人生は山あり谷あり。
快調に進める時もあれば、辛抱強く日々を重ねるだけの時もある。
すべては因縁が決めることでもあるので、
倦まず、撓まず、焦らず、奢らず、
黙々淡々と日々を重ねることだけが、
正解なのだろうと思います。
2025年10月上旬
草薙龍瞬(出家・著述家)の言葉をお届けするブログです。著作・講座・講演等から ‶生き方として役立つ言葉” を抜粋してお届けしています。*毎週日曜の更新です。*講座最新スケジュールは公式サイト kusanagiryushun.blogspot.com へ
人生は山あり谷あり。
快調に進める時もあれば、辛抱強く日々を重ねるだけの時もある。
すべては因縁が決めることでもあるので、
倦まず、撓まず、焦らず、奢らず、
黙々淡々と日々を重ねることだけが、
正解なのだろうと思います。
2025年10月上旬
朝9時過ぎ、米子駅発の妖怪列車に乗り込む。駅の階段はねずみ男で、列車はねこ娘。ホームにも鬼太郎と一つ目小僧をはじめとするオブジェが並ぶ。しょっぱなから水木ワールド全開だ。夏休みということもあって、車内は子供連れがいっぱい。
てっきり妖怪に飽きた地元の人かと思っていた。なぜあそこまで化粧に入れ込む必要があったのか? 妖怪級の謎といえなくもない――。
いよいよ到着 水木しげる記念館
<おしらせ>
10月26日(日)18:00~22:00
個人相談会 東京・新宿
11月1日(土)18:00~21:30
座禅会 東京・神楽坂
11月2日(日)18:00~21:30
生き方として学ぶ仏教講座特別編
仏教で思い出そう「あの日の幸福」を 特製オリジナル資料つき
◇◇◇◇◇
日本全国行脚2025
山口仙崎・金子みすゞ記念館
翌8月3日は、朝の列車で仙崎に向かった。宿でゆっくりしたくもあったが、便が少ないので朝イチの列車に合わせるほかない。浦部からは代行バス。見知らぬ山道や海岸沿いを走る至福の時。長門市駅まで運んでもらって、そこから仙崎まで一駅。
金子みすゞ美術館へ。みすゞ(本名テル)は幼い頃から想像力が傑出していた。ひときわ弱者への共感があった。光の裏にある陰を見る。嬌声の背後に隠れた寂しさを想う――この感受性は、どんなきっかけで育っていったのだろう。3歳の時に実父が亡くなったことも影響したのだろうか。
両親はここ仙崎で書店(金子文英堂)を経営。本が、みすゞの感性と思索を育てたか。当時は多くなかった女学校への進学組。片道40分かかる登下校の道を、一人で物語を空想しながら歩いたそうだ。
卒業後は、下関で暮らす母のもとへ(母親はみすゞが16歳の時に再婚して下関に出ていた )。みすゞは、義父が経営する書店(上山文英堂)を手伝う。
当時の下関は、海の幸を全国に送り出す港町で、不夜城とも称される賑わいを誇っていたという。
“都会”の華やぎに創作意欲を刺激されたところもあったのか、二十歳を過ぎて“みすゞ”名で童謡詞を投稿し始める。幼い頃に養子に出された実弟と、弟とは知らずに“友情”(おそらく一部恋心)を育み始めたのも、この頃からだった。
書店に奉公として入ってきた男と見合い結婚。だがこの男が慢と怠惰の生き物で、みすゞの人生は暗転する。家父長制のもと、どんなに自堕落で乱暴な男であっても、家の権力を握ることができた時代だ。当時の女性にとって、家を出て自立することは、どれほど困難だったことか。しかもみすゞのような感受性が強く聡明な女性にとって、田舎のダメ男と夫婦生活を続けることなど、極限の拷問にも等しかっただろう。
(看護専門学校の試験講評から)
看護の仕事は、視点①から⑤に集約できます。①から⑤の中味(情報)は、教材<看護の技法>に書いてあります。
そうした中味をすべて漏れなく踏まえることができれば、「よい看護師」が成立します。
また、①から⑤の中味に「感情」は直接は入ってきません。
何度も伝えてきた通り、「感情」はコミュニケーションに役立つことはありうるとしても、「看護の本質」には入ってこないのです。
たとえば、ハラスメントを受けた看護師に感情は必要ですか? ①から➂(※最終的には④⑤も含む)の中味を、看護師の側が正しく理解して、どのように伝えて患者に理解してもらうか(ケアを受け入れてもらうか)を考えなければいけないのではないですか?
あるいは、瀕死の重態の患者に、看護師の感情は役立ちますか? これもまた①から➂(※最終的には④⑤も含む)を正確に、迅速に、踏まえるしかないのではありませんか?
①から➂(最終的には①から⑤のすべてのステップ)を踏まえることでしか、正しい看護(患者のためになる、苦しみを増やさず、なるべく心身の苦痛を癒した状態で復帰してもらうこと)は成り立たないのではありませんか?
正しい看護に感情は必要がない(役に立たない)。
ただし、患者とのコミュニケーションにおいて、看護する側の感情が役に立つこともある。
それが今回の正解だったのです。
感情労働は古い概念であり、勘違いされたまま看護の世界に流入してきたものです。もともとアメリカの航空会社が顧客を満足させるサービスとして、キャビン・アテンダントに求めたもの。「イヤな客にも我慢してスマイルで対応せよ」という。
※マクドナルドの「スマイル0円」も同じ系譜から来ています(マクドでは、ひと昔前はメニューにそう掲示されていたのです笑)。
結果的に、看護師は感情にフタをしなければ、イヤなことがあっても感情を抑圧・管理して「優しい看護師」であらねば――というイメージができあがってしまったのです(教材内の記事は、そういうイメージ(勘違い)に立って語られたものです)。
感情は要らない。そもそも看護という仕事は、別の部分で果たすべきものである。
この原則に立たないと、過剰な義務を背負いかねません。
ちなみに、<看護職の倫理綱領>も、看護師の権利や利益擁護については言及していない。「看護師はいろんな義務を背負うべき」という前提で書かれたものです。
こういう部分を見抜けないからこそ、多くの看護師さんが今も無理を背負って疲弊しているのです。
このあたりは、ベテランの看護師でも、いまだに勘違いしている点です。あと十年くらい経てば、このあたりの認識は変わっているかもしれません。
今後時間をかけて考えていってください。
人の苦しみを正面から思いやり、「一人でも救うことが自分の使命だ」という自覚をもって日々の仕事に臨んでいれば、おのずと「人を救うためには、感情以前にもっと大事なことがある」ことが見えてくるはずです。
頑張ってください。全員を応援しています。
2025.9.29
看護学生のレポートを採点中(これさえ終われば少し時間ができます・・)。
自分でもいうのもなんだけど、「いい先生」だとは思います(学生はそうは思っていない可能性も少なくないですが笑)。
いい先生というのは、優しくはない。むしろ厳しい。特にサボっていたり、学ぶことを甘く見ていることが伝わってきた時には、遠慮なく喝を入れる。
だがその一方でかなり甘い。10点満点なのに、よく書けていると思えば、15点つけてしまったりする(採点になってない笑)。内容が若干足りなくても、真剣に取り組んでいることが伝わってくれば、10点満点にしちゃったりもする。
こういうボーナス点が多いので、総合得点は100点を超えてしまう。平均点が90点越え。もはや採点にもなっていないような気もしなくもない。とにかく甘い。
この甘さは、「頑張れ」という励ましから来ている。どうしても甘くなってしまう。
そもそもみんな成長の途上にある。最初からわかるわけでもない。外すこともしようがない。「いつかわかってくれればいい」というくらいの鷹揚さも持ち合わせている。だから甘くなる。
その一方で、自分自身を甘やかして、自分の将来(の可能性)を掘り崩しているかのような態度が伝わってくれば、その時は容赦ない。「むっちゃおっかない」先生に変わる。
今のところ、それでも脱落者はいない。最低限のヤル気・本気はある様子。
そのあたりが見えた時には、全力で褒めることにしている。このあたり、超素直な先生でもある。
課題の講評については、たとえばこんな「喝」を入れています:
◇
課題「よい看護師」とは何か説明せよ(※説明するための情報は教材に書いてある)
課題「よい看護に感情労働は要らない。その理由を説明せよ」(※これも答えは教材内に書いてある)
<講評>
わかっていない(0点)答案が多すぎます。
「よい看護師」というそもそも曖昧な言葉を「寄り添う」とか「優しい」とか、これまた曖昧な言葉で置き換えている(説明したつもりになっている)学生が多すぎます。0点。
「感情は要らない」と伝えているのに、まだ「共感が大事」とか「感情を抑制する必要がある」とか、とんちんかんなことを言っている学生も多い。
こういう人たち(学生たち)は、看護という仕事をステレオタイプ(月並み)なイメージでとらえてしまっていて、その思い込みから抜け出せていないのだろうと思います。
看護の仕事を視点で整理すれば、①苦の理解 ⇒・・(略)・・⇒ ⑤納得 の5つに尽きるのです。これ、看護だけでなく、実はどんな仕事も同じ。
①から⑤に入ってくる中身(具体的内容)が、看護の場合は、特殊(専門的)になってくるというだけで、どんな仕事も同じ。
視点①から⑤のキーワードを使って、「よい看護師」を置き換えるだけでいい。
視点①から⑤のキーワードに照らして、「感情」がどこに入ってくるのか(役に立つのか)を考えてみればいい。
視点①から⑤に沿って、どんなケアが適切か、答えを出していく。その手順を履むことに、感情とか優しさとか寄り添うといった曖昧なものは、本当は必要ないのです。
ならばまったく意味がないかといえば、それは違います。人間としての優しさや、寄り添おうという姿勢が、患者にとっての安心や癒しや信頼感につながることはあります。「自然に出てくる」部分は大事だし、実際には大きな意味を持つことも多い。
しかしそれは、視点に沿った適切なケアができたうえでのこと。①から⑤の手順をすっ飛ばして、「優しく」「寄り添う」なんていうのは、素人の自己満足と変わらない。患者のためにならない。順序が違う。本末転倒。
君たちは、看護のプロとして苦しむ人と関わろうというのでしょう? 看護は高度な専門職。
「感情」「優しさ」「寄り添う」「共感」といった、いわば世間一般に美徳と(一応)されているものとは、レベルが違う。
世間一般のレベルに収まって(留まって)いては、看護の仕事は務まらないのですよ?
素人レベルで「よい看護師」や「感情」というものをとらえていちゃダメです。
それは看護という仕事を矮小化していることと同じ。素人レベルの発想でしかない。
「それよりも大事なこと、しなければならないことがある」という前提に立つこと。
看護という仕事を甘く見るな(見くびるな)ということです。わかるかな???
2025・9・26
いや、娑婆(世俗)の世界は本当に疲れます。いろいろと考えなければいけないことが新たに出てきていることもあり・・。
出家というのは、ほんとは娑婆の世界に降りて(?)きてはいけない種族のような気もします。
でも山奥にひきこもれば解決ということにはならなくて、自分自身に解決すべき問題は残っていないので、やっぱり「新たな可能性を創る」ことくらいしか命の使い道はなく、
そうなると、やはりやれることというのは、今やろうとしていることで、
やろうとすると、こういう苦労も背負わざるを得なくなって、
苦労というのは背負える限りは背負う(ことがあってもいい)もので、
背負う限りは、「大変だけれど、そういう時期」として受け止めるほかないもので、
結局は「そういう時期なんだ」という思い(諦念)をもって受け止めて、
やっぱり歩ける限りは歩く・・という今の姿に落ち着くので、
最後は「これでいいのだ」というバカボン的心境に落ち着くのでありました。
めでたし、めでたし?
2025・9・23(そうか、祝日か・・)
興道の里から
講座の最新スケジュールです。
9月16日に愛知・高蔵寺で開催した公開講座
<仏教で思い出そう「あの日の幸福」を>
東京でも開催します(構成・教材はほぼ同じです)。
会場は東京都内です。詳細は、公式カレンダーでご確認ください。
興道の里の講座は登録制です。受講希望の方は、公式ブログ内の<活用ガイド>をご覧のうえ、必要事項をご連絡ください※。
※たいへん小さな場所ですので、すべての方にご参加いただけるわけではありません。あらかじめご了承ください。
・・・・・・・・・・・・・・
10月26日(日)
18:00~22:00
個人相談会
東京・神楽坂
<時間枠> ➀18:00~18:45 ②18:50~19:35 ③19:40~20:25 ④20:30~21:15 ⑤21:20~22:05
<内容> お一人45分のミニ個人相談会を開きます。自分では答えを出せない悩み・課題を抱えている方で、代表・草薙龍瞬への相談をご希望の方は、お名前・相談内容・ご希望の時間枠をご連絡ください。折り返し詳しいご案内をお送りします。
11月1日(土)
18:00~21:30
座禅会
東京・神楽坂
11月2日(日)
18:00~21:30
特別講座 仏教で思い出そう「あの日の幸福」を
特製オリジナル資料つき
「あの時は幸せだった」と思える時間をいくつ覚えていますか? 幸せを忘れて、ストレスや心配事ばかりに追われているのは、なぜでしょう? どうすればこの先、楽しい時間を増やしていけるのでしょうか? この講座では、人がつい幸せを忘れてしまう原因をつきとめ、楽しい時間を取り戻す「暮らしのヒント」を紹介します。少しの工夫で「万年・幸せ上手」になれるかも。まずはこの講座から。
よき学びの機会となりますように
上記ご案内申し上げます
興道の里
2025・9・17
分校の工事は時間がかかっているし、その他の重たい課題もあるけれど、
とはいえ、早く移って、「子供たちと勉強したい!」という思いが沸々と湧いてきますw。
私がこの歳になって(何歳かは秘密・・にしたかったw)なお、
子供たちと同じ目線でいろんなことを学びたいと本気で思えるのは、
成績を上げるためとか、いい大学に進むためといった見栄や打算のための勉強に心が汚染されなかったことが、大きい。これ、ほんとに大。
学校に通ってしまった人(よい面もあるはずだけれど、ここでは悪い面を前提にしている)、
いい成績を維持して見栄とプライドを守り続けてきた人にとって、
勉強とは、学ぶ意味も面白さもよくわからないが、とりあえず周りがやっているから自分も合わせてやる(やらざるをえない)とか、
点数・成績という中身のない妄想を、プライドを支える実体あるものと勘違いして、意味はさておいてとにかく頑張る
ものだったように見える。
だから、大人になっても、プライドを捨てきれず、しかし学んだことの意味や、身に着けた能力を活かしきれていなかったりする。
そもそも試験でいい点数を取るという「特殊技能」と、社会で価値ある働きをするという(生産・貢献・改善)能力とは、まるで違う。
特殊技能は、試験が終われば(卒業すれば、合格すれば)、その時点で役に立たなくなる。
そういう勉強しか知らない大人が、「勉強なんて意味がない」と言いたがる。
勉強に意味がないのではなくて、もともと意味がないものしか勉強していないから、勉強が終わった後に「意味がない」という感想が残るのだ。
つまりその言葉は、自分が意味のない勉強しかしてこなかったという告白だ。
勉強が終わったのだから、「意味がない自分」が残ったということだ。
学校や試験という制度を根拠とした「勉強の意味」というのは、それ自体が歪(いびつ)で狭くて偏ったものでしかない。その「意味」は、本当の意味ではない。
本当の意味というのは、純粋に知ることが楽しいし、体験することが楽しいし、できたこと、できるようになることが楽しい――
そういう生き物としての知的好奇心(生存本能から来ている。動物にもある)から来る純粋な喜びだ。
この夏、十代向けの本や参考書に触れて感じたのは、「こんなに面白い、考えさせられる、心をくすぐってくれる、感動させてくれる言葉が、世の中にはあるんだ」という純粋な感動だった。
参考書そのものは、「意味のない勉強」に合わせて作られているから、その姿そのものには魅力がない。むしろゲンナリする。
だが、その中に取り上げられた、広い世界の、各分野のプロや「その道を生きている人」の言葉というのは、それ自体が無性に面白い。
こういう言葉に出会えるだけでラッキー、と思える(これ、主に国語の話をしています)。
この純粋に楽しめる感性は、私が十代の頃に育てたものだ。「意味のない勉強」から離れて、独りになって、いったん心を「漂白」して、
真っ白になった心で、純粋に楽しめる言葉を探し始めたところから、私の「意味のある勉強」が始まった。
その勉強は、本当に意味があった。ちゃんと面白さ、つまりは本質が見えていた。
だからこそ、何十年も経った今でも、その頃と同じように「面白い」と思える。
「面白い」うえに、「わかる」し、さらに自分で「足す」ことも可能になっている。「こんな書き方も可能」とか「ここからこんな展開もできる」とか。
さらには、自分がとらえた本質を発展させるような問いを作り、関連する知識や情報やテーマに「広げる」ことも可能になっている。
「やっぱり勉強って面白いなあ」と感じたその瞬間に、脳がグンと若返った気がした(笑)。これ、ほんと。
「あれ、自分、歳取らないぞ?」と感じた。ものすごく心が若い。「こんなに面白いことが、人生にはまだまだあるんだ」と思えたから。
年齢という概念を超えた境地。いわば、仏教で得た境地と、本当の勉強で得た知力が融合して生まれた、”草薙龍瞬3.0”的な心境(なんか陳腐でヤな表現だがw)。
こんなに面白いことを伝えない手はない。面白いから伝えたい。
「はよ子供たちと勉強したい」とは、そういう心境から出てきた言葉。
なお、大人のみんなも、同じ勉強を体験してもらおうと思います。同じ言葉に触れて、同じように考えて、みずからを振り返ってもらう。
他人の言葉を通して、他人の心の中やその人生に触れる。すると、自分の人生を外から見ることも少しできるようになる。
さらには、自分以外の人生に「仏教をどう活かすか」という新たな視点で思考することができる。
これまで学んだことが、「そうか、場面が変わったからわからなかったけど、仏教はこうやって活かすんだ」とわかる。
子供も大人も楽しめる。大人も同じように”通信添削”を受けてもらうことも可能w。
最初はおそらく難しすぎて、脳の血管がプチプチ切れるのを感じるかもしれない(ヤバいか笑)。それは、固まってしまった自我を一度解体する時間でもある。
そういう”プチプチ”を重ねていくと、次第に考えることが楽しくなってくるだろうと思う。
「心は歳を取らない」ということが、ふとした瞬間にわかる時が来る。
そういう面白さも見えるから、「とはいえ、早く子供たちと学びたい」という思いが出てくるのでありました。
2025・9・11
・・・・・・・・・・・・・
9月13日(土)の自己ベストの生き方&働き方を考える(学習会)の質問・相談内容を引き続き募集します。
サティの力を鍛えると、睡眠を一切とらなくても長期にわたり活動を維持できます(経験上1週間くらい?)。
でも肉体はそうはいかないらしく、心臓の鼓動がヘンになってきます笑(笑っていいのか?)。
来週前半は、愛知・高蔵寺と栄で講座があります。お近くの方はどうぞいらしてください。
◇
今がつらい人へ――
つらい時期というのは、「そういう時期なのだろう」と受け止めて、日々を歩いていくほかありません。
人生には、何度かそういう「しんどい」時期が来るのでしょう。
そして、人間(他人)には期待できない、ということも、改めて思い知ることになります。
「(娑婆の現実を生きるとは)そういうものだ」ということです。
だからこそ過剰に反応せず、人に求めすぎることなく、自分にできること・必要なことを粛々淡々と進めていくのみです。
ままならない現実の中にあって、できる範囲で理解を求めて闘い続けるということです。
できることがある限りは、私も闘いを続けます(独りではありませんよ)。
この世は天国ではありません。人間とはどういう生き物かを学ぶ場所なのです。
2025・9・11
看護専門学校にて(課題講評)
すべての医療は、人間の苦しみを増やさない(減らす)ためにあります。「増やす」選択は、その時点で正しくありません。
気管挿管事例で取り上げたように、患者が死ねば、その選択は(AであれBであれ)間違っているのです。
何が正解だったか、どうすれば救えたかを、①事実の理解⇒②方法⇒③選択 の順序で検証する。
その検証するという態度こそが、「倫理的に正しかった」と言える唯一の根拠になるのです。
支持するとか反対するとか、そういう話ではありません。すべてを理解したうえでの選択だったのか。選択は患者・人間によって当然違うから、違うことを前提として、手順を追って、人それぞれの選択を促さなければならないのです。
だから、自分自身の見解を語るのはいいけれども、その根拠は何か、その根拠をどこから引いてきたのかを、きちんと明示してください。
「受け売り」(誰かが言っていた)レベルの理由は、理由になりません。権威(「○○先生が言っていた」的な)はただの妄想です。人を救えないなら、なんの実態もありません(違いますか?)。
(略)
単純に、事実(fact&evidence)がないということ。「理屈ではこうなる」と言う企業や専門家はいても、裏づける事実はないのです(あるという人がいたら、聞いてみてください)。
このことを理解しないと、前に進めません。せめて「まだ(事実は)わかっていないんだ」ということは、わかってもらう必要があります。誰が何をどのように語っていようと、です。
ひとつだけ、「倫理的に正しい」といえるかを測る目安があります。わかりますか?
それは、「苦しみを見ているか?」の一点です。
理屈・理論だけで「○○すべき」とか「〇〇したほうがいい」というのも、一部のデータだけを取り上げて安全だ、有効だというのも、間違いです。
その理屈・理論で選んだ時に、苦しみを背負う人は出てこないのか、どれくらいの割合で出てくるのか。
そのデータが正しいものと仮定して(間違っている可能性もありますが)、そのデータにもとづけば、苦しみ(副反応・後遺症・死亡・社会的影響)は、どの程度・どれくらいの割合で生じているのか?
きちんと「裏(背後)」も見ないと、正しい選択にはなりません。「全体を理解する」ということ。
裏を見ていなかったということ。今も見えていないかもしれないということ。
じつは誰も、事実と苦しみを直視していない――かもしれない。
医療・看護の現場においても。当然、学生である君たちも。
「見えない人間」が、人を救うことはできないと私自身は思います。
「見える看護師」になってほしいというのが、私個人の願いです。
2025・9・10
<おしらせ>
9月21日(日)午後に個人相談会を開催します。ご希望の方は、公式サイトおよびカレンダーをご覧のうえ、必要事項をご連絡ください。
◇◇◇
夏の国語キャンプにご参加くださった皆様、おつかれさまでした。そしてありがとうございました。
興道の里では、大人向けの仏教講座を開催してきましたが、今回は子供たち向けの初の試みとなりました。
遠い昔、まだ自分が何者かわからなかった頃に、いくつかの世界を渡り歩き、その間に多くの十代の若者や子供たちと出会ったことがあります。
かつての私にとっては、ただ勉強を教えるというより(そもそもそういう発想は大嫌い)、自身が高校に行かなかった空白を埋めるための時間であり、授業をきっかけに新しい知識や言葉を見つける個人的な趣味でもあり、前に進もうとしている若い人たち・子供たちへの純粋な励ましでもありました。
私は個人的に、人を応援することが大好きなのだと思います。これは性格です(出家前の)。
子供たちとのやり取りは純粋に楽しく、子供の姿を受け止めて、価値あること(生き方・学び方)や励ましの言葉を向ける仕事は、もともと人間が好きで、かなりの熱血でもある私の「性に合う」ものです。
今の私はいくつかの役割を授かっていますが、教えること、それも十代の子供たちに――というのは、もともと得意でもあり好きでもある「天職」の一つであろうと思うので、
このプロジェクト(明日を育てるプロジェクト#旅する寺子屋#国語キャンプ)は、今後も続けていこうと思っています。
◇
子供たちと向き合うのは久しぶりで、どうなることやらと思っていましたが、個人的には、子供たちとの垣根を感じませんでした(坊さんになって完全自由な心を得てからは、やりとりの技みたいなものに、いっそう磨きがかかったかも笑)。
来てくれた子供たちは、みんな頑張ってくれたし、素直だし、一見聞いていないように見えても実はちゃんと聞いているし(すごい(笑))、元気がなさそうだった子供も終了後に挨拶に来てくれたりと、
みんながそれぞれに受け止めてくれたような気がして、「やってよかった」と感じ入りました(TへT)。
あの子たちが、揺れやすい十代という時間を、大切なことを見失うことなく、無事潜り抜けていってくれたらと願ってやみません。
親との関係や、家での時間や、学校の友だちや先生や勉強・進路のことなど、心を重くする物事を、すでに背負っている子はいるだろうし、これから背負う子も出てくるだろうと思います。
そんな時にほんのわずかな時間でいいから、会って話ができる場所や機会があれば、「心の荷物」を早めに下ろすことも可能な気がするのです。
その意味では、それこそ週に一度でも教室を開きたいくらいですが、それはかなわず・・。
今回出会った子供たちが、この先も自分らしく育ってくれることを願っています。
<旅する寺子屋・国語キャンプ>の来年以降のスケジュールは、決まり次第、公式ブログ内で告知します。
子供たち向けのこのプロジェクトは、この命の情熱が続くかぎり(まだまだ燃えております)、続けていきたいと思っています。
またお会いできれば幸いです。
みんな、元気でね!
※授業のフォロー(解説その他)をお送りしていますので、当日の参加者でメールアドレスを登録していない方は、koudounosato@gmail.com までお知らせください。
2025年9月1日
(今回はネガティブ&ダークな話題です。50代以上限定?)
個人的には、これも人類という種の生存戦略の一つかもしれない、と妙な諦念をもって見るようにもなってきている。
つまりは、発達途上の段階では何十億もの群衆を手なずけ、労働・生産の手段として利用して、自分たちの利潤と技術開発を追求し、
科学技術が一定レベル以上に進化して、ごくわずかな人間だけが生き延びられる状況に達した時点で、群衆を捨てるという戦略だ。
その時期が来るまでは、世界がどれほど危うくなっているかは、あえて知らせない。いずれ「茹でガエル」となって大量熱死する時期が確実に来るであろうのに、そのことには触れない。
代わりに人々にスマホを与えて、デジタル漬けにしておく。ローマ帝国の「パンとサーカス」と似た位置づけだ。
<興道の里から>
8月30日(土)午後 個人相談会 臨時増設しました。
8月31日(日)夏納め国語キャンプ~言葉を力にかえる in 千葉・野田 まもなく開催
参加希望の方は、このブログまたは公式カレンダーをご覧のうえ、お申し込みください。
◇◇◇◇◇◇◇◇
※長いです(教師あるある笑)。
都内の大きな書店に行ってみた。印象的な点がいくつか。
ひとつは、「〇大本」が溢れていたこと。〇大という大学名をなんの臆面もなく売りにして、体験記やらノウハウ本を出している。
〇大というのは、ただの大学名。〇大生というのは、ただの学生であって、近い将来、社会で役割を果たすための準備期間にあるというにすぎない。本来価値はないはずなのだが。
大学生というのは、本当は肩書ではない。何者かになるまでのプロセスの呼び名(文字通りの学生)であって、何かを達成した人ではない。
こうした勘違いを育ててしまったのは、「〇大」というだけで価値を持つかのように、煽って、崇めて、そして今なおその価値観から抜け出せない、視野の狭い大人たちなのだろうと思う。
結局は、社会が、こういう幼い文化を育ててしまったのだ。
◇
こういう臆面も分別もない「〇大本」が大量に並んでいることにも、ゲンナリしてしまったし、
小・中・高・大学受験というステージと、科目・分野別の参考書が、あいかわらずできあがった学校制度を前提として不自然に分類されていること(学年で分けたり、数Ⅰ、数Ⅱと不自然な概念で区分したり。数学の体系にそんな概念は存在しない)も、不自然に感じたし、
カラフルなわりに、雑多な知識が視点もなく並んでいるだけで、こんな本で地理や世界史や日本史を学んでも、「物語」も「体系」も「視点」も身につかず、
バラバラな知識の断片を一部覚えて一部忘れて、結局、この地球の上に何があって、どこで何が起きていて、過去どの場所でどんなことがあったから、今の国や地域や風土や国際関係になっているのかを説明できるようになる、という「まともな学び」が限りなく難しくなってしまっている(変わっていない)ことも、甚だ嘆かわしく感じた。
こういう分類や教材の作り方をして平気でいられるというのは、教える側も「学びとは何なのか」を、あまり突き詰めて考えていないからだろうとも思ってしまう。
学校では教科書を教えるもの、何年生の何学期にはこれを教えるもの、受験用にはこれを教えておけばいいという、型にはまったイメージが固まっていて、
教えた後に自分に何が残ったか、学んだ側に何か意味あるものが残ったかを検証しようという発想が、教師の側にないのかもしれない。まさに「仕事だから」教えているという姿なのだろうか。
ちなみに楽しい授業というのは、教師の側に楽しい感情が残ったかどうかでわかる。不満や迷いが残ったとするなら、その授業はやはりどこか間違っている(工夫の余地がある)ということなのだろうと思う(違いますか・・?)。
◇
学生の側も、不幸な時間を過ごしている。中学ではコレ、高校ではコレ、何学期はコレ、というお決まりの内容しかない、と思い込んでいる。学校の成績のため、受験のため、いい高校、いい大学に行くため、という形でしか、勉強というものをとらえられない。
「そういうものだ」という思い込みだけで授業に「お付き合い」して、なんとなく学年が進んで、卒業して、進学して。
だが後で振り返って、数学とは、文学とは、古典とは、自然科学とは、歴史とは、といったそれぞれの体系や面白さというものを、まったく思い出せない。「教養」が残らない。
まったく栄養にならないものを、教師は教えているのかもしれず、学生は学んだ気になっているのかもしれない。なんだか不幸な関係性だ。
◇
もうひとつ印象的だったのは、大型書店に足を運ぶ親子連れの「意識の高さ」である。親のほうが、熱心に参考書をチェックしていたりする。
子供(小学生)は、そんな親に付き合って、素直に勉強する意欲を見せていることもあれば、あきらかにヤル気のなさそうなこともある。
親の目から見た勉強や受験というのは、親が見る妄想であって、そんなものを押し付けられても、子供は楽しくとも何ともないだろう。小学生くらいの子供が、意識高い系の親につきあっているのは、まだ素直で、親のことが好きだから(勉強が好きな子については、ひとまず問題ナシとしよう)。
親が敷いたレールの上を進むことに、もう少し大人になった子供が、何を感じるかだ。自分のこととして頑張るか、反発して拒絶するか、あるいはどちらも選べずに、ただ気力を削がれてスポイル(無気力化)されてしまうか。
◇
さらに印象的だったのは、幼稚園・小学校受験の参考書コーナーが充実していたことだ。「行きつくところまで行ってしまっている」と思わざるを得ない、充実・発展ぶりなのだ。
「○○的思考」とか「○○学習法」とか・・これ、大人向けの本ではなく、4,5歳児対象の参考書なのだ(実際は親が読むのだろうが)。
子供向けの自己啓発本も、恐ろしいまでの充実ぶりだ。プログラミング、ジャーナリング、生成AIの活かし方、傾聴力、マネジメント、SNSの使い方、心を知る、時間活用法、整理整頓、文章がうまくなる・・あらゆる分野の、いやこれ大人が学ぶことじゃんと思うようなタイトルの本が並んでいる。
しかも、中身がなかなかなのだ。「文章がうまくなる」という本を開けば、「日記は事実と気持ちを分けて書こう」なんて、プロのノウハウまで書いてある(私の『怒る技法』には、怒りは事実・感情・願望に分けて書きましょうと書いたが、似たようなことw)。
大人が読んでも「なるほど」と思ってしまう。どこまでレベル高いねん、今の子供(笑)。
◇
だがしかし・・だ。なんだろう、この閉塞感は。まず価値観が限定されている。外の輪郭は、せいぜい学歴を身に着けるため、名の知れた大学に行くため、アタマがいいというステイタスを得るため・・・「その程度」の価値観しか伝わってこない。
学びの先にあるもの――つまりは、人生は何のためにあるのか、幸せとは何なのか、知力はなんのために使うのかといった、最も大きな、突き抜けた問題意識が、伝わってこない。つまり、本当の<知>とつながっていない。
<知>の本質とは、それほど難しいものではない。命が抱える苦しみを減らすこと、快(喜び・楽しさ・希望・信頼などの感情・思考)を育てること、
そして、絶え間なく変わりゆく世界の現実を見て、生き延びていくための方法を探っていく。地球規模でいえば、なるべく長く人類という種が生き延びる、その可能性をめざすこと。
苦しみを避けられない定めを持つのが生き物であるなら、<知>を持つ人間の最大の特質は、こうした生き物を越えた価値をめざすことにある。
こうした究極の価値をめざし、共有し、実現するための方法を探り、実用に持ち込んで、現実を変えていく。
それを可能にする<知>こそが、アタマの良さというものであって、学校の勉強ができるとか、たかだが大学に行くとか出たとか、そんなことは、本当は「どうでもいいこと」(妄想による自己満足か、制度化されたただの概念か)なのである。
人間には、世界には、もっともっともっと広くて大きくて切実なテーマがあるというのに、子供たちを取り巻く教育、勉強、進学、学校、教科書、参考書の、この“貧しさ”はなんだろう。
噛むのに苦労する干物のようなものか。必死に噛んで呑み込んでも、あまり栄養にならない。
価値観の貧困、方法の貧困、目標の貧困――だが、勉強とはこういうもの、学校とは、進学とは、社会とは、こういうものだという巨大な決めつけによって、学びが持つ可能性を極限まで狭くしているような気がしてくる。
教育のシステムが、ほぼ出来上がってしまっている。成熟というより、硬直化、もっといえば化石化だ。もっと他にシステムがあるはずなのに、前提となる価値観が貧しいものだから、作り込まれた教育の外に、一歩も出られない。
「よくできた参考書」は、たくさん出ている。だが、他の可能性を探る余地を許さないという大人のエゴのように見えなくもない。
分厚く頑丈な「勉強とはこういうもの」という、大人側が築きあげた監獄というか檻の中に閉じ込められて、その中で適応して結果を出すしか、選択肢がないのだ。
うまく順応して「お利口さん」として生きていける人間は、この閉ざされた檻の中でプライドを満たし、築き上げられたシステムの中でうまく立ち回って、他の人より「相対的に豊か」と思える程度の人生を生きていけるのかもしれない。
だが、その豊かさが、肩書や収入や世間からの賞賛といった程度のものであれば、結局は、妄想の自己満足に過ぎないし、
社会的に価値ある働き――つまりは苦しみを減らし、快を増やすための働き――を果たせるわけでもない。
何より悲劇的なのは、「その程度のことで満足してしまえる人間」を育てる程度にしか機能していない、今の教育システムにさえ順応しきれなかった子供は、何も得られなくなることだ。
周囲は、しょうもないことをめざし、必死になり、得意になる、しょうもない大人であり、学校であり、価値観のみ。
それに順応できなかった自分には、何も残らない。
部屋にこもって、スマホやゲームで気を紛らわせても、そんな自分を自分で肯定できないし、かといって外に出れば、相変わらずしょうもないことしかやっていない大人や学校や社会を見ることになる。
「どうせこうなる」ということが見える気がするから、何もヤル気が起こらない。
大きな書店の参考書コーナーに足を運んだだけで、そんな感想が出てきた。「そりゃ、病むやろ・・」という納得の言葉。
小学、中学、高校、大学受験で「病む」子供は、かなりの数に及ぶはずだ。そりゃ病むのも道理である。目標も、方法も、自分の胸の内にも、何ひとつ意味が見えないのだから。
◇
こんな閉ざされた檻のような環境で、子供たちは生きているのか。キレてしまう子が出てきたって、おかしくない。
その一方で、元気で、素直で、前向きな子も多い。環境に恵まれているのか、持ち前の生命力か、幸運にも病むことを回避できている子も少なくはない。それは「救い」ではある。
とはいえ、学ぶ以外に費やす時間が、動画、音楽、ゲームというエンドレスなデジタル微反応でしかない(そういう子供が劇的に増えていることも事実)というのなら、健全とはいいがたい。体も脳も生き方も育たないであろうから。
時代・社会が変われども、どのような環境の変化にも適用して生き延びていくための、最低限の知力を育てる必要はある。
怠ることを容認してはいけない。スマホやゲームに浸りきった毎日を絶対に肯定してはいけない(社会の風潮がどのようであろうとも)。怠惰とほぼ変わらない「微反応モード」だけで、貴重な十代を終わらせてしまうのは、もったいないし、危険だし、取り返しがつかない。
どのような正当化を試みようと、こうした時間だけでは育たない能力がある。理解力、思考力、集中力、持続力、人間関係を作る力、役割を見つける力、働く力、稼ぐ力――。
自分が幸せになるために最低限守るべき生き方と、社会の中で生き抜くための知力と気力というのは、それなりの「体験」をふまえて学んで(勝ち得て)いくものだ。
だが、体験を潰してしまうのが、スマホやゲームやSNSといったデジタル・ツールなのである。単に崩れているだけ、流されているだけ。抜け出せない最大の理由は「ラクだから」。
その本音があるかぎりは、結局は、大事な能力は育っていないということだ。生き物として弱化・劣化しているという事実は否定できない。
◇
知力を育てるための学びは、時代を超えて必要だ。
だが今の世の中が不幸なのは、学びと異なる、意味の見えない教育・勉強・試験・学校制度が、あまりに強固に確立されてしまって、
そうしたものに積極的に飛び込む理由もモチベーションも湧かなくなってしまって、
かといって代わりにできることは、デジタル機器への依存(ダラダラ時間)だけという状況だ。
その姿を外から見れば、狭い檻の中に閉じ込められていることに変わりはない。
つまらない勉強しか知らない子供は、「なんで勉強しなければいけないの?」と自然に思うだろうし、
そうした勉強しか自分も知らない大人・親・教師たちは、その問いに説得力をもって答えるだけの言葉を持っていないだろうし、
運よく適応して勉強ができるようになった子供も、結局は、見栄やプライドという妄想を満たして終わる、つまりはしょうもない世間の価値観に身の丈を合わせて満足してしまう大人になる可能性が高いし、
ならば勉強しないとどうなるかといえば、今の時代なら、スマホ、ゲーム、動画、SNS、音楽にエンドレスに時間を使って、脳内の微反応だけで生きていく――いや、生きているようで生きていないかもしれない人生に、いつのまにか落ち着いて(堕ちて)しまっている。そんな圧倒的多数の「微反応に支配された人間」の一人になってしまうくらいしか、選択肢がなくなりつつある。
◇
いうなれば、ゆりかごから墓場まで、見栄のための形だけの勉強か、微反応にしか時間を使えなくなりつつある今の時代にあって、
「いや、他にも生き方がある。本当の学びというものがある」と声を挙げて、実際に形にして見せて、わかってもらうというのは、
かなり至難の業であり、無謀な試みではないかと思えてきたりもした。
学ぶための教材は、今の時代、出尽くした感がある。さらに付け足せるものなど、あるのか?
自分に見えている学びのイメージを形にするには、どれほどの実践が必要か。その時間・体力は残されているのか?
そういう場所を開いたとしても、学校・受験のためのお勉強とデジタル機器への微反応に慣れきった子供たちが、本当に集まってくるのか?
なんだか、壮大な失敗をするような気がしてきた(笑)。
さながら、大和朝廷の大軍勢に立ち向かい、あえなく滅びていった地方の名もなき豪族のようなものか。
滅びを覚悟して闘いを挑む。挑んで散っていった勢力も無数にあろう。挑んで、滅んで、勝った者もまた滅んで。
諸行無常が人の世の常だとしたら、時代を超えて価値があることは、挑むことそのものであろう。
――なんていう膨大な妄想を繰り広げつつ、疑問と危機感と使命感と一緒に、十代向けの本を買って帰路についたのでありました。
2025年8月中旬
ここ一週間は、怒涛の忙しさ。生きるというのは、矛盾まみれの支離滅裂。
このブログも、全国行脚の続きとか、子育て論とか、さまざまな話題を用意しているのですが、まとまった時間が取れず。
音沙汰がないと心配する(?)人もいるかもしれないので、生きていますと報告する程度のおたよりをお送りしている次第です。
◇
講座の本格的再開は、来春になるかな、と思っています。「ブッダの生涯」(原始仏教)をやるか、「大人の寺子屋~言葉で生きる(言葉で人生を作る)」講座(通信添削つき)をやるか、それとも両方やるか。
できることはやる。「やりたい(それを望む)」からではなくて、自分にできて、しかも価値がある(役に立つ)可能性があるなら、まずはやってみる。
与えられた時間は、可能性に挑戦する時間。いや、挑戦というより、やってみる程度の気楽さでいい。
できそうだから、やってみよう――その思いでやろうとしているのが、この先の活動です。
自分にとっては、命を使い切ることであり、
人にとっては、なにか役に立てることであり、
それは、苦悩を減らし、幸福を一つでも増やすことであり、
ある程度の年季を経た今となっては、「未来を育てる」という方向性に向かうことでもあります。
生きるというのは、必要なこともそうでないことも、価値あることもそうでないことも、バラバラに同時進行で背負うこと。整理しきれるものではないし、選び取れるものばかりでもない。もともとそういうものなのでしょう。
雑多な出来事を、それでも心のバランスを失わずにやっていけるのは、「この手を使ってできること」という確かな輪郭(限界)があるからです。
この手を使ってできることだけが、できること。
手を使ってもできないことは、現時点ではできないし、やらなくていい。
そういう線引きをはっきりさせていれば、外の物事が雑多かつ混乱しているとしても、心そのものは混乱しない。
この場所は、これからも、やれることを淡々粛々とやっていきます。
以上、近況報告でした。
2025・8・23
この場所には、いろんな親が来ます(子のほうが来ることは、ごくまれ)。
親にはもちろんいろんなタイプがあります。ただ、子供のことで悩んでいると語る親については、大きく2パターンに分かれるように思います。
ひとつは、子供の側に事情がある場合。学校生活につまずいたとか、勉強がうまくいかないとか。この場合の親は、子供の味方であり、理解者であろうとしている親ということができます(完全にそうだと言い切れない、怪しい部分もあることが多いものですが)。
もうひとつは、親自身が問題である場合です。案外、こっちのほうが圧倒的に多いものです。
親の側が、しようもない見栄やプライドや自己防衛を隠し持っていて、子供のことで「悩んでいるフリ」をしている狡猾な(小ずるい)親もいます。
親の側が、ネガティブな解釈に凝り固まっていて、端(はな)から子供を否定し、子供に問題がある、子供にはこれができないと勝手なダメ出しを、子が幼い頃から浴びせ続けている場合もあるし(仏教的には「疑(ぎ)の妄想」と表現します)、
さながら閻魔大王のような厳格な裁きの王様的な地位に君臨して、コレをしろ、コレはダメ、と異常なまでに細かく指図、命令、支配して、子供の自由を一切認めない場合もあります。
あるいは、親自身がしょうもないプライド(せいぜい学歴だとか職業だとかその程度の妄想なのですが)にしがみついて、プライドに振り回されて、尊大になったり卑屈になったり、感情的に上がったり下がったりして、子供がいい迷惑、というか激しく翻弄されて消耗して、怯えて、傷ついて、心の安定を体験できない場合もあるし、
これまたプライドの亜種だけれど、自分が人間として空っぽ(価値観の点で空っぽ――つまり何が本当に価値あることか、確かな人生観を持たずに、周りの目を気にして、世間体に合わせるだけで親になってしまったこと)をごまかし隠す、その反動で、
子供の話を一切聞かない、あるいは聞く前に結論を出して、わかったフリをして、本当の対話を遮断してしまう(逃げてしまう)場合もあります。
こうした段階にある親(段階とあえて言うのは、今後、親の側が変わる可能性もあるからです)は、総じて、無理解という暴力を振るう絶大な権力を握った暴君、あるいは操縦不能なブルドーザーみたいなもので、
自分の感情や思惑や見栄やプライドや世間体や自己防衛を、分厚い鎧としてまとって、子供を圧倒し、その心を踏みつぶしていくので、
子供の心は育たないままになってしまいます(「育たない」とあえて大まかな表現をしていますが、その内容は実に様々です。そして根深い)。
親が、そのまま、無理解という暴力をぶん回し続けるのか、多少なりとも、自分自身の危うさ・やばさを自覚して、気をつけて、過去を謝罪して、子供の側が「少しはわかってくれるようになってきたか」と思えるようになっていくか。
道は大きく、この二つに分かれます。おそらく前者が圧倒的多数(つまり子供が心理的暴力を振るわれ、傷つき、病んでいく場合)。
後者は決して多くありません。ただ、この場所にたどり着いて、ある程度この場所での「対話」を重ねた人の中には、後者の可能性が育っていくことはあります。
ときおり親の側から「その後の報告」を受けることがありますが、「よくここまで来ましたね(正しい理解ができるようになりましたね)」と素直に肯定できることもあるけれど、
逆に、親のほうが、本当はまだ真相(正しい理解)に到達していないのに、「わかった(変わった)気になっている」ことが見えることもあります。
この場合は、過去の無理解という暴力を、親が気づいていなかったりします。自分のプライド、自己美化、自己正当化、いわば自分に都合のいい解釈はそのまま守り続けて、「きっとこういうことなのだろう」という理解(実は勘違い)に留まってしまうことも、なくはありません。
このケース、実は子供の側も加担してしまうこともよくあります。親をついかばってしまう。「あなた(お父さん・お母さん)は悪くないよ、他に原因があるんだよ」と言ってしまう。
子供としては、自分が親を苦しめてきたのかと感じてしまうのかもしれない。そんな親がかわいそう、自分にも悪いところがあった、だから自分(親)を責めないで、とつい言いたくなってしまうのかもしれない。
子は、親をかばうもの。「そのとおり。やっとわかった?」と言い放てない。
子供は優しい生き物。やはり親は親のままでいてほしい。謝ってほしくない。そんなことをされたら、苦しんできた過去が無意味だったことを認めてしまうことになりそう、親が親でなくなってしまいそう・・・
過去の関係性があまりに長く続いたがゆえに、一つの関係性が固定されていて、その関係性を変えていくことへの怖さやためらいも、心の中には作動する。
なにより子にとって親は親。やっぱり嫌いたくはない。いい関係でいたい。褒めてもらいたいし、愛されたい。そういう子供の心が残っている限り、親を悪者にすることは、どうしても、できない。
そうした子供の優しさに触れて、親は、「そうだよね、そっちが本当の原因だよね」と内心感じて、安堵を覚えることもある。かりそめの、あやうい安堵。
心と心の関わりは、本当に微妙、繊細で、複雑。
別に、すべてを理解しつくさねばならないというわけではありません。だいたい、およそ、なんとなく、で続いていけるのなら、それで十分。特に親と子であるならば、どうしたって離れるための斥力よりも、近づく引力のほうが強いものだから、分かり合えないまま、でもなんとなく続く、という状態で進んでいくことは可能です。そのことは、悪いことでもありません。
だけれど、中途半端に子が親をかばい、親が自分自身を見つめる厳しさという“切っ先”を鈍らせてしまうと、
子供の側の傷や、怯えや、不安グセや、その他なんとなくモヤがかかったような精神状態が、長く続く可能性はあります。
親をかばってすませたとしても、子供の側の人生は、長い期間にわたって負の影響を受け続ける。どこか軌道に乗り切れない、勢いが出ない、終始モヤがかかったかのような心であり、日々の繰り返し――。
子は親をかばうもの。親は親をかばうもの。子供をかばうのではなく、自身をかばう。
そういうずるさ、あやうさが伝わってくることは、よくあります。ただ親の側は、それが正しい理解だと思っている様子。
そういう時は、この場所は何も伝えません。自分でわかったことにしてしまう――その「自分可愛さ」(自己愛)の姿を見れば、
伝えられる言葉は今のところない、とわかるからです。
ひとつだけそうした親に伝える言葉があるとしたら、「わかった気になってはいけないよ」ということ。「親というのは(つまりあなたという人間は)、本当にずるい生き物だから」。
本当にわかったかどうかは、親の側ではわからない。わかったかどうかは、生涯わからないかもしれない。
それくらいに、親が子を理解して、子が親を越えて自由になるということは、ときに難しいテーマなのです。
2025年8月中旬
JR門司駅から博多まで。地下鉄で天神まで行って、じょいふるで朝食(船の中で一風呂浴びればよかった)。2階クーラーが故障中とかで一階だけ。徹夜明けらしき若い男女が上機嫌で歌を歌い始めて、店員の老婦人に叱られている。いや、元気だ、頼もしい(笑)。
昼過ぎまでお世話になって、歩いて会場施設へ。
はて何人来てくれるか、でも一人でも来る人がいるなら続けなければという思いで、東京ではやってきた。東京から博多まで足を運んで参加者数名というのはいささか残念と思っていたが、予想以上に多くの人が来てくれた。普通の規模の勉強会になった。
<おしらせ> 十代の子を持つ親の育て方&生き方学習会 千葉県野田市
子育て&子供との関わり方について考えます。
8月16日(土)13時から 参加希望の方は<申し込みフォーム>まで。
もし学校の先生だったら、この夏の”狂暑”をテーマに授業を組み立てます。
まず、関連する素材をピックアップ:
・夏の情景を素材にした小説系の入試問題(中学入試から大学入試まで)
・環境問題・気候変動をテーマにした論説問題
「このままならヤバいぞ」という問題意識を持ってもらう(持たないほうがおかしいのだから)。
「何ができるか」「なぜしないのか」も考える。
人類という種が続く保証はない、ということも自覚する。
「そんなこと子供に伝えていいの?」と思う大人もいるかもしれないが、そういう人は、現実から目を背けさせるズルい大人かもしれない。
生きるとは、現実と向き合うということだから、現実を知ることが欠かせない。正の部分も、負の側面も。
現実が危うさを増しているのなら、そのことをも知らなければいけない。親も子も。
現実を見すえて、自分に何ができるかを考える。
それが、知力を育てるための土台になる。生き物の基本でもある。
小学校でも、中学校でも、高校でも、こういう授業はすぐできるはず。特に自我が肥大し始める中学に入りたて(12,3歳)の頃がいいかもしれない)。
というのも、この頃を過ぎると、大人の言うことは聞かなくなりがちだから(笑)。代わりに、心そのものの危うさ(甘え・怠惰・思い上がりなど)も増えていくことが少なくないから。
「このままでいいのだろうか」という問いは、人生のどこかで持つ必要がある。そうした思いが宿れば、大人(親)の言うことを聞かなくなっても、自分で道を見つけていけるかもしれないから。
<おしらせ> 十代の子を持つ親の育て方&生き方学習会 千葉県野田市
子育て&子供との関わり方について考えます。
8月16日(土)13時から 参加希望の方は<申し込みフォーム>まで。
2025年7月末
<おしらせ> 十代の子を持つ親の育て方&生き方学習会 千葉県野田市
子育て&子供との関わり方について考えます。
8月16日(土)13時から 参加希望の方は<申し込みフォーム>まで。
文科省が公表した「経年変化分析調査」。
小中学生の大幅な学力低下。最近のニュースで聞いた人も多いかも。
夏休みの図書館には、小中高生が大勢来ている。
参考書を形だけは開いている。が、大半の時間は、スマホ、タブレット、音楽。一人でも、友達同士でも、やっていることは同じ。
こんな状態でアタマに入るわけがない。テレビ中毒と同じ。コンパクトなテレビ(つまり無思考のままダラダラと眺めるだけ)を、どこにでも持ち込めるようになったというだけ。
かつては「テレビの見過ぎに注意しましょう」なんてことを大人たちも言っていた。「勉強とテレビは別」という線引きができていた時代。
今や、勉強に使うという名目で、スマホ&タブレットで音楽も動画もSNSも見放題。
彼らの姿を見ていると、スマホ&タブレットで遊んでいる時間のほうが圧倒的に多い。
というか、こんな状態では何も身につかないことを、自分でわからないのか・・。
勉強する時は、余計なものを持ち込まない。机に並べない。
それはあくまで自分自身のため。ちゃんとケジメをつけること・・・そんなことさえ通じなくなっている?
これは、時代や社会の変化のせいにしてはいけないことだ。自分の脳(頭)を考えれば、わかることだ。けっしていい状態ではない。
「ヤバい」と思う思考力さえないということ???
最低限の線引きさえできない。大人たちも言わない。
ダラダラと時間を消耗して、何も身につかない半ば溶けてしまったかのような脳の状態で過ごしているだけ。学力どころの問題ではない。
野放しになっていることが恐ろしい。社会全体が許容してしまっている。
なぜこんな状態を放置しているのだろう。本当は、勉強とスマホを並べていること自体が、脳には致命的に問題であるはずなのに。
こんな状態で何が育つというのか???
人生、何も始まらなくなるぞ。
草薙龍瞬の日本全国行脚2025~旅する寺子屋
大人向けの学習会のおしらせ
8月16日(土)に千葉県野田市を訪問。
参加希望の方は<申し込みフォーム>にご記入ください。
この季節になると、多くの人たちと同様に、「人類は滅びるのではないか」という懸念がよぎり始める。それくらいの猛暑だ。
今は、茹でガエル現象の途中。そのうち大気が沸騰して、水が枯渇し、農作物が枯れ、何十億人もの人間が、熱死するか餓死する。
それくらいの温暖化が顕著に進んでいるのに、奇妙なことに、誰も文明のシステムを見直そうとしなくなったように見える。人の価値観も行動様式も、気候変動が始まる前と変わらない。むしろ退化したかもしれない。大量消費と廃棄と炭素排出。まるで何も問題が起きていないかのように、人々は環境の変動に無関心になった。ひと昔まえのほうが「このままでは危うい」という警告のシグナルが強く点灯していた気がする。
マクロで見れば、気候変動に取り組もうという国際的機運は、ほぼ消失した感がある。どこを見ても、戦争か武力衝突。ばかすかミサイルを撃ち込んで、破壊だけでなく、その分大量に酸素を消費し、炭素を大量に排出し続ける。ウクライナ戦争だけでも排出量は爆上がり。大気の高温化に拍車をかけているはずだが、気にかけるという発想さえ枯れつつある気もする。
こんな世界が、あと百年と続くと、誰が楽観できるだろう。
外の環境に関心を持たなくなった時が、ひとつの文明の転換期なのかもしれないとふと考えてしまう。
◇
ひるがえって個人的な話題といえば、毎年夏になると、生活のパターンを微調整する。ここからは、人類がまだしばらく続くことを前提とした話。
滅びゆく世界の中でも、個人の生活自体はほとんど変わらない。私もまた能天気な茹でガエルの一匹であるには違いない。
まずは定期券を買う。これは昨年から始めたこと。で、お目当ての場所に通う。電車の中は空調が効いている。快適な読書空間を満喫する(茹でガエルは実に罪深い。結局、自分のことしか考えないし、動こうともしないのだ)。
地上に出る。車窓の外に、夏の青い空が広がっている。
この場所はとても素直なので(笑)、善いところは褒めます。
たぶん多くの人が、褒められる人生をあまり生きてこなかったので、ストレートに褒められると、うろたえてしまうのかもしれませんw。
一般的に、日本人は褒めることも褒められることも上手じゃないという話を聞くことがありますね。
自分の身内をわざわざ貶めたり・・(愚妻とか愚息とか・・そのくせ愚夫という言い方はあまり聞かない・・要は男の側のマウントカルチャー? 自分を棚に上げて? ひどい言葉です笑)。
誰かに褒められると、「いえいえ、そんな」と必死で打ち消さないといけなかったり・・平然と受け止めてしまうと、「え、否定しないの? なんか調子に乗ってるな」なんて、褒めた側が考えたり・・めんどくさい(笑)。
承認欲が旺盛で、褒められたいという本音があると、いざ褒められた時に、「いや、そんな(照)・・肯定していいのか、否定した方がいいのか」と心の中で妄想をめぐらせたり、
自己否定が根付いている人だと、「とんでもない!」と必死で打ち消して、ネガティブな自己イメージを確認しようとしたり・・。
褒められて舞い上がるのも、うろたえるのも、必死で否定するのも、「なんか裏があるんじゃないか」と勘繰ったりするのも(笑)、
結局は、承認欲にもとづく反応です。
この場所は、「正しい理解」に徹しているので、できているところはちゃんとできていますよと褒めるし、できていないことに自ら気づいていなければ、ストレートに指摘する(いわゆる喝を入れる)こともあります。
励ましの意図はもちろんあるので、褒められた時は、素直に喜んでもらえればよいと思います^^。
逆に喝を入れられた時は、感情で反応せずに、事実として受け止めることです。動揺する必要はなく「事実として在る」と理解して、「ならば次はどうするか」を考えるだけでOKです。
在ると理解して、次はどうするかを考える――これは、瞑想で自分の心を観察している時にやることと同じです。自分で見るか、人に見てもらうか。いずれにせよ、事実を理解して、前に進む。
その理解のきっかけが、自分の気づきか、誰かの指摘かは、どうでもよいのです。「誰か」は流してしまえばよくて、ただ自分だけが残ればいい。自分だけを見ていればいい。
お寺の修行というのは、まさにそういう世界です。
◇
ちなみに、この場所(草薙龍瞬)が褒められた時は、シンプルに「お役に立っているらしい。よかった」と確認するだけで終わりです。
自身の動機が、承認欲ではなく、慈悲由来の貢献一心なので、判断の基準は「役に立っているか」どうかだけ。
だから「嬉しい」という感情はないし、逆に根拠のないネガティブな声を受けることがあっても、それはその人の妄想であって、こちらの輪郭の外にあるので反応しません。
慈悲 → 貢献 → できることはやっている という自己理解に留まるので、人のリアクションに影響を受けることがないのです。「われはわれを知る」。
でも、このニュートラルぶりは、世俗の価値観にてらすと、退屈に見えるかも。「何が楽しいの?」という。
楽しくはないかも(笑)。でもそれでいいのです。みんなの幸せを見ているだけで満足できてしまえるので。
2025年7月
医学書院が発行する『看護教育』No.66(2025年第4号)巻頭インタビュー記事 で取り上げていただきました。
十年間なんとか続いた看護専門学校での講義について。
『看護教育』は、分厚く、隅々まで良質な情報満載の専門誌です(その内容充実ぶりにびっくり)。
看護というのは、私の眼から見ると、尊いけれど、じれったい、もどかしい業界だったりします。
看護なくしては、生きていけない人がいる。看護は世界が回っていくためにか欠かせない大事な仕事。
とはいえ、現場の看護師さんは、もう限界。患者の数も業務の量も増えているのに、看護師の数は増えないし、地位や待遇は上がらない。
無理なものは無理と言っていいし、改善すべき点は改善せよと上に突き上げていい(はず)。
どれほどの理不尽・非合理が、看護の現場に蓄積されているか、見える部分は明らかに見えているのに、
みんな忙しすぎて、優しすぎて、いい意味でも悪い意味でもタフ過ぎて、なかなか気づかない。気づいても声を挙げられない。闘うために動くことができない。
大変であることはみんな実感しているのだけれど、現場の声が集約されない。
「そこまで背負わなくていいですよ」と言いたくなるし、でも、看護師さんがいなければ途端に頓挫してしまう現場の実態もあるし、その点では尊いし。
だからこそ、うーん、うーん(いいのかな、なんとかしてほしいな、なんとかできないものかな、でもみんな頑張っちゃうんだな、偉いな、でも気の毒だな・・)という思いが回り続けて、
でもそんな自分は、ただの坊さんでしかないしな、というところにずっとい続けているという状況です。
坊さんというのは、いろんな分野に通じる ”心の使い方”(智慧)を伝えることはできるけれど、すべての分野について外様(とざま:部外者)であるという疎外感・淋しさを脱することができない仕事。
問題が見える割には、何もできない・・私の場合は、全方位に向けてずっとそんな感じなのだけれど、
中でもひときわ、背負わなくていいものまで背負っている、でも背負わなければ回っていかない、そういう現実を垣間見て、もどかしく思い続けているのが、看護の世界です。
心優しき全国の看護師さんたちみんなと、つながることができたらと願っているのだけれど。
興道の里の最新スケジュールです。
詳しくは公式カレンダーをご確認ください。
*愛知(栄および高蔵寺)の講座は主催者が異なりますので、スクールで直接お手続きください。
・・・・・・・・・・・・
8月16日(土)
子を持つ親の生き方&育て方学習会
13:00~17:00
千葉県野田市
子育て中の親のための学習会を開催します。親と子供の両側から見た「十代のうちにやっておきたいコレだけは」を整理します。子育てに後悔したくないお父さん・お母さんの参加を歓迎します。
8月31日(日)
小中学生向け夏の国語キャンプ
13:00~17:00
千葉県野田市
<内容> 小5から中3の子供と親を対象に ”国語キャンプ” を開催します。教材を草薙龍瞬が用意して、国語の読み方・解き方・学び方をわかりやすく紹介。なんでも話せるゆるめの座談会つき。勉強の仕方もわかるし、学校・勉強・友だち・世の中のことも話しあえる一石二鳥のお得なイベントです。親子での参加を歓迎します。
8月29日(金) ※8月30日は満席のため臨時増設しました
18:00~22:00
個人相談会
東京・神楽坂
<内容> お一人45分のミニ個人相談会を開きます。自分では答えを出せない悩み・課題を抱えている方で、代表・草薙龍瞬への相談をご希望の方は、①お名前 ②自己紹介(お仕事・生活など) ③相談内容(可能な範囲で具体的に) ④ご希望の時間枠 ⑤連絡先(臨時連絡用) を koudounosato@gmail.com まで。折り返し詳しいご案内をお送りします。
※初めての方は、公式サイト内の<活用ガイド>をご覧ください。
※すでに満席の場合および相談内容にてらしてお役に立てる可能性が低い場合は、返信しておりません。その場合はお寄せいただいた情報を消去する形で対応しています。あらかじめご了承ください。
<時間枠> ➀18:00~18:45 ②18:50~19:35 ③19:40~20:25 ④20:30~21:15 ⑤21:20~22:05
9月6日(土)
18:00~21:30
座禅会
東京 要予約
※登録制です。初めての方は、公式サイト内の<活用ガイド>をご覧ください。
9月13日(土)
18:00~21:30
自己ベストの生き方&働き方を考える~大人のための学習会
東京 要予約
<内容> 仕事や日々の暮らしに悩み・課題を抱えている大人のための勉強会。当日までに寄せられた悩み・疑問を、仏教の智慧を使って解決します。「自分で考えて答えを出せる」ように考え方の道筋さらに個別の解決策まで取り上げます。当日用の特製資料を用意します。オンライン受講可(要登録)。
★事前の質問・相談を募集します。積極的にお寄せください。
参加ご予約は、①お名前 ②自己紹介(お仕事・生活など) ③当日のテーマ(質問・相談などを可能な範囲で具体的に:内容を一般化したうえで当日お答えします) ④連絡先(臨時連絡用)を koudounosato@gmail.com まで。折り返し詳しいご案内をお送りします。
9月15日(祝月)
13:30~15:30
愛知高蔵寺・公開講座「仏教で思い出そう『あの日の幸福』を」
無料相談会つき
「あの時は幸せだった」と思える時間をいくつ覚えていますか? 幸せを忘れて、ストレスや心配事ばかりに追われているのは、なぜでしょう? どうすればこの先、楽しい時間を増やしていけるのでしょうか? この講座では、人がつい幸せを忘れてしまう原因をつきとめ、楽しい時間を取り戻す「暮らしのヒント」を紹介します。少しの工夫で「万年・幸せ上手」になれるかも。まずはこの講座から。
会場 高蔵寺中日文化センター
予約・問い合わせ 0568-92-2131
https://www.chunichi-culture.com/programs/program_195300.html
今抱えている課題を解決するには、まずは自分自身のこだわりを捨てる必要があります。
自分のプライド、自分の考え、自分のキャリアや立場・・中には「そんなに私が悪いのか」的な自己防衛をどうしても解除できない人もいます。
心情的にはわからなくもないのだけれど、そうしたこだわりは、事態の解決には役に立ちません。
なぜなら、そうしたこだわりがあるからこそ、今の悩みにたどり着いたのだからです。
自分自身のこだわりなんて、どうでもいい。取るに足りない、ガラクタのような妄想でしかありません。
もし相手(特に子供)との関係に悩んでいるなら、その相手の言葉をそのまま受け止めて、相手の思いをちゃんと受け止めることが、「当たり前の務め」です。聞くことに、こだわりは要りませんよね。
相手が訴えてくること・伝えてくることは、すべて相手にとっては真実なのです。「そうなんだね」「そうだったんだね」と受け止めてあげるだけ。なにも難しくありません。
自分のあり方が、相手を苦しめていたなら、その事実を素直に受け止めるだけです。素直に受け止めた時には、まずは「ごめんなさい」「悪かった」という言葉が自然に出てくるものです。
別に相手は、その正しさを押しつけようとか、こちらを屈服させようなんて思っていません。単純に「わかってほしい」だけなのです。
だから、わかってあげればいい。聞いてあげればいいだけです。
そうしたシンプルなあり方を頑なに拒んで、「こっちが悪いというのか?」「そういうあなたはどうなんだ?」みたいな、プライド発のこだわりを発散しているというのは、「だから問題がこじれるのですよ」と言うしかない不毛な姿です。
そんなに自分が可愛いのかな? そんなにプライドが大事? ただの妄想でしかないのに?
そうした妄想にこだわる背景には、自分自身も誰かを許せないという不満が隠れていることもあるし、「自分は正しい、エライ」というしょうもない思い込みがあることもあります。
そうした自分、自分、自分という強烈な自意識、自分へのこだわりがあると、
相手(特に子供)の訴え・異議申し立てに、激しく動揺してしまいます。
相手は「わかってほしい」だけなのに、
こちらは「なに? 私が間違っているというのか?」と、自意識で反応し返してしまう。
だからこそ動揺するし、怒ったり落ち込んだりと感情の起伏が極端になるし、激しく消耗するのです。
そうした状況に陥ってなお、「だから相手(子供)が問題(≒私は悪くない)」という自意識を抜け出そうとしない人もいます。
そうなると、相手(子供)には、もう絶望しかなくなります。
単純にね、関わるというのは、互いが幸せを感じるために関わるのですよ。苦しめ合うのではなくて。
苦しめ合う理由というのは、力関係でいえば、「上」の人間が作り出しているものです。ほとんどの場合。
だって、素直に受け止めて、謝るべきは謝って、互いに快適に過ごす関わりを作る努力ができるなら、苦しみは生まれないからです。そうした努力をしないでいられるのは、自分へのこだわりを押し通せる「上の人間」だからです。
自分が上だと思っているから、努力しない。聞かない。わかろうとしない。想像しない。
上だと思っている、その思い込み、自分へのこだわりから、潔く降りる必要があるのです。自覚すること。地べたに立つこと。素直になること。
これは何歳になっても同じ。親であっても、まったく変わらない真実です。
7月は、大阪・看護専門学校での講義に始まり、市民講座や企業向けの講演や奈良入りや名古屋での講座を経て、東京での久しぶりの個人相談会&坐禅会、さらには連載中の原稿&イラスト描きと、かなり忙しい時期が続いて、
昨日、7月ラストの坐禅会が終了して、ようやく一息(といいつつ実感としては半息くらいだけれど)つけるようになりました^^。
昨日夜の坐禅会は、みんな久々に来てくださったのに、それぞれの近況を聞き損ねてしまいました。申しわけなかったな・・と思います。今度一人ずつ感想・近況を聞くようにしましょう。
でも、みなさんのお顔を見ることができて、よかったと思います^^。
個人相談会も、いろんな人と有意義な時間を過ごせました(今回は昼夜開催だったので、合計10名)。十代の若い人も、人生の締めくくりを一緒に始めようという人も、関西から来た人もいました。
相談内容もほんとに個性的。一人一人が、まったく別の課題に向き合っている。そうした人生の大事な場面にご一緒できることは、とてもありがたく、幸せなことです。前に進んでもらえたらと思います。
9月にも、個人相談会と坐禅会、生き方勉強会を開催します。いずれも、毎回かなり有意義な時間になっています。
前に進みたい人は、ぜひいらしていただければと思います。
2025年7月
家庭であれ、職場であれ、人と人とが関わる時の基本は、
反応するのではなく、妄想を押し付けるのではなく、「まずは理解する」ことに努めること。
相手の言葉・行い、そして背後にある思いを、自分にできるかぎりの観察力・推測力を使って、「正確に理解しよう」と努めること。
※推測は、厳密には妄想に当たるけれど、最終的な正しい理解にたどり着けるなら、意味を持つ。いわば仮の理解として役に立つ。
家庭においては、理解したうえで、各自の自立を保ったうえで関わる(自立とは、互いに苦しめ合わない適度な距離感を保つこと、そして子供に対しては、将来の独立という方向性を見すえて関わること)。
つまり、理解 +(プラス)自立。
理解に努める段階においては、関係性はフラット。対等だ。
そのうえで、大人(親)の側には、自分の将来(いわゆる老後)をどうするかという方向性があり、
子供には、将来何者として生きていくか(進路・職業などの将来設計)という方向性がある。
理解 + 自立 + それぞれの方向性 だ。
(方向性というのは、「家族共通の」ではない。「それぞれの」だ。要注意)
◇
だが、家の中で“圧”が生じることがある。圧とは、妄想の押しつけだ。
よくあるパターン(ここからが今回の本題)は、
親の側が、「こうしなさい」「こうするのが当たり前」「なんでこんなこともできないの、わからないの」と、自分の中にある妄想を押しつけて、
やらない、できない子供に勝手にイライラするという場面。
親によっては、「私が同じ年頃の時はできたのに」と考える人もいる。
ちなみに今の時代なら、学習障害、発達障害、自閉症、ADHD・・その他の概念を子供に押しつけて、「やらない・できない」子供の姿をわかったことにしてしまうこともある。
危ういのは、「うちの子は○○だから」という説明をもって、現実を正当化して、つまりは理解しようとする努力を止めてしまって、
親の側が持ってしまっているかもしれない都合のいい妄想に、気づけなくなることだ。
やらないことには、理由があるのかもしれないし、できないことが問題だとも限らない(ここ、すごく大事)。
もし理由があるなら、じっと姿を見守って、どんな思いがその心の奥底にあるのか、冷静に(思いやりをもって)理解しようと努める必要がある。
理由がないこともある。本人もあまりわかっていない、考えていない可能性もある。実はそれがその子の自然な姿であって、冷静に考えると、問題がないことだってありうる。
何か理由はあるのだけれど、本人もうまく伝えられない・・そうした時は、大人の側で言葉化してあげる必要があるけれど、
「こういうことかな?(どう思う?)」という言語化が役に立つ、つまり子供が聞いてくれるには、
それまでに、よく聞いて、理解に努めて、話をすれば聞いてくれると子供が思える、「信頼関係」が育っている必要がある。
つまりは、どうしたって、親の側が「反応せず、妄想せず、理解する」ことにどれだけ努力しているか・してきたか、が重要になるということだ。
◇
親によっては、都合のいい妄想をさも当たり前の前提にすえて、「子供はできない」「問題がある」「この程度のことさえできないなんて」と、圧倒的な高度の上から目線で、子供をジャッジして、見下して、傷つけて、
それでいて、「親として心配している」と信じ込んでいることもある。おそろしい無知、無自覚。
そのうえ、その妄想の背後には、自分が親になる前に育て上げてしまった“業”が働いていることもある。
子供への怒りは、もしかしたら親への怒りかもしれない。話を聞いてくれない不満、自分勝手な親への不満。自分もかつて、こんなことを感じていたかもしれない:
「なんで自分の話を聞いてくれないの?」
「もう、いいかげんほっといてよ」
「そうやってすぐ先回りして勝手にやってしまって」
「文句を言ったら、どうせすぐキレるんでしょ」
そういう小さなイライラが長い歳月の間、蓄積されていって、いつの間にか「何かに怒っている大人」になっている。
そうした怒りを隠し持ちながら、結婚して、親になって、いつの間にか、自分も親と同じように、話を聞かない、ほうっておけない、先回して勝手にやって、文句を言われたらムッとしたり、自分のプライド大事で「なに、その態度は?」「オレが悪いというのか?」と今度は自己防衛に走ったりしてしまう。
そういう姿を見た子供は、「ほらやっぱり。そうやって、いつも話を聞いてくれないじゃないか」「どうせわたしが悪者なんでしょ」と不満を感じ、失望し、親を信じなくなっていく。「話しても無駄だ」と学習してからは、口も利かなくなる。
◇
こうした関係性は、いたるところで起きている。客観的に見れば、起きている現象の正体はシンプルだ。
一方が(力を持つ側、つまり妄想を押しつけられる立場・体力・言葉数を持っている親の側が)、
自分に都合のいい妄想と、過去の記憶やら怒りやらプライドやらのうえに乗っかって(ふんぞりかえって)、
「自分は正しい、子供が間違っている」という図式(ジャッジメント)を強固に築き上げて、崩そうとしない。そういう姿だ。
どうしようもなく強固になってしまって、もはや親もどうしたらいいかわからない。
わからないことに悩まない――自分が正しいという傲慢に固まって老いてゆく親もいる。
わからないことに悩む親もまた、「こんなに悩んでいるのに」と、さらなる自分の正当化(自己都合の妄想)を選んでしまう親もいる。
違う。そうじゃない。自分の心を見つめないと。いったい自分の何が、この問題を引き起こしているのかを、冷静に考え始めないと。
◇
自分の都合のいい妄想を自覚しないと始まらない。
なんと無自覚だったか、なんと傲慢だったか。「ああ、こんな自分のままなら、子供が聞いてくれるはずもない」と痛感しないと始まらない。
自分の無自覚を自覚したら、最初にすべきは、純粋な思いで謝ることだ。ごめんなさい、と言えるかどうか。
純粋な思いというのは、自己の正当化、ちっぽけなプライドを捨てること。親として生きて来て、いつの間にか思い上がっていた、妄想の上にふんぞりかえって、自分がいっぱしの、正しい、「当たり前」を押し付けていい親なのだと思い込んでいた、そういう自分の愚かしさ、情けなさを噛み締めることだ。
そうした地平に立てるかどうか。立つことができれば、子供と対等に向き合える。
「理解し、理解される」関係性にシフトできる可能性が出てくる。
優しくて、聡明で、子供の言葉をよく聞ける親。
話し合うことにストレスが生じない、風通しの良い家庭。
そうした未来をめざすことは、いつでもできる。努力は必要かもしれないが、その努力は、損のない努力だ。
努力に比例して、子供との関係が良くなっていく。プラスしかない努力だ。
自分次第。親次第。ということです。
<興道の里から>
7月18日は、久しぶりの東京でのライブ(教室)講座でした。
<自己ベストの生き方&働き方を考える>は、参加者のリアルな課題・質問を仏教的に掘り下げていくというスタイル。この場所の仏教の実践・応用編、しかもその究極であるような気がします。
毎回かなりディープ。視点、切り口、組み立て方・・いずれもこの場所だけのオリジナルです。参加した人は、ぜひココだけの学びとして、日常に活かしていただけたらと思います。
◇
「ポイ活」は、今回限りとします(笑)。ポイントが着くからと半ば無理やり質問を作って参加しようとする人(?)もいなくはないようなので。もちろん直接お会いできる喜びは、別のところではあるのですが。
やはりこの場所の方向性にはそぐわない(笑)。煩悩・俗情をいささかなりとも刺激してしまうような仕組みは、採らないほうがよい様子です。
切実なテーマをリアルタイムでお持ちの人に来てもらえれば十分なので、あえて”キャンペーン”しなくてもいいですよね(笑)。
◇
<おたよりから>
仕事では「思考」も「判断」も行います。ときには厳しい判断も必要です。一方で、家庭では「慈悲喜捨」だけにしたいものです。その両立がなかなかできません。
仕事が終わっても「買い物をして夕食を作って・・・」など思考が続く中で、「玄関開けたら反応しない人!」みたいなことが皆さんできているのでしょうか?
ブッダでさえ、すべてを捨てなければ「反応しない」境地に達することがなかったのなら、この世界にあって自分はどうしたらよいのか? 何かヒントがあればと思っています。
<興道の里から>
講座の中でお話しましたが、仕事では確かに思考と判断が必要ですね(ただ仏教においては、それは正しい理解とあくまで慈悲にもとづいて・・という一線は貫くことになります)。
家の中でも同じです。やはり理解と慈悲。
もっとも、外の仕事と家庭内とで、ひとつだけ関わり方を決める原理が違います(おそらく)。
それは、外の仕事は、立場・役割で決めることになるけれども(判断と判断がぶつかった時には、立場・役割にもとづいて、一方の判断を選ぶことになる)、
家の中では、もちろん立場・役割もあるけれども、それは少し緩いものになって、代わりに働く原理が「自立」であるということです(たぶん。このあたりが仏教的)。
自立というのは、「縁あって同じ家で暮らしているけれども、あくまでそれぞれが別人格で、別の人生を生きている、子供であれば、子供だけの未来・人生がある」という前提です。
親だからといって、子供の心情を傷つけていいことにはならないし、何をしてもいいわけではなくて。
あくまでよき理解者であろうと努めて、子供がいい人生を、自分の力で生きて行ってくれたらという思いをもって、適度な距離を保って、必要なかぎりで後押し(応援)するという関わり方です。
◇
たしかに家も俗事も捨てないと、”究極の無反応”は達成できません。
でも、家の中・世俗の世界における「反応しない」というのは、
それまでの我流かつ過剰な反応を制御できること、
価値ある反応はするけれど、無価値な反応はしないということ。
そのためには、自分の反応をつねに見張って、自分の反応のクセ・思考のクセを自覚して、その都度自己反省の”痛み”を感じて、
「もうこのパターンは卒業しよう」「もうこんな自分はいいかげん卒業しよう」と、何度も自分に言い聞かせるなかで、次第にできるようになることです。
これは場数の問題であり、自覚の問題。これくらいであれば、日頃の心がけひとつで、けっこう近づいていけるのではないか、と思います^^*。
ひきつづき
2025年7月中旬