新しい職場・新しい仕事


今週から始業式・入社式に入ったところも多いようです。新調のスーツを身にまとった若い人たちや、夜の歓迎会に繰り出す人たちに遭遇する機会が増えました。

今回は、仕事をめぐるおたより&相談への返答(抜粋)です。



この人の場合は、まずは就職することが必要です。クラウドソーシングで受注しようとしても、いろんなレベルの人たちが売り込んでくる場所なので、仕事が来ないばかりか、信頼を培うにも相当苦労する(ほぼ無理な人もいる)はずです。

ある程度のスキルがあって、起業して、独自のホームページ&ブログ作って宣伝して、お声をかけていただいた人たちに倍返しの貢献をして、実績を積み重ねて・・ということを続けて、

ようやく「やっていけるかも」という目途がつく人はつく(つかない人もいる)世界です。



みずから起業する代わりに、人様の看板を借りて体験を積めるのが就職です。

今回のおたよりの場合は、経歴詐称(盛ってしまう)を続けてきたということですが、これはキッパリとやめることです。

自分を偽っても力はつかないし、嘘をついているという事実そのものに心が支配されてしまうので、身が入らない → 力がつかない → 自信もつかない → なにか理由を見つけて辞めてしまう ことの繰り返しになってしまいます。

この人にできることは、①ウソにならない経歴だけを集めて、②もう一度人生をやり直すつもりで、③新しい職場で経験を積んで、生まれて初めての仕事だと思って、精一杯やることです。

つまりは、過去の経歴(嘘)は、自分の側でリセットしてしまうこと。今後に持ち込まないこと(それをやると再び迷路に入り込むから)。

今休職中らしいので、次の仕事への前準備として、できる範囲で勉強しておくことも、できることの範囲内かと思います。

偽りの経歴を入れず(盛らず)に見つかる仕事が、自分にとっての仕事です。今の自分にできる仕事。

それを見つけることはできないものでしょうか。それができたなら、それが自分にとっての本当のスタートラインになるので、

仕事の内容に求めすぎず、不満を抱えず(だって今の自分にとって偽りなくできるありがたい仕事なのだから)、謙虚に、3年、5年とやり続けることです。

本当の経歴・実績というのは、文句を言わずにやり続けた時間そのものなのです。

「これだけやり続けました」という事実こそが、次の仕事への売りであり、強みになるのです。

偽ることをやめて、等身大の自分になることです。人様よりも「低い」ところから始めること。

徹底して低いところに立って、他人・世間のどんな視線や評価も受け入れ続けること。

この人が今なすべきは、「底」にきちんと立つことなのです。これ以上低いところはないという「底」に。

やってみてほしいと思います。きっとできるはず^^。



2025年4月上旬



4月7日

 

4月7日は、あの日です。

 

この命も、遠いところからになってしまいますが、あの人のことを想っています。

 

ずっと手を合わせています。

 

 

 (このことにこの場所で触れるのは、今回で最後にします。

 

でも、ずっと想っていますので。

 

いつか、手を合わせに行かせてください。)

 

 

 

 

 

 

春に思うこと


本格的な春到来でしょうか。

〇〇の拠点づくりは順調に進んでいます。

と同時に、「しっかり育てていかないと」という強い思いも新たにしました。


ちなみに、「しっかりやらなければ」という思いをプレッシャー(過重な責任感)に変えないためには、「(できることから)やってみる」という発想に切り替えることがコツです。

やってみるだけ。やるだけ。


まずは、夏以降に現地に移って(猫のサラも移住予定)、地元の人たちになじんで、

地域の子供たち、そして興道の里(大人)経由で足を運んでくる十代のみんなに向けて、簡単な寺子屋(授業)から始めたいと思います。





いくつか大きな隠れテーマ(あまり表立って言わない目的・方針)があって、

その一つは、「評価しない」ということ。

学び・勉強の仕方は伝えるし、結果的に成績が上がるだけのクオリティは維持するのですが、課題・問題に取り組むとしても、それに点数をつけたり、一時的な評価をしたりはしないようにしようと思います。

勉強、イコール評価(数値化)--という物差しが、どうしても学校・受験、つまり十代の人たちの世界にはつきまといがち。

でもそうした評価を、良し悪しを測る基準にしてしまうと、

もっと大きな、もっと広く深い、学ぶこと自体の面白さというものが、見えなくなってしまうと思うのです。


評価という物差しを外しても、面白い、知りたい、考えたいと思える心が最善。そうした心であれば、

大人になっても、歳をとっても、知ること、考えること、学ぶこと、体験すること、成長することが楽しくなる。純粋に楽しめる。

硬く表現するなら、「自立した知性」をアタマの中に育てる。

自分で学び、自分で知り、自分で考えて、自分で人生を創っていく。

評価されなくても、誰かに認めてもらわなくても、他人・周囲が別の方角を見ていても、

「人は人。自分は自分で答えを出す」

そういう生き方こそが本来の「当たり前」だというところに立てる人間をめざしたいのです。




なので、寺子屋で伝えることも、大人になった(なってしまった)私にとって意味あること、面白いと思えるものにする予定。

教科書・参考書も、面白い・役に立つと思えるものがあれば使うけれど、つまらないと感じたら(大人の自分が伝える気になれなければ)遠慮なく捨てて、別のものを使う。

伝える側(いわゆる先生)が、「これは面白い、伝えたい」と思えるかどうか。そこまで心動くものを使わないと、伝える側が楽しめない。当然、受け取る側も楽しくない。当たり前。

自立した知性というのは、年齢・学年を超越している。だから大学生でも、院生でも、社会人でも面白いと思えるであろう内容かどうかを、その時間・教材の中味を決める基準とする。

そうした大きな価値・本質というものを保つことを前提に、子供たち(主に小学5年生以降を想定)に伝わる言葉・内容を工夫していく予定です。




これ、けっこうハードルが高い。自分の心が若くないと(面白さがわかるくらいのみずみずしさがないと)、面白さがわからないし、伝えようというモチベーションも維持できない。

そこで寺子屋の完成と同時に、自分なりに禊(みそぎ)のイニシエーションをしなければ、とも思っています。

つまりは生活と仕事内容の刷新。古いものを持ち越さない。


せっかくのチャンスなのだから、自分自身をリニューアル。


興道の里も、第2章、いや完全な新章に入るということです。そうしましょう^^。




この場所(みなさんとのつながり)は、そのまま生きていきます。器として大事に守っていきますが、中身が入れ替わるということです。


中身は、新たな拠点で始まること、始めること。


こういうのは、行動あるのみ。やってみよう、ということです。


写真ありがとうございます

 

 

2025年4月初旬

ミャンマーを想う

ミャンマー中部で大地震が起きた(2025年3月28日/マグニチュード7.7)。

個人的にちょうどミャンマー編を新聞連載中で、あの国のことを思い出している最中だったから、いっそう心に沁みた。

かつて出会った人たち、今の人たちは、どんな思いでいるだろうか。

かつてミャンマーに入ったのは2008年。ナルギス台風の襲来で、一説には十万人を超すといわれる数の人々が犠牲になった直後だった。

軍政府の動きは遅く、支援もごくわずか。海外から大量の物資が寄せられたそうだが、現地に配られたのはスナック菓子1箱という地域もあったという。

国外には聞こえなかったかもしれないが、人々の批判・不満は相当なものだった。


私が入った大学の教授たちの反応は、二つに分かれていた。

軍政府の対応への疑問を語る人たちと、もう一つはこれが深く印象に残っているのだが、

「死んだ人たちは前世の行いが悪かった。今頃は別の生き物に生まれ変わっているから、大した問題ではない」という人たちだった。彼らの本音だろう。

ミャンマーは古い仏教観を持っている人が多い(あえて「古い」と表現しておく)。今の人生で悲惨な目に遭ったとしても、「前世の行いが悪かったのだ」「罰が当たったのだ」と発想する。自分以外の人のことも、そうした目で見てしまう。


長い間、権力者の無理解と視野狭窄に振り回され、内戦状態に突入して4年目に入り、多くの人たちが犠牲になってきた途上の今回の大地震だ。

いずれは、ミャンマーが変わるための試練の時として受け止める人たちも出てくるかもしれない。

いつか「あの日々は本当に大変だった、だが今は変わった、本当に良くなった」と言える日がくるなら、せめてもの慰めにはなるかもしれない。

現実は乗り越えていくしかない――だが、その現実を目の前にして、邪魔してくるものが、人々の意識に巣くう妄想なのだ。



もしあの頃に出会った大学教授(いわばミャンマーの知識人層で軍政府とつながっていた者)のように、今回の大地震もまた民衆一人一人の前世の報いだと考えるなら、

あのナルギス台風の時のように、軍政府は表面的なパフォーマンスを見せることがあっても、海外からの支援はすべて軍部に流れて、民衆には回らないだろう。

そもそも人々の痛みに共感できる人間ならば、これまでの非道な仕打ちはできないはずだとも思う。

今回、民主派は、2週間の一時停戦を早々に決めて、救済と復旧に当たるという。彼らの多くは十代、二十代の若者たちだ。

その彼らに対して軍政府は、地震直後に空爆を実施したという報道も聞こえている。

軍政府は海外に支援を要請したというが、真っ先に入ってきたのは、軍政府に近い国々だ。

しかも権力にしがみつく者たちの心の底に、あのとき語っていた教授のように、災害を受けるのは前世の報いであって、今頃は転生しているのだから問題ない、という冷酷きわまりない自己正当化の妄想があるとしたら、

地震後の権力者たちの動きには、何らかの裏があると思うほうが正解かもしれないし、彼らと闘う者たちに予期せぬ不利益や、民衆のいっそうの困窮(いわばほったらかし、支援物資の間接的収奪)が起こらないとも限らない。

ひたすら堅実に生きてきただけの多くの人々にとって、自分たちの平安を最後まで妨害しているのは、上に圧(の)しかかる権力者たちであって、

その権力者の心に巣くう際限なき強欲と、それを正当化してしまう妄想ゆえの視野狭窄だ。

彼らは、その妄想を”仏教”と呼んでいる。


過去踏みにじられてきた人々の中には、目醒め始めた者たちがいる。

だがいまだに時代錯誤の妄想に取り憑かれ、その巨体を人々の上に侍(はべ)らせて、欲望赴くままの贅(ぜい)と惰眠を貪り続ける者たちがいる。

今回の大地震によって、上にのさばる者たちを揺らし落とせればよいが、場合によっては、力なき人々がいっそう踏みにじられて終わる可能性だってある。


なにしろ今の時代は、力を持った者たちが私欲を押し通すことになんの臆面も持たなくなった時代なのだ。

力を持った者たちだけが好き放題に動きまわり、力なき者たちは奪われ続けるという時代。

そうした大きな動態(ダイナミズム)の中で、今回の大地震が起きた。


どんな苦しみも、妄想によって正当化することはできない。してはならない。

避けられない現実は、向き合って乗り越えるしかないし、

避けうる現実は、闘って変えてゆくしかない。


ミャンマーに戻りたいが――なんとももどかしい。


中日新聞・東京新聞連載中 最新イラスト


 

2025年3月末日

本気で叱れる親になれるか

 
子育ては、そんなに難しいことではないはずです・・。「大変」ではあるけれども、「難しい」ことではないはず。というか、難しくしてはいけないし、難しいままにしておいてはいけないものだと思います。

難しいとしたら、どこか勘違いしていると思い直すほうがよいのかもしれません。というのも、

子供の「体験」に同伴して、将来の「自立」まで、そのそばにいる。
 
自立への後押し(必要な支援)をしてあげる。
 
時期(一定の年齢)がきたら、自分で稼いでもらう。そして自分の人生を生きていってもらう。

その時に子供に依存しないように、自分の生活や老後については、自分なりに準備しておく。

老いた親としての自分も自立、子供だった人も自立。それが親子の基本線。

心がけるべきは、「体験」と「自立」です。


体験については、子供のもの。子供が選んでいいもの。

親が期待した反応や結果が返ってこなくても、そこにとらわれてはいけなくて、もし親の側ががっかりしたり、不満に感じることがあったら、「求めすぎているな」と自覚してセーブする。それも基本。

体験したことを、子供が好きと感じるか、嫌いだと思うか、何も残らなかったか、というのは子供の自由。

体験したことが、身に着いたか、その先につながったかというのも、本来は子供の自由。

これは、学校、運動、勉強、遊び・・なんでも同じ。


ただし、体験さえ、めんどくさいとか、何もしたくないと言い出して、そんな状態が長く続いて、「自立」を妨げるおそれがあると思えるような状況にまで至ったら、

そのときは親としては、きちんと話をする必要が出てきます。

「話をする」ということは簡単じゃない。本当は難しくないはずだけど、親の実感としては、やっぱり難しい。

というのも、子供を一人の人間として、自分とは別の人格として、きちんと線を引いたうえで、まずは話を聞く、理解する(裁かず、過剰に反応せず)という心がけが大事になるからです。

今の子供の状況と思い(心の中にあるもの)を、理解しようと努める。

「理解したいと思っている」という立場に立つ。

そのうえで大事なことは、子供の立場(同じ目線)に立って、「自立」について真面目に考えること。

学校に行かないことは選択肢としてアリとしても、自立への準備、つまりは基本的な学びと進学(学びを体験する場所に進む)ことは、考える必要がある。

その準備さえ崩れてしまっている、近い将来の自立さえ決定的に危うくなりつつある・・そんな状況を目の当りにしたら、親としては、「あわてる」ことも「放っておく」ことも正しくなくて、

「よく聞く」(理解しようと努める)という一線は守りながらも、子供の立場に立って、「この先の人生、どうするつもり(今の考えを聞かせて)?」というところは、しっかり伝えていいし、
 
そうした問いから逃げているように見えたら、「待て」と本気で言える覚悟は、必要であるように思います。

子供が、体験することさえイヤがって、生活が不規則になって、学校に行かなくなって、将来への準備もしなくなって、

では何をしているのかと言えば、ゲーム、ネット、動画ばかり・・・というなら、

それは自分を甘やかして、つまりは怠惰を正当化しているだけで、本人はどこにも進んでいない。

そのままでは何も育たなくなる。そのうち動けなくなる。
人と関わることや社会に出ることさえ、めんどくさいことになってしまう――。

そういう可能性が見えた時にどうするか。その時にこそ、親としての役割が問われます。

時代がどんなに変わっても、人間は自分の力で、社会の中で生きていく必要がある。何もしないわけにはいかない。

だから「自立」が遠ざかりつつあるように見え始めたら、どこかで真剣に向き合うことが必要になるのです。

その時には、親として、そして一人の人間として、自分の思いをぶつけてもいい。人間なのだから、関わっているのだから、当たり前。

本人の人生がどんどん危うくなっているのに、何も言わない、怒らない、叱れない親というのは、

結局、自らの関わり(責任)を放棄しているだけで、本当は「ずるい」のかもしれないのです。


「ここまで行ったら、自分の人生が危うくなる」というラインは、本人には見えにくいもの。溺れている人、流されている人、みずからをコントロールする力が弱い人、将来を想像するという発想が乏しい人には、見えにくい。

だが、そうした人の姿を許容してしまったら、その人にとっての判断基準は、「今、自分の気が向くこと」しかなくなってしまって、

体験することよりラクをすること、社会の中で生きることより、自分の世界に引きこもることを、選びがちになってしまう。

そうやって、人生の時間が止まったまま、物理的な時間だけは、十年、二十年と過ぎていく。子供だった人も、気づけば「大人」になっている(少なくない)。


よくある傾向は、そうした人の親というのは、存在感が希薄で、「自分はこう感じている、こう思う」ということをストレートに伝えないこと。

叱れない、怒れない親。そういう親の姿は、怖くもなんともない。子供は、ラクに流されても許されることを「体験」してしまって、「自立」への準備という、体験、学習、成長するための作業が、めんどくさい、しんどいことになってしまう。

社会というのは、自分以外の他者と出会い、関わる場所。

親がその最初の他者であるはずだし、他者にならなければいけないのに、子供からすると親は存在しないに等しい、都合のいい存在になってしまう。つまり他者がいなくなってしまう。

そして家庭は「自分しかいない場所」と化す。

他者とぶつかったり話をしたりして、考える、変わる、自分を律することを少しずつ学んでいく機会が失われて、「自分」と「時間」だけが流れていく。

そして歳月が経って、社会(外の世界)はますます遠くなり、何もできなくなった自分が残って、

中にはそこまで行ってから、「親は何もしてくれなかった」「自分がこうなったのは、親のせいだ」と言い出す”大人”も出てくる。

一面で、その言い分は正しい。そう、親は何もしなかった。向き合おうとしなかった。

子供だった自分は未熟で、弱くて、たしかにだらしなくて、甘えていたのかもしれない。

でも、そういう自分に、親は何も言わなかった。

言わない親より、言ってくれる親のほうが、

だらしなかった自分を叱ってくれる親のほうが、

自分の姿を見て、嫌いなものは嫌いだと言える親のほうが、

そんな親の反応や言葉を聞いて、少しは考える可能性も生まれたかもしれないし、子供にとってはありがたいし、必要だったのに、

親は何もしなかった――。

これが、「体験」と「自立」という、子供にとって欠かせない要素を欠いた場合の結果です。


怒れない親よりは、本気で怒れる親のほうが、

叱れない親より、真剣に叱って見せることができる親のほうが、正しいということです。

もちろん、怒ってばかり、叱ってばかりの親が正しくないことは、言うまでもなく。なぜなら、こうした親は理解していないから。理解しようとしない。こういう親には、子供は苦痛、不満、不信を育てていって、親を信頼しなくなる。今さら親が聞こうとしたって、話しても無駄だと子に思われてしまう。

でも今お伝えしているのは、そういうことではなくて、

「体験」と「自立」という欠かせないテーマがおろそかになっているのに、そのことに気づけない、気づいても真剣に向き合えない、本気で怒れない、叱れない親についてです。


最終的には、

子供が何をしても怒らない(人間として向き合わない)親と、

子供の人生が危ういかもと感じた時には真剣に怒れる親と、

2種類に分かれるような気がします。そう表現しても間違いではないのでは。


自分はいざという時に本気で叱れる親か。本気で向き合う時はいつか。

しっかり考えてゆかねばなりません。




2025年3月


もうすぐ春ですね


今回は簡単な近況報告です:

*『反応しない練習』のドイツ語版、英語版は快調に進行中。カバーが送られてきましたが、ずいぶんシンプル(お見せできないのが残念)。

英語タイトルは、The Practice of Not Reacting (そのまんまやん)。

The Secret to Stress-free Life とあります。

英米では出版より半年から1年前くらいからプロモーションかけ始めるのだそうです。今回は翻訳出版権も(初の)入札をしてくださったそうで・・広く届くことを願います。

欧米の人たちにこそ「業」の話(大丈夫、あのブッダも家族に悩んだ)を伝えたいのですが、こちらは台湾で翻訳出版が進んでいます。


*神楽坂の講座は、まだめどが立っていません。奈良の拠点づくりがひと段落つかないと予定が立てられない状況です。

でも春も近いし、一度みなさんのお顔を見られる機会を作りたいと思っています。


*早稲田エクステンション・センターのオンライン講座は、引き続き受講受付中です(専門的・学術的な話が入ってくる予定です)。


*帰国してから怒涛の日々(睡眠時間さえ削らねばならず)でしたが、大仕事がいくつか終わって、今週末は少しゆっくりできそうです。個別のやりとりもできるし、週末にはオンライン座談会もあります。
 

桜も開花し始めるそうなので、そろそろ春を迎える準備を始めたいと思います。


中日新聞・東京新聞連載 最新イラスト
(毎回、イメージに画力がまったくおいつかず自己嫌悪)


2025年3月27日



碾き臼 ~『 御上先生』にちなんで4


学校、東大、官僚、政治・・一つ一つの現場を、自分自身が知っている限りで思い出すと、この社会は ”巨大な碾き臼(ひきうす)” のようなものかと思えてきた。

霞が関であれば、御上先生の志や能力さえも摺り潰される。
 
学校であれば、あのドラマの学生たちの明るさや優しさも摺り潰される。
 
創造力に富んだ先生たちの意欲も摺り潰される。

ならば日本を変えようと法律家をめざしても、法律を書き、政策を作れる ”創造的法律家” になれる道は、日本にはなく、司法制度の枠に収まっているうちに摺り潰される。
 
政治家になっても、これまた打算計算と保身にまみれた周囲の人間たちの間(はざま)で、摺り潰されてしまう。
 
日本という社会は、いくつもの碾き臼(ひきうす)が歯車のように重なった場所で、その中を潜り抜けようとしているうちに、摺り潰されてしまう。ゴリゴリと。

そういう場所かもしれないと、ドラマを見ながら思った次第。
 

(しかしプロの俳優さんはほんとに演技うまい笑。松坂桃李さんもイイ感じ。御上先生の闇を抱えた目とか、母の前で過去の葛藤を思い起こす表情とか)



日本を変えるのは、たしかに教育。だが教育の現場さえ、碾き臼と化している。

重症なのは、大人たちがみんな、碾き臼を回すことに加担していることだ。

中高生のみんなに罪はない。

最も罪深いのは、今の学校、試験制度、教育政策を支える側に回ってしまっている思考停止の大人たちだ。

ゴリゴリと回して、未来を摺り潰している。


変わるには、どうするか。まだひとつ残っている。かなり狭い道だけれど。

今は言いません。


御上先生の問題意識、しっかり受け止めました(今日、最終回)


2025・3・23
 
 

碾き臼 ~『 御上先生』にちなんで3

 
教育をおかしくしているのは、試験制度も一つだが、親、現場の教師、受験産業、そしてメディアまでが加担する、過剰かつ不毛な東大&高学歴信仰にもある。
 
今の時代は、学歴が売り物にされ、たかだが学生でしかない東大生であることが価値がある、すごいことのように扱われている。
 
これこそが最大の陰だ。中身のない、誰も幸せになれない陰。
 
一時的に持ち上げられて自分を勘違いする学生もいるだろう。もてはやされる姿を見て、「自分もああなりたい」と刷り込まれて(社会化)されて、その価値観が近い将来、自分を疎外(否定)する理由になってしまう学生もいるだろう。
 
一部の人間たちが過剰に持ち上げて、煽って、騒いで、商品化する。そのことで、大学の先にある本当の使命というものが見えなくなっていく。
 
これもまた日本を覆う陰の一つだ。だが陰であることに気づかない。日本人がみんな陰に慣れ過ぎているから。

勉強ができる、アタマがいいことが価値を持つ? でも東大に入ったところで、卒業したところで、何をめざすのか、どこにたどり着けるかといえば、どうだろう? 学んだことが、自身の幸福と社会への貢献につながったか、つながるような仕事にたどり着いたか? はて?

東大に行きました、立派な成績で卒業しました、資格取りました、こんなに私は優秀でした・・

そう言いたがる(売りにしたがる)人もいるかもしれないけれど、そのたどり着いた場所(自分)が、はて本当にどれほどの価値を持つのか。
 
そもそも本人は満たされているのか、社会に役立っているのか 
 
といえば、素直にうなずけるケースはあまりない、と言っても過言ではないかもしれない(←ちょっと霞が関文学?)。


学歴が立派、頭脳優秀だと思われている、思わせたがる、思わせている人は、大勢いる。もう飽和状態だ。出尽くした感がある。

とはいえ、「アタマがいい自慢ができる人」の大半は、入った大学(勉強ができたという程度のこと)に価値があるという前提(社会が共有する幻想)がないと成り立たない立場だったりして
 
(ほんとにすみません・・でもやっぱり「その先」をめざさないといけないのだと思います)
 

なんでこういう「アタマがいい自慢」が通用してしまうかといえば、それだけ日本の教育が、試験制度が、価値観が変わっていないからだ。

まったく変わってない。日本人の意識そのものが。

だからこそ、東大や官僚という、本来ただの大学や職業にすぎない記号が過剰な意味を持ってしまうし、「上級国民」といった言葉が通用してしまう。

実態は別のところにあるのに。実は上級といえるほどのものはなく、どこまで行っても空っぽかもしれないのに。
 
 
ちなみに御上先生、『金八先生』については批判的に語っていたけど、『ドラゴン桜』という東大信仰、つまり社会全体の無思考の上に成り立つドラマには触れなかった。あれこそ教育の閉塞を長引かせる無思考型のドラマなのに。 
 
触れなかったのは、同じ系列だから? 学歴という記号に過剰な価値を見出す親や、受験産業や、そこで熱血指導している教師たちと同じように、自分たちもまた無思考の檻に囚われていることに気づいていない?
 
自己批判こそは思考の原点、最初に潜るべきイニシエーション(通過儀礼)みたいなもの。
 
自分の足元にある欺瞞を見つめないと、本当の思考は積み上げることはできないよ。 
 
東大めざせとか成績上げろみたいなことを、いい歳をした大人が真面目に語って、大学入試を「見上げている」こと自体が、無思考の極みであり、すごくカッコ悪い姿だという視点は、あったのかなかったのか、どうなのかな・・。
 
 
よく聞く「東大行くのは手段でしかない」なんていう言葉も、実は思考停止の言葉だ。
 
もっと大きな使命や目標を実現する手段という意味ではなくて、いつの間にか「自分のプライドを守る手段」に取って代わられてしまう言葉だから。
 
試験で勝ち抜くことを選ぶ人間は、思考停止のために「手段だから」といって、自分を正当化するんだよ。何十年も前の東大生だって語っていた言葉。
 
だから「手段にすぎない」という言葉さえ、思考になっていない。自己欺瞞。
 
 
そこまで突(つつ)いて、「考えて」、東大をめざす・受かるという価値観そのものが、無意味な妄想でしかない、日本社会全体が巨大にして無意味な妄想に呑まれている――。
 
そこまで心の深いところで言語化できて初めて、日本社会を覆うバカバカしい陰に気づく人間もちらほらと出てきて、
 
その知力を社会のために活かす、完全に自立し自由になった人間が現れる可能性が出てくる。
 
今の日本社会から自由になれるくらいの知力を持った人間でないと、社会を変える・創る力は持てない。 
 
冷静に考えれば、当たり前の真実だ。
 
そうした本当の頭の良さを持った人が、何人出てくるか。行政、司法、政治、学問の世界に――
 
あまりに遠い地平だけれど、それを真剣に見据えて働きかけることこそが、教育なのではないのかなと思う。
 

教育だけなんだよ、未来を育てることができるのは。


教育の原点は、志だ。

志は強靭でなければならない。

強靭であるためには、心の深いところで言語化できていないと。

 

たとえば、御上先生が教室で、自分の十代の頃、東大時代、官僚としての日々を振り返って、

今の日本がどれほど不毛な幻想の檻にとらわれているかを伝えることができたら、

そして、点を取るための勉強にとらわれがちな学生の意識をひっくり返すような ”志” を伝えることができたら、

中にはその志を深いところで守って、大人になって、立場や力を得た時に、少しはその使い方を考えるかもしれない――。

あるいは、ドラマを見ている視聴者が、あの教室の高校生の一人として御上先生の話を聞いて、「そうか、そんな人生を生きよう(生きればよかったんだ)」と深く思えたら、

「教育を変える」一つの働きを果たしたことになる。視聴率とは関係なく(笑)。

 

語ってみてほしかったな、と思う。もっとストレートに。

日本社会、日本の教育を覆う巨大な陰、言い換えれば”欺瞞”について。




余談だけれど、試験制度の不条理や、そんな制度の枠から抜け出せない自分への懐疑を抱えた「考える人」は、僕の周りにはちゃんといた。
 
みんな、それなりに悩んでいたし、考えていた。東大という「檻」に入ってしまった自分を疑う懐の深さ(考える力)を持っていた。「人間」であろうとしていたよ。
 
でも逆らえないから、順応することを選んできていた。その中途半端さが、幼かった僕自身には不満だったのだけれど。
 
 

今の学校、教育、大学、官僚組織、政治や学問の世界――
 
総じて、大したことはできていない。 
 
だから社会全体が停滞、硬直し、地盤沈下を起こしている。
 
闇というより、巨大な陰なんだよ。
 
みんな陰の中で暮らしているから、光(本来のもっとまともな姿)を忘れてしまったから、陰に覆われていることに気づかない。
 
 
(まだ続きます、すみません)
 
 

リンク貼っておきました(明日、最終回)


2025・3・22
 

碾き臼 ~『 御上先生』にちなんで2

ならば、本当のトップはどこにいるかといえば・・いない。たぶんいない。

プライドを守る熾烈な競争を勝ち抜いたところで、この小さな社会にプライドを守り切れるポジションなんて、たぶんない。

官僚としてトップに上り詰めたところで、それで何を得るのか、その実態を見れば、どうだろう・・・そこに魅力的に見える価値があるか、さほどの旨味があるのかといえば、たぶんない。

試験制度を生き抜いてきた人たちは、プライドの張り合いの中で生きている。多少偉くなったところで、局長、内閣官房付、事務次官あたりか。天下りといっても、本人がやりたくて「下る」わけではないし、楽しい、面白い仕事というわけでもない。

外から見れば「上級国民」みたいなレッテルを貼りたくなるかもしれないけれど、その実態は上級なんて呼べるようなものではない。

トータルで見れば、それほどでもないよ、と思う。官僚と言われている人たちも、案外地味に真面目に働いているだけだったりする。国を支えているという個人的矜持を支えに、激務を引き受けている人もいる(立派だと思う)。プライドだけの人もいる半面、御上先生のように自分の志をひそかに守っている人もいる。

でも、外から見えるほどの賞賛や権力や贅沢を享受しているわけでは、到底ない。おそらく。

哀しいことに、勉強に励んで東大という場所に入っても、そこはただの大学でしかない。しかも日本社会全体が、その先に知力や能力を伸ばし、活かせるような環境ではないかもしれない。
 
要は、人間が育たない。

人間が育ちきれないシステム。それが日本社会。のような気がする。



そんな社会の中に、あのドラマの高校生たちも生きている。みんな人間的。自分の意見を言える(セリフだけど笑)。御上先生と対話ができる。自分を見つめる感性もある。

でも実在する試験巧者・試験強者は、もっと「サイボーグ」(笑)。なにしろ勉強さえできればいいという究極の合理性を研ぎ澄ませているから。

そういうリアルなサイボーグに、あの隣徳学院の学生たちは勝てない。多少勉強法を工夫しても、最後までサイボーグとして突っ走る、突っ走ってきた試験強者には勝てない。さながら疲れを知らないAIと人間が張り合うようなもの。少しでもスキを見せたら抜かれてしまう。そういう現実もあったりする。


と同時に、勉強だけしていればいい、成績さえ良ければいいという環境で、追い詰められて潰されていく人もいる。

本当は、勉強にとらわれずに、自分にできて、苦痛がない、いわば向いている仕事にたどり着ければ、それでいい。社会にとっては、それが最良の姿。幸せな人生を生きられる可能性が増えるから。

だが、そうした幅のある生き方を許容する懐の深さは、この社会にはない。知力・能力・感性を伸ばせる教育は、学校という現場に育っていない。

大人たちの意識も、使う教科書や教材も、そもそも試験制度自体が、実はきわめて偏っていて、その中でいくら優等生をめざして頑張っても、本当の知力は育たない。そんな場所になり果てていたりする。

できあがった学校、勉強、東大を頂点とする学歴社会と、官僚、政治、日本人全体の意識--本当はどれも偏っていて、古くて、中身が薄くて、

その中でいくら頑張っても、本当の知力は育たず、能力を発揮できず、その先の人生はアタマ打ち。たとえば、東大を出て官僚になっても、医学部を出て医者になっても・・思いきり大胆にいうなら、「その程度」でしかない。

職業としての尊さ・かけがえのなさは、言うまでもない。どんな仕事も価値を持つ。「その仕事がなくなれば、何かが回らなくなる、止まってしまう」ならば、その仕事には大事な意味がある。職業に貴賤はないというのは真実だ。そうした仕事観・人生観を持てることが、成熟というものだ。

だけれど、プライドを守る、人より高い点数を取るという目標を覆い被せた途端に、先にあるのは「その程度」の職業であり人生、ということになってしまう。

どんなに頑張っても、頭打ち。そういう志の低い社会ができあがる。教育が、その最大の原因だ。



リンク貼っておきました(明日、最終回)


2025・3・22

碾き臼 ~『 御上先生』にちなんで 1


この冬は何本か(だけ)TVドラマをフォローしました(日本を離れていたので全回見きれず・・TへT)。
 
その一つが、日曜劇場『御上先生』。

いろんなテーマが広く取り上げられていた。日本社会の闇、というより陰。見ようと思えば見えるのだけど、光が当たらず忘れられがちに。結果的に社会全体を覆う思考停止の一要因になってしまっている部分。
 
このドラマは、それぞれのテーマを「知ってもらう」ことを意図して作られたのだと感じた。答えを出すのではなく、問題を知ってもらって、それこそ「考えて」もらおうという。
裏口入学のラストエピソードは、ドラマであるがゆえの(こうしないと1クールにわたるドラマにならない)致し方ない設定でもあったんじゃないかな。本当に伝えたいことは、セリフで語らせていた(特に最終回)。

 
御上先生の言葉を受けて、こんなことを「考えて」みた――。
 
教科書検定問題は、古いテーマでもあり、最新のテーマでもある。家永教科書訴訟は60年代から(もう半世紀以上前だ。びっくり)から、奈良教育大付属小の授業問題まで(2024年3月、ちょうど一年前。もう陰になってしまっている)。

後者では、国語の書写で毛筆を使わなかったという程度のことで(他にも理由らしきものは言われているけれど)、学長・校長・教員らが懲戒処分に。
 
「二度と起こらないように厳しく監督していく」と奈良国立大学機構がコメント。

印象的なのは、このコメントだ。「何様?」と唖然とするほかない口ぶり。病的な上から目線。いうなれば、システム・ハラスメント。組織という体裁を使って、実は内部にいる人間の主観を判断基準として強要している姿だ。

ドラマの中で教科書検定制度を支える法的根拠(法律・省令)に触れていたけれど、実は法令の文言が問題を引き起こしている(法令を変えれば現場が変わる)とも言いきれない。

というのも、法令上の言葉は、解釈・運用次第で異なる意味を持つからだ。もし運用する人間の解釈(人生観・価値観・教育観)が変われば、現場のありようも大きく変わる。教育を阻害しているのは、実は人間だったりする。制度ではなく、人間が原因。意外と多い。

だから、あのテーマに関するもう一つのアプローチは、支配者目線で現場に干渉している「人間」そのものにスポットを当てることだ。どういう人物か、経歴、年齢も含めて。省、局、機構といった隠れ蓑の向こうに潜む、システム・ハラスメントを犯している人間のほうを見る。浮き彫りにする。

たとえば初等中等教育局内で教科書や授業内容をコントロールし、結果的に現場の意欲を削ぎ、疲弊させている人がいる。本人にその自覚はない。
 
たまにNHKなんかが教育問題をめぐって取材して、その肉声を拾っていたりする。びっくりするくらいに、上から目線で現場無視。日本の教育は(といいつつ本人は現場を見ていない)自分がその一存で決めていいといわんばかりの言い方をしていたりする。老害ならぬ官害。結局は、人間特有の慢が根本にある。
 
こういう人間に光を当てて、何を根拠にそのような判断をしているのか、その根拠(法令)は、そのような解釈しかできないのか、しっかり問い詰めていくという手もある。組織や立場の裏側に隠れたままにしないことだ。



個人的に想像したのは、御上先生が、実際の文科省に入ったとして、あれだけの思慮や感性を保ち続けられるかな・・というところ。

霞が関の職場はあんなに明るくきれいではないし、人間関係もあれほど風通しは良くない。ドラマでは癖のある人たちとして描かれている(ゆえにわかりやすい)けれど、実際は比べ物にならないくらいに、考えも表情も明かさない。人間の輪郭が曖昧。それでも自分の評価については内心すさまじく神経を使っている。結果的に、周囲への同調を選んでしまって、最終的には、組織の論理を死守する官僚になっていく。

 
きわめて主観的な印象でしかないけれど、官僚(ごめんなさい、こうした言い方は好きではないのですが)の中には、プライド第一で、その上に仕事が乗っかっているという精神構造の人がいる。日本の教育を良くしよう、みたいな真っ当な動機をもって文科省に入る人は、決して多くはない。

というのも、国1(国家公務員総合職試験)においては、どうしても試験巧者が上位に来る。試験巧者が最も多く集まるのが、東大(国1試験合格者数は今もトップらしい)。

その東大に入るために、少なからぬ学生は、中・高、さらにその前にもさかのぼって、筆記試験用のトレーニング(いわゆる勉強)をしてきている。

試験慣れした猛者・強者は、あのドラマに出てくる学生たちのような人間味はない(こういう言い方も申しわけないのだけれど)。

幼い頃から「東大しかない」みたいな刷り込みをされてきた学生も少なくない。学校の勉強なんか手段でしかなくて、手段として役に立たないと判断すれば、内職したり休んだり。先生が何を感じるかなんて考えない。もし御上先生みたいな人が大事なことを語っても、冷めた目線で内職し続ける、みたいな学生もいる(あのドラマの中にも、実はいたのかもしれない)。

考えるとか悩むとか支え合うとか、そういう人間的な部分は一切捨てたサイボーグみたいなメンタル。勉強以外は「役に立たない」から目を向けない。受験に役に立つかどうかという物差しだけで日常を切り分ける「合理性の塊」みたいな人間。

試験というのは、点さえ取れれば評価されてしまうのだから、点を取れる勉強に特化できる人間が、どうしても強くなる。上に行きやすくなる。

徹底して無駄を排し、学校の授業や人間関係は最小限に抑えて、内心は自分のプライド死守と東大合格という目標だけをターゲットに、冷徹に、緻密に、虎視眈々と、さまざまな計算をめぐらせて、優等生としての自分を維持し続ける。

哀しいかな、そうした人が東大に進み、国1に受かり、いわゆる「官僚」になっていく。


御上先生は、そういうプライドのせめぎあいの世界を生き抜いてきた人。殺伐とした現実を見据えつつも、過去の体験や心情や今なお続く苦悩の種(自死した兄や母親のこと)を脳裏に抱えて、官僚の世界を生き延びてきた人。

そういう人も実際にいるかもしれない・・いるのかな。でもあの世界は(進学校も東大も官僚の世界も)、少しでも人間味を残していると、それが隙(甘さ)となって遅れを取る、取り残される、見下される。そんな世界だから。

試験制度というシステムが変わらない限り、試験に勝てる(いい点を取る)という戦略(いわば頭脳と時間の重点配分)が正解になる。その戦略を守り抜くことで、プライドの奪い合い、自尊心のサバイバルゲームを生き残れる・・その可能性が生まれる。

「死ぬ」のはイヤ。つまり落ちこぼれること、劣後すること、見下されることはイヤ。自分はアタマがいいと言われたい、大学は絶対に東大でなくては許せない、そういう価値観に思考を占領されている。本当の考える頭、良心をみずから握り潰して、勉強マシーンと化す。

そういう人が、東大に行き、官僚をめざす。
 

さらにこの殺伐としたゲーム(心の殺し合いといってもいいのだけど)は、もう少し盤は広くて、アタマがいいという承認を勝ち得るために試験勉強に特化できる特殊技能の持ち主たちは、東大、中でも理Ⅲから医学部、文Ⅰから法学部、そして司法試験や国家公務員総合職(上級)試験の合格をめざす。
 
受けられる試験は全部受けて合格してから、一つのキャリアをやむなく選ぶ。やむなく、というのは、彼らにとっては、仕事の中味は大して興味がなく、本音は自分がどれだけ優秀か(試験巧者か)を証明し続けたいだけだから。

公務員試験をパスした学生は、プライド最優先で省庁を選ぶ。ひと昔前なら、大蔵、通産。今の財務、経産省。プライドを守るうえで最も確実、安全な省を選ぶ。

ドラマの中では、御上先生は試験を勝ち抜いてきたエリートとして描かれているけれど、東大卒の官僚の中で、文科省組は存在感は薄い(こうした表現が成り立ってしまうこと自体が悲しいけれど)。プライドを守り抜ける省と、負けを受け入れて入る省庁とがある。かつてはあった。
 
今はどうかな・・大学受験までの教育環境がさほど変わっていないなら、中高時代に身に着ける価値観も、プライドを守るための戦略も、ほとんど変わっていないはずだから、東大に入った後のキャリア選択の基準も、おそらく大して変わっていない。

今は上級職の人気にも陰りが出ているとは聞くけれど、ただそれも、東大に入って、次はどんな職業なら自分のプライドを守れるか、という打算計算の基準が揺らぎつつあるという程度のこと。

「プライドを守る」ことが至上命題、人生の最高目標であり最低ラインでもあるというメンタルの人が、「ならばどこに行けばプライドを守れるのか」という感度一つで、自意識のアンテナを張りめぐらせている様子は、変わっていないような気がする。
 
ドラマの中では、御上先生はトップエリート。でも、実際の闇、いや陰、というか今の試験制度の硬直はもっとどうしようもなくて、御上先生さえセカンド、サードのポジションかもしれないということ。東大生としても、官僚としても。
 

(長くてすみません、続きます)

 

 

リンク貼っておきました(明日、最終回)


2025・3・22

日本編、始動2

3月18日(火)
13時から講座。こちらはレギュラーの人たちが多かった。だが今日、講座申し込みをしようとしたら、すでに満席と言われた人がちらほら。10人以上がキャンセル待ちリストに入っているという。急きょ席を増やすことを検討。

かつては3人だけの受講生と2年以上も細々と続けていた時代もあったし、人が集まらず講座不成立の憂き目が続くこともあったが、状況は変わった。自分はまるで変わっていないが、他の条件が変わったのである。

講座終了後は無料面会。ここにはさまざまな事情を持った人たちが来る。そうした人たちにどんな言葉を届けるか。「まずは今日来る人たちのために(自分をいったん忘れて)」と考えるところも、この十五年間変わっていない。

考えてみれば、どの場所の講座・講演も、終わった後は深い反省と自己嫌悪に近い思いが残るのだが(あれも話せばよかった、これこそ話すべきだったという思い)、それだけ目の前の相手に応えようという真面目な動機があるからであって、その動機こそがこの生き方の生命線なのだということが見えてくる。

満足した試しはほぼ皆無なのだが、それだけどの場所においても、その時々の全力最善をめざしているということでもある。だからこそ多少は成長もしてきたのだろうし、地力が着実についてきたから、毎回教材を整えて話を準備できる。2時間なんてあまりに短い。いくらでもお伝えできることはある。

無料面会が終わって、昨日食べ損ねたジャンボおにぎりを一人食べる。このあたりの孤独ぶりも変わらない。自分を小さく素のままに保っているからこそ、いろんな人たちと向き合えるし、異なる場所でさまざまな活動ができる。これが出家という生き方なのだろう。

近くの宿で一泊。明日の打ち合わせの準備。

KADOKAWAから、イギリスでの出版が決まったと連絡が。いよいよ英語圏に進出決定。いろんなものが動きつつある。

ようやく怒涛の一週間が終わった。すっかり仕事モード。日本編の再始動だ。
 
 
 
3月23掲載予定のイラスト
(中日新聞・東京新聞日曜朝刊に連載中)



2025年3月

日本編、始動


3月16日は朝6時に出発して名古屋へ。今年最初の講座。

3月18日の講座がすぐ満席になったため臨時増設。これも満席。4月からのレギュラー講座も満席(新たな出会いが嬉しい。生きているというのは大きなこと)。新聞連載を見て、という人が多い(印象3割強)。

生きるとは○○することであって、自分とは○○に過ぎない。その当たり前の真実を妄想をもって簡単に超えてしまうから、真実が見えなくなり、人生は途端に難しいものになる。

この理解こそが、すべての命に当てはまる普遍的真理。プラス、社会内に生きる存在としての生き方がある。すなわち十歳未満は○○、十代は○○への○○、二十代は○○○○、三、四十代は○○〇〇、五十代以降は○○をテーマにするという生き方だ。

世の中、生き方をめぐる説はさまざまあるが、これも①普遍的な真実(誰にとっても当てはまる、また誰もが守らねばならないもの)と、②人それぞれに違う主観的真実(信条・価値観・個人的な意見や思想)というものがある。

人間と社会が、なかなか前に進まず、むしろ後退したり混乱したりするのは、この「誰にとっても外せない真実」と「人それぞれであっていい真実」との区別がついていないからだ。みんなが好き勝手なことを考え、その思いつきを主張して終わってしまう。政治的言論も学問的知見もジャーナリズムも、どれも同じだ。人の脳はあまり器用ではない。

だが、本当の思考というのは、「自分はこう思う」の前に、「自分がどう思うか以前に守らねば、保たねばならないもの」を先に置くものなのである。

たとえば、働きたいかどうか、どんな条件の仕事が有利かといった「自分にとって大事なこと」以前に、「働ける人間はまずは働くこと(働くべき・働くことが原則)」というのが、誰にとっても外せない真実だ。なぜなら働かなければ、「社会が」回っていかないから。働くことが、働かない生き方に先立つ。いわば社会を支える下部構造になる。

もちろん「働ける」こと、つまり働くことがその人にとって可能であること、心身の苦痛や負担がその人の限界を越えていないことが、大前提にはなる。

結婚するか、子供を持つかというのも、個人の生き方であり価値観だという見方も真実だが、それに先立つ真実は、子供を育てられる人は育てることが、正解(自然なあり方)だ、なぜなら子供が生まれなければ、未来につながらない(いずれ世界が滅びる)からというのが、正しい思考だ。

これも、「育てられる」こと、つまり子を持ち、育てることが自然にできる(過剰な負担を感じずにできる)ことが、前提になる。

無理を強いることは、社会の成熟ではないし、「かくあるべき」という立場にとらわれることは、社会共通の正解にはならない。

 本当は、どんな生き方も尊重されるし、可能である――それがめざすべき社会のあり方だと思うし、近づけることが、社会の成熟であり進歩ということになる。

今回伝えたかったことは、人はえてして自分の考えを正当化したい、他者にも認めてほしいと願うものだけれど、そうした思いとは別に、自分が今後の生き方を選択するうえで、「自分以外の価値」をも考えることができるか、という点だ。

自分より先に置くべきもの、「なくてはならないもの」とは何だろう? 生まれてから死ぬまでの人生において、自分を越えて守るべきもの。
 

この世に生きる人たちが、苦しみなく暮らせる社会を作ること。

この世界が、未来にも続いていくことを信じることができること。

 そうした価値こそが、本当は自分を越えて、大切なことだ。

そう”自然に”、つまり自分の生き方として、思えるかどうか。


自分を越えて大切なもの、他者にも、未来にとっても、価値あるもの。

そうした優先的な価値を、自分の思惑よりも優先させる。自分ファーストではなく、自分セカンド。
 
そうした発想ができると、面白いことに、いろんなものがうまく回っていくこともある。
 
自分の務め、役割をもって、今の自分のあり方に納得もできるようになる。
 
だからこそ、迷路や混乱を抜け出して「軸」をもって生きていけるようになる。
 
 
分断・格差・孤立が度を増しつつあるといわれる世の中で、確実に価値があるといえるのは、こうした発想ができること、できる人が増えていくこと――そんな気がしている。
 
幸いなことに、とても明るい雰囲気でこの講座は続いている。4月以降も楽しみだ。


午前の講座終了後すぐに新幹線で大阪へ。午後はNPO団体が主催する研修会。この団体は年に6回も勉強会を開いているそうだが、今日はふだんの参加者以上に、一般の人が多かった。以前個人相談に来た婦人も、本を熱心に読んでくれている若い男性も、シニアの人たちも。バラエティに富んだ顔ぶれだった。

参加者が大阪の人だと、こちらも昔培った関西人魂が覚醒して、口がよく回る。一人でボケて、一人で突っ込むという仏教漫談ともいえるノリになってしまう。余談雑談成分60%くらい。

でもその内容は、配布した資料に書いてある真面目な情報と一致している。笑いながら聞いていたことが、ちゃんと資料の中の仏教的な智慧そのもの(表面的な言葉だけが違っていた)ということが、後でわかるようになっている。

そうした構成が、いわば一番自然に聞けるし、役にも立つ。そんなスタイルも見えてきた気がする。



2025年3月

帰還

*インド編2025レポートの掲載をスタートしました。興味ある方はどうぞ:
 

帰ってきたのは、3月第2週。羽田を出ると、電車内の広告はメジャーリーグの遠征試合について。日本は平和。車内の人は、ほぼ全員がスマホを眺めて沈黙している。

「空気」だけでも、これだけパワーの高低があるのだなと感じます。


インドの場合は、心は「人」に向かう。自分かそばにいる誰かか。話しかけるし、自分のことも話すし、なんというか臆面がない(もちろん深いところでは別の思いがあるとは思うけれど)。

日本の場合は、心は「人以外」に向いている気がする。スマホの向こう側。SNSだかネットニュースだかゲームだか。

察するに、日頃人との関係で疲れることが多いから(その疲労の半分は自分の側の過剰な気遣い、いわゆる忖度とか判断とか先回りの妄想であるような気もするけれど)、

その分、一人でいるときはスマホを眺めて、現実(人間)逃避しているように見えなくもない。


毎年思う、この国の空気の希薄さと停滞ぶり。おそらく一人一人の心が相当「混乱」している。というのも、心は一定量のエネルギーを持っていて、ちゃんと使い方を自分で選べていれば、それほど疲弊しないものだから。

心の使い方を知らない、忘れてしまった、あれこれと無駄なことを考えすぎて崩れてしまった。「自分」というものさえ、よくわからなくなった。

そういう心の混乱。さらには、心の総量(いわゆる社会の集合意識)の確実な老化。

混乱していて、老いている。としたら、そうか、こういう空気になるのかなあと無責任な妄想が湧いてきた。


老いは確実に進むから、放っておけば、この国はもっと老いていく。

幸い島国で、過去半世紀に頑張った蓄えもまだ残っているみたいだから、すぐさま老いの果てが見えるわけではないだろうけど(でもかなり見えてきてもいるのだけど)、

今日の光景が十年後、二十年後にもそのまま続いているわけではない、というか変わっているであろうことは確実、というか確実だと心しておくほうがいいように思う。

これまた幸いなことに、何千万人という人間がまだこの先半世紀はこの国を支えているだろうし、危機感に目覚め始めた人たちが声を挙げる、行動に移すということも、少しずつだけれども増えてきているようだし、

この国の人々は、まとまれば強いし、それこそメジャーリーグで無双の活躍をしている彼らのように、個のポテンシャルはすさまじく高いから、

どの時点かで「本気」になれば、なんのなんの、まだまだこの国をよみがえらせることは可能だと思える。


国を若返らせるとは、「変わることがノーマル」になること。新しいアイデア、制度、商品、サービスをどんどん形にする。多少の失敗は前進の肥しにしてしまうこと。

「こんな新しいモノが出た」
「こんな法制度ができた(ただし改悪ではなく人々の心が明るくなるような法律・制度・システム)」

ということが頻繁に起こって、「なんだか世の中変わってきたな、前に進みつつあるな」とみんなが思えること。

変わることをノーマルにすることは、人々が真剣に願えば、それほど難しいことではないような気がする。

ここでも、変わることを嫌がる負の力が邪魔するものなのだけれど。その一例が、老いであり、怠惰であり、無気力であり、保身であり、自己疎外(自分の価値を信じられない心性)。

今のところ、後者の負の力のほうが幅を利かせている。停滞が30年以上も続いて慣れてしまっているところもある。

どこかで国の若返りが始まってくれたら・・と思う。
 

ということを、帰国早々考えてしまう。なぜかこの国に来ると、私は途端に母性・父性?に目覚めてしまう。大丈夫? 元気にしてる?みたいな。


16日から18日に講座が3コマ続くので、その教材を仕上げて、連載用のイラスト描いて、〇〇やって(←今この段階笑)、〇〇行って拠点づくりの打ち合わせ(細部選びがこれまたたいへん)、サラとの再会(引き取り)と続く。


一週間近く経ってすっかりモードが変わってしまいました。「出家の夏休み」はおしまい。終わってしまった・・。


挨拶遅れましたが、戻って参りました。

本年もよろしくお願いいたします。

草薙龍瞬




2025年3月中旬

メディアの方々へ

(あるネットメディアへの返信として)


私は、有名になることは望んでおりません。

全ての仕事(出版・出演)について、”人間の幸福にどれだけ貢献できるか?”を応諾の判断基準としています。

この世界が明日も続く保証はありません。

この世界がいつ滅びるかわからない危うい状況にあります。

そうした状況への危機感と、人間としての正しい生き方を伝えることが、出家である私の役割となります。

メディアへの出演・露出には慎重でありたいと思っております。

仏教は、世俗の価値観とは一線を画しております。

皆様も、営利中心のビジネスとしてではなく、”世界の幸福の総量を増やす”という大きな使命のもとにご活動ください。

その場合は協力できる可能性がございます。

草薙龍瞬謹白

 

 
動機(大きな方向性)を共有できるかどうか。

よき世界を作るために、自分の手が届く範囲で真剣になれるかどうか

真剣でありたいと願っています



2024年3月上旬



自由を知るということ

過去のこと、親だった人たちへの思いも、まさに“執着”です。

許す、許さないという判断さえ不要。

慈しみを向けて自分の中の執着(わだかまり)を無化することも不要。

自分の視界に入れるのも入れないのも、自分次第、自由自在。


それが執着を手放した状態です。


そうすると、心というリソースを、百パーセント、自分にとって価値あるものに使うことができる。

これが、人が本来めざすべき心境です。

自分らしさを知るということ。

本来の自分を取り戻すということです。

 

 

 

2024年3月

心に論理を持つと何が変わるか

(おたよりの抜粋)

実は、おそらく2年ほど前になると思うのですが、ご著書「独学でも東大に行けた超合理的勉強法」を取り寄せ勉強し続けてきました。

特に数学は、論理をみっちり練り上げるというやり方を繰り返してきたおかげで、重度の数学アレルギーだった私が、数学は友達だ!とまで思えるようになったのです。

この本は将来娘が勉強に行き詰まったときに贈りたい本です。
今もすぐ手の伸ばせる位置に置いて、勉強に行き詰まると読んでいます。

自分のいる立ち位置によって、読んで心に響く文章が変わるので、草薙先生の本は息をしている生き物のようです。

この勉強法が院試にも大いに力になってくれました。

「独学でも東大に行けた超合理的勉強法」は、当時もう新書では手に入らなかったので、中古で取り寄せたのですが、なんでこんなに素晴らしい本がもう絶版?されているのか理解できず、中古でも手に入った幸運に感謝しておりました。

まさか先生ご自身が文庫本のお話をお断りして、完全書下ろしで書くと決断されていたのですね。

「客観的には確実に価値を持つのに、主観的には価値がないと判断してしまって、世に出さない――ということになってしまう。いつもこの繰り返し。」とおっしゃっていましたので、先生の本は買えるときに買っておかないとと改めて肝に銘じました。いつも手に入るとは限らないということをお話されていたこともあって、そのとき手元にない先生のご本をア〇〇〇でポチっとしました。

その中の一つ「消えない悩みのお片付け」で知ったタイムバーや純金タイムなどの考え方は「なるほど!」と共感し、実践しています。人生は作業の連続。作業に集中していたら妄想は減る。本当だなと実感しています。


◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
<興道の里から>

本というのは、本当に難しいのです。『勉強法』の本は、実は昨年(2024年)末に文庫本を出す話がありました。

でも、読み返してみると、筆者としてはウーンと思うことが書いてある・・「今ならこれは書かないな」「今ならこう書くよなあ」というダメ出しが増えてきて、

「やっぱり出しません(完全書下ろしの新刊を書きます!)」とお答えしてしまったのです(で、まだ新刊原稿書いていない・・)。

筆者としては「今ならもっとこう書けるのに」という思いが出てくる。でも作品そのものは、こうして探して手に取って(※筆者としては市場に出回っているものを回収したいのですが、できないために起こること笑)、

読んで役に立ててくれる人がいる(そういう人が少なくないのは事実です。ありがとう)。


つまりは、客観的には確実に価値を持つのに、主観的には価値がないと判断してしまって、世に出さない――ということになってしまう。いつもこの繰り返し(業?)。



数学は、世の中にデキる人たちは数えきれないほどいて・・それこそ歴史マニアと同じく、数学マニアの人たちも数多くいるらしく。

私自身は、小学生の頃は算数が苦手で、独学時代にようやく数学の本質が少し見え始めて、大学受験で数学的思考(とにかく論理でつなぐ、つなぐ・・これ文系的表現ですが笑)の真似事を始めて、

「面白いな、もっとやりたいな」と感じ始めた頃にはもう入試が迫ってきていたので、数学の本質は極めずじまいで終わってしまっています。

ごくたまに「もう一度大学受験しなければ」という夢を見るのですが(18歳に戻っている笑・・ありませんか?)、

「数学やりたい!」と思っている自分が夢の中にいます。数学は楽しいと感じている――何が楽しいか? 論理だけで答えを出す。途中に不純物が混じらない(矛盾や破綻がない、妄想がない笑)。

その美しさゆえのカタルシスは・・そうか、瞑想にすごく似ています(笑)。

瞑想も、自分の心に残っている不純物を取り除くために、①気づいて反応しない、②別の思考を組み立てる――ということをやります。

スッキリするための思考を考える、のです。なるほど、これは数学に近いのかも(今気づいた笑)。

数学的思考と瞑想と本の執筆は、私の中では、ほぼ一つです。本の場合は、書き出し(前提)を考えて、そこから論理でつないでいく。途中に破綻や矛盾が生じないようにする。

読む人の心を煽らない、凹ませない、傷つけないようにと気をつけながら(いわば前提条件)書く。最後は必ず励ましの思いを込める。

数学をやっていなかったら、瞑想も進まなかっただろうし、本も書けなかったと思います。

「わかりやすい」と言ってくれる読者は、論理的思考がもたらすスッキリ感の一端を感じてくださっているのかもしれません。

論理をフンフンとうなずきながら追っているうちに、いつの間にか答えが出ている。「そうか!」という浄化の快を感じている。だとしたら、数学的思考の賜物です。



誰かに向けて書く言葉というのは、本にせよ、研究論文にせよ、この人も言っているとおり、何のために、誰のために、どんな意味・価値を持つのかという、客観的な(他者を意識した)視点が必要になります。

「これは届ける価値のある言葉か?」を自問する。これもひとつのロジックです。

ちなみに世の中に飛び交う言葉が不毛にして殺伐としているのは、価値ある言葉かを吟味するという発想がないからです。思いついたことは、他人にとっても意味があると思い込んでいる。何でも言っていいと思っている。

そうやって守備範囲を外れて発する言葉によって、誰かの物騒なリアクションが返ってきたり、炎上したり、不毛な議論にもならない議論が勃発したりするのです。

しかも、発した自分自身が本当は一番害を被っている。いつも人の目(リアクション)を気にして、余計なことを言って、心無い言葉を浴びて、言わなければ嫌われないのに、言うことを選んでしまうことで自分を嫌う人の数が増えていく――。


「真実かつ有益な言葉のみを語る」という戒律(マイ・ルール)は、その点ですごく大事。

この言葉は人に届くだろうか、どんな価値を持つだろうか?と考えながら、テーマを選び、情報を集めて、整理して分析して、「これを届けたい」と思える内容・結論へと洗練・凝縮させていく。

すると、おのずと響く言葉が生まれてきます。言葉が熱を、力を持ち始める。

他者に届く言葉を繰り出せるようになると、関係性も変わります。関係性を自分で作っていけるようになる。

過去は関係性に支配されてきたかもしれないけれど、これからは関係性を選び、創造し、育てていけるのです。

その人生は、過去とはまったく違います。




自分らしさを取り戻すには


世の中、真っ当な人のほうが苦しみを背負うことがあります。これは人間関係にありがちな現象(化学反応みたいなもの)で、

そばにいる業の深い人と関わることで、真っ当な(良心的な、そして有能な)人のほうが、いつのまにか悪者にされたり、しわ寄せを受けたりするという現象です。

みにくいアヒルの子とかシンデレラとか(今回引っ張ってくる例としてふさわしいかどうかはわかりませんが笑)、

本人は本人のまま自然にいるだけなのに、周りが変わっていたりクセが強かったりすることで、相対的に真っ当な本人のほうが「ヘン」(異物)みたいな扱いを受けてしまうのです。

人間は自分のことがわからないし、自然体でもいられない。やっぱり認めてほしい、わかってほしいという思いもあるから、わかってほしい → でも理不尽な扱いを受ける・変だと言われる → きっとその通りなのだろう、と思ってしまう。

傷ついているのだけれど、周りの判断をつっぱねる強さや自信も人間なかなか持てるものではないので、その場におけるストレスを緩和するために、「きっと周りが言う通りなのだろう」と思って、その関係性を受け入れてしまうのです。

話をあえて広げましたが、この人も、その場所で抱く異物感みたいなものを長く抱えてきたように見えました。

はねつける強さを身に着けるには、どうするか?

自分のことがよくわからない自分一人の力ではなく、そんな自分と完全に違う立ち位置に立っている人のモノの見方や考え方に触れて、いわば同調して(これはいい意味)、自分を越える思考や発想を内面化することなのです。

だから、場所、人、出会いというのは、ものすごく大事なのです。そのためには求めること、動くこと。

幸いにこの人の場合は、求めて、動いて、この場所にたどり着きました。

この場所がどれほどの効力を持っているかは、それこそ人それぞれだし、この人のように自分で考えて、必要なものを吸収していける人であれば、いろんな場所や人との出会いを通して、遅かれ早かれ道を見出していったのではないかと思います。

とはいえ、そこまで役に立ったと言ってくれることは幸いです。この場所が価値を持った(貢献できた)ということだから。


(興道の里において)

 

 

新聞連載も佳境入り


『ブッダを探して』(中日新聞・東京新聞連載中)は、ミャンマー編もいよいよ佳境。

「草木も生えない失望」に直面する局面に入ります。

私は敵を作ることが嫌で俗世から離れたのですが、この世はそもそも人の数だけ真実があり、誰もが自分にとっての真実に執着したがるものなので、

その中で自分にとっての真実を語れば、どうしたって対立が生まれてしまいます。そのことがすごく悲しいのです。

それが嫌なら、何も語らないほうがいい。目立たないほうがいい。メディアへの露出やSNSの利用を敬遠してきたことと、理由は共通しています。

単純に望んでいない。幸せが増えることだけを願っていたい。

ならば自分にできることだけを、極力小さく、伝わる人にだけ伝えていく。それが理想だと今も思っているのですが、

その一方で、真実が掘り起こされないままだからこそ、見えない人、気づけない人、道に迷う人、苦しみ続ける人も、たくさんいるわけで・・(とはいえ、こうした思いもまた正しさへの執着になってしまう危険があって、その危険を恐れることが出家の流儀=戒律なのですが)。


痛みが生じかねないことに配慮し、ためらいながらも、自分にとっての真実を語るしかない。そんな場面も今後増えてくる気がします。

新聞連載一つにもこれだけ細心の注意を払う・・・もともと出家は世俗にはなじまないのです。

そんな個人的なためらいを抱えつつ、

心の眼に映るすべてのものを昇華・洗練させて、

世に伝わる普遍的な価値を創り出していく――。


そんなテーマを抱えて、2025年の春に入ります。


  
3月2日(?)掲載予定の『ブッダを探して』イラスト
どんな話題かは紙面でご確認ください
 
 


春からの予定


こんにちは、草薙龍瞬です。

3月16日の名古屋1日講座から、今年の活動をスタートします(※3月の講座はすべて満席となっています)。

4月以降は未定。東京にいるのか、新拠点に移っているのかもわかりません。

仏教講座をどうするか。4月以降月イチのペースでやるか。でもまだ施設が整っていない可能性が高い。オンラインでやっていく?

連休を利用して講座と坐禅会のセットを開催したい。ゴールデンウイーク、夏&秋の連休、年末年始(10連休でしたっけ・・日本経済は大丈夫なのかと別の心配もありますがw)。ただ、宿泊場所を確保せねばならず。

子供たちの寺子屋活動、明日(未来)を育てるプロジェクト、本の執筆・・と大事な作業も入ってきます。

いろんな皿をどのように、どの順序で回していくか。決めていくのは、すべてこれからです。

興道の里も新章突入。どんな絵を描いていくか。とりあえず現地で生活を始めて(猫のサラも一緒)、構想を練ろうと思っています。

今年の活動内容が固まったら、お知らせしますね。

 


 

 2025年2月下旬

 



未来を育てることは難しいか


未来を育てるというのは、本当は難しいことではないと思っています。

というか、難しくしているのは、誰なのか、なぜなのか、その原因を取り除けば、未来を育てることは、もっと簡単になるはずです。


たとえば、結婚を難しくしているのは誰なのか、なぜなのか。

労働形態の変化や長引く不景気などが引き起こす就職難・生活難・地位の不安定といった外的なマクロの原因も当然あります。

でも、「一人のほうが気楽でいい」という個人の志向にもとづく選択については、結婚を難しくしている原因は自分が作っている、と理解できなくはありません。

「一人のほうが気楽でいい」のは、一面真実かもしれません。でも、

本当は、「二人でいても気楽でいられる」生き方・関わり方に切り替えるという可能性だってあるのです。

なぜ一人のほうがラクだと思えるのか、どうして二人にして暮らす・生きることが難しくなってしまうのか。

そのあたりは考えてみる価値はあります。原因は人さまざまです。



子供を育てることも、本当は同じ。

子育てを難しくしているのは、誰なのか、なぜなのか。

見栄を張るため、世間・近所・親・親戚の目に合わせるために、あるいは「何歳ならこれだけのことができなければ」といった自分自身の思い込みのために、

「こうでなければ」――イイ子でなければ、これくらいの勉強ができなければ、いい中学・高校・大学に進まなければ・・といった思いに駆られてしまえば、

子育ては、途端に格段に難しくなってしまいます。

でも本当は、子供を育てることは、もちろん責任はあっても、自分が考えるほど難しいことではないかもしれなくて、

食べさせて、遊ばせて、寝させて、世話して、一日一日を過ごしていれば、それなりに育っていく・・・そういうものかもしれないのです。

そもそも生き物はそうやって新たな命を育てています。人間だって何十万年とやってきたこと。

そうした本来の営みが、難しいはずはない。難しくなるほうがおかしい。

そう思えることが大事(まとも)であるような気がします。


物事を難しく考えるから、結婚も子育ても、難しくなってしまう。難しいと思うから、最初からパスしようとも考えてしまう。

そうした可能性もなくはないような気がします。

たしかに制度や収入といった外的要因もたくさん重なっていて、わざと難しく見せてビジネスにしている部分もあったりして、事態はけっこう難しく見えるし、実際に難しいのかもしれないけれども、

一人一人が作ってしまっている難しさも、けっこうあるような気がします。


結婚も、子育ても、自分が思っているよりも、もっとシンプルなやり方があるのかも、もっとラクでいいのかも・・? 

そう発想するところから、別の可能性が見えてくる気がします。

(各論:制度論や関わり方・育て方の技法論については、別の機会に)



2025年2月

 

 

ある先生に向けて

 

拝復 ご連絡ありがとうございます。

残念でしたね・・でも学校という場所については、過去にも似たような展開になったことがあります^^。なので織り込み済みです

「宗教家」「公平」というのも、実にしょうもない(中身を見抜くだけの思考力がないきわめて日本人的な)言葉です。

日本社会というのは、本質を見抜く知力が育っておらず、表面的な言葉と同調と(いざ何かあったら・・という)責任回避が先立ってしまう傾向にあります。

その中に収まっていられる人間にとっては居心地がいいのですが、少しでも「思考を迫る(迫られる)」動きがあると、知力が育っていない大人たちは途端にフリーズしてしまうのです。

(過去、校長先生に何人か出会いましたが、今回と同じような展開をたどりました。先生の方は乗り気なのに、別の思惑に簡単に乗っ取られてしまって、考えない・動かない・何もしないことによる安全を選んでしまうのです。)


子供たち(中高生)は、そうした大人たちのしょうもなさ(無思考:何も見えていない・考えていない姿)と、そうした大人たちが足を引っ張り続ける日本という社会に、いろんなモヤモヤ(違和感、失望、懐疑、憤懣、無力感)を抱えていたりします。

でも今の子は賢くて、言っても伝わらないとわかっているので、大人・先生たちの前では、通用する顔・言葉しか伝えていません。反発も主張もしない。いい子を演じるか、不意に消えるか。もちろんそこまで違和感を覚えることなく、純粋に学校を楽しんでいる子供たちも多いでしょうが。


子供たちの本音を引き出し、本当の思考を刺激できる「抉る」言葉を、大人たちが持っていないのですよ。自分たちが考えていないから。考えてこなかったから。


考える力をある程度お持ちの先生たちは、そうした学校のしょうもなさ(現実)を織り込んだうえで、周りの大人・先生たちとはちょっと違った角度から子供たちと関わっていく可能性を探る必要があるように思います。

「見えてはいるけど、とらわれない。自分にできる範囲で子供たちの本当の思考を引き出す(引き出せるような問いかけ・働きかけをする)」というスタンスです。


この場所(興道の里)には、小・中・高の先生方もおります。

みなさん、日頃の持ち場にはないもの(本質を見抜く知力とそれを伝える言葉)を期待して、ここに来てくださっている様子です。


大人より、未来が見える子供たちの方が、生き物としてははるかに優れているし、大切な存在です。

人を育てる仕事ほど価値ある生き方はないと言っても過言ではありません。

その価値が見える大人であることが、人間として最低限の務めであろうと私は思っています。

見えなくなったら、ある意味終わり。老いたということです。


ひきつづき進んでまいりましょう
草薙龍瞬



2025年2月


消えゆく未来と育つ未来

(抜粋)

ふと思い出したのは、 Children of Men (邦題『トゥモロー・ワールド』という近未来SF映画。

なぜか全世界的に女性が妊娠できなくなった。一番若かった少年(たしか18歳)が殺されて、人類は、ただ老いていくだけという状況になった。

どの国も内戦やテロ・犯罪などで治安の悪化が進み、大人たちは、ただ死に向かっている自分と世界の現実を感じながら、希望の見えない日々を過ごしている。

個人的に覚えているのは、奇跡的に生まれてきた一人の赤ちゃん(人類にとって18年ぶり)とその母親を、主人公の男性が抱きかかえながら、銃弾飛び交う廃墟と化した病院を脱出する場面。

赤ちゃんの姿を見た男たちが銃撃を一斉に止めて、”絶対に死なせてはならない”というすがるような目で見守って、赤ちゃんと主人公たちを見送る(このあたり少し記憶が曖昧なのだけど)。

核戦争でも隕石でも気候変動でもなく、子供が生まれなくなったことによる緩慢な人類の死。それがどれほど殺伐としたものかが伝わってくるエンディング。


子供が生まれてこない・育たない世界というのは、死に向かっていくのと同じ。

日本社会は、この映画が描いた近未来世界の縮図みたいな状況になりつつある。


人間とは哀しい生き物。たちまち老いて死んでゆく。本当は虚無の闇と隣り合わせ。

死がもたらす虚無を埋めてくれるのが、新しい生、つまりは子供たち。

子供たちがいるから、人と社会は、なんとか未来への希望を感じて生きていける。


もし子供たちが生まれなくなったら、未来は霞み、希望の総量は確実に減っていく。


それが社会というものなのに、人々は未来を育てることより、なお自分だけの都合を見て、与えるより受け取ることを、愛するより傷つけることを選んでしまう。

愚痴に不満、萎縮に見栄の張り合い、信頼よりも猜疑を、称賛と応援よりも中傷と非難を向けることに明け暮れている。

そんなことをしていても、虚無の闇は埋まらないのに。


それでもなお人を傷つけ、他人事に首を突っ込み、子供という未来よりも、老人と化した自分たちの今しか見ようとしない。

まるで銃弾飛び交う殺伐とした、この映画の世界のよう。


保身や批判や中傷に汚染された社会に、希望は見えない。

希望とは、未来が現在進行形で育っていることを目の当たりにできる社会にこそ灯(とも)る。
 

未来が育つという当たり前の輝き――その輝きを人々が思い出せる日がくるのだろうかと、ふと思う。


全編どんよりと暗い(イギリス映画らしいといえなくもない)映画なので
お付き合いできる人はどうぞ
(〇〇〇〇primeで見られるそうな)




2025年2月


「許せない」を卒業するには?

※講座内の質問に答えて(一部抜粋):

 

 大人になるというのは、

①今の自分ならなんとかできる、

②理解してくれる大人は他にもいる(無理解な他者だけじゃない)

ということがわかること。

そこまで視野が広がって初めて、自分の怒りや「許せない」を相対化できるようになります。大人というのは、そういうことができるようになった状態です。


ただ、この人(質問者)の場合は、まだ心が子供のまま。なんとかできると思える状態にまで進んでいないし、理解してくれる大人というのは、実は世の中にたくさんいることを、実感レベルで理解できていないのだろうと思います。

それはなぜか?というと、ご自身の言葉の中に答えがあります。そう、父親があまりに大きく見えているから。ずっと父親のほうを見続けてきたからです。

この人は、父親にすさまじく執着していて、だからこそ怒りも「許せない」も、子供の頃とまったく同じレベルで燃やしているのです。

老いた親の姿を見て泣けてきたというのは、今の姿への同情(共感)もありうるけれども、心はたしかに往生際の悪いところがあって、

「今なら私の積年の願いがかなうのではないか」(つまりは良き父と子という関係を持てるのではないか)という方向に動いた可能性はあります。

その願いがかなう可能性があるなら、最後の親孝行をしてもよいとは思います。親の態度が変われば、「許せる」ようにもなるかもしれないし。その可能性はなくはありません。

他方、父親の地の部分が変わっていなくて、やっぱり怒りがぶり返す・・という事態もあり得ます。

この先の親との関わりは、「今の親の人間性」次第です。老いて素直になった、性格が変わった、呆けてしまった・・・いろんな理由はあり得ますが、

昔の親ではなくなった(少なくとも過去と同じ反応をしないですむようになった)なら、「新しい人」として向き合うことは可能です。新たな関わり方を選べばいいのです。

親との関わりは、①今の親のあり方(親というより一人の人間としてのあり方)と、②大人になった自分のあり方、の2つの組み合わせによって成り立ちます。

①も大事ですが、②も大事です。自分が大人になったといえるのか。過去の怒りや「許せない」を手放せたか。なぜ手放せないのか。

手放していないとしたら、自分の側の執着ゆえです。それは自分の側の選択であり、自分の問題。

遠い過去のことを、今なお怒り続けて、許せないと思い続けている。つまりは時間が止まったまま。子供のまま。執着の中に留まったままなのです。


過去はすでに終わっているのですよ。

だから過去と同じ感情を今に持ち込む必要は、本当はないのです。


過去は上書き&塗り替えることが可能です。


「大人になっていいのでは?」ということです。


2025年1月




春の講座スタート

受付開始しました 2025年2月4日から

下記講座はすべて満席となりました  2025.3.1


大阪研修会「こころを整える練習」
~クリアな心で仕事に励むスキルを実体験

3月16日 (日)14:30~17:30
 

<内容> 現代には、心をめぐる問題が数多く存在します。日頃のストレス、コミュニケーション不全、蔓延するスマホ依存、先行きへの不安や孤独など。必要なのは「正しい心の使い方」。過剰に反応せず、ストレスを溜めこまず、クリアな心で日々を生きるには? さまざまな世間の話題も取り上げながら、筋の通った考え方(解決の手順)と、心を洗う実践メニューを紹介します。

<会場> 大阪市中央公会堂 第4会議室(地下1階)大阪市北区中之島1丁目1番27号

 

大阪公開講座 生き方として学ぶ仏教全4回

人は誰もが、後悔や不安、「これでいいのか」という迷いを抱えているもの。そうした問いを解決してくれるのが仏教です。この講座では、宗教としてではなく、毎日の暮らしに役立つ「生き方」として仏教を学びます。「わが人生、これでヨシ!」と納得したい人は、ご参加ください。

◆4月16日(水)仏教入門~なぜ人は満たされないのか(人生の目的とは)
◆5月21日(水)明日をどう生きていく?~やり残した宿題を片付ける 
◆6月18日(水)心をスッキリ整える~坐禅体験と健康な毎日の過ごし方 
◆7月16日(水)明るい人生の卒業に向かって~正しい見送り方・旅立ち方

受講料(教材含む)全4回 一般4800円
第3水曜日 午後2時30分から午後4時まで 講座後に無料の個別相談あり    
会場 認定NPO法人 岸和田健老大学

 

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇ 

お申込み 一般の方はE-mailにて 

①お名前 

②自己紹介(職業・近況等をお顔が見える程度に詳しく) 

③臨時連絡先(携帯番号) 

を koudounosato@gmail.com まで。追って主催者からメールで案内をお送りします。


※ご参加いただける方のみへのご連絡となります。満席などご参加いただけない場合は案内をお送りしておりません(その場合は連絡内容を消去する形で対応しています)。あらかじめご了承ください。    


    

火祭りの国

毎日のように物騒な話題や有名人の不祥事を暴き立て、大騒ぎし、煽って、突(つつ)いて、忘れての繰り返し。

どんな問題であれ、事実にもとづき、原因を探って、解決の方法を探るという方向性に向かうほかなく、その道筋は粛々淡々と進むという一択のみ。

そのプロセスを確実にたどれることが、社会の成熟というものだ。

だがこの国では、事実のレベルだけで大騒ぎし、事実未満の憶測・意見やら虚偽・捏造やらが増幅・拡散していくものだから、なかなか原因にたどり着けず、根本的解決がいつも遠い話になってしまう。

騒いでいるうちに飽きるか忘れるかして、また別の騒げる話題を見つけて飛び火させていくという不毛な連鎖が起きているのみ。

飛び火は熱い(けっして心地よくはない)のだが、刺激的でもあり、暇つぶしにもなり、難しく考えなくていいというラクさもあって、誰も彼もが火を追いかけてしまう。

個人の火遊びに留まらない、日本社会全体が興じる火祭りだ。

不毛な火祭りだけが延々と続き、人々のストレスは増し、社会全体は荒んでいく。しかも中にいる人間たちは猛烈な勢いで老いて縮んでいっている。

火遊びに興じるばかりの、火遊びしかできなくなった、老いた小さな国。

あれ、これ本当に末期症状なのかも?

 

 

 

2025年1月下旬

全国の公務員のみなさんへのエールを込めて

 

全国の公務員のみなさんへのエールを込めて、

昨年末にWEB講演をさせていただきました。関連する記事の掲載も。

日本を支えてくださっている公務員の皆さんに敬意と感謝を捧げます^^

 

ジチタイワークス増刊号(2025年1月27日発行)
記事の詳細は、以下のバナーもしくは、
URLをクリックしてご覧ください。


このブログの目的(世にあって世に染まらず)

 

この公式ブログは、更新を楽しみにしている人も多いらしく、週に一度くらいの頻度で更新するようにしています。

わざわざ公式ブログを見にくる人というのは、それだけのモチベーション・関心があるということ(と受け止めています。暇つぶしに覗きにくる人もいるかもしれないけれど笑)。


ここに掲載しているのは、日頃のやりとり(主に講座参加者や読者さん)で出てきた言葉の一節です。


この場所は、自分が話したいことを話す場所ではありません。

抑制的に、真実かつ有益であること、人の幸せにつながる価値ある言葉であることを心がけています。(本も、公式ブログも)

(ただ、堅苦しくならないように、カジュアルな(?)話題も交えるように心がけてはいますが・・それが一番出てくるのが教室です。なるべく多くものを持って帰ってもらおう、喜んでもらおうと、つい余談・脱線してしまいます)

 

ここは、なるべく見つからないように、小さく、地味に、ごく限られた人たちとの関係だけで細々とやっていこうという、世にあって世に染まらずを地で行っている場所です。

 

 


『人生をスッキリ整えるノート』の裏表紙
(地道がいちばんです)


 

 


自分が先か、〇〇が先か


「自分」より先に「仏教」を置くこと。

「自分」より先に「人さま」を置くこと。

「自分」より先に「普遍的価値」を置くこと。

「自分」より先に「方法(誰もが共有しうる)」を置くこと。

どれも「自分を引いて考える」という点は同じです。

仏教は、慈悲、つつしみ、普遍的な価値を真っ先に考える思考法です。

「自分」が先立つものは慈悲じゃないし、「自分」が前に出るのはつつしみじゃない。自分、自分で発想すれば、普遍的価値は遠くなる。

仏教にもとづいて生き、仏教を伝える役目を負う人間というのは、そういう思考法・生き方が身に着いていることが資格のようなものなのです。



今の世の中は、多くの人が、自分語りに夢中。自分があれをやった、こう考えた、こんなことがあったということを、吟味することなく得々と、あまりに簡単に発信できる世の中です。

自分語りに夢中な人たちが一方にいて、もう片方に、他人事に夢中な人たちがいる。

両者とも一定数いるから、供給と需要がかみあって、その内容(真実か、価値があるかといった実質)に関係なく、お金や影響力まで生み出せてしまう奇天烈な世の中です。


この構図、「自分を越える価値」に思いをめぐらせるという発想や思考法とは、正反対です。

「自分ファースト」「自分のことだけ」に夢中な頭(脳)には、

自分以外の人のこと、世の中のこと、未来のことを考えるという「発想」が出てこない。

仏教というのは、本当は、そうした自分偏重の発想を突き崩す、いわば「ガツンと」ぶちかます威力を持っていなければいけないのですが、

そうした点をふまえてみれば、仏教を語る言葉は、弱い、弱い。

そう、「ガツンと」来ないといけないのでした(笑)。そのことをしっかり心に留めて、次の作品づくりに取りかかろうと思います。



ともあれ、「まずは自分を引く」というのが、仏教の思考法です。

かといって、それは卑屈になるとか負けを受け入れるという話ではなく、かりに理不尽を強いられたとしても、「仏教ならば?」と考えるということです。

「自分」から入る思考より、はるかに強力(その威力が見えないのは、まだ仏教の威力がわかっていないから)。

自分を越えるからこそ、自分を守れるし、大切な価値を守り抜くこともできる。仏教は、そうした可能性へと導く思想であり方法論なのです、本来は。

仏教に立っているか、自分に立っているか。

普遍的な(誰もが共有しうる、幸せにつながる)価値を見ているか、自分だけを見ているか。

そうした視点を持てば、世に飛び交う言葉も、自分自身の思考も、正しいか間違いか、どこがおかしいのか、気づきやすくなるのではと思います。





2025年1月下旬




「感謝」より大切なこと


感謝を語る人は大勢います。でも、感謝よりも大事なことがあります。

 

現実を正しく理解することです。


苦しみがあるなら、その原因をつきとめて、原因を取り除かねばならない。

過去に原因があるなら、過去を卒業せねばならない(※次の号で掘り下げます)。

相手との関わりに原因があるなら、関わりを清算せねばならない。

自分の業が原因であるなら、時間をかけて、自分の業を客観視して、反応のクセを書き換えていかねばならない。


そうした地道な、でも確実な道のりと、「感謝」というのは、まったく異質(無関係)なのです。


感謝というのは、即効性がありそうな気がする。だけれど根治療法には決してならない。

正しい理解 は時間はかかるし。簡単ではないのだけれど、

仮に同じ歳月をかけるとして、結果的にどちらが解決に近づくかといえば、

感謝ではなく、正しい理解だということです。


※なお、正しく理解して、問題を解決したうえで、それでも残った価値あるものに「感謝する」というのは、アリです。つまりは順序が違うのです。



2025年1月



2025年春の講座ラインアップ

2025年春の講座ラインアップ:


生きるとは、自分が幸福・納得にたどり着く”可能性”そのものです。

人生には、今の自分に見える以上のはるかな可能性が広がっている(ほんとです)。

可能性を広げるための学びを、この春、始めようではないですか――

 

2025年3月16日(日)

10:00~12:00
大人になった私たちは今どう生きるべきか

名古屋・栄中日文化センター
 
何歳になっても悩みはつきものだし、世の中、首をかしげるおかしなことばかり。自分はどう生きればいいか。家の問題、子や孫に残せるもの、やがて来る「人生の卒業式」に準備すべきことは・・? 
さまざまな話題をもとに「歳を重ねるほど、幸せが増える生き方」を一緒に考えます。健康法や先人の生き方など最新情報をまとめた特別教材つき。
 
受講費 3300円(税/教材費込み)
*質問を事前募集します。聞いてみたいことがある人は紙に書いてセンター受付まで(任意)。
お問い合わせ・受講申し込み(オンライン受講可):栄中日文化センター0120 - 53 - 8164


2025年3月16日(日)
14:30~17:30 
「こころを整える練習」 ~クリアな心で仕事に励むスキルを実体験
大阪・大阪市中央公会堂

現代には、心をめぐる問題が数多く存在します。日頃のストレス、コミュニケーション不全、蔓延するスマホ依存、先行きへの不安や孤独など。必要なのは「正しい心の使い方」。過剰に反応せず、ストレスを溜めこまず、クリアな心で日々を生きるには? さまざまな世間の話題も取り上げながら、筋の通った考え方(解決の手順)と、心を洗う実践(瞑想法)を紹介します。
 
<受講方法> 下記の必要事項をEメールでご連絡ください。koudounosato@gmail.com 2月28日(金)まで。折り返し案内をお送りします。
①氏名(フリガナ) ②郵便番号、住所、電話番号、メールアドレス ③自己紹介(ご職業・日頃の活動等) ※宗教・精神世界・マインドフルネス・心理学などの分野で指導・情報発信している方はご参加いただけません。ご了承ください。


2025年4月15日(火)から
毎月第3火曜/4月から12月までのレギュラー講座
13:00~15:00
名古屋「生き方として学ぶ仏教 ブッダの生涯編」
名古屋・栄中日文化センター
 
人生をめぐる悩みに「そろそろ答えを見つけたい」人のための仏教講座。堅苦しい話は一切なく、聞いてわかる・すぐに使える「生き方・考え方」として学びます。テーマは「ブッダの生き方~古代インド編」――ブッダの生涯をたどりつつ、自分の人生を振り返り「人生これでヨシ」という納得の境地をめざします。原始仏典を編纂したオリジナル教材を使用。
 
※オンライン受講は興道の里への事前登録が必要です。

お問い合わせ・受講申し込み: 栄中日文化センター0120 - 53 - 8164
 https://www.chunichi-culture.com/programs/program_190316.html


2025年4月16日から毎月第3水・全4回
14:30~16:00
大阪・市民公開講座  生き方として学ぶ仏教・全4回
 
人は誰もが、後悔や不安、「これでいいのか」という迷いを抱えているもの。そうした問いを解決してくれるのが仏教です。この講座では、宗教としてではなく、毎日の暮らしに役立つ「生き方」として仏教を学びます。「わが人生、これでヨシ!」と納得したい人は、ぜひご参加ください。
 
◆4月16日(水)仏教入門~なぜ人は満たされないのか(人生の目的とは)◆5月21日(水)明日をどう生きていく?~やり残した宿題を片付ける ◆6月18日(水)心をスッキリ整える~坐禅体験と健康な毎日の過ごし方 ◆7月16日(水)明るい人生の卒業に向かって~正しい見送り方・旅立ち方
 
会場 NPO法人岸和田健老大学
〒596-0076 大阪府岸和田市野田町1丁目12−7
 
どなたでも受講できます。一般市民の方歓迎
受講料(教材含む)全4回 一般4800円
第3水曜日 午後2時30分から午後4時まで 講座後に無料の個別相談あり    
申込開始 2025年2月4日(火)から 一般の方はE-mailにて ①お名前 ②ご住所 ③電話番号 を大学事務局にお知らせください。kouza@tvk.zaq.ne.jp 折り返し案内メールをお送りいたします。

お問い合せ先 認定NPO法人 岸和田健老大学事務局 Tel 072-431-1575 



親としての自分を卒業した後は


子供を育てる幸せ・喜びを体験できた人は、ラッキーです。

子供は親を求めてくれるし、素直だし。愛おしいものですよね。

そういう体験を過去にできたなら、その思い出を大事に取っておきたいものです。人生で一番幸せだった時期のことを(そうではなかった人もたくさんいます。だから子育てが幸せだったという人は、すごく幸運なのです)。

子供はすぐに大きくなるし、大人になった子供は、もはや別人。そりゃ仕方ありませんよね。幼い子供のまま、いてくれるはずはなく。

あの頃の子供と、今の子供とは、まったくの別人。遠い昔の話。でも確かにあったこと。

遠い昔を愛おしみながら、大人になった子供と向き合うことができれば、親としての愛情を保てることになります。

でも昔のことを今に持ち込むことで、相手(子供)に執着したり、今の関係性に物足りなさやさみしさを感じてしまうとしたら、それはやはり過剰な妄想であって、

そういうさびしんぼな自分に気づいたら、少しガマンして、自分の物事に戻る・・というのが、親としてのマナーなのかもしれません。



「親としての自分」は、もちろん死を迎えます。いつか卒業。親の方で卒業するか、子供の方で求めなくなったら、その時点でいったん終了ということになるのでしょう。

ただ、これは「役割としての自分」の終焉であって、あるのが当然というか、自然です。

仕事をしている自分も、妻・夫としての自分も、すべての役割は、変化するし、終わりもする。

いろんな役割が自分を作っているけれど、その役割は、細胞のように新陳代謝して入れ替わる。

ひとつの役割が終わるとしても、全体としての自分は最後まで続く。新しい役割を引き受けるか、新しい喜びを見つけるか。

自分がどのように変わっていくか、入れ替わっていくか、そういうこともかけがえのない体験として、最後までよく味わって、体験しつくす。

きっとそれが人間としての自分にできること。


役割に執着せず、新しい今を生きる。


それがひとつの答えなのかもしれません。



2025・1・10




歳を重ねて思うこと


歳を重ねて、行動範囲や交友関係が狭くなってくると、なんだか世の中、本当に大丈夫なのか、と心配になってきたりするものです。

聞こえてくるのは、悲惨な事件や事故、災難、病気や戦争、不祥事、そんな話題ばかり。

こういう醜悪な情報が耳に入ってきても心のバランスが取れるくらいに、仕事や家事に忙しくて、せいぜい世間の動向が、暇つぶしの話題レベルに留まっていればよいのですが、

自分の日常が一人静かで、特に新しい変化もなくなってきたら、なんだか世界は悲惨なことばかり、滅びに一直線に向かっている・・・ように思えてくるようになります。

ほんと、世界はいつまで続くのだろう・・・という不安、懸念。

人間は歳を取ると、そう思えるようになってきます。きっと多くの人が同じ。

動ける範囲が狭くなってくるぶん、外の世界の可能性も見えにくくなってくる。


だからこそ、自分以外の命のことを積極的に愛おしむことが大事になってくるのだろうと思います。

自分は老いつつあるけれども、若い人たちも生きている。
彼らには未来がある。未来を作っていく。

子供たちには、今と未来しか見えない。だからこそ動くし、考える。
自分には見えない未来が、彼らには見える。

だからこそ未来は彼らのもの。未来を創っていってもらう。

動物だって同じ。生まれた瞬間から未来しか見ていない。
植物も同じ。彼らも未来に向かって伸びていくことしか考えない。

生命というのは、みんな未来に向かっていく。未来を創っていってくれる。

そういう姿は、自分の周りにも、まだまだ溢れている。

そういう「未来」に気づける心でありたい。

自分自身については、できることをやって、働ける限りは働いて(それこそ70,80,90になっても働いている人はいる。働いている人のほうが元気だったりする。その可能性があるならチャレンジしたいと思う)、

もうほんとにムリということになったら、自分の範囲を小さくして、

その分、人でも動物でも植物でもいいから、「未来」に向かっている生命の姿を見つめて、

未来へと続いていくことこそがこの世界の本当の姿なんだ、という思いを新たにする。


そういう生き方でよいのではないか、と思っています。




2025・1・7



自分を大切にする一年に


(※最近「自立」へと踏み出した60代の女性に向けて)


親という生き物(結婚(してしまった)伴侶もそうですが)は、不思議な存在です。子供の幸せを願うどころか、勝手な怒りなのかやっかみなのか、子供の人生を妨害して、足を引っ張って、壊そうとさえする生き物さえいます。

最初のきっかけは、たぶん小さな妄想です。親の側の勝手。その妄想が悪い方向に転がって、親であるがゆえの権力(体力・経済力等)とあいまって、

最初の妄想(悪意)がどんどんと悪い方向へ、子供を苦しめる残酷な方角へと肥大していくことが起こります。まっとうな人間なら自分で歯止めをかけようと努力するものですが、たまに自分の悪意を受け入れてしまう(正しいと思い込む)人間がいたりするのです。

実家を出る、別れる、捨てる・・そうした選択が、自分を守るために必要なこともあります。そうした選択をしなくていい人もいますが、選択しなければいけない人もいます。

こればかりは、自分が置かれた状況をもとに決断するほかありません。答えを出せるのは自分。答えの正しさがわかるのも自分です。


決断の仕方は簡単です。相手が変わらない、変わろうとする努力を見せない、そんな相手との関わりが苦しくてたまらない・・という現実があるなら、

単純に相性が悪いということ。最も自然な選択肢は、離れることです。脱出すること。


たとえば老いた(でも病的な頑固さ・傲慢さは枯れない)父親に苦労してきた女性なら、そうした父親を捨てること。遠慮はいりません(笑)。

母親はどうするのかといえば、母親は、そんな男と一蓮托生で、それがその人の人生なのだから、子供である自分が背負う必要はありません。病院への付き添いなども不要(あるあるですが)。本当に必要ならなんとかしますよ、こちらが手をかけなくても。

子供はつい勘違いしがち。親の人生を背負わねばいけないの?と。良好な関係ならありうるけれど、自分を失ってしまうほどの苦痛を背負ってまで引き受ける必要なんて、本当はまったくないのです。

人の人生は人に委ねること。

自分は自分の人生を生きること。


もうひとつ、自由を求める人に大切なのは、家に置いてあるモノに執着しないことです。どうしても置いておけない大切なものは、(なるべくこっそり)運び出すとしても、生活用品程度なら、忘れてしまえばいい。

「半年旅に出たとしたら?」と想像してください。飛行機に乗ったと仮定しましょう。半年好きな場所を旅して、家に置いたものを思い出すか。思い出せるか。

思い出せない程度の物は、必要がないということです。

必要なものは、新しい生活の中で少しずつ増やしていけばいい。とりあえずすっからかんから、少しずつ必要なものをそろえていくのは、いかがでしょう。


しばらくはぶり返し(過去を思い出してしまう)が続くかもしれません。親だった人たちの良い部分を思い出そうとしたり、今なら優しくできるのではと考えてしまったり。

でもそれこそが、執着を断ち切る前に生まれる妄想です。その妄想と闘うことがカギになります。

もう闘わなくてよいのです。終わらせてください。


休める間はゆっくり休む。そんな自分を責めないように。
どんな状態でも、自分を許してあげること。
自分に優しく、寛容になりましょう。

そして、自分のために生きること。


人間は、自分のために生きてよいのですよ。犠牲になる必要はない。ましてこちらの幸せを願ってくれないような、自分の都合・要求で頭が一杯のちっぽけな人間のために、こちらの身をすり減らす必要はない。

自分のため、自分が好きだから、自分がやりたいから、自分が報われるから、やる。

そういう当たり前の前提に立ってできること(仕事も含めて)をもって、生活を作っていくことです。


人はもっと幸せに生きてよいのですよ。

幸せを知る一年にいたしましょう。


※なお、今回の言葉に抵抗を感じる人は、まだ執着の途上にあるのかもしれません。あるいは、今の関係性が、自分にとっての正解なのかも。答えを出せるのは自分自身です。


 

2025・1・5

興道の里・今年の抱負


新春のご挨拶第2弾は、興道の里の今年の抱負:

まずはインド出張。その後は、新刊の原稿書き。十代向けの学び方・生き方をまとめた本。

講座は3月16日&18日の名古屋での特別講座からスタート。

『ブッダを探して』の新聞連載は8月一杯か、2025年度内か。

レギュラーでやってきた仏教講座をどうするか。月に1回のペースでオンラインでやるか、夏までいったん休止とするか。

というのも、年の前半は本2冊を書き上げねばならず(ただでさえ遅れ気味で迷惑をかけているのでケリをつけなければ)、

新たな拠点の完成が7月頃。場所を変えて心機一転スタートするという形もありかと思っています(月に一度オンラインでいいからやってほしいという声があれば考えます^^)。

これまでは手広くやってきたけれども、そろそろ時間という有限のリソースを重点的に使うことも考えないといけない時期なのかもしれません。

子供たち向けの未来を育てるプロジェクト(やってみないと何ができるかわからない)。

本の執筆(未来に遺せる財産として)

そして、仏教講座。

この3点が活動のマックスかと。


悩ましいのは、どこまでの範囲に向けて発信するか。動画、SNS・・だけれど正直、そうした媒体を通して触れてもらったところで、遊びや暇つぶし、いわば消費コンテンツとしての位置づけを超えられるとは思えず。

学びを得るには、やはり相応の環境設定が大事。

自室でテレビの旅番組をながめたって、旅の醍醐味は味わえない。足を運んで、五官で感じることで、本物の旅になる。

学びも同じ。日常に浸かったままでは得られない学びというものがあるはず。

広く知ってもらうとか、ラクに学んでもらうといった便宜におもねる(媚びる)のではなく、少し敷居を高くして、

学びたい人はしっかり足を運んでもらって、リアルな体験として学んでもらう。この場所はやはり道場。エンタメじゃない。

そのうえ今のSNSや動画などの環境は、コンテンツがあまりに雑然としすぎていて、見るだけで精神的な負荷(無秩序ゆえのストレス)が溜まる構造になっている。

この構造は変わらないのかもしれないけれど、だとしたらあえて乗じることなく、まったく別の場所・別の形で、別の可能性を作っていくというのも、

ひとつの見識であり、良心的な選択といっていい気がする。

見つからなくていい、目立たなくていい。

志ある人が、偶然でも必然でもどんな形でもいいから、この場所を見つけてもらって、まずは連絡してもらって、足を運んでもらって、きちんとリアルな関係性を育てていく。

そうした関係性で生まれてくるものを選りすぐって、未来につながるものを残すようにすればいいんじゃないかな。

ということは、この先は、この場所で学んでゆく人たちと一緒に、「未来に何を遺すか」というテーマにチャレンジするということ。

その挑戦を始めるのが、新しい拠点ということになりそうです。


日本に帰ってきて十余年。作品が広く世に届いた、受け取ってもらえたということが、出家人生における第一の奇跡。

そして興道の里というイメージが、いよいよ具体的な形に結実して、新たなステージに入る今年は、第二の奇跡。

人の幸せ、社会の前進を真面目に願うという性格が、仏教という智慧を得ることで、社会的な価値を持つに至ったことが、第三の奇跡。

かつては「いいかげん大人になりなさい」とかさんざん言われた時代もあったけれど(笑)、その頃とまったく同じ思いが、今は、誰にも文句を言わせない(言ってもらってもいいけれど笑)形で、くっきりはっきりと姿を現しつつある。

捨てなくて(あきらめなくて)よかった・・というのが、今の実感。

予想もつかなかった未来に突入している。まさかこんな生き方があったとは。


まだまだ奇跡の途中。


みんなが幸せに生きられる可能性を願って、まじめに歩んでいくので、

この場所を偶然見つけてくださった人たちは、引き続き、静かに見守っていてくださいね。


 

2025・1・3

 

 

 

 

2025年 年初めのご挨拶


新年あけましておめでとうございます
(新年といっても観念=妄想にすぎぬではないかという絶望的なひねくれ思考はこの際捨て置いて笑)

いつもは4日以降の始動なのですが(みなさまの平穏を邪魔したくなく笑)、今年は1日早く始めます。

昨年を振り返っての印象は、ひとりで生きる決意を固めた人たちがけっこうな数出てきたこと。実に「善きかな」でした。

「地獄の実家」から脱出した人、

「最悪の旦那」とようやく別れることができた人、

呪いの家をなんとか飛び出して、新しい棲み処を探して、仕事も見つけて、

明日どうなるかはわからないけれど、まずは自由を手に入れたという勝者が、大勢いたのです。

みなさんそろって女性たち(そうした脱出劇を体験した男性もいるだろうけど、この場所での比率は圧倒的に女性たち)。

しかも50,60代かそれ以上。

たぶん40代くらいまでは、まだ親への執着も捨てきれなくて、そこまで覚悟が固まらないのかもしれません。

さんざん苦労して、迷路をさまよって、やっとこさ、このままではいけない、このあたりで変わらなければ、と決意できたのが今。

人生、遅すぎることはない。仕事だって、今の日本社会なら、まだまだ見つかるはず。
 

真面目に働けば雇ってもらえる・・そういう仕事・職場を探し続けることだと思います。それが今年のテーマです。


ともあれ、あっぱれです。よく頑張りました。

自立へと踏み出した人たち、でもまだ生活が不安定な人たちは、お気軽にご連絡ください。

実家脱出、離婚、一人暮らし・・そういう人たちを応援します。


まずは、新たな人生あけましておめでとうございます



2024・1・3