガチ・モードだった。救急救命時の気管挿管の判断という、これは1年でやったことの復習。某薬剤の検証も。

いくつかの資料を見せて、「せめてこれくらいの事実を把握してから判断しなさい」という話。現場の医師も看護師も、学校の先生たちも、ろくに事実を調べず、検証もしていない。

たとえばクラス40人のうち1人でも、歩けなくなったり、最悪死んでしまったりしたときに、親も、医師も、学校も、責任を取れやしない。

取れっこないのだから、最初から無責任なことをするな、言うな、というのである。

「当たれば100%のロシアン・ルーレット」ということを、骨身に沁みて自覚せねばならない。一度失ったら、永久絶対に帰ってこないのだから。未来の可能性も、命も。

他には、くも膜下出血で運び込まれた患者への対応如何と、5歳の女児にアデノイド摘出手術をするかの検討。

きちんと手順に沿って知識・情報を整理して、本人が納得できる結果にたどり着くことが、プロに求められている仕事。そのための技法を伝えるのが、この授業の狙い。

錯綜する情報をどのように整理すればいいか、その視点(いかに理解するか)と、どんな手順で結論を導き出すかという論理的道筋を、伝えることが目的だ。

1年生にも3年生にも、同じ熱量と充実の中味を伝えたつもり・・だが、どれだけその心に残っているかは未知数。

でも今年も、納得のいく講義ができた。自己満足。だが自己満足こそは、教育の基本だ。

3年生は、これでお別れ。せっかく3年間、いい体験をしてきたのだから、一人たりとも落ちないように、と最後にエールを送った。



私はただの坊主に過ぎない。医療・看護の素人にすぎないが、人の命を想う熱と真剣さは尋常を越えたレベルで持っている。

その部分こそがずっと燃やし続けてきたものであり、看護学生に伝えられる最も価値ある部分、つまりは「倫理」であろうと思う。

私が伝えている程度の知識や情報など、プロになった時の彼らには、常識として知っておいてもらわねばならない。私以上に人の痛みを感じ、救うための方法を選び取り、患者の心身の痛みを取り除いて、その日常に戻ってもらう。その手助けをしてもらわねば。

日進月歩の医学・看護の知識も、私以上に通暁して、素人の坊主である私にもはや教えられることはなく、次回は病院にて、弱くなった体をケアしてもらう、おとなしい患者の一人として再会してもらわねばならない。

彼らが進もうとしている道は、仏教とは離れた世界なのだが、人に貢献しようという情熱は共通しているはずだ。

そもそも医学も看護も、患者の苦しみを癒すための技術なのだから、患者目線で納得できるものでなければならないことは当然だ。

ならば、伝えられることもある。

今回は、いずれのクラスにも、よい変化が生まれたような気が(勝手に)している。

しっかり学び続けて、無事合格してもらいたいものだと思う。



授業終了後は即移動して、神戸で企業向けの講演会。終了後はどしゃぶりの中を新神戸駅まで走って、新幹線でいったん帰京。週末2日で次の講義の教材を作って、月曜には奈良、火曜は名古屋、水曜は大阪だ。

いや、忙しい。だが幸せな忙しさだ。いろんな役目を授かっている(そういえば、この3日の間に新聞連載用の絵も描いた笑)。

色とりどりの何枚もの皿を頭の中でめまぐるしく回している思いがするが、これくらい同時進行で廻っているほうが快適なのだ。

遠い昔は、一つの仕事・一つの世界に収まりきれない自分がおかしいのかと思っていた。変わった人間だと実際に言われていた時期もあった。周りに合わせて一つの器に自分を押し込めようとして、頭も心も回らなくなってしまった時代があった。

あの頃の自分と、今の自分は、まったく別人だ。今の自分は生きている。縦横無尽に動いて、持っているものを、存分に活かすことができる。

まさかこんな “仕事” がありうるとは。人生は不思議で面白い。



2025年7月


看護専門学校の教室から


本日取り上げた○○の資料を共有しておきます。興味のある人は目を通しておいてください。

医療をめぐる情報は、最初は厚労省のHPです。それなりの情報が公表されています。

ただし、メディアはほとんど取り上げないし、情報を読み解く<視点>を持って解説してくれる専門家は、ほとんどいません。

「自分で情報の意味をつかむ」必要が存在します。

でも、だからこそ、「面倒くさい」「忙しいからフォローできない」というのが、現場の医師や看護師さんの日常です。

でもそのままだと、「目隠しをしたまま」、自分、家族、そして患者さんに向き合うことになります。

今回のように、リスクが尋常でないレベルで実は高い薬剤の場合は、冗談ではなく、その命や将来を大きく左右しかねません。

「今のままでは、情報も知らないし、自分の頭で考えてもいない、これは危険だ」と気づく必要があります。目隠ししたまま車を運転する人など、いないでしょう? 同じことです。

情報をちゃんと手に入れること。しかも、メディアや専門家のフィルター(解釈・決めつけ・偏り)を通す前の、なるべく生の事実・データを見つけて、「考える」ことです。視点をもって、技法を使って。

なお、情報は、英語で検索するともっと出てきます。ほんとは、そういう生の情報をなるべく広く集めて、視点をもって眺めることなのです。

もうひとつ大事なのは、データの背後に隠れている苦しみにも、ちゃんと想像力を働かせることです。「89%の人が回復した」ということは、「11%の人はまだ回復していない」ということ。「11%? 100人のうち11人? それって多くないか?」と考えられるようになることです。

メディアや専門家が信頼されなくなりつつあるのは、事実を最初から無視したり、事実を都合よく解釈して、自分たちに有利な内容しか伝えないからです。

君たちは、人を救う側に立つ人間です。苦しみを背負っている人の側に立つ必要があります。

だから、最初に苦しみを見る必要があるのです。「事実を見れば、これだけの人たちが苦しんでいるではないか」と。

「その原因は? どうすれば解消できるのか?」と、しっかり考えを進めていくのです。

そして、<方法>については、なるべく多くを挙げて、選ぶか、選ばないかを、「苦しみを増やさない」という大前提に立って検討することです。

「避けられるリスクは避けるほうがいい」と言えることも、医療従事者にとっては大事なことなのです。「人を救う」ことが使命なのだから。

苦しみに寄り添って、事実・データを調べて、自分の頭で考える。

そうした習慣が身に着くと、情報を拾って分析することも、いっそう速く、正確にできるようになります。



2025・7・9



夏の国語キャンプ2025開催のおしらせ

興道の里から

夏の国語キャンプ2025の開催が決まりました:

*千葉県野田市 2か所で開催
 
千葉での国語キャンプの概要は以下の通りです。

予約受け付けを開始しますので、下記の予約フォームでお申し込みください。
 
SNSなどによる告知・紹介は自由です。小中学生をお持ちのご家庭にお知らせください。 

お問い合わせは興道の里事務局まで koudounosato@gmail.com


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夏の国語キャンプ2025 千葉野田市

2学期が始まる前に国語を得意にしちゃいませんか? 小5から中3を対象に“国語キャンプ”を開催します。面白くて良質な文章を選んで、国語の読み方・解き方をわかりやすく授業します。

勉強だけど、勉強っぽくない“ゆる系”の国語です。でもちゃんとチカラがつきます。筆記具だけ持参してください。お友だちや親と一緒もOKです!
 
主催  子供の明日を育てる会(千葉県野田市)
事務局 興道の里事務局 


8月16日(土)午後1時から
千葉県野田市フリースペース コキアの丘
 
下記QRコード または リンク先から ご予約ください


 
 
 
 
8月31日(日)午後1時から4時まで
欅のホール 千葉県野田市中野台168-1   

予約フォーム
下記QRコード または リンク先から ご予約ください




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今回がいわば、旅する寺子屋の ”こけら落とし” です。

このプロジェクトは、春・夏・秋・冬と、一年を通して開催していきます。

集会所・公共施設・子ども食堂など場所を見つけて、ご連絡ください。


興道の里・草薙龍瞬は、未来を育てる活動を始めます――
 
 



興道の里・明日を育てるプロジェクト
2025年7月





壁にぶつかったときは


子供の頃に、ラジコン・カーで遊んだことがある人は、わかるだろうと思いますが、

車が壁にぶつかったときに、同じ方向にレバーを入れていたら、いつまでも壁にぶつかったまま。

少し下がっても、ギアを入れたら、また壁にごっつんこ。

いつまでも壁にぶつかりっぱなし・・という事態になってしまいます。


この事態を抜け出すのは簡単で、いったんバックして、距離をおいて、ハンドルを切って、向かう方角を変えるだけでいい。

壁があるのは一方向だけで、他は空いているから、自由に走れる。自由に遊べる。


日常が行き詰まるときも同じ。同じ方向にしか向かっていない。つまりは過去の生き方(方角もスピードも)に執着したままでいる。

執着している自分に気づいて、「このままじゃどこにも進めない」とわかったら、いったん退がって、方向を変えればいい。

なぜその切り替えができないかといえば、同じ方向にしか向いていない、つまりは執着して手放せていないものがあるから。しかも自覚していないから。

まだ、壁のほうに「何か」があると思っている。世俗における成功とか、親と仲良くなりたいとか、もしかしたら相手が変わってくれるかもしれないとか。


壁にごんごんごんとぶつかり続けて、「なんでうまくいかないんだ」とだんだん腹が立ってきたり、

「自分にはこれしかないんだ、これまでもこうして頑張ってきたんだ」と、わざわざ自分に言い聞かせたり、

「どうせ自分は何をやってもダメなんだ」と結論づけてしまったり(何をやってもって、それしかやってないのに)、

「まあいいや、ネットやゲームで遊べるし」と、結局はラクに流れるための理由として利用してしまったり。

その他いろんなパターンがあるけれども、共通しているのは、壁ごっつんこを続けている姿。


「はい、いったん退がってください、ハンドル切りましょうか」と状況整理して伝えて、素直にそのとおりにできるなら、簡単にその窮地は抜け出せる。

「へえ、こんなにスイスイ、広々とした場所を走れるんですね」と、びっくりする声も聞ける。


この場所と縁があるのは、「壁ごっつんこ」にふと気づいて、「痛い」と感じ始めた人たち。

素直に切り替えられる人、切り替える努力を始められる人であれば、この場所は役に立てる。


自由に走れる人たちが世の中に増えてくれれば、それでいい。

他の人をはねたり、巻き込んだりしないで、自分の人生を爽快に走れる人が増えてくれたら、

というのが、この場所の願いであり、そのきっかけ(方向転換の)であることが、この場所の役割です。

『怒る技法』台湾語版、まもなく




2025年7月初旬


夏の講座スケジュール

興道の里から
 
※最新のブログはこのページの裏に掲載していきます。左側スペースの見出し(スレッド)または、このページ末尾の「前へ」からさかのぼってご覧ください。
 
 
東京での講座を再開します。
あわせて日本全国行脚の日程もお知らせいたします。

*看護専門学校での公開講座は、医療・看護関係者はご見学いただけます。

*講座内容・参加費等の詳細は、公式カレンダーをご確認ください。

*初めての方は、必要事項の登録が必要です。興道の里活用ガイドを最初にお読みください。
 

・・・・・・・・・・・・・・
<講座スケジュール>

7月9日~11日
【公開講座】看護専門学校<3年生看護倫理>
★医療・看護関係者の見学可

7月 9日(水)13:00~16:30 第1・2回
7月10日(木)09:00~12:00 第3・4回
7月11日(金)09:00~12:00 第5・6回


7月15日(火)
13:00~15:00
名古屋 生き方として学ぶ仏教・原始仏教編「ブッダの生涯」
お問い合わせ・受講申し込み: 栄中日文化センター0120 - 53 - 8164
https://www.chunichi-culture.com/programs/program_190316.html

7月16日(水)
14:30~16:00
大阪・公開講座 生き方として学ぶ仏教・全4回 最終回

大阪・岸和田健老大学(NPO法人)


7月18日(金)
18:30~21:30
自己ベストの生き方&働き方を考える~大人のための学習会

東京・新宿区 ※場所は案内メールでお知らせします

<内容> 仕事や日々の暮らしに悩み・課題を抱えている大人のための勉強会。当日までに寄せられた悩み・疑問を、仏教の智慧を使って解決します。「自分で考えて答えを出せる」ように考え方の道筋さらに個別の解決策まで取り上げます。当日用の特製資料を用意します。★事前の質問・相談を募集します。積極的にお寄せください。 
<対象> 今の仕事・生活に悩みがある人全般 ●オンライン受講可(要登録)。
 

7月19日(土)
13:00~17:00
個人相談会

東京・新宿 場所は予約者にお知らせします

<内容> お一人45分のミニ個人相談会を開きます。自分では答えを出せない悩み・課題を抱えている方で、代表・草薙龍瞬への相談をご希望の方は、①お名前(実名) ②相談内容(可能な範囲でなるべく具体的に) ③臨時連絡先(携帯番号) ④希望の時間枠 をkoudounosato@gmail.com までご連絡ください。折り返し詳しいご案内をお送りします。

<時間枠> 
⑤16:20~17:05 
⑥17:45~18:30 
⑦18:35~19:20 
⑧19:25~20:10 
⑨20:15~21:00 
⑩21:05~21:50


7月21日(月祝)
13:00~16:30
夏の座禅会・午後の部
東京・新宿区 ※場所は案内メールにて告知します

7月21日(月祝)
18:00~21:30
夏の座禅会・夜間の部

東京・新宿区 ※場所は案内メールにて告知します

快適な毎日を過ごすには、心の汚れを落とすこと。お寺では学べない坐禅(瞑想)の秘密(アタマの中で何をするか?)を学べる坐禅会。①坐禅・瞑想の実践、②さまざまな話題に関するミニ仏教講座、③なんでも聞ける座談会の3本立て。初参加者には解説ガイドブックつき。希望者には終了後に無料の個人面談(相談)の時間を設けています。


8月2日(土)
13:30~16:30
博多勉強会~仏教でこれからの生き方を考える 日本全国行脚2025九州
福岡市の公共施設 ※場所はメールでお知らせします

<内容>今年で13年目の草薙龍瞬・夏の日本全国行脚。九州博多を訪問します。参加者からの質問に答える形で内容を構成します。これからの生き方、働き方、夫婦・親子の悩み、子供の進路や学び方など、幅広いテーマを取り上げます。

8月9日(土)
18:00~21:30
お盆休み座禅会

東京・新宿区 ※場所は案内メールにて告知します


8月16日(土)千葉
13:00~17:00
小中学生向け国語キャンプ 
 
<内容> 小5から中3の子供と親を対象に ”国語キャンプ” を開催します。教材を草薙龍瞬が用意して、国語の読み方・解き方・学び方をわかりやすく紹介。なんでも話せるゆるめの座談会つき。勉強の仕方もわかるし、学校・勉強・友だち・世の中のことも話しあえる一石二鳥のお得なイベントです。親子での参加を歓迎します。
※場所はメールでお知らせします。


・・・・・・・・・・・・・・・・
<初めての方へ>
*詳細は、公式サイトカレンダーでご確認いただけます。
*参加には事前登録が必要です。初めての方は必ず 興道の里活用ガイド をお読みください。
 
<お願い>
たいへん小さな道場ですので、必ずご参加いただけるわけではありません。興道の里から返信差し上げるのは、ご参加いただける方のみとなります。あらかじめご了承のうえご連絡ください。


よき学びの機会となりますように
 
上記ご案内申し上げます
興道の里



2025・6・23




経営者の鉄則(仏教的な)

仏教の視点からお伝えできること:

 

経営というのは、性善説に立つと、たいてい、いやほぼ間違いないく失敗します。

性善説とは、人は信頼できる・時間を経ても変わらないという個人的印象のことです。

ですが、哀しいことに、人間の心には欲も慢もあります。

たとえば、その企業や社長、周りを批判的に見がちな性格の人が入ってくると、

その性格をもって周囲を批判し始めて、そのとき募ってきた不満を周りに愚痴や非難として垂れ流し、

それに触発されて、同調する人間が出始めたところで、組織の中に負の感情が肥大し始めます。

慢を持った人間が次にやることは、上を引きずり降ろそうという画策です。同調者を集め、上の立場の人のどこが問題かを言い募り始めます。

その理由というのは、ときに言いがかり・難癖に近いものもあります。


個人的な慢と、上の人を引きずり降ろすこと、あわよくば組織を乗っ取ってやれという個人的な強欲が、複数人の支持を得ると、

小さな組織は危機的状況に陥ります。

社長さんがお人よしで、役割に見合った内容以上の話を聞いてしまうとか、聞く姿勢を見せてしまうとか、そうしたスキ・甘さを見せると、その動きはさらに増大します。


「その人の仕事をはるかに超えてしまっている」ということに気づけるかどうか。


結局は「摘まみだす」(やめてもらう)ことが正解になります。というのも、そうした人が残っても、またその人に同調して作られた雰囲気というのは、必ずその場所を腐らせていくからです。「聞き入れる」ことに、あまり意味はありません。

こうした問題が生じた時は、いつ頃から始まったことか、誰が入った頃から始まったのか、時系列をよく見てください。

その人と話をしても、正直それほど効果は見込めません。その人物は性格で動いているのであって、話して解決できるものではないからです。


どのような組織も、必ずこうした内部の不穏な動きや声に、一度や二度は、やられます。性善説ではなく、文字通りの組織を、システムを、築いていかねばならないのです。

組織内の物事の是非というのは、立場を超えた意見交換や過剰な交流からではなく、立場・権限の上下で決めるべきことです。

それぞれに役割があり、その役割を果たすことが基本です。


本当に雰囲気のいい企業というのは、それぞれの立場・役割がはっきりしているものです。みんな、わきまえている。

だからこそ、それ以外の話も有意義なものになるし、多少の愚痴もガス抜きにはなるのです(もっともそうした愚痴めいた言葉もまた、結局、組織の生産性や円滑な運営に役に立つかどうかという目で吟味せねばなりませんが)。

役割を越えて愚痴や批判を語る人間は、その場所にとってはマイナスしかありません。早めに辞めてもらうことです。


極端な話をいえば、組織というのは、担っている人間が決めてよいのです。その組織のあり方が良いか悪いかは、上の立場、特に経営者が決めればいいのです。

もちろん企業というのは、営利・発展・維持という大前提があるので、最終的にその判断が正しかったかは、経営上の成果が決めることになりますが。


上の人(経営者)というのは、人間が時に弱く、悪にもなりうるということを前提としたうえで、それぞれが心地よく「役割を果たす」仕組みを作って行かねばなりません。

それがまさに経営というものでは?


最終的な判断は、自分で下さねばならないのです。なんでも聞くいい人ではいられないし、人に頼ることもできません。人の悪に触れることも、ときにあります。

経営者は孤独なものです。


小さな会社の社長さんは、こういう階梯をみんな進んでいくものです。

強くあらねばなりません。とはいえ、人間とは、組織とは、そういうものだと受け入れてしまえば、それが当たり前になるのですが。

強いというより、それが地(日常)になるということです。

 

 

*7月18日に大人のための学習会 自己ベストの生き方&働き方を考える を東京で開催します。課題を抱えている人は足を運んでみてください。

 

 

 2025年6月末日

 

 

 

虚栄心ゲームには乗らないよ

 

中高生が使っている教科書、参考書、学校のプリントを見せてもらうと、

「まだこんな(いい意味ではない)ものを使っているのか」と愕然とする。


そもそも学問・科目の本質が見えてこない。

その分野の全体像や、原理的な発想や嗜好の組み立て方を言語化できていない。

生徒は生徒で、ただ真面目に頑張って、授業についていって、試験に備えて、目先の成績を維持するか上げれば、将来が開けると勘違いしている。

学力は育っていない。むしろ下げてしまっている。

半世紀、まったく変わっていないのではないか。




本当の学び方を教えることはできる。やり方さえわかってしまえば、誰だって満点が取れてしまう。

だがそうなると、結局みんなできるようになってしまって差がつかず、そうした学び方もまた虚栄心を満たすゲームに利用されることが目に見えているから、

伝えることはいつでもできるが、あえて黙っていようと思う(笑)。


誰に対してなら、”極意”を伝授できるのか。

虚栄心を満たすゲームに乗れなかった子、人の痛みがわかる子、社会の役に立つ人間になろうと思える子、純粋に知的好奇心があって、人を見下しておのれの優越を維持しようという邪心がない子たちになるだろうと思う。

あいかわらず、試験で点が取れればいいとか、いい大学に進めることが価値を持つとか、そういう虚栄心ゲームに興じている人間が多い。大人も子供も先生も親もだ。

しかもその手段としての勉強が、的(本質)を外したままであることを、今さらながら知って驚く。


知能だけでなく、心も育てないと。素直な心でいられるうちが勝負だ。

やっぱり小学生。乗りきれなかった中学生。学校や社会の非合理・不条理を感じ取れる十代か。

そうした相手なら、伝えることに価値が生まれる。

 

本気と本質に触れたい子供たちに来てもらえたらと思う。これから始まる場所に。


 

2025年6月下旬




興道の里とは


古い資料の中に、最初期の原稿が見つかりました。

興道の里を紹介するリーフレットを想定して作ったものです。

2012年6月24日付 つまり約13年前、『反応しない練習』(2015年7月)が出る前の ”原始時代” の言葉です。

眺めてみると、まったくブレていないことが印象的。心は変わりゆくから、十年以上昔の自分なんて完全に他人=今は別の人 になっていても不思議ではないのに。

むしろ自己預言していたかのように、当時考えていたことが正確に形になりつつある――という今だとわかって、

おぬし、なかなかタフよのう・・と当時の自分に声をかけました(笑)。

※文中「くさなぎ龍瞬」とあるのは、当時は弱気(?)で「草薙」は難しいのでは?という遠慮からでしたw。


◇◇◇◇◇◇◇◇◇

興(こう)道(どう)の里(さと)とは――

 将来に創りたい場所です。“お寺のような、学校のような、村のような”――人々が気軽に集まり、生活し、“幸福への方法”(正しい生き方)を学べる場所。

 その支柱となるものは、やはり“ブッダの教え”(正確にはブッダが見つけた幸福への方法)ということになるでしょう(僧侶くさなぎ龍瞬が一番お役に立てる分野ですので)。

 ただ、“宗教”的な場所にはしません。宗教というのは、特定の妄想を信じることで救われた気分になる思想だと言えます。しかし、それでは“信じる者しか救われない”という限界があります。

 私がめざしたいのは、信じる・信じないのレベルではなく、もっと広く、人それぞれが自分自身の幸せな・満足のいく・納得のいく人生をまっとうするための合理的な方法です。

 それぞれが自分の暮らしの中で自由に試し、実践できるオープンな知恵。そしてそれぞれのやり方で、この世の中の改善・前進のために役立つ何か(新しい価値)を創り出せるような生き方です。そういう生き方を学べる場所を最終的に作れたら、というのが、私の目標です。
 
 僧侶くさなぎ龍瞬の活動は、こうした目標を最終ゴールとして組み立てられています。“興道の里”とは、いわば私自身の人生の方向性なのです。

 



 現時点での課題は、「仏教をこの社会にどのような形で伝えれば、最も多くの人に役立つのか?」というもの。いわば “ベストの活用方法” を探している段階です。いくつかの場所で行っている仏教講座や、本の執筆なども、方法探しの一環として行っています。

 “このやり方なら仏教を宗教とせずに、より多くの人に役立ててもらえる” という手応えと、経済的基盤が手に入り次第、どこかに拠点を定めて、活動の新しいステージに入る予定です。それが整ったら、さらに次の段階へ――。徐々に整えていきたいと考えています。

 ひとの道(生き方)というのは、最終的には、自分以外の誰かの幸せの役に立ち、そのことが自分にとっての幸せになるというあり方に落ち着くのではないか、と個人的には思っています。

 僧侶くさなぎ龍瞬が創り出したいのは、人々の幸せにコレだけは欠かせないという生き方・考え方・価値観というものを、取り戻し・発見し・発展させていくための “きっかけ” です。どういう “きっかけ” がこれから生みだされていくか――見守っていただければと願っています。

 何より大切なことは、あなた自身にとっての“現実”の改善に、この場所を役立てていただくこと。この場所が提供するのは、心のわずらいを取り除き、浄化する方法。日々直面する問題を解決・改善する方法です。

 この場所でお伝えしている内容はすべて、宗教としての仏教ではなく、誰もが実践できる合理的な知恵・方法として組み立てられています。あなた自身の自由なやりかたで学び、活用していただければと思います。
 よろしくお願いいたします――。



2012年6月24日付

仲の良い家族になるには?

 (海外からのおたよりへの返信抜粋)

 

仲が良い関係性というのは、結局、関わっても苦痛がないことが基本になりますよね(仏教的な入り方ですが)。

仮に思いきり執着して、男女愛・家族愛を信じることができる場合も、その時点では苦痛がないから、仲は良いはずです。

その執着や「信じる」を支える要素として、文化的・歴史的な背景もあるような気がします。

たとえば、ファミリー・タイズ(家族の絆・つながり)

というのは、欧米の文化みたいなものですが、中世の暗黒の森を切り拓き、教会で神の愛を感じて、家の中で確かめ合うという伝統も影響しているのかもしれない。

陸続きでつねに外敵の脅威にさらされてきたから、国・城・家という防衛装置を大事にしようという文化的背景もあるかもしれない。

(他方、東南アジアの農耕民族における家族の絆は、違う背景を持っているし、中国・台湾などの儒教文化圏の家族観も、また違う基盤を持っている)


ただこうした考察よりも、「仲が良い家族」の最大の原因は、

一人の独立した人格として認めて尊重するという前提があるような気がします。


上記は、いちおう欧米の家族・親族が仲がいい(それをいうならラテン系もそうかもしれない。やはりキリスト教文化圏?)ことを前提に考えてみましたが、

実は、欧米の家族・一族にも、「相当病んでいる」ところは、計り知れず多く。

ユダヤ教・キリスト教由来の厳格な躾(しつけ)によって、深く傷つけられた人も多いし、

移民として渡ってきた一族の中には、故郷に居場所がなく、その後も存在不安が続いて、家庭内暴力とかアルコール依存その他の精神的病を抱えている人は多いようだし、

そうしたまともとはいいがたい家庭環境で育った人は、大人になっても、まさに同じ発想・性格・行動パターンを踏襲することが多くて(まさに業)、

そうした大人の中には、毒親と化して子を虐待していることはざらにあるし、

生育環境がわざわいして、アダルト・チルドレンと呼ばれる人格障害(とはあまりいいたくないのだけれど)を抱えたり、まれな確率だけれどサイコパス気質になったりということは、かなり起きている気がします。

(ちなみに、アメリカのサイコパスの確率は4%だとか。つまり25人に1人はサイコパス、仏教的にいえば、感情が育っておらず、したがって人の痛みもわからない脳の持ち主。)


だから「一概に言えない」というのが、最終的な印象になるのですが(ブッダもそう答えるだろうし、もしかしたら生成AIも?)、

ただ、最終的には、苦しめ合わない関係性であれば、そのうえに、フレンドとかファミリーとかパートナーという名目(理由づけ)えあれば、

仲良くすることは、難しくない気がします。


苦しめ合わないためには、互いに自立している必要がありますよね。自立しているから、ノーを言える。適度な距離を保てる。苦痛を排除できる。相手のことも尊重できる。

その逆を考えてみると・・・つまりは、依存している、執着している場合。「相手がいなければ、自分のままではいられない」という弱い、幼いともいえる状態だと、

相手が友人であれ家族であれ、依存して、執着して、しかもその心の中には、しっかり都合のいい妄想や欲や怒りが潜んでいるから、

どうしたって関わる相手にそうした部分が伝わることになってしまって、

依存する側としては、「あなたなしではいられない」「どうしてもっとこうしてくれないの」という不満が募り、負の感情を垂れ流し、

依存を向けられる側としては、「そんなことを言われても」「ほっといてくれるかな」「もういいかげん一人にしてくれ Leave me alone!」みたいな心境にすぐおちいってしまう。

ならば、共依存であれば互いに依存できるから快適かといえば、まったくそんなことはなくて、

心と心は別物だから、ひとつの心が、他の心を背負うことはできない。そうした関係性は単純に苦しくなる。

たがいに依存しあって、たがいにしんどくなってしまう。それが共依存。

共依存で幸せになれる関係性は、おそらくない。


日本人の家族が、疎遠・仲が悪いとしたら(これも一概には言い切れないけれど)、自立を果たせていないから、というのが最大の理由のような気がしてきます。

 

(つづく) 

 

よい家族を作る基本をまとめた本 

 

 

揉めごとが生じた時は

(最近届いたおたより:学校での事故にちなんで)

 

人間関係や仕事で揉めた時は、どう動けばいいか。

最初の整理の仕方としては、その揉めた原因となった事実は、自分の側で作り出したものか、相手側が作ってしまったものかを考えることになる(『怒る技法』)。

事実を引き起こしたのは、どちらなのか。

こちら側も、その事実は誰が起こしたものかを理解しようと努めることになる。

と同時に、事実を相手側に理解してもらう


事実認定は慎重に。冷静に。過剰に反応せず、妄想をふくらませず。

事実そのものは、自分の輪郭外だ。いっそ他人事だと思えるくらいに客観的に、冷静になれるほうがいい。

できるかぎりの記録を確保して、事実を保全する。それが第一歩。


揉める(こじれる)可能性があるのは、事実を引き起こした側がどちらなのか、判定が難しい場合。一方当事者が「事実を否認」した場合も含まれる。

こうした場合に役立つのは、本来あるべきだった事実(事故やミスがなく進むこと)は、誰が担うべきだったか、役割として、仕事として――という視点。

もし現場に直接関わる側(教師や監督など)がいるなら、その現場で起きた事実については、その人たちが(現場に直接関わっていた人・監理監督すべき人)が、責任を負うことになる。


だから、揉めることなく事態が落ち着く(解決できる)のは、

事実について責任を負うべき側が、その部分についての責任をいさぎよく認める時だ。

もし自分がきちんと本来の仕事・役割を果たしていたら、その事実は発生しなかっただろうといえる場合は、その事実については責任を負う。

それで一件落着する。


難しくなるのは、事実にもとづく本来の責任さえ負おうとしない場合。

一般的に、事故・過誤・ミスが大事(おおごと)になっていくのは、この場合だ。

この局面に至ると、人間性というものが出てくる。

本当の役割・責任を担う人というのは、自分に都合が悪くても、「たしかにその通り、その部分については責任を負います」といさぎよく言える。誠意を示せる。

だが、人によっては、責任を負うことを拒んでしまう。事実を否認するか、自分には責任がなかったと言いたいがために、別の口実を見つけてきてしまう。

場合によっては、まったく関係のないことまで持ち出して、責任を負わないという選択を正当化しようとすることもある。


こうして段階を追って見ていくと、揉め事がなぜ生じてしまうかの本当の理由が見えてくる。

揉め事というのは、事実について、自分が担うべき役割・責任を負わない人間が出てくる場合なのだ。

単なる弱さか、ずるさか、幼さか、悪意があったかは、人による。揉め事が生じるまでは、すこぶる善良な、問題のない人も多い。

だが、いざ揉め事が生じた時に、地の部分が見えてしまう。人間性が「試される」ということだ。


試された時に誠意を示せれば、そんなにこじれることはない。

被害をこうむった側(その事故・ミス・欠落によって不利益を受けた側)が求めるのは、事実を認めて相応の責任を負ってくれることだけだから。

結局は、誠意を見せてほしいという一心に尽きることが多い。


小さな揉め事はあらゆる場面で起きている。こうした揉め事がいつまでも落ち着かないのは、

生じた事実について、役割・責任を負いきれない人がいる時だ。


もし事実に基づく責任を負わない事態が続くなら、その時は、第三者に理解を求めるという方向に切り替えることになる。

「それはあなたの側の責任ですよ」ということを、第三者に認定してもらうことになる。

手間・時間はかかるだろうが、その道筋に間違いはない。



この国の文化かもしれないけれど(平たくいえば、日本人というものはという類型的な言い方になってしまうのだけれど)、

いざという時に、事実にもとづいて責任を負うということが、きわめて弱い印象がある。

やはり雰囲気やノリで進めることに慣れているからか。「なんとなくそれでやってきた」という程度のあやふやな関係性を生きてきた。そういう仕事をしてきた。

だからいざ事実が起きた時に、いさぎよく責任を負うという選択ができない。うろたえたり、責任転嫁したり、へそを曲げたりというアタフタになってしまう。

自分が、自分の役割を果たすこと、

その役割の範囲内で起きた事実については責任を負うこと。

すべて、自分の物事であり、自分の仕事であり、自分の人生である――

という軸が定まっていれば、それほど困難もなくできることではある。


こうした軸が定まっていない人が、現実の社会には多い。日本という場当たり的な、人を見て立ち位置を替えるという ”間人” 文化に多い印象もなくはない。


もう一度あらためて言おう。事実にもとづく責任を負うことは、難しいことではない。

被害を被った側は、事実に基づいて責任を負うことを、相手に堂々と求めればいい。事実と責任について「理解を求める」ということ。「わかってほしい」と伝えていくだけでいい。

被害を与えた側は、自分が作りだした事実については(だけは)、いさぎよく責任を負えばいい。

伝えるべきだし、負うべきである。だが「べき」になってしまうのは、責任を担う側に、無責任あるいは甲斐性のなさが見えた時だ。本来は「伝えればいいし、負うだけでいい」という実に簡単な話。


最終的には、第三者が、社会が、判定を下すことになるが、そこまでいかなくても、

「これは自分の領域(仕事・物事)だ、だから自分が責任を負います」という軸さえ崩さなければ、問題がこじれることはあまりない。


最終的には、人間が問われる。自分はどういう人間か。

事実と責任を受け入れられる人は、誠意ある人間として堂々と生きていける。

そういう人間の一人であろうと思うし、あってほしいと思います。


2025年6月

 

 

 

最初の発掘


今日は文京区の〇〇書院を訪問。医学・看護の専門書籍を発行する最大手だけに、威厳ただよう上質な建物。

看護教育という月刊誌の巻頭インタビュー記事のご取材をいただいた。


毎回だけれど、カメラに向かって笑ってくださいというのが難しい。「演技でいいです」というが(そりゃそうでしょ(笑))、演技は妄想しないとできないから、これも難しい。


医療・看護における倫理とは何か。従来の教科書や専門書は、哲学、歴史、最先端医療、現場の課題、事例研究など、ごった煮状態。

現場で何が必要とされているか、役に立つのか、という実際的な問題意識もなく、「なんとなくこういうものでしょ」レベルの内容で続いてきたのが、医療倫理・看護倫理だったように思える。

「答えが出ない問いだ」なんていう能天気な声も聞く。だが人生は有限で、まして医療・看護・救急救命の現場は一刻を争う選択を迫られている、

そういう現場において、人を救うための「ただ一つの答え」を出さねばならない。それが倫理というものだ。


どんな分野にも当てはまることだが、「見落としてはならない(絶対に見えていなければならない)」ものがある。

だが案外、どの分野においても見落としが多い。医療・看護の分野は、その見落としがひときわ多い印象がある。

言われるまでは思いつかないが、言われてみるとたしかにそうだ・・と思わざるを得ない視点・発想・手順がある。

そういう意外ではあるが、絶対に欠かせない、「現場で見えていなければいけないコレだけのこと」を視覚化・言語化したのが、私が伝えている倫理。


仏教の視点や構造的思考を活かすと、いろんな分野に応用が利く。

「心の使い方」という新しい視点で仏教を再構成・体系化して本に著したところ、「言われてみるとたしかにそうだ(これが本来の仏教か)」と、多くの読者さんが受け入れてくださったように、

今伝えている看護の技法(倫理)も、「たしかにそうだ」と、現場の医師・看護師さんに納得してもらえたらと思う。

今は小さな場所で伝えている”看護の技法”が、いつか医療・看護の一つのスタンダードになってもらえたらという思いもなくはない。


社会において、いつ、どこまで共有してもらえるかは、因縁によるものだから、執着しない(そもそも体一つの人生は短すぎて、そこまで意図を広げる余裕もない)。

ただ、今の時代・この社会において、案外見えていない部分、見つかっていない部分、でも掘り起こして見せれば「たしかにそうだ」と思わざるを得ない部分は、実はかなり残っているから、

そういう部分を最初に掘り起こすことが、この命の小さな役割なのだろうと思わなくもない。


仏教、看護、その次は教育だ。実は掘り起こされていない可能性がある。これを最初に発掘することを、この命の役目として引き受けようと思う。


<おしらせ>
7月9・10・11日と大阪南部の看護専門学校で看護倫理の集中講義を開催します。医療従事者は見学可能です。日時は公式ブログ内のカレンダーをご覧ください。見学申し込みは、お名前・所属・連絡先を興道の里まで。




2025年6月3日



看護に感情は要りません

某看護専門学校の講義にて:

 

 「患者と同じ感情を持つ(共有する)こと」「看護師が感情を抑制して、患者を喜ばせてあげること」といういわゆる「感情労働」が必要だと書いている人がいました。大きな間違い。

「理解」と「共感」は違います。患者と同じ感情になって喜んだり悲しんだり怒ったりというのは、看護に必要ありません。状況によっては、そういう姿が、患者を喜ばせる・癒やすことはありえますが、そこまで求められては、看護師が疲弊してしまいます。

「感情労働」「感情規則」というテーマは、今後も出てきます。看護の業界で最も誤解されているところ。もともとホックシールドというアメリカの学者が提唱したものですが、「キャビン・アテンダント(スチュワーデス)には感情労働が必要だ」と言いだしたのです(1980年代)。

乗客の理不尽な要求にも、平静に笑顔で対応しましょう、そうやって乗客の満足度を上げて、利益を上げましょう(そしたら給料も上げてあげます)という経営者目線で言い出したことなのです。組織のマネジメントとして採用されて、研修内容になって、あっという間に広まりました。

これが、CAと似ている(と勝手に思われてしまった)看護師・介護士などにも当てはめられた(いい迷惑)。


相手の感情に寄り添うことが大事だ、こっちの感情はコントロールすべきだ、感情労働頑張れ、我慢しろ、いつだって明るくスマイル、看護師は白衣の天使、微笑みと慈愛をふりまく聖職者たれ――という話になっていくのです。「患者の前で泣いてはいけない、泣くならトイレで泣きなさい」・・・おいおい。でも本気みたい。調べてみてください。


ちなみにここから、アンガー・マネジメントというストレス管理の発想につながっていきます。結局、ストレスを強いられる側が努力しろという発想。いや、それはおかしい。コントロールとかマネジメントだけでは片づかないよ、という理由で登場したのが、草薙龍瞬著『怒る技法』マガジンハウスです。19日に学校で講演やりますw。


なんで患者の感情にあわせなきゃいけないの? 理解してあげることは人として大事だけれど、理不尽な相手にも怒っちゃいけないとか、優しくケアして患者の感情を「操作せよ」だなんて・・「やってられない」と思いませんか? 

あきれた患者にも感情を出さずに優しくケアしましょう--なんていう勘違いがまかり通ってしまったから、看護師さんはみな苦労を強いられているのです。


看護師に真の尊厳と敬意を。皆さんはプロ中のプロ(高度な専門職)です。しなくていいことは、しなくていい。イヤな患者(暴言・八つ当たり・わがまま・セクハラetc.)には怒って当然。毅然と対処すべし。

感情は要らないのですよ。もっと大事なことがある。理解すること。心と体。苦しみとその原因。原因を取り除く方法――こういうところを正確に理解して、適切なケアを提供する。

それができれば十二分。看護師は天使じゃない。プロです。

見るべきものが見えるプロになれば、それで上がり(満点)です。違いますか?

 

 2023年9月某看護専門学校にて

 

業の活かし方&未来への遺し方

中日文化センター1日講座受付開始しました:

愛知高蔵寺 公開講座  仏教で思い出そう「あの日の幸福」を 

無料相談会つき

申し込み&お問い合わせ先 高蔵寺中日文化センター 0568-92-2131
https://www.chunichi-culture.com/programs/program_195300.html

*「わたしが覚えているあの日の幸福」
思い出&エッセイを募集します。応募くださった方にもれなく当日に特製ポストカードをプレゼント。
(※個人的な内容を省略し一般化したうえで、当日の教材内で紹介させていただくことがあります/匿名・ペンネーム可)
応募は koudounosato@gmail.com まで


(オープン・カレッジの受講生の方から)

善い方向に導く業とはどのようなものでしょうか?

また、悪い方向に導く業の連鎖を産まない、正しい親子関係とはどのようなものでしょうか?

人生を作る要素として、〇〇と因縁があり、因縁はコントロールできないけど、無常でもあるので、変化する部分もあるとのこと。

親と縁を切っても、そこは切っても切れない、仕方のないものだけど、たしかに人生を作る要素だなと思いました。


人生の目的とは何か?についても考えました。結局、ヒトは自分が生きた証をなんらか後世に残したいと思うものなのかな?と思いました。

そのような思いは、自分の生きた証を残したい欲、〇〇欲?みたいなのものとは違うのでしょうか?

自分自身の人生の目的を考える良い方法があれば教えてください。大それたものではなく、慎ましく穏やかに過ごす、とかでも良いのかとも思うのですが、

これだ!と自分で思えるものをどうやって見つけるのが良いのでしょうか。


◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇


 ※初めて聞く人にとっては、あやしげな言葉に聞こえるかもしれませんが、性格や慢性的な気分のことを、仏教の世界では業(ごう)と呼んでいます。心を理解する工夫のひとつだと思って、気軽に読んでください^^)


業というのは、事実として存在する反応のパターン、心のクセなので、正確にいうと、善いも悪いもありません。


今回の講義で取り上げたように、悪は、自分にとって苦しいか、誰かを苦しめる時に成り立ちます。

業が自分を苦しめるなら、悪業です。その場合、

①業が苦しみをもたらしている、つまりは悪であると自覚する。 

  ↓

②まずは原因となっている関係性から距離を置く(外部要因を最初に取り除く)

  ↓

③自分の業を自覚する。軽減・解消する練習をする。

という手順を踏むことになります。

(※詳しくは『大丈夫、あのブッダも家族に悩んだ』を参照)


もし親子関係が、その業の原因であるなら(その可能性はきわめて高い・・原因である可能性は95%くらいかもしれない・・印象にすぎませんが)、

その親子関係を解消する、つまり親と距離を取る(反応しないでいられる距離)ことが、第一歩になります。



面白いのは、悪業であっても、善業として働く可能性もなくはないということです。

その場合の善は、”関わり”において発揮されます。たとえば、承認欲の不満がある → 頑張らねばと思って頑張ってしまう(業)→ 完璧主義で自分が疲れるし、そばにいる人も疲れさせてしまう → でも仕事においては、それが緻密さとして評価されることもある

という場合は、自分の内面においては苦しみだけれども、その業のおかげでいい仕事ができている、ということもありえます。


業の善し悪しを決めるのは、第一は「自分にとって」ですが、第二は「関わりにおいて」だったりするのです。




「生きた証」は、遺したい人は、何を遺せるかを考えて、できることをやってみることになります。

でも、それが執着になってしまったら、求めすぎ(妄想)ということになるので、「遺せる範囲で考える」というのが、一番バランスが取れた発想になるかと思います。

遺してもいいし、遺さなくてもいい。それくらいの吹っ切れた感覚が、執着しないということです。


遺せたとしても、それもまた自分の満足にすぎなくて、世界はどんどん変わっていくし、生まれ変わっていくし、

生きている命は自分のことで精一杯だから、去っていったもの、過去の遺物というのは、未来においては、ほぼ存在しないに等しいものです。


結局、大切なことは、自分が、たしかに存在する今に、どう向き合うかという一点のみです。

心に苦しみがなければ、それが最上のゴールだし、正しい今の過ごし方ということになります。


何かを未来に遺す・残すというのも、自分なりに、

自分以外の命を想う(その命は、今生きている命でも、未来に生きることになる命でもよく)、

ことが、今の自分にとって幸福・納得のひとつになるからです。

遺らなくてもいいし、遺っても消えてゆく(姿を変えていく)だろうし、世界は、自分自身の思惑や願いとは関係なく進んでいく。それはそれでまったくかまわない(関係しない)。


それでも自分自身の心の発露(思い)として、未来につながることを考えて、小さなことを形にするというのは、


自分なりに正しく生きたという納得につながるのではないかと思います。


(略)

 

だけでも、未来につながる何かを、自分の手で形にしたことになります。


よき未来のために、という思いを、執着なくできること



そんな生き方もあるような気がします。



2025年6月1日




命が還る場所


春の日の法要に足を運んだ。今回の霊園は、無宗派・無宗教の人の墓も扱っているとあって、墓石はバラエティに富んでいる。御影石、大理石、黒曜石と材質は様々で、カタチもユニーク。故人が選んだメッセージを刻んだ墓もペットの墓もある。

海外の仏教国では遺灰を土か川に戻して終了だ。墓石は日本独自の伝統だが、子々孫々のつながりの象徴としての墓は大事にしていいものと思う。

今回の故人は自然葬を選ばれた。青い芝生の上に、直径十五センチほどの丸い穴が二つ。そこに係の人が遺灰を入れていく。さらさらときれいな白い故人が土に還っていく。芝生の蓋で丁重に閉じた。

その前で私は額づいて礼拝する。この日より始まる新たなつながりが久しく続くようにと。

故人を作っていた物質は土に還る。そのうち分解されて土へ植物へと姿を変えてゆく。いつしか命の連鎖に組み込まれて、はるか未来には別の命に宿っているかもしれない。すべての命は法縁(つながり)の中にある。

もし故人の姿が、生者の心に愛おしい姿で宿ってくれるなら、故人の命は形を変えてなお続くことになる。肉体は土に帰っても、生者の心の中に生きていく。

特に遺すべきは、旅立った命が懸命に生きた姿だ。たくさん苦労もしただろう。悲しい出来事もあっただろう。だが新たな命を育てて人生を全うした。命としての尊い勤めを終えたのだ。その奇跡に生者たちは尊敬と感謝を。

そして自分たちもまた幸福をめざして十二分に生きねばならない。その覚悟を墓の前で新たにするのだ。


生きていた間の苦しみは、死んだ後に持っていくことはできない。ブッダが語った八つの苦しみは、現実を生きる中で生まれる。心か体の苦しみだ。

だが体を作るものが自然に還り、それまでの心がほどけた後には、苦しみは続かない。つまり命の終焉は、やすらぎへの回帰だ。人の苦しみは永久には続かない。死をもってやすらぎに還る。あとはつながりの世界へ、目の前に広がる自然へと還っていくのみだ。


広い世界を見渡してみれば、日が登り、月が輝き、星々がきらめいている。青い空に流れる雲にほとばしる清流に海がある 無数の緑が今も呼吸をしてこの星は凄まじい速度で回り、宇宙を旅し続けている。

広い世界を見渡せばわかること。どこにも苦悩は存在しないということ。過去数えきれないほどの命が自然に還っていったが、その苦しみはどこにも見当たらない。それが命の帰結なのだ。澄明とやすらぎが待ってくれている。



※興道の里アーカイブ(過去の活動記録)から


2025年5月28日

 




ナンバーワンをめざすのは正しいか

<おしらせ>

日本全国行脚2025 訪問地募集中です。

福岡・博多での勉強会の開催が決まりました。詳細は公式ブログ内のカレンダーをご覧ください。


◇◇◇◇◇◇◇◇ 

(オンライン講義での質問~「勝ちたい」「日本一」「世界一」をめざすのは正しいか?についての答え) 


これらは目的というより、動機ですね。「○○をめざしてがんばる」という。

動機は本人限りのものです。他者が認める客観的事実、つまり結果とはじつは直接結びつきません。

つまりは、本人が思い描く妄想でしかない。どんなに本人がヤル気になれるとしても。

だから「日本一」「世界一」をめざすというのは、すごくおかしな表現であり発想なのです。中身がない。結果がない。ナンバーワンをめざすというのは、妄想止まりの自己満足--そんな姿だったりします。


「動機(自分にとっての価値)」と「結果(他者が認める客観的事実)」は違う――この当たり前の理解を持っているかどうか。

動機で目一杯の(自分にとっての価値しか見えない)人は、結果(人が認める客観的事実)に、なかなかたどり着けないものです。

「これは本当に正しいのか(自分がめざすもの・やっていることが客観的に通用するか)」という視点がないからです。

他方、結果を出せる人というのは、動機に留まらず、つねに他者が認める結果・成果を見すえているので、「これで本当に正しいのか」という問いを持つことが可能になります。方法を考える、工夫する、そして専念する。

動機という自己満足を卒業して、方法そのものにエネルギーを使うから、結果が出る確率が上がるのです。

ビジネスなら「売れて(求められて)ナンボ」ということがわかっているから、売るための努力を惜しまない。

学びならば、「学んで(覚えて、できるようになって)ナンボ」ということがわかっているから、淡々黙々とインプット&アウトプットを繰り返す。

スポーツの世界でも、結果は自分のパフォーマンス次第という当たり前の事実を知り尽くしているから、自分を追い込んで練習する。

本当の結果・目標というのは客観的なもので、自分の妄想が通用しない。
方法を実践しなければ、結果を出せない。

そういうことがわかっているからこそ、努力できるし、人に通用する価値・結果を出せる。結果的に勝利・上位・一番にもなる、ということになります。



「結果的に」というところがポイントです。勝利・上位・一番というのは、めざせばかなうというものではなく、

まったく別のところ(方法)に思い・体・時間を投入した時に、あくまで結果として出てくるものなのです。

だから、動機としては正しいとしても、動機止まり。
結果を出すには、動機だけではまったく足りない。

その意味で、間違っている(足りない)ということになります。




2025年5月22日 オープンカレッジ・オンライン講義にて