夏の講座スケジュール

興道の里から
 
※最新のブログはこのページの裏に掲載していきます。左側スペースの見出し(スレッド)または、このページ末尾の「前へ」からさかのぼってご覧ください。
 
 
東京での講座を再開します。
あわせて日本全国行脚の日程もお知らせいたします。

*看護専門学校での公開講座は、医療・看護関係者はご見学いただけます。

*講座内容・参加費等の詳細は、公式カレンダーをご確認ください。

*初めての方は、必要事項の登録が必要です。興道の里活用ガイドを最初にお読みください。
 

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<講座スケジュール>

7月9日~11日
【公開講座】看護専門学校<3年生看護倫理>
★医療・看護関係者の見学可

7月 9日(水)13:00~16:30 第1・2回
7月10日(木)09:00~12:00 第3・4回
7月11日(金)09:00~12:00 第5・6回


7月15日(火)
13:00~15:00
名古屋 生き方として学ぶ仏教・原始仏教編「ブッダの生涯」
お問い合わせ・受講申し込み: 栄中日文化センター0120 - 53 - 8164
https://www.chunichi-culture.com/programs/program_190316.html

7月16日(水)
14:30~16:00
大阪・公開講座 生き方として学ぶ仏教・全4回 最終回

大阪・岸和田健老大学(NPO法人)


7月18日(金)
18:30~21:30
自己ベストの生き方&働き方を考える~大人のための学習会

東京・新宿区 ※場所は案内メールでお知らせします

<内容> 仕事や日々の暮らしに悩み・課題を抱えている大人のための勉強会。当日までに寄せられた悩み・疑問を、仏教の智慧を使って解決します。「自分で考えて答えを出せる」ように考え方の道筋さらに個別の解決策まで取り上げます。当日用の特製資料を用意します。★事前の質問・相談を募集します。積極的にお寄せください。 
<対象> 今の仕事・生活に悩みがある人全般 ●オンライン受講可(要登録)。
 

7月19日(土)
13:00~17:00
個人相談会

東京・新宿 場所は予約者にお知らせします

<内容> お一人45分のミニ個人相談会を開きます。自分では答えを出せない悩み・課題を抱えている方で、代表・草薙龍瞬への相談をご希望の方は、①お名前(実名) ②相談内容(可能な範囲でなるべく具体的に) ③臨時連絡先(携帯番号) ④希望の時間枠 をkoudounosato@gmail.com までご連絡ください。折り返し詳しいご案内をお送りします。

<時間枠> 
⑤16:20~17:05 
⑥17:45~18:30 
⑦18:35~19:20 
⑧19:25~20:10 
⑨20:15~21:00 
⑩21:05~21:50


7月21日(月祝)
13:00~16:30
夏の座禅会・午後の部
東京・新宿区 ※場所は案内メールにて告知します

7月21日(月祝)
18:00~21:30
夏の座禅会・夜間の部

東京・新宿区 ※場所は案内メールにて告知します

快適な毎日を過ごすには、心の汚れを落とすこと。お寺では学べない坐禅(瞑想)の秘密(アタマの中で何をするか?)を学べる坐禅会。①坐禅・瞑想の実践、②さまざまな話題に関するミニ仏教講座、③なんでも聞ける座談会の3本立て。初参加者には解説ガイドブックつき。希望者には終了後に無料の個人面談(相談)の時間を設けています。


8月2日(土)
13:30~16:30
博多勉強会~仏教でこれからの生き方を考える 日本全国行脚2025九州
福岡市の公共施設 ※場所はメールでお知らせします

<内容>今年で13年目の草薙龍瞬・夏の日本全国行脚。九州博多を訪問します。参加者からの質問に答える形で内容を構成します。これからの生き方、働き方、夫婦・親子の悩み、子供の進路や学び方など、幅広いテーマを取り上げます。

8月9日(土)
18:00~21:30
お盆休み座禅会

東京・新宿区 ※場所は案内メールにて告知します


8月16日(土)千葉
13:00~17:00
小中学生向け国語キャンプ 
 
<内容> 小5から中3の子供と親を対象に ”国語キャンプ” を開催します。教材を草薙龍瞬が用意して、国語の読み方・解き方・学び方をわかりやすく紹介。なんでも話せるゆるめの座談会つき。勉強の仕方もわかるし、学校・勉強・友だち・世の中のことも話しあえる一石二鳥のお得なイベントです。親子での参加を歓迎します。
※場所はメールでお知らせします。


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<初めての方へ>
*詳細は、公式サイトカレンダーでご確認いただけます。
*参加には事前登録が必要です。初めての方は必ず 興道の里活用ガイド をお読みください。
 
<お願い>
たいへん小さな道場ですので、必ずご参加いただけるわけではありません。興道の里から返信差し上げるのは、ご参加いただける方のみとなります。あらかじめご了承のうえご連絡ください。


よき学びの機会となりますように
 
上記ご案内申し上げます
興道の里



2025・6・23




経営者の鉄則(仏教的な)

仏教の視点からお伝えできること:

 

経営というのは、性善説に立つと、たいてい、いやほぼ間違いないく失敗します。

性善説とは、人は信頼できる・時間を経ても変わらないという個人的印象のことです。

ですが、哀しいことに、人間の心には欲も慢もあります。

たとえば、その企業や社長、周りを批判的に見がちな性格の人が入ってくると、

その性格をもって周囲を批判し始めて、そのとき募ってきた不満を周りに愚痴や非難として垂れ流し、

それに触発されて、同調する人間が出始めたところで、組織の中に負の感情が肥大し始めます。

慢を持った人間が次にやることは、上を引きずり降ろそうという画策です。同調者を集め、上の立場の人のどこが問題かを言い募り始めます。

その理由というのは、ときに言いがかり・難癖に近いものもあります。


個人的な慢と、上の人を引きずり降ろすこと、あわよくば組織を乗っ取ってやれという個人的な強欲が、複数人の支持を得ると、

小さな組織は危機的状況に陥ります。

社長さんがお人よしで、役割に見合った内容以上の話を聞いてしまうとか、聞く姿勢を見せてしまうとか、そうしたスキ・甘さを見せると、その動きはさらに増大します。


「その人の仕事をはるかに超えてしまっている」ということに気づけるかどうか。


結局は「摘まみだす」(やめてもらう)ことが正解になります。というのも、そうした人が残っても、またその人に同調して作られた雰囲気というのは、必ずその場所を腐らせていくからです。「聞き入れる」ことに、あまり意味はありません。

こうした問題が生じた時は、いつ頃から始まったことか、誰が入った頃から始まったのか、時系列をよく見てください。

その人と話をしても、正直それほど効果は見込めません。その人物は性格で動いているのであって、話して解決できるものではないからです。


どのような組織も、必ずこうした内部の不穏な動きや声に、一度や二度は、やられます。性善説ではなく、文字通りの組織を、システムを、築いていかねばならないのです。

組織内の物事の是非というのは、立場を超えた意見交換や過剰な交流からではなく、立場・権限の上下で決めるべきことです。

それぞれに役割があり、その役割を果たすことが基本です。


本当に雰囲気のいい企業というのは、それぞれの立場・役割がはっきりしているものです。みんな、わきまえている。

だからこそ、それ以外の話も有意義なものになるし、多少の愚痴もガス抜きにはなるのです(もっともそうした愚痴めいた言葉もまた、結局、組織の生産性や円滑な運営に役に立つかどうかという目で吟味せねばなりませんが)。

役割を越えて愚痴や批判を語る人間は、その場所にとってはマイナスしかありません。早めに辞めてもらうことです。


極端な話をいえば、組織というのは、担っている人間が決めてよいのです。その組織のあり方が良いか悪いかは、上の立場、特に経営者が決めればいいのです。

もちろん企業というのは、営利・発展・維持という大前提があるので、最終的にその判断が正しかったかは、経営上の成果が決めることになりますが。


上の人(経営者)というのは、人間が時に弱く、悪にもなりうるということを前提としたうえで、それぞれが心地よく「役割を果たす」仕組みを作って行かねばなりません。

それがまさに経営というものでは?


最終的な判断は、自分で下さねばならないのです。なんでも聞くいい人ではいられないし、人に頼ることもできません。人の悪に触れることも、ときにあります。

経営者は孤独なものです。


小さな会社の社長さんは、こういう階梯をみんな進んでいくものです。

強くあらねばなりません。とはいえ、人間とは、組織とは、そういうものだと受け入れてしまえば、それが当たり前になるのですが。

強いというより、それが地(日常)になるということです。

 

 

*7月18日に大人のための学習会 自己ベストの生き方&働き方を考える を東京で開催します。課題を抱えている人は足を運んでみてください。

 

 

 2025年6月末日

 

 

 

虚栄心ゲームには乗らないよ

 

中高生が使っている教科書、参考書、学校のプリントを見せてもらうと、

「まだこんな(いい意味ではない)ものを使っているのか」と愕然とする。


そもそも学問・科目の本質が見えてこない。

その分野の全体像や、原理的な発想や嗜好の組み立て方を言語化できていない。

生徒は生徒で、ただ真面目に頑張って、授業についていって、試験に備えて、目先の成績を維持するか上げれば、将来が開けると勘違いしている。

学力は育っていない。むしろ下げてしまっている。

半世紀、まったく変わっていないのではないか。




本当の学び方を教えることはできる。やり方さえわかってしまえば、誰だって満点が取れてしまう。

だがそうなると、結局みんなできるようになってしまって差がつかず、そうした学び方もまた虚栄心を満たすゲームに利用されることが目に見えているから、

伝えることはいつでもできるが、あえて黙っていようと思う(笑)。


誰に対してなら、”極意”を伝授できるのか。

虚栄心を満たすゲームに乗れなかった子、人の痛みがわかる子、社会の役に立つ人間になろうと思える子、純粋に知的好奇心があって、人を見下しておのれの優越を維持しようという邪心がない子たちになるだろうと思う。

あいかわらず、試験で点が取れればいいとか、いい大学に進めることが価値を持つとか、そういう虚栄心ゲームに興じている人間が多い。大人も子供も先生も親もだ。

しかもその手段としての勉強が、的(本質)を外したままであることを、今さらながら知って驚く。


知能だけでなく、心も育てないと。素直な心でいられるうちが勝負だ。

やっぱり小学生。乗りきれなかった中学生。学校や社会の非合理・不条理を感じ取れる十代か。

そうした相手なら、伝えることに価値が生まれる。

 

本気と本質に触れたい子供たちに来てもらえたらと思う。これから始まる場所に。


 

2025年6月下旬




興道の里とは


古い資料の中に、最初期の原稿が見つかりました。

興道の里を紹介するリーフレットを想定して作ったものです。

2012年6月24日付 つまり約13年前、『反応しない練習』(2015年7月)が出る前の ”原始時代” の言葉です。

眺めてみると、まったくブレていないことが印象的。心は変わりゆくから、十年以上昔の自分なんて完全に他人=今は別の人 になっていても不思議ではないのに。

むしろ自己預言していたかのように、当時考えていたことが正確に形になりつつある――という今だとわかって、

おぬし、なかなかタフよのう・・と当時の自分に声をかけました(笑)。

※文中「くさなぎ龍瞬」とあるのは、当時は弱気(?)で「草薙」は難しいのでは?という遠慮からでしたw。


◇◇◇◇◇◇◇◇◇

興(こう)道(どう)の里(さと)とは――

 将来に創りたい場所です。“お寺のような、学校のような、村のような”――人々が気軽に集まり、生活し、“幸福への方法”(正しい生き方)を学べる場所。

 その支柱となるものは、やはり“ブッダの教え”(正確にはブッダが見つけた幸福への方法)ということになるでしょう(僧侶くさなぎ龍瞬が一番お役に立てる分野ですので)。

 ただ、“宗教”的な場所にはしません。宗教というのは、特定の妄想を信じることで救われた気分になる思想だと言えます。しかし、それでは“信じる者しか救われない”という限界があります。

 私がめざしたいのは、信じる・信じないのレベルではなく、もっと広く、人それぞれが自分自身の幸せな・満足のいく・納得のいく人生をまっとうするための合理的な方法です。

 それぞれが自分の暮らしの中で自由に試し、実践できるオープンな知恵。そしてそれぞれのやり方で、この世の中の改善・前進のために役立つ何か(新しい価値)を創り出せるような生き方です。そういう生き方を学べる場所を最終的に作れたら、というのが、私の目標です。
 
 僧侶くさなぎ龍瞬の活動は、こうした目標を最終ゴールとして組み立てられています。“興道の里”とは、いわば私自身の人生の方向性なのです。

 



 現時点での課題は、「仏教をこの社会にどのような形で伝えれば、最も多くの人に役立つのか?」というもの。いわば “ベストの活用方法” を探している段階です。いくつかの場所で行っている仏教講座や、本の執筆なども、方法探しの一環として行っています。

 “このやり方なら仏教を宗教とせずに、より多くの人に役立ててもらえる” という手応えと、経済的基盤が手に入り次第、どこかに拠点を定めて、活動の新しいステージに入る予定です。それが整ったら、さらに次の段階へ――。徐々に整えていきたいと考えています。

 ひとの道(生き方)というのは、最終的には、自分以外の誰かの幸せの役に立ち、そのことが自分にとっての幸せになるというあり方に落ち着くのではないか、と個人的には思っています。

 僧侶くさなぎ龍瞬が創り出したいのは、人々の幸せにコレだけは欠かせないという生き方・考え方・価値観というものを、取り戻し・発見し・発展させていくための “きっかけ” です。どういう “きっかけ” がこれから生みだされていくか――見守っていただければと願っています。

 何より大切なことは、あなた自身にとっての“現実”の改善に、この場所を役立てていただくこと。この場所が提供するのは、心のわずらいを取り除き、浄化する方法。日々直面する問題を解決・改善する方法です。

 この場所でお伝えしている内容はすべて、宗教としての仏教ではなく、誰もが実践できる合理的な知恵・方法として組み立てられています。あなた自身の自由なやりかたで学び、活用していただければと思います。
 よろしくお願いいたします――。



2012年6月24日付

コロナ禍の3年間を振り返る~看護学生に向けて

(ある看護専門学校の講義にて)

※オンラインで講義することも可能です。全国の看護専門学校(特に医療倫理・看護倫理の教員が不足している学校)の先生方は、ぜひお声がけください。


課題2 コロナ禍の3年間を振り返る を返却しました(1年生)。

ひとことでいえば、みんな甘い。見えていない。まだ3か月めだから当たり前だけど笑。

2年前の講評をそのまま引用します。まったく同じことが、君たちにも当てはまります。


(長いので時間がある時に)

2023/09/05
「コロナ禍の3年間を振り返る」について――

感想をひとことでいうと、「考えていないな」です。厳しい指摘になりますが、みんなびっくりするくらい、考えていませんでした。

今回最も多かったのが、コロナ禍はしんどかったけど、その中でもこんなに楽しいことがあった、意味があったというポジティブな解釈。

マスクして黙食して、祖父母の死に目にも会えなかったのに、「今後も感染対策を徹底したい」みたいな意見もありました。そうした見解が間違っているわけではありません。しかし。

「検証」した人がゼロ。コロナ禍でいろんな我慢や苦痛を体験したなら、本当にこの3年間は正しかったのか?を考えてください。少なくともそういう疑問を感じたというところまでは、考えを進めることです。

たとえば「コロナ禍」といっても、新型ウィルス自体の客観的危険性(毒性と感染力)と、社会の対策(コロナへの向き合い方)は、まったく違います。

客観的危険性がそれほどではないと判断したから、イギリスやオーストラリアをはじめ、海外のほとんどの国は「コロナは終わった」という認識です(だからワールドカップも普通に盛り上がっていた)。

あのワクチンは、3回目の接種で重症化・致死のリスクが跳ね上がることがデータ上わかったから、積極政策を取っていたイスラエルでさえ接種を中断した。
    
しかし日本の場合は、まだ「第9派到来」と言っていますね。第6回目のワクチン接種も始まりました。「コロナ禍」が完全に終わっていないのは、日本だけです。なぜ? 説明できますか?

つまりは、コロナ禍と一言で言っても、社会全体の対応、ひいては一人一人の認識(理解度)が作り出している部分があるのです。この場合のコロナ禍とは「社会が作っている騒動(過剰反応)」です。

マスクをすることが「感染対策」「拡大予防」になるのですか? マスクをしても、日本の場合は、陽性反応者数は減りませんでしたよね? 一般のマスクでは、飛沫感染は防止できるけど、空気感染は防げません。デルタ株までの糞口感染(排泄物経由の感染)も防げません。また「パーティション」や多少の距離を取るくらいでは、空気感染は防げません(※このことは厚労省分科会でも、実は結論を出しています)。

客観的危険性を冷静に吟味せずに、あいまいな理解のまま行動制限をしてしまえば、皆さんが体験したような、いやそれ以上の社会的な損失が生じます。

感染しても、やはり大多数の人は自然治癒するし、医療がきちんと発症者への初期治療に当たれば、重症化を防げるケースが多数です(デルタ株当時でさえ、日本人の98%以上は無症状または軽症でした)。

「PCR検査で陽性反応が出たら、症状の程度を問わず、即自宅隔離・待機。他の病気があっても病院は対応しない」という方針が、本当に正しかったと思いますか? 実際、自宅療養を強いられている間に重症化して死んだ人も、少なくありません。そういう事実は見ていなかったのかな?

「看護の技法」を思い出してください。ウィルスの客観的危険性を見誤ると(➀)、その後の「方法の選択」(②③)を、すべて間違えるのです。

「感染しても発症に至らない」「発症しても数日寝れば治る」という人にとっては、風邪の一つであるに違いない。それなのに、死亡認定事例が2000件に達しようというワクチンを、年齢・健康状態を問わずに接種しようとする。

こうした選択は、個人を苦しみから救う医療として、正しいことだと思いますか?

「感染爆発」といいつつ、日本の場合は、最初の一年は、他国に比べるときわめて低い割合の陽性反応者数しか出ていませんでした。その後は日本だけ増え続けて、昨年末から感染者数世界一が続いて、今なお「第9派到来」と言っている。
 
「波」が続いているのは、日本だけです。教材の資料をじっくり読んでみてください。掲載したデータは事実であって、誰かの見解をまとめたものではありません。
 

みなさんのレポートを見ると、この3年に起きた「コロナ禍」という現象を、自分のアタマで考えていないことが伝わってきました。「貴重な体験をした」という人が多かったけれど、同じことが起きたら、また同じことをするのですか? 「検証」したのかな?

2020年12月の時点で、全国の保健所を代表する会長が「早く5類に落としてくれ」と政府に要望書を出しています(教材p39)。データを冷静に見れば、5類相当の危険性しかない。むしろ医療の初期対応こそが大事だという主張です。同様の見解を支持する医師たちは、アンケートによれば6割以上。

でもメディアは大騒ぎをやめなかったし、政治家は「油断されたら困る」程度のきわめていい加減な理由をもって、指定を解除しなかった。
 
多くの人々が、皆さんと同じような認識だったがゆえに、この3年間の「コロナ騒動」が起きたのです。

こういうと、「反〇〇」みたいなレッテルで議論を遮断してしまう人も、この世の中にはいます。しかしこれは「私はこう思う」という思い込みで片づく問題ではありません。そもそも誰一人、客観的なデータを持っていないのだから。
 

倫理、すなわち議論を整理する技法が必要。きちんとデータを踏まえて、客観的危険性を把握して、採りうる方法を網羅して、人それぞれに苦しみを増やさない選択をする。
 
医療・看護とはそういうものでしょう?

みなさんが、コロナ禍でこんな体験をしたというのは事実です。でもコロナ禍そのものを、どう見るべきか、何が正しい選択だったのかを、少なくとも「問おう」(検証しょう)としなければ、どんなにポジティブに受け止めても、状況が変われば、また同じことを繰り返すでしょう。

無知は最大の罪であり最大の危うさです。人を無駄に死なせかねません。

 
ある20代前半の看護師さん(女性)は、高校時代の親友を失くしたそうです。原因は自殺です。みんながコロナを恐れて、陽性反応が出ただけでもクラスター発生(クラスターの意味を知っていますか? 2名以上の陽性反応が出れば、クラスターです)。自粛、隔離、休校。授業はオンライン。外に出られず、友だちとも会えない。

精神的に追い詰められて、心が病んで、みずから命を絶ちました。


そういうことがこの3年間たくさん起こったのに、「いい体験だった」とだけ言って終わっていいのかな? あのワクチンを接種した直後に死んだ人も、かなりの数に上っているのは、厳然たる事実です。根も葉もない噂ではない。
 
しかもデータは公表されなくなった。 
見ようにも見えなくなったというのが、君たちを取り巻く今の状況なのです。


そうしたことに気づかない?
人の苦しみが見えない看護師になろうというのでしょうか?


みんなのレポートを読んでいて、「自分」のことしか見ていないことが、気にかかりました。

みなさんが見るべきは「患者」です。自分じゃない。患者さんは人の数だけ違う苦しみを負っています。みんなが別の人生を生きています。健康な人もいれば、孤独な人も、癒えない苦しみを抱えている人もいます。

そういう人たちに向き合って、自分にできることは何かを問い続ける。それが、みなさんが歩みだそうとしている看護の道です。違いますか?

コロナ禍の3年間についても、自分以外の人のことも考えてください。感染(正確にはWHOの基準以上に検出感度を上げたPCR検査による陽性反応)を恐れて、余命わずかな老人が孫にも会えない。家族が死んでも見送れない。

そうした社会の対応が正しかったのか?

人それぞれの人生・生活の質(いわゆるQOL)に最大限配慮して、なるべく会える機会を保証する。制限が過剰にならないか気をつける。人々が過剰な不安に駆られないように、客観的なデータをもとに苦しみを増やさない選択を、その都度アップデートして告知する。もし感染したら、その時こそ医療がフル稼働して(指定病院だけでなく)迅速に対応する。そういう方法もありえたはずなのです。そうした可能性を想像したのかな?

この3年間で、中高生の自殺数が、過去最多を記録しました。みなさんが「それでも楽しかったです」といえる3年の間に、別の場所では多くの人たちが追い詰められていたのです。お店も潰れた。いろんな体験が奪われた。それが事実です。


こうした苦しみをも「自分の体験」として見つめていた人は、本気で考え始めるはずなのです。「他に方法はなかったのか?」という問いを。

実際、新型コロナ・ウィルスへの対応は、国によってみごとに違います。今なおコロナ禍が終わらず、国を挙げてのワクチン接種を推進しているのは、日本だけです。みなさんは、そういう特殊な社会に生きているのです。


「良質のメディアや官公庁の情報を見て判断する」と書いた人もいたけれど、その情報の信憑性を判断する「基準」は、君の中にありますか? ワクチン接種後の死亡認定事例はすでに2000を越えているけれど、ほとんどのニュース番組は取り上げない。厚労省も、重症化のデータを2021年9月から公表しなくなった。医療行政がつねに正しいものなら、過去の薬害訴訟は起きていません(調べてごらん)。

どうやって情報の真偽を判断するのですか? ただ信じるだけなら、素人と同じ。でもみんなは、素人を救うプロになろうという人たちなのですよ。

「コロナ禍でも、大事なことを学べました」というだけなら、「戦争中でもこんなにいいことがありました」というのと変わりません。問うべきは「この戦争は正しかったか」「この戦争を始める必要があったのか」を検証することでしょう? 
 
あの戦争で3,100,000人の日本人が死にました。最大の犯人は日本人です。現実を見ずに雰囲気だけで流されて、異論(戦争をしない、または1日も早く終わらせる可能性)を許さなかった日本社会。

「コロナ禍」という社会現象も同じです。死ななくていい人たちが死んだことは事実。
 

人の命を救わねばならない皆さんは、「正しかったか」「他に方法はなかったか」という問いから始めなければならない。苦しみを見逃しては絶対にいけないのです。
 

苦しみが見えない看護師・見ようとしない看護師が、人の命を救えるはずはありません。今のレベルだと、君たちは人を救えない。自分も、自分の家族も、救うどころか、余計な苦しみを背負わせる、危うい看護師になってしまいます。
 

「見える」とは何か。「技法」を使って整理することです。

「コロナ禍」という現象を、「苦しみを増やさない方法は? 正しい選び方は?」と検証できること。

皆さんの先輩看護師さんたちも、コロナ禍に振り回されて疲弊するほかなかった人たちもいれば、冷静に分析して疑問を発してきた人たちもいます。ワクチン後遺症に悩む人たちをケアする看護師さんたちも、大勢います。

何が正しいか。それは個人によって違う。しかし個人を越えて守らねばならない一線があります。それが「苦しみを増やさない選択をする」ことです。それが倫理。
 
選択は個人のものです。特に医療。当たり前です。だからこそ、一律の医療政策はそもそも例外的でなければならない。安易に強いてはいけないし、異論を封じることは絶対にしてはいけないのです。


いいですか――今後は必ず「問い」を持ってください。本当に正しいのか。自分は正しく見ているのか。現実を無批判に受け入れるのではなく、「苦しみが見えているか」「他に方法はないのか」と、批判的に、疑問を持つことから始めること。

そのことで「これが正しい」という自己満足・思い込みに歯止めをかけることができる。
人を救える可能性も、そのときにやっと出てくる。


今回は、みなさんが「体験」を書いてくれたので、全員満点です。体験したことそのものは嘘じゃないので。

ただし、加点できた人はいませんでした。本当に正しかったのかという「問い」をひねり出した学生がいなかったからです。みんな、まだ素人さん。

でも、プロというのは、素人に見えないところまで見える人、素人が問えないことを問える人をいうのです。

もっともっともっともっと現実を見て、アタマを使ってください。




2023・9・5


仲の良い家族になるには?

 (海外からのおたよりへの返信抜粋)

 

仲が良い関係性というのは、結局、関わっても苦痛がないことが基本になりますよね(仏教的な入り方ですが)。

仮に思いきり執着して、男女愛・家族愛を信じることができる場合も、その時点では苦痛がないから、仲は良いはずです。

その執着や「信じる」を支える要素として、文化的・歴史的な背景もあるような気がします。

たとえば、ファミリー・タイズ(家族の絆・つながり)

というのは、欧米の文化みたいなものですが、中世の暗黒の森を切り拓き、教会で神の愛を感じて、家の中で確かめ合うという伝統も影響しているのかもしれない。

陸続きでつねに外敵の脅威にさらされてきたから、国・城・家という防衛装置を大事にしようという文化的背景もあるかもしれない。

(他方、東南アジアの農耕民族における家族の絆は、違う背景を持っているし、中国・台湾などの儒教文化圏の家族観も、また違う基盤を持っている)


ただこうした考察よりも、「仲が良い家族」の最大の原因は、

一人の独立した人格として認めて尊重するという前提があるような気がします。


上記は、いちおう欧米の家族・親族が仲がいい(それをいうならラテン系もそうかもしれない。やはりキリスト教文化圏?)ことを前提に考えてみましたが、

実は、欧米の家族・一族にも、「相当病んでいる」ところは、計り知れず多く。

ユダヤ教・キリスト教由来の厳格な躾(しつけ)によって、深く傷つけられた人も多いし、

移民として渡ってきた一族の中には、故郷に居場所がなく、その後も存在不安が続いて、家庭内暴力とかアルコール依存その他の精神的病を抱えている人は多いようだし、

そうしたまともとはいいがたい家庭環境で育った人は、大人になっても、まさに同じ発想・性格・行動パターンを踏襲することが多くて(まさに業)、

そうした大人の中には、毒親と化して子を虐待していることはざらにあるし、

生育環境がわざわいして、アダルト・チルドレンと呼ばれる人格障害(とはあまりいいたくないのだけれど)を抱えたり、まれな確率だけれどサイコパス気質になったりということは、かなり起きている気がします。

(ちなみに、アメリカのサイコパスの確率は4%だとか。つまり25人に1人はサイコパス、仏教的にいえば、感情が育っておらず、したがって人の痛みもわからない脳の持ち主。)


だから「一概に言えない」というのが、最終的な印象になるのですが(ブッダもそう答えるだろうし、もしかしたら生成AIも?)、

ただ、最終的には、苦しめ合わない関係性であれば、そのうえに、フレンドとかファミリーとかパートナーという名目(理由づけ)えあれば、

仲良くすることは、難しくない気がします。


苦しめ合わないためには、互いに自立している必要がありますよね。自立しているから、ノーを言える。適度な距離を保てる。苦痛を排除できる。相手のことも尊重できる。

その逆を考えてみると・・・つまりは、依存している、執着している場合。「相手がいなければ、自分のままではいられない」という弱い、幼いともいえる状態だと、

相手が友人であれ家族であれ、依存して、執着して、しかもその心の中には、しっかり都合のいい妄想や欲や怒りが潜んでいるから、

どうしたって関わる相手にそうした部分が伝わることになってしまって、

依存する側としては、「あなたなしではいられない」「どうしてもっとこうしてくれないの」という不満が募り、負の感情を垂れ流し、

依存を向けられる側としては、「そんなことを言われても」「ほっといてくれるかな」「もういいかげん一人にしてくれ Leave me alone!」みたいな心境にすぐおちいってしまう。

ならば、共依存であれば互いに依存できるから快適かといえば、まったくそんなことはなくて、

心と心は別物だから、ひとつの心が、他の心を背負うことはできない。そうした関係性は単純に苦しくなる。

たがいに依存しあって、たがいにしんどくなってしまう。それが共依存。

共依存で幸せになれる関係性は、おそらくない。


日本人の家族が、疎遠・仲が悪いとしたら(これも一概には言い切れないけれど)、自立を果たせていないから、というのが最大の理由のような気がしてきます。

 

(つづく) 

 

よい家族を作る基本をまとめた本 

 

 

揉めごとが生じた時は

(最近届いたおたより:学校での事故にちなんで)

 

人間関係や仕事で揉めた時は、どう動けばいいか。

最初の整理の仕方としては、その揉めた原因となった事実は、自分の側で作り出したものか、相手側が作ってしまったものかを考えることになる(『怒る技法』)。

事実を引き起こしたのは、どちらなのか。

こちら側も、その事実は誰が起こしたものかを理解しようと努めることになる。

と同時に、事実を相手側に理解してもらう


事実認定は慎重に。冷静に。過剰に反応せず、妄想をふくらませず。

事実そのものは、自分の輪郭外だ。いっそ他人事だと思えるくらいに客観的に、冷静になれるほうがいい。

できるかぎりの記録を確保して、事実を保全する。それが第一歩。


揉める(こじれる)可能性があるのは、事実を引き起こした側がどちらなのか、判定が難しい場合。一方当事者が「事実を否認」した場合も含まれる。

こうした場合に役立つのは、本来あるべきだった事実(事故やミスがなく進むこと)は、誰が担うべきだったか、役割として、仕事として――という視点。

もし現場に直接関わる側(教師や監督など)がいるなら、その現場で起きた事実については、その人たちが(現場に直接関わっていた人・監理監督すべき人)が、責任を負うことになる。


だから、揉めることなく事態が落ち着く(解決できる)のは、

事実について責任を負うべき側が、その部分についての責任をいさぎよく認める時だ。

もし自分がきちんと本来の仕事・役割を果たしていたら、その事実は発生しなかっただろうといえる場合は、その事実については責任を負う。

それで一件落着する。


難しくなるのは、事実にもとづく本来の責任さえ負おうとしない場合。

一般的に、事故・過誤・ミスが大事(おおごと)になっていくのは、この場合だ。

この局面に至ると、人間性というものが出てくる。

本当の役割・責任を担う人というのは、自分に都合が悪くても、「たしかにその通り、その部分については責任を負います」といさぎよく言える。誠意を示せる。

だが、人によっては、責任を負うことを拒んでしまう。事実を否認するか、自分には責任がなかったと言いたいがために、別の口実を見つけてきてしまう。

場合によっては、まったく関係のないことまで持ち出して、責任を負わないという選択を正当化しようとすることもある。


こうして段階を追って見ていくと、揉め事がなぜ生じてしまうかの本当の理由が見えてくる。

揉め事というのは、事実について、自分が担うべき役割・責任を負わない人間が出てくる場合なのだ。

単なる弱さか、ずるさか、幼さか、悪意があったかは、人による。揉め事が生じるまでは、すこぶる善良な、問題のない人も多い。

だが、いざ揉め事が生じた時に、地の部分が見えてしまう。人間性が「試される」ということだ。


試された時に誠意を示せれば、そんなにこじれることはない。

被害をこうむった側(その事故・ミス・欠落によって不利益を受けた側)が求めるのは、事実を認めて相応の責任を負ってくれることだけだから。

結局は、誠意を見せてほしいという一心に尽きることが多い。


小さな揉め事はあらゆる場面で起きている。こうした揉め事がいつまでも落ち着かないのは、

生じた事実について、役割・責任を負いきれない人がいる時だ。


もし事実に基づく責任を負わない事態が続くなら、その時は、第三者に理解を求めるという方向に切り替えることになる。

「それはあなたの側の責任ですよ」ということを、第三者に認定してもらうことになる。

手間・時間はかかるだろうが、その道筋に間違いはない。



この国の文化かもしれないけれど(平たくいえば、日本人というものはという類型的な言い方になってしまうのだけれど)、

いざという時に、事実にもとづいて責任を負うということが、きわめて弱い印象がある。

やはり雰囲気やノリで進めることに慣れているからか。「なんとなくそれでやってきた」という程度のあやふやな関係性を生きてきた。そういう仕事をしてきた。

だからいざ事実が起きた時に、いさぎよく責任を負うという選択ができない。うろたえたり、責任転嫁したり、へそを曲げたりというアタフタになってしまう。

自分が、自分の役割を果たすこと、

その役割の範囲内で起きた事実については責任を負うこと。

すべて、自分の物事であり、自分の仕事であり、自分の人生である――

という軸が定まっていれば、それほど困難もなくできることではある。


こうした軸が定まっていない人が、現実の社会には多い。日本という場当たり的な、人を見て立ち位置を替えるという ”間人” 文化に多い印象もなくはない。


もう一度あらためて言おう。事実にもとづく責任を負うことは、難しいことではない。

被害を被った側は、事実に基づいて責任を負うことを、相手に堂々と求めればいい。事実と責任について「理解を求める」ということ。「わかってほしい」と伝えていくだけでいい。

被害を与えた側は、自分が作りだした事実については(だけは)、いさぎよく責任を負えばいい。

伝えるべきだし、負うべきである。だが「べき」になってしまうのは、責任を担う側に、無責任あるいは甲斐性のなさが見えた時だ。本来は「伝えればいいし、負うだけでいい」という実に簡単な話。


最終的には、第三者が、社会が、判定を下すことになるが、そこまでいかなくても、

「これは自分の領域(仕事・物事)だ、だから自分が責任を負います」という軸さえ崩さなければ、問題がこじれることはあまりない。


最終的には、人間が問われる。自分はどういう人間か。

事実と責任を受け入れられる人は、誠意ある人間として堂々と生きていける。

そういう人間の一人であろうと思うし、あってほしいと思います。


2025年6月

 

 

 

最初の発掘


今日は文京区の〇〇書院を訪問。医学・看護の専門書籍を発行する最大手だけに、威厳ただよう上質な建物。

看護教育という月刊誌の巻頭インタビュー記事のご取材をいただいた。


毎回だけれど、カメラに向かって笑ってくださいというのが難しい。「演技でいいです」というが(そりゃそうでしょ(笑))、演技は妄想しないとできないから、これも難しい。


医療・看護における倫理とは何か。従来の教科書や専門書は、哲学、歴史、最先端医療、現場の課題、事例研究など、ごった煮状態。

現場で何が必要とされているか、役に立つのか、という実際的な問題意識もなく、「なんとなくこういうものでしょ」レベルの内容で続いてきたのが、医療倫理・看護倫理だったように思える。

「答えが出ない問いだ」なんていう能天気な声も聞く。だが人生は有限で、まして医療・看護・救急救命の現場は一刻を争う選択を迫られている、

そういう現場において、人を救うための「ただ一つの答え」を出さねばならない。それが倫理というものだ。


どんな分野にも当てはまることだが、「見落としてはならない(絶対に見えていなければならない)」ものがある。

だが案外、どの分野においても見落としが多い。医療・看護の分野は、その見落としがひときわ多い印象がある。

言われるまでは思いつかないが、言われてみるとたしかにそうだ・・と思わざるを得ない視点・発想・手順がある。

そういう意外ではあるが、絶対に欠かせない、「現場で見えていなければいけないコレだけのこと」を視覚化・言語化したのが、私が伝えている倫理。


仏教の視点や構造的思考を活かすと、いろんな分野に応用が利く。

「心の使い方」という新しい視点で仏教を再構成・体系化して本に著したところ、「言われてみるとたしかにそうだ(これが本来の仏教か)」と、多くの読者さんが受け入れてくださったように、

今伝えている看護の技法(倫理)も、「たしかにそうだ」と、現場の医師・看護師さんに納得してもらえたらと思う。

今は小さな場所で伝えている”看護の技法”が、いつか医療・看護の一つのスタンダードになってもらえたらという思いもなくはない。


社会において、いつ、どこまで共有してもらえるかは、因縁によるものだから、執着しない(そもそも体一つの人生は短すぎて、そこまで意図を広げる余裕もない)。

ただ、今の時代・この社会において、案外見えていない部分、見つかっていない部分、でも掘り起こして見せれば「たしかにそうだ」と思わざるを得ない部分は、実はかなり残っているから、

そういう部分を最初に掘り起こすことが、この命の小さな役割なのだろうと思わなくもない。


仏教、看護、その次は教育だ。実は掘り起こされていない可能性がある。これを最初に発掘することを、この命の役目として引き受けようと思う。


<おしらせ>
7月9・10・11日と大阪南部の看護専門学校で看護倫理の集中講義を開催します。医療従事者は見学可能です。日時は公式ブログ内のカレンダーをご覧ください。見学申し込みは、お名前・所属・連絡先を興道の里まで。




2025年6月3日



看護に感情は要りません

某看護専門学校の講義にて:

 

 「患者と同じ感情を持つ(共有する)こと」「看護師が感情を抑制して、患者を喜ばせてあげること」といういわゆる「感情労働」が必要だと書いている人がいました。大きな間違い。

「理解」と「共感」は違います。患者と同じ感情になって喜んだり悲しんだり怒ったりというのは、看護に必要ありません。状況によっては、そういう姿が、患者を喜ばせる・癒やすことはありえますが、そこまで求められては、看護師が疲弊してしまいます。

「感情労働」「感情規則」というテーマは、今後も出てきます。看護の業界で最も誤解されているところ。もともとホックシールドというアメリカの学者が提唱したものですが、「キャビン・アテンダント(スチュワーデス)には感情労働が必要だ」と言いだしたのです(1980年代)。

乗客の理不尽な要求にも、平静に笑顔で対応しましょう、そうやって乗客の満足度を上げて、利益を上げましょう(そしたら給料も上げてあげます)という経営者目線で言い出したことなのです。組織のマネジメントとして採用されて、研修内容になって、あっという間に広まりました。

これが、CAと似ている(と勝手に思われてしまった)看護師・介護士などにも当てはめられた(いい迷惑)。


相手の感情に寄り添うことが大事だ、こっちの感情はコントロールすべきだ、感情労働頑張れ、我慢しろ、いつだって明るくスマイル、看護師は白衣の天使、微笑みと慈愛をふりまく聖職者たれ――という話になっていくのです。「患者の前で泣いてはいけない、泣くならトイレで泣きなさい」・・・おいおい。でも本気みたい。調べてみてください。


ちなみにここから、アンガー・マネジメントというストレス管理の発想につながっていきます。結局、ストレスを強いられる側が努力しろという発想。いや、それはおかしい。コントロールとかマネジメントだけでは片づかないよ、という理由で登場したのが、草薙龍瞬著『怒る技法』マガジンハウスです。19日に学校で講演やりますw。


なんで患者の感情にあわせなきゃいけないの? 理解してあげることは人として大事だけれど、理不尽な相手にも怒っちゃいけないとか、優しくケアして患者の感情を「操作せよ」だなんて・・「やってられない」と思いませんか? 

あきれた患者にも感情を出さずに優しくケアしましょう--なんていう勘違いがまかり通ってしまったから、看護師さんはみな苦労を強いられているのです。


看護師に真の尊厳と敬意を。皆さんはプロ中のプロ(高度な専門職)です。しなくていいことは、しなくていい。イヤな患者(暴言・八つ当たり・わがまま・セクハラetc.)には怒って当然。毅然と対処すべし。

感情は要らないのですよ。もっと大事なことがある。理解すること。心と体。苦しみとその原因。原因を取り除く方法――こういうところを正確に理解して、適切なケアを提供する。

それができれば十二分。看護師は天使じゃない。プロです。

見るべきものが見えるプロになれば、それで上がり(満点)です。違いますか?

 

 2023年9月某看護専門学校にて

 

業の活かし方&未来への遺し方

中日文化センター1日講座受付開始しました:

愛知高蔵寺 公開講座  仏教で思い出そう「あの日の幸福」を 

無料相談会つき

申し込み&お問い合わせ先 高蔵寺中日文化センター 0568-92-2131
https://www.chunichi-culture.com/programs/program_195300.html

*「わたしが覚えているあの日の幸福」
思い出&エッセイを募集します。応募くださった方にもれなく当日に特製ポストカードをプレゼント。
(※個人的な内容を省略し一般化したうえで、当日の教材内で紹介させていただくことがあります/匿名・ペンネーム可)
応募は koudounosato@gmail.com まで


(オープン・カレッジの受講生の方から)

善い方向に導く業とはどのようなものでしょうか?

また、悪い方向に導く業の連鎖を産まない、正しい親子関係とはどのようなものでしょうか?

人生を作る要素として、〇〇と因縁があり、因縁はコントロールできないけど、無常でもあるので、変化する部分もあるとのこと。

親と縁を切っても、そこは切っても切れない、仕方のないものだけど、たしかに人生を作る要素だなと思いました。


人生の目的とは何か?についても考えました。結局、ヒトは自分が生きた証をなんらか後世に残したいと思うものなのかな?と思いました。

そのような思いは、自分の生きた証を残したい欲、〇〇欲?みたいなのものとは違うのでしょうか?

自分自身の人生の目的を考える良い方法があれば教えてください。大それたものではなく、慎ましく穏やかに過ごす、とかでも良いのかとも思うのですが、

これだ!と自分で思えるものをどうやって見つけるのが良いのでしょうか。


◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇


 ※初めて聞く人にとっては、あやしげな言葉に聞こえるかもしれませんが、性格や慢性的な気分のことを、仏教の世界では業(ごう)と呼んでいます。心を理解する工夫のひとつだと思って、気軽に読んでください^^)


業というのは、事実として存在する反応のパターン、心のクセなので、正確にいうと、善いも悪いもありません。


今回の講義で取り上げたように、悪は、自分にとって苦しいか、誰かを苦しめる時に成り立ちます。

業が自分を苦しめるなら、悪業です。その場合、

①業が苦しみをもたらしている、つまりは悪であると自覚する。 

  ↓

②まずは原因となっている関係性から距離を置く(外部要因を最初に取り除く)

  ↓

③自分の業を自覚する。軽減・解消する練習をする。

という手順を踏むことになります。

(※詳しくは『大丈夫、あのブッダも家族に悩んだ』を参照)


もし親子関係が、その業の原因であるなら(その可能性はきわめて高い・・原因である可能性は95%くらいかもしれない・・印象にすぎませんが)、

その親子関係を解消する、つまり親と距離を取る(反応しないでいられる距離)ことが、第一歩になります。



面白いのは、悪業であっても、善業として働く可能性もなくはないということです。

その場合の善は、”関わり”において発揮されます。たとえば、承認欲の不満がある → 頑張らねばと思って頑張ってしまう(業)→ 完璧主義で自分が疲れるし、そばにいる人も疲れさせてしまう → でも仕事においては、それが緻密さとして評価されることもある

という場合は、自分の内面においては苦しみだけれども、その業のおかげでいい仕事ができている、ということもありえます。


業の善し悪しを決めるのは、第一は「自分にとって」ですが、第二は「関わりにおいて」だったりするのです。




「生きた証」は、遺したい人は、何を遺せるかを考えて、できることをやってみることになります。

でも、それが執着になってしまったら、求めすぎ(妄想)ということになるので、「遺せる範囲で考える」というのが、一番バランスが取れた発想になるかと思います。

遺してもいいし、遺さなくてもいい。それくらいの吹っ切れた感覚が、執着しないということです。


遺せたとしても、それもまた自分の満足にすぎなくて、世界はどんどん変わっていくし、生まれ変わっていくし、

生きている命は自分のことで精一杯だから、去っていったもの、過去の遺物というのは、未来においては、ほぼ存在しないに等しいものです。


結局、大切なことは、自分が、たしかに存在する今に、どう向き合うかという一点のみです。

心に苦しみがなければ、それが最上のゴールだし、正しい今の過ごし方ということになります。


何かを未来に遺す・残すというのも、自分なりに、

自分以外の命を想う(その命は、今生きている命でも、未来に生きることになる命でもよく)、

ことが、今の自分にとって幸福・納得のひとつになるからです。

遺らなくてもいいし、遺っても消えてゆく(姿を変えていく)だろうし、世界は、自分自身の思惑や願いとは関係なく進んでいく。それはそれでまったくかまわない(関係しない)。


それでも自分自身の心の発露(思い)として、未来につながることを考えて、小さなことを形にするというのは、


自分なりに正しく生きたという納得につながるのではないかと思います。


(略)

 

だけでも、未来につながる何かを、自分の手で形にしたことになります。


よき未来のために、という思いを、執着なくできること



そんな生き方もあるような気がします。



2025年6月1日




命が還る場所


春の日の法要に足を運んだ。今回の霊園は、無宗派・無宗教の人の墓も扱っているとあって、墓石はバラエティに富んでいる。御影石、大理石、黒曜石と材質は様々で、カタチもユニーク。故人が選んだメッセージを刻んだ墓もペットの墓もある。

海外の仏教国では遺灰を土か川に戻して終了だ。墓石は日本独自の伝統だが、子々孫々のつながりの象徴としての墓は大事にしていいものと思う。

今回の故人は自然葬を選ばれた。青い芝生の上に、直径十五センチほどの丸い穴が二つ。そこに係の人が遺灰を入れていく。さらさらときれいな白い故人が土に還っていく。芝生の蓋で丁重に閉じた。

その前で私は額づいて礼拝する。この日より始まる新たなつながりが久しく続くようにと。

故人を作っていた物質は土に還る。そのうち分解されて土へ植物へと姿を変えてゆく。いつしか命の連鎖に組み込まれて、はるか未来には別の命に宿っているかもしれない。すべての命は法縁(つながり)の中にある。

もし故人の姿が、生者の心に愛おしい姿で宿ってくれるなら、故人の命は形を変えてなお続くことになる。肉体は土に帰っても、生者の心の中に生きていく。

特に遺すべきは、旅立った命が懸命に生きた姿だ。たくさん苦労もしただろう。悲しい出来事もあっただろう。だが新たな命を育てて人生を全うした。命としての尊い勤めを終えたのだ。その奇跡に生者たちは尊敬と感謝を。

そして自分たちもまた幸福をめざして十二分に生きねばならない。その覚悟を墓の前で新たにするのだ。


生きていた間の苦しみは、死んだ後に持っていくことはできない。ブッダが語った八つの苦しみは、現実を生きる中で生まれる。心か体の苦しみだ。

だが体を作るものが自然に還り、それまでの心がほどけた後には、苦しみは続かない。つまり命の終焉は、やすらぎへの回帰だ。人の苦しみは永久には続かない。死をもってやすらぎに還る。あとはつながりの世界へ、目の前に広がる自然へと還っていくのみだ。


広い世界を見渡してみれば、日が登り、月が輝き、星々がきらめいている。青い空に流れる雲にほとばしる清流に海がある 無数の緑が今も呼吸をしてこの星は凄まじい速度で回り、宇宙を旅し続けている。

広い世界を見渡せばわかること。どこにも苦悩は存在しないということ。過去数えきれないほどの命が自然に還っていったが、その苦しみはどこにも見当たらない。それが命の帰結なのだ。澄明とやすらぎが待ってくれている。



※興道の里アーカイブ(過去の活動記録)から


2025年5月28日

 




ナンバーワンをめざすのは正しいか

<おしらせ>

日本全国行脚2025 訪問地募集中です。

福岡・博多での勉強会の開催が決まりました。詳細は公式ブログ内のカレンダーをご覧ください。


◇◇◇◇◇◇◇◇ 

(オンライン講義での質問~「勝ちたい」「日本一」「世界一」をめざすのは正しいか?についての答え) 


これらは目的というより、動機ですね。「○○をめざしてがんばる」という。

動機は本人限りのものです。他者が認める客観的事実、つまり結果とはじつは直接結びつきません。

つまりは、本人が思い描く妄想でしかない。どんなに本人がヤル気になれるとしても。

だから「日本一」「世界一」をめざすというのは、すごくおかしな表現であり発想なのです。中身がない。結果がない。ナンバーワンをめざすというのは、妄想止まりの自己満足--そんな姿だったりします。


「動機(自分にとっての価値)」と「結果(他者が認める客観的事実)」は違う――この当たり前の理解を持っているかどうか。

動機で目一杯の(自分にとっての価値しか見えない)人は、結果(人が認める客観的事実)に、なかなかたどり着けないものです。

「これは本当に正しいのか(自分がめざすもの・やっていることが客観的に通用するか)」という視点がないからです。

他方、結果を出せる人というのは、動機に留まらず、つねに他者が認める結果・成果を見すえているので、「これで本当に正しいのか」という問いを持つことが可能になります。方法を考える、工夫する、そして専念する。

動機という自己満足を卒業して、方法そのものにエネルギーを使うから、結果が出る確率が上がるのです。

ビジネスなら「売れて(求められて)ナンボ」ということがわかっているから、売るための努力を惜しまない。

学びならば、「学んで(覚えて、できるようになって)ナンボ」ということがわかっているから、淡々黙々とインプット&アウトプットを繰り返す。

スポーツの世界でも、結果は自分のパフォーマンス次第という当たり前の事実を知り尽くしているから、自分を追い込んで練習する。

本当の結果・目標というのは客観的なもので、自分の妄想が通用しない。
方法を実践しなければ、結果を出せない。

そういうことがわかっているからこそ、努力できるし、人に通用する価値・結果を出せる。結果的に勝利・上位・一番にもなる、ということになります。



「結果的に」というところがポイントです。勝利・上位・一番というのは、めざせばかなうというものではなく、

まったく別のところ(方法)に思い・体・時間を投入した時に、あくまで結果として出てくるものなのです。

だから、動機としては正しいとしても、動機止まり。
結果を出すには、動機だけではまったく足りない。

その意味で、間違っている(足りない)ということになります。




2025年5月22日 オープンカレッジ・オンライン講義にて

 

 

 

心は歳を取らない


私の場合は、毎年夏までに1つ歳を取ります。

今年の日本全国行脚を告知した時の心が、ほぼ20代の頃と同じであることを、ふと発見しました(笑)。

旅に出るぞ~、

夏が始まるぞ~、

という思いしかなくて、

でも客観的に考えると、社会年齢はけっこう「行ってる」ことに気づいたのでした(笑)。

社会年齢は、戸籍上記載されている年齢、または、周囲の人たちからの扱いによって決まる年齢。

肉体年齢は、体そのものの年齢(正確には肉体の状態。これも人さまざま)。

精神年齢は、心の年齢--

ところが年齢というのは概念・観念でしかなく、妄想に過ぎないから、自分で〇歳だと判断しない限り、年齢は存在しない。

つまりは、歳を取らない。


妄想しない技術を身に着けると、年齢という妄想さえ飛ばすことができるから、

夏に向かう子供のような心の状態に持って行くことも、可能になる。


「あら、この心、ほんとに年齢が存在しない・・」ということを自覚した次第。


「心は歳を取らない」ということを、あらためて確認したのでした。

 この心が歳を取るのは、いつの日か?





2025年5月中旬


夏の日本全国行脚2025 訪問地募集!

九州・博多訪問決定

8月 2日 (土曜日)⋅13:30~16:30
勉強会~仏教でこれからの生き方を考える 日本全国行脚2025九州

今年で13年目の草薙龍瞬・夏の日本全国行脚。九州博多を訪問します。参加者からの質問に答える形で内容を構成します。これからの生き方、働き方、夫婦・親子の悩み、子供の進路や学び方など、幅広いテーマを取り上げます。

参加希望者は、①お名前(実名) ②簡単な自己紹介 を koudounosato@gmail.com まで。折り返し当日の会場の場所を含む案内をお送りします。

参加費2000円(※経済的ご負担の大きい方はお気持ちでかまいません) 

※子供が同伴する場合は勉強道具・本などを必ずご持参ください)。乳幼児の同伴は歓迎します(途中退室も自由です)。

 

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


今年も夏の日本全国行脚を開催します。

北は北海道、南は沖縄まで――お声かけていただけるところに、草薙龍瞬がうかがいます。

○仏教に触れたい(講座・勉強会・座禅会などを開きたい)
○法事をやってほしい
○個人的に相談したいことがある

など、お気軽にご応募ください。


夏の全国行脚は2013年から。今年で13年目に入ります。

よき夏の思い出作りに、
お一人では解決できない物事を解決するために、
止まっていた人生を前に進めるために、

ぜひご活用下さい。


◆◆◆◆◆◆◆
<訪問地募集>

期間 7月9日から9月15日まで:

7月9日(水)~21日(月祝) 西日本 近畿・中部・ 山陽・山陰
7月26日(土)~8月3日(日) 四国・九州
8月9日(土)~17日(日) 関東・東北・北海道
8月23日・24日(土・日) 北陸・甲信越
8月30日(土)~9月7日(日) 沖縄


◆◆◆◆◆◆◆
<確定済みスケジュール>

※スケジュールは、確定次第、公式ブログ内のカレンダーで公開します:

7月9(水)・10(木)・11日(金)
南大阪・看護専門学校特別講義(3日間) 
※医療従事者で見学をご希望の方はご連絡ください。詳細をお知らせします。


7月11日(金)午後 
神戸・講演会(非公開)

7月15日(火)午後 
愛知・栄中日文化センター

7月16日(水)
大阪・岸和田 公開市民講座

8月19日(火)午後 
愛知・栄中日文化センター


9月15日(月祝)
愛知・高蔵寺 特別講座 仏教で思い出そう「あの日の幸福」を 


◆◆◆◆◆◆◆
<全国行脚への応募方法>

1)応募のご連絡

下記をメールでご連絡ください:

①お名前 
②ご住所 
③連絡先(携帯番号)
  +
④訪問を希望する場所
※およそでかまいません。「自宅を希望」「〇〇という公共施設の使用を考えています」等)

⑤訪問希望日
※「〇月〇日から〇日までの間」「〇月〇日を希望します」など、およその日程をお知らせください。

⑥応募理由
※「仏教の勉強会を開きたいです」「〇〇について相談したいことがあります」「親族を集めて法事を執り行いたいです」等

※初めて応募する方は、詳しい自己紹介をお願いします(仕事・日頃の生活・課題などなるべく具体的に)。 
※勉強会については、会場を手配していただくことになります。告知は興道の里でも行います。
※個人相談をご希望の場合は、相談内容をなるべく具体的にお知らせください。内容をふまえて訪問の可否を検討します(さまざまな用事を調整して最終決定しますので、必ずお応えできるわけではありません。あらかじめご了承ください)。

※①から⑥までの記載が不十分・不明瞭な場合は、返信差し上げておりません。あらかじめご了承ください。


2)興道の里からご連絡

*ご応募内容を興道の里のほうで検討し、お応えできる可能性がある場合は、興道の里事務局から折り返し案内メールを差し上げます。

*全国行脚期間中は、直前のご連絡でも、スケジュール調整が可能であれば対応しています。いつでもご応募ください。


3)訪問日・場所の確定

*ご連絡をいただいてのち、事務局と応募者との間で、訪問場所・日時等の詳細を確定していきます。

*講演・勉強会など公開企画については、公式ブログ内のスケジュールに掲載するとともに、一般向けにも告知いたします。


4)予定日に訪問します


◆◆◆◆◆◆◆
<その他>
*いずれも真摯な動機・意欲が伝わってくることが条件となります。

*勉強会の内容は、仏教・子育て・働き方・心の健康・十代の生き方&勉強法など、ご希望に応じます。開催規模の大小は問いません。

*個人相談については、相談内容の詳細をお知らせください。内容によっては、ご要望にお応えできない場合がございますので、あらかじめご了承ください。

*勉強会・講演の告知用の文面・タイトルなどは、主催者(応募者)からもご提案いただけます。興道の里もお手伝いしますので、お気軽にご相談ください。

*当日の参加費またはご負担のない範囲のお気持ち等で、交通費・宿泊費を調達します。旅の途中に立ち寄るという形式を取りますので、正規の講演・講座のような一定額のご負担を求めるものではありません。お気軽に、ご負担が過ぎない範囲でご協力ください。


ご応募・お問い合わせは、メールで  koudounosato@gmail.com までお寄せください。

お応えできる可能性がある場合は、折り返し詳細を記した案内をお送りします。


・・・・・・・・・・

夏の日本全国行脚は、毎年たくさんの出会いと学びを得られる貴重な機会になっています。
お気軽にご応募ください。


充実の夏をめざして
現地でお会いいたしましょう

興道の里・草薙龍瞬

さあ、夏が始まるよ!
(猛暑にだって負けないよ!)



一般公開
2025年5月12日



看護専門学校にて


TVドキュメント『ガイアの夜明け』で看護の世界が取り上げられています。

前半は看護の現場、後半は看護学生(3年生)の日常について。


あまり未来を見すぎないほうがいいかもしれないけれど、看護師になる(看護師国家試験に受かる)ことは、ただの出発点にすぎなくて、

その後をどう生きるか、創るか、(職場や看護の世界を)変えるかは、自分次第です。

未来は自分で選ぶもの。まずは出発点に立ってみること(立たなくちゃ始まらない)。


全国の看護専門学校で頑張っている人たちがいます。

自分よりもはるかに勤勉で、能力があって、周りを見る力があって、苦労した過去もあり、背負っているものもあって、それでも前に進んでいる人たちは、全国に大勢います。


自分一人ではないし、
自分よりはるかに優れた人もいる(同い年でも)。


そういう世界の広さに目を向けることも、謙虚さを取り戻すきっかけになってくれます。

謙虚になると、心が安定するのです。そして本来のなすべきことに戻れます。




いつまでも負けてはいられないだろう?

 

瞑想(自己理解)が進むとは、こうした矛盾(というか、思いと思いの連鎖)に自分で気づいて、切って分けることができるようになることです(だから”智慧”にも近くなってくる)。

執着タラタラ、というか執着を前提にして物事を考えてしまう。考え方も関わり方も、すべての足元に執着がある。努力さえも、執着をかなえるため。

だからこそ、自分の範囲でできる努力をはるかに超えてくる他者の言動に動揺して、不安や悲しさに呑まれてしまうのです。

すさまじく強い執着です。だからこそ弱い。


足元にある執着にまだ心の自由を奪われているから、簡単に足元をすくわれる。

執着する人というのは、相手からすると、凄まじく弱っちいのです。簡単に転がせてしまえる(笑)。転がされてしまう。身に覚えのある人は多いはず。


座談会の後半は、相手に執着を向け続けているからこそ、動揺するし、疎外されるがゆえに自信が持てない人の声を取り上げました。いわば負け続けてきた人たちの声です(←否定的な意味ではなくて、事実としてそうなっていたという意味です^^)。


大人になれ。

強くなれ。

そろそろ勝たないと。勝て。いつまでも負けてはいられないだろう?


そうお伝えしたのです。

 

2025・5・5某所にて 

ひっそりと、つつましく


このプロジェクトがどのような規模になるかは、未知数です。

つつましく、でも確実に、というこれまでの方向性に沿って進める予定です。


できあがってしまった社会と人を変えることは難しい。

育てるならば ”芽” の段階からと、これまでの活動を通じて痛感したことが、きっかけです。


仏教だけでは、新たな価値を創造できない。

仏教ほど、人によってどうとでも受け取れる思想は、他にないかもしれない。

ゆえに都合よく利用され、奪われ、変容していく傾向は避けられない。


仏教と、金儲けや自己顕示とは、相容れない水と油、別宇宙のようなもの。

本来の仏教は、ただ、

苦しむ人のために、

自分の命を、この世界の片隅で、人の幸せのために活かそうと頑張る人のために、ある。



この世界はあまりに利己と狡猾と虚栄に満ち、

仏教という智慧さえも、私欲のために使おうとする場所だから、


仏教というものを、汚されず、利用されることなく、

本当に必要としている人に向けて届けようと願うなら、


必然的に、世にあって世に染まらず、

欲と怒りと妄想に満ちたこの世界とは、一線を引いて、

自己をさらすことなく、目を引くことなく、

ただひたすらに陰のなかを、地道に、つつましく進んでいくことになる。


この場所は、世俗的価値を追求しない。

そうしたものへの執着は、とっくの昔に手放しているから。


時流・世相に感化されることなく、

50年後も色褪せない普遍的な価値を遺せるように、

残りの時間を使って参ります。



わかる人たちに向けて

草薙龍瞬



仕事は誰のためにするものか


仕事は、相手のためにするものです。

仕事(経済的労働)とは、自分が持っているものを提供して(働いて)、その対価として報酬を受け取ることです。

だから、投資とは違うし、ボランティアや趣味とも違う。

投資は、文字通り資本(お金)を投下して、誰かに稼いでもらって、その利益の分配を受け取ること。

ボランティアは、報酬を受け取れるだけの経済的価値あることをするけれども、あえて報酬を受け取らない関係性のこと。その関係を引き受ける動機は、人さまざま。

趣味は、自分が好きだからやること。経済的価値とは関係なく、自分がそうしたいからするという自己完結型の行為。

これらに対して、仕事はあくまで自分の務めを十分に果たして、相手がその価値を認めて対価を払う。そういう対等な関係性です。



だから仕事(働き方)の基準になるのは、この仕事が本当に相手の役に立っているか、これが相手が求めていることか、ということになります。

自分にとってはよかれ、正しい、価値があると思っていても、相手にとってはそうでない可能性もあります。

自分は頑張っているつもり、できているつもりでも、相手にとっては、求めているものと違うということが起こりうる。

こうした関係性においては、一方(仕事を提供する側)は「こんなに頑張っているのに」と感じている半面、相手は「いや、そこではありません(求めていることが違います)」ということになってしまいがち。

この関係性が悲劇となりうるのは、双方に不満が募っていくこと。一方は「頑張っても報われない」と感じ、他方は「求めていることと違う」という不満が募る。

これは、あらゆる仕事の場面で生じうる不幸な事態。さて、どうするか?



解決策はシンプルです。

「そもそも誰のためか?」を自分の立場で考えて、「そのために自分がなすべきことを十分にやっているか?」を振り返るだけでいいのです。

自分がなすべきことというのは、本当は決まっているもの。それほど難しいことではない。

まずは絶対に外せないこと――自分が引き受けた仕事においては、これだけは絶対にできなければならないという一線(最低限の基準)がある。

その一線を踏み外してしまったとき、自分の仕事に「穴」が空いてしまったときは、その穴が相手の不満を買ってしまったのだと理解する。

「穴」に気づけるか。自分が穴を作ってしまったことを受け止められるかどうか。

そして、穴を埋めることを真っ先にやる。「なすべきことは全部きちんとやりました」と言える状況に持っていく。

そこまで進んで初めて、仕事における不満が、理由のある不満なのか、相手側が作り出しているだけの理由なき不満なのかを区別できるのです。



仕事で空けた穴を埋めることができるか。

仕事ができる人と、できない人との区別が分かれていくのは、このあたりです。

できる人は、きちんと穴を埋めようとします。実際に埋める。そのことで、仕事という最初の約束を守ることができる。自分の能力、資格、信頼性というものを復活させることができる。

穴を埋める努力ができる人は、自分が空けた穴(失敗・落ち度・欠落・ミス)を自覚できるから、その体験を次に活かすことができる。

「やってしまった、今度は絶対に繰り返さないようにしよう」と考えることもできる。

穴そのものは、つい空けてしまうことが人間の定めのようなものだとしても、

穴を空けた自分に対して悔しさや落胆(広い意味での怒り、自分への)を覚えることができるから、

「こんなことをしていてはダメなんだ」と思い直すこともできる。

そう考えることができれば、できなかった・しなかったことを、今後は”できる・やる”に換えることができる。

成長し続けることが可能になるのです。



穴を空ける、つまりは相手が求めていることに応えきれない事態――は、不注意、疲れ、倦怠、混乱、散漫、おごり、さらには老化(心か体の機能低下)によって生じうる。

穴は次第に大きく、しかも数が増えていく。その可能性は、老いる定めにある以上、避けられない。


大事なことは、そういう自分にどんな理解の眼を向けるか。

増えてきた穴というものを自覚できるかどうか。

「以前はできていたことができなくなっている」
「早くできたことが遅くなっている」
「気づけたことが、気づけなくなっている」
「回っていた頭が、回らなくなっている」

と客観的に自覚できるかどうか。


一番の問題は、「穴が空いている」ことに気づけなくなること。

これは本当に気をつけなければ(注意しなければ)いけないことだけれど、

穴が空いている、空きつつあることに気づかない、

それどころか、自分は以前と変わらずできる、できていると思い込んでしまう。

それが、世間でいう老いの最大の特徴なのかもしれません。



老いをなるべく遅くする、減らす、留(と)めるには、どうすればいいか。

やはり自覚することです。「できなくなっている」「穴を空けてしまうようになっている」自分に気づくこと。

そのきっかけが、仕事においては、相手からの不満や指摘だということ。誰かの声は貴重なサインでありメッセージになりうる。

そこで自分のプライドが邪魔したり、「そういうあなた・あの人はどうなんだ」的な不満を持ってしまったら、それこそが自分自身の、仕事人生の危機。

空けた事実はあるのに、穴を埋められなくなってしまうから。

穴が空いた(穴を空けた)自分だけが残ってしまう――ならば当然、空け続けることになってしまう。


老い、衰え、退化という現象に逆らうためにも、自覚することは欠かせないのです。

年齢や人生の段階に関係なく、どんな場面にあっても、とりわけ仕事という場面においては、

「自分がなすべきことを、すべてできているか」を基準として、その基準をクリアすることをめざす。

それが最後に残る正しいあり方であるように思えてきます。




仕事の流儀というのは、本当はすごくシンプルです。

自分がなすべきこと、できていなければいけないことを、確実に、すべて、できること。

自分の側の仕事については、満点を出せること。

仕事を始めたばかりの人は、自分に満点を出せることをめざす。失敗して叱られたり、クレームを受けたりするかもしれないけれど、穴を埋める貴重な声だと思って、穴を埋められる自分をめざす。そこで反応して止まっていたら、穴を空けるだけの自分が残ってしまうから。

穴を埋められる自分になった時に初めて、人に何かを言われても、動じない自分ができるのです。

動じない自分とは、穴を空けない自分。空けてもすぐ埋められる自分。埋める力があるとわかっているから、うろたえない。自己弁護に走る必要もない。「すみません」と言って、即座に穴を埋める。

その努力を続けるうちに、穴を空ける回数も減ってくる。「なすべきことはすべてやっています」と言えるようになる。「これは自分で空けた穴ではありません」と区別がつくようにもなる。

そこにいるのは、”仕事ができる自分” です。やりがい、生きがい、誇りも入ってきます。



仕事の関係がややこしくなるのは、自分の側でできていなければいけないことがあって、それができていないのに、外に不満を向けてしまうとき。


これをやってしまうと、最果ては、ぜんぶ外の世界(相手・職場・仕事)が悪いんだ、ということになっていく。自分が空けた穴を棚上げにした、いわば責任転嫁メンタルに落ちてしまう。

この罠にはまると、話がややこしくなる。仕事はこじれ、人生が進まなくなる。


すべては、「自分がなすべきこと」がおろそかになったところから始まっている。



自分が空けた穴を、相手への不満に転嫁しては、仕事人生は終わってしまう。

これは、自分自身の問題であり、自分自身の闘いなのです。

穴はますます大きく、多くなっていくかもしれない定めにあって、

その定めにあらがって仕事ができる自分をどこまで保てるのか、という闘いです。

この闘いに勝つには――正確には敗北、いや ”仕事人生からの卒業” をなるべく先延ばしにするために、何が必要かといえば、

自分が空けた穴を自覚すること。「やばい(自分)」と思えること。


まずは自分自身と闘わねばなりません。





2025年5月3日
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人と人は理解し合えるものか


最近寄せられたおたよりにちなんで、人と人は理解し合えるものか?という問いについて考えてみましょう。

もともと理解というのは、人の心(厳密にいえば脳)の中で「わかった」と思えること。

それは、自分の中での認識(そういうものだと認知する)であり、実感(感情をともなう認識)といえるかもしれません。


自分が「わかった」と思える、思った。


でもそれは、相手の思いとは違うかもしれません。相手の心(脳の中)を確認して、すべての思いと自分の思いが一致しているかを確認することは、物理的に不可能だから。

もしそんなことが可能になったとしても、すべての思いが一致している確率なんて、宇宙の中で自分とまったく同じ心と体を持った生き物を発見する確率と同じくらい低いかもしれない・・それくらいのことかもしれません。


理解する・わかるというのは、あくまで自分が理解できた・わかったと思える範囲でのことなのだろうと思います。

その時点での、自分にとっての理解。でも、相手の思いや理解とは違うもの。

その意味では、分かり合うということは、ないのかもしれない――。


「あなたの気持ちはよくわかるよ」という言葉があるけれども、正確には「わかる気がするよ(すべてを正確にわかっているとは言えないけれど、わかる気がするような気がする・・今の自分にわかる範囲では」

と表現するほうがいいのかもしれません。




では、わかり合えるといえる場面や関係性は、どういう時に成り立つのか? 厳密にはわかり合っていないとしても、それでも話が通じる、わかってもらえた、そうだよねと納得できた、共感できたと感じられるのは?

それは、二つの思いが、ある程度共通していることが互いにわかるとき。

同じものを見て、互いに何かを感じたり考えたりして、

その思いや感情が似ているなと思えたり、伝わってきたり、言葉で「そうだよね」と確認しあえるときなのかなと思えてきます。

「話が合う」「この人ならわかってくれる」と感じられる

そこまでいかなくても、「この人はわたしのことを(この人なりに)想ってくれている」と感じられる。

たとえば、仲のいい友だち同士とは、話を聞いてくれる、伝わっている、こちらもよく聞いて、理解できる気がすると感じ合える関係です。

そういう関係なら、厳密にはいろいろとズレていたり、勘違いがあったりしても、わかり合える関係でいられるような気がします。

わかり合うというのは、アバウトなものなのです。だいたい、おおざっぱ、大まかに見れば・・同じものを見ている、感性や嗜好や価値観が近い、おおよそのところで話が合うと思える。

それが、わかり合える(理解し合える)ということなのかもしれません。



このアバウトなわかり合う関係というのは、そのままアバウトにわかり合ったまま続くこともあるし、わかり合えていなかったことが発覚することもあります。友情、恋愛、夫婦、親子・・あらゆる場面で起こります(そもそも完全な理解の一致はありえないからこそ)。

そのときは、「相手をわかっているはず」という思いは、ただの勘違いだったと気づくことになります。

「相手にわかってもらえている」という思いも、勘違いだったとわかることになります。

そのときに何を感じるかです。


もともと厳密な意味でわかり合うことは不可能。人は、他人の心(脳)をのぞけない。合わせることなんてできないし、合わせてもらうことも不可能。

だから、「ああ、勘違いだったんだな」と理解すること。相手は自分と違っていた、完全に他人(別の生き物)だったという事実を知るということです。


完全に他人だったという事実を、そのまま受け入れるなら、「そうなんだ、そうだったんだ、でも考えてみたら、当たり前か」という思いになるかと思います。

他方、もしそのときにショックや落胆を感じたとしたら、それは、わかっている、わかってくれているという”妄想”が作り出す反応です。

もし怒りを感じたとしたら、それだけ自分はわかっている、相手にわかってもらえていると思い込んでいたということ。実は違っていた現実に、妄想で反応して、怒っているということになります。


これらは、そのときだけの反応です。その反応がずっと続くとすれば、”執着”しているということになります。

執着は、相手への期待、要求、願望を止められないからこそ生まれる心の状態。

広い意味でいえば、承認欲から来る思いです。なぜ承認欲が長引くかと言えば、妄想ゆえということになります。

わかってほしい、わかってくれるはず、という相手に向けている自分の側の妄想。

わかりたい、努力すれば相手のことをわかるはず、という、これもまた自分の側の妄想。


この妄想は、間違っているわけではありません。こういう妄想があるから、人は人を好きになるし、信頼するし、わかろう、わかってもらおうと努力するのです。ほどほどの妄想は、人と人とをつなぐ、大切な接着剤(という言い方が無粋なら”きずな”のようなもの)です。

ただ、その一方で、この妄想が、わかり合えないどころか、苦しみをもたらしてしまうことも起こります。これは妄想過多の状態。求めすぎている、相手に夢を見てしまっているということかもしれません。

おそらく最も自然な関わり方とは、多少の妄想を、相手への好意や愛情や信頼の証だとして保ち続けて、それをエネルギーとして関わって、そのことで自分だけでは作り出せないさまざまなことを、人との関わりの中で体験することです。

この点においては、やはりほどほどの妄想も、人とのつながりも、大事なものなのです。



でも、その妄想が、落胆、怒り、悲しみといった自分を苦しめる感情をもたらすのなら、そしてその状態が長く続いているのなら、

その妄想は正しいものではないのです。過剰、あるいは勘違い、かもしれない。


とはいえ、ならば自分が妄想をすべて捨てて、執着を断ち切って、それでもその相手と関わり続けるのか?といえば、それは正解とはいいきれません。

その妄想(人への思い)は、自分の生き方や性格につながっているかもしれない。

その妄想はそのままでも、他の人には通用する、生きる、「わかり合える」と思えるかもしれない。

そのときは、その妄想は正しいものになります。価値がある。それは、人との関わり次第で変わるのです。相性次第ということでもあります。


もし自分の側の妄想や執着も、自分にとっては悪くないもの、それなりに価値があると思えるならば、

そのときは、そういう自分(妄想込み・執着込みの自分)を選ぶ。そのうえで「合わない相手」をどうするのか、関わり続けるのかを考えることになります。


この見極めは、けっこう難しいものです。

ほんの少し自分が妥協すれば(妄想を減らせば)、わかり合える関係になれるかもしれない。

でも、相手はまったく別の生き物で、こちらの思いを理解しようとも思わない人間で、

そんな相手に自分が歩み寄れば寄るほど、自分を見失って、犠牲になって、自分が何をしているのか、なんのために生きているのかわからないという状態になってしまうこともあります。


ではどうすればいいの?と思いますよね(笑)。

やはり「今の自分を大事にする」ということだろうと思います。

自分は、今の自分を生きることが基本。生まれてきて、ここまで生きてきて、自分に体験できる範囲でいろんな感情や考えた方を育ててきたはず。

そうやって育ててきた自分を前提にして、軸にして、そんな自分と話が合う、わかり合えると思える相手を大事にするほうがいい。

どんなに頑張っても、自分は他人にはなれないからです。


わかり合えると思える相手の数は、かなり限られてきます。気の合う友だち、異性、家族、仕事仲間・・たまにいるかもしれない。いないかもしれない。

ほとんどの人たちは、ほどほどにわかり合える関係でいられる人です。「完全にわかり合える」ではなく。

それでも寂しくない、苦痛にならないのは、相手に過剰な期待や願いを持たないから。「ほどほどでいられれば、それでいい」と思えるからでは?と思います。


「ほどほどにわかり合える、でも自分は自分のままで生きていく」

そんな自分にたどり着くために、人は学びながら、互いにほどほどに生きられる自分と相手を探して、生きていくのだろうと思います。



まとめると、

人はわかり合えないもの。それはごく自然なこと。

「ほどほど」の関わりの中で、自分も相手も心地よくいられる関係をめざす。

そうした関係は、

過剰な妄想、長引く執着を自覚して、その都度リセットして、卒業して、

人に求めすぎず、それでも怒りや落胆を感じたときは、自分の側の妄想に気づいて「ほどほど」に帰る――。

そういう繰り返し、積み重ねで、育っていくような気がします。


草薙龍瞬『消えない悩みのお片づけ』ポプラ新書 から





2025年5月2日

いろんな場所で

春は本当に良い季節です。

新入生、新入社員・・若くてキラキラしている人たちが社会に入ってきます。

未来を見て、人を信じて、だからこそ優しくいられるというのが、本来の若さなのかなと思います。

(歳を重ねると、未来ではなく終わりを見て、人を疑って、やっかんで、だからこそ寛容になれない・・という大人もいたりします^w^;。野暮な対比ですけれど)

「彼らがこの世界の未来を創っていってくれるんだなあ」と感じてほのぼのできる、そんなJI&BAでありたいと思います(笑)。

※JI=じじ BA=ばば これも余計な注釈ですがw)


個人的には、この春は、人生の局面が大きく変わった季節です。人生そのもののパラダイム・シフトというか。

これまでは独りで生きて、自分の力でなんとかする(せねば)という人生でしたが、

この先は、人さまとのご縁によってさずかっているものを、どう未来に、もっと美しい可能性のために活かすか、ということを真面目に考える人生に入っていく気がします。

「育てる」ということ。この手のひらに受け取ったものを。未来を。

これは、完全に新しい挑戦です。

生きるというのは、面白い。

それを教えてくれたのは、この場所(本)を見つけて、これまで関わってきてくださった皆さんということになります。


見えているご縁も、見えていないご縁もあるようです。

いろんなところで、誰かが見つけて、その心に新しい何かを宿してくれている。

そんなことを教えてくれるおたよりもいただきます。たとえば・・


東京新聞2025年4月29日朝刊

大きくなったら何になる?

 

「若い」というのは、年齢というよりも、どんな時間を過ごしているかで決まる気がしてきます。

若い人たちの特徴は、まったく新しい(未知)の体験に飛び込んでいること。

そのぶん緊張や不安もあるのかもしれないけれど、「やってみる」ことに踏み出せる。前に進むことが当たり前。身も心も、それができるようにできている。

体験することを恐れない。体験そのものが生きること。

それが、若さの特徴のような気がしてきました。



では、そうした若い命(※若いという言葉を連発すると、そのぶん自分が年寄りになった気がしてよろしくないのですが笑)のそばにいる大人の特徴はどうかというと、これは2つに分かれる気がしてきました。

1つは、「やってみる」姿を見て、自分も喜びや楽しさを感じられる大人。

もうひとつは、自分のほうに意識が向いていて、やってみる姿に共感できない大人。

後者は、仕事か、趣味か、過去か、性格か、人によっていろいろだろうけど、若い命のそばにいても、別のことに心を使っている。 いつも気難しい顔をしていたりして。



考えてみたら、心はとらわれることなく、自由にして、流れ続ける状態が、本来の幸福(快)であるはずだから、


そうなることを促してくれる、若い命の「やってみる」の間近にいられることは、すごく貴重にして幸福な時間のはずなのです。

自分にとらわれずに、若い命(幼い子であれ、小学生であれ、高校生であれ)に心を合わせて、自分も喜びを得るという、

それができる、親、学校の先生、保育士さんたちは、実はすごく贅沢な時間を過ごせているということ。

人間というもの、自分一人で幸せを感じるのはそもそも苦手な生き物なのだから、ほんとは、若い命に合わせれば(ときに一緒に遊んでもらえれば)一番いいのかもしれません。

それができるためには、”自分抜き”、つまりは自意識を抜く、すなわち妄想を解除することが必要になってくるのだけれど。



「大人になったら何になる?」という質問は、将来、望みが叶うとしたら何をしたい、何になりたい?ということ。

ちなみに私が今なりたいのは、保育士さんです。

資格を取れるのかどうか(取っても雇ってもらえるかどうか笑)わかりませんが、今ならできる気もします。

保育という仕事の難しさや責任は別の話として、幼い心に自分の心を合わせることは、昔の自分よりも、今のほうがはるかにできるような気がするのです。

”自分抜き”ができると、遠い昔の自分が感じていたこと、考えていたことも、わりと自由に思い出せます。机の引き出しを引くかのように、当時の自分を取り出せる。相手の心に合わせることもできる。

大人の引き出しと、子供時代の引き出しを、自由自在に引き出せたら、相手に合わせることが可能になる。「遊べる」ようになる。

子供の相手がすごく上手な保育士さんや学校の先生がいるけれども、そうした人は、引き出しを引くことが上手なのだろうと思います。心が自由。だから軽やかに引ける。

若い命のそばにいられる人は、自分抜きをして、いろんな引き出しを錆びつかせないようにして、楽しく過ごしてほしいなと思います(お節介ではなく、自分もそうありたいという純粋な願いとして)。

今いるその場所が特等席みたいなものだから。



2025年4月下旬



春は別れの季節

 

某出版社の担当編集者Tさんが早期退職するという。突然の話。

西日暮里でお別れ会(?)をすることになった。

担当者が変わったら、本はよそ者になってしまうので、進行中の企画(十代の生き方・学び方)はいったんお蔵入りに。というより、版元を変えて出すことになった。

本づくりは、今の時代には割に合わない仕事だ。一生懸命書いて、編集して、校正かけて、デザイナーさんに凝ってもらって、印刷所の人たちの労力も介して、

あの厚くて重たい紙の本が出来上がる。それでも一冊1500円行くか行かないか。

90年代は、初版1万部が標準だった(それでも売れた)のに、今は4000部くらいで出して様子を見ることがほとんど。

本の原稿はライターさんが書くことも多いが(私の本は違うけれど)、今や本の数も印税率も下がっているから、著者だけでなくライターも食っていけなくなりつつあるのだとか。

出版業界が元気だったのは、80年代から90年代か。雑誌もムック本もよく売れた。だがパソコン(特にWindows)が登場して、スマホが登場して、プラットフォームが情報空間を寡占して、SNSや動画が普及するようになって、人々は本に手を出さなくなった。決定的な理由は「本を読むよりラクだから」だろうとは思う。

90年代は、カバーや帯も色校といって、何色か見本を出して、どっちがいいかなんて編集部内で話し合って、そのやりとりが楽しかったのに、今はそういう費用もかけないのだそうだ。表紙の次に来る色紙(厚めの画用紙みたいなページ)も、今はつけなくなっているとか。

雑誌やムックなんて、仕上げの段階では連日の徹夜だった。若い女性編集者も長髪で明かりを遮って、椅子を並べて簡易ベットにして寝ていたりした(寝起きは貞子状態)。

そんな時代もあったけれど、今は本も売ることが難しくなって、雑誌・ムックも廃刊が続いている。

Tさんの出版社では、社員の3分の1が早期退職に応じたのだそうだ。会社のカラーも影響しているようだけれど、「割に合わない」ことを実感している人がそれだけ多いということかもしれない。

二十代の頃、書き手ではなく、作り手として、出版業界の内部に”居候”していた時代がある。いろんな人たちがいた。作家もライターも編集者も出入りする人たちも、語弊があるかもしれないが、クセのある人たちが多かった。

本や雑誌を作るというのは、そういうクセのある人たち、闇を抱えた人たちにとっての溜まり場的な意味もあったように感じるけれど、この業界が小さくなっていったら、当時出会ったあの人たちは、どこで生きていくのだろうとふと思う。

世の中、世渡り上手な人ばかりではないだろう。その時代の風潮とかお金儲けの仕組みとか、そういうものに乗り切れない人だって、たくさんいる。

不器用でも、闇を抱えていても、クセがあっても、それなりにみんなが生きていける、そんな世の中であってほしいし、本に人生の時間を注いできた人たちが全員生き延びていける社会であってほしいと思う。難しいけれど。

「もののけ姫のテーマソングが聞こえてくる」という話になって、一緒に笑った。

次の仕事はまだ考えていないという。ゆっくり休んで、また新しい未来に歩んでゆかれることを願って手を振った。

春は別れの季節でもあった。



2025年4月25日



まだ彼岸にて

台湾メディアの人たちと東京・九段下で例の打ち合わせ。

オンライン配信は、コンテンツをどう切り抜かれるかわからない怖さがある。正直、手の届く範囲で価値を創り出せれば、個人的には満足なので、彼らが期待するほど、メディア露出(特に海外に)しようという思いになっていない。

だが、たしかに時代は、本ではなく、動画・映像に向かいつつある印象。本は、目を使い、頭を使って、活字(視覚)情報を、脳内の思考情報(知識やノウハウ)に移し替える必要がある。

それは、本来の脳の使い方(そこまでやらないと、知識は定着しないし、行動にも移せない)ではある。だがたしかに、ある程度の労力(意識というエネルギー、いわば心のカロリーの消費)が必要だ。

動画がなぜ人気かというと、思考情報に変換する手間が省けるのだ。音声で聞ける。活字ではなくビジュアルで把握できる。「見ているだけで、ある程度情報が手に入る(気がする)」のだ。

もっとも本来は、そうしてインプットした情報を、言葉または身体の動きに変換できないと、得た・学んだことにはならない。そのままでは見っぱなし、聞きっぱなし、で何も残らないことになりがちだ。

「いざ語るとしたら、行動するとしたら、その情報をどう活かす?」というところまで考えて、実際にやってみる(アウトプットする)必要がある。動画情報も同じこと。

その点では、動画であっても労力は必要なのだ。でもそこまでの労力が求められる(試される)機会はないから、たいていは見っぱなし、聞きっぱなしですんでしまう。結果的に、ずっとラクしていられる。だから「本よりも動画」になってしまうのだ。



情報を言葉や行動レベルに落とし込めるだけの「読み込み力」(学習力)を持っている人は、多くないかもしれない。だから、本であれ、動画であれ、”人それぞれの現実を変え、現実を創りゆく力”(効果)は、さほど変わらないのかもしれない。

力(効果)が同じなら、アクセス数(届く人々の数)を増やせば、全体の効果は上がることにはなる。ならば、動画も本以上の価値はあるのかもしれない。

ただそこまで論が及んだ時に、動画・ネットメディアの無秩序さ・低俗さ、それゆえの怖さ、そこに露出することのリスクを考える必要が出てきてしまうのだけれど。

そういう世界に身の半分を置いてよいのかどうか。置く価値があるのかどうか。

置けば、確実にプラスの価値も創造できる。それは確かだろうとは思うのだけれど。



台湾では、『反応しない練習』がロングセラーで、『これも修行のうち。』が続く。今は『大丈夫、あのブッダも家族に悩んだ』『怒る技法』が翻訳進行中。

『怒る技法』は、韓国版、アメリカ版が進行中。

『反応しない練習』は、韓国、台湾、中国、シンガポール、インドネシア、オランダ、ドイツ、ルーマニア、ポーランド、ハンガリー、スペイン、イギリス・・・(正直把握しきれていません笑)。


”合理的な心の使い方”というアプローチ(それが妄想を抜けたブッダ本来の伝えたかったことだろうと理解しているが)は、斬新ではあるだろうし、

宗教という踏み絵を敬遠する人々が求めることは、わかる気がする(それでも正直、どこをどのように受け入れてくださっているのか、著者としてはいまだによくわかっていないところがあるのだけれど^^;)。

理想は、自分自身は出て行かなくても、本が頑張って未来に遺ってくれること。リアルタイムの人生は、小さな創造の満足だけで終わらせることができれば、それが一番無難で安全。誰にも見つからず、人さまの不満や干渉を受けずに、静かに生きて終わること。

まだまだ自分の中でやらねばならないこと、できることはあるから。


まだ”彼岸”を選んでいる自分がいる。



『怒る技法』韓国語版
真ん中の4文字はメンタル・アーツ(心の技術)なのだそうです



2025年4月25日


自分を救えるのは自分だけ

生きるという当たり前のことが難しくなっている――

その理由は、過去にあります。たとえば①自分が罪深い存在だ、生きる価値がないと思い込んだか、②誰かとの関係性で刷り込まれたか、です。

①は、自分自身の思い込み。②は、たいていは親との関係性です。

たとえば、親が子供を徹底して否定してきたか、病的に干渉・支配・搾取してきたか。

普通に生きることをことごとく邪魔してきた「毒親」だった可能性があります。


こうした親に、生命としてのエネルギーを挫かれ、「生き血を吸われて」、独り立ちする機会を失ったまま、歳を取る――こうした人は少なくありません。

若い頃から自立を妨げられて、人生がうまくいかなくなった。50代に入った頃には、心身ともにボロボロ。苗木だった自分に養分が回らず、もやしのような心と体と化している(もやしのほうがまだ元気かもしれません)。そんな状態に至る人もいます。


外に出る体力・気力も湧いてこない。実家にこもっているしかない。

だがその実家には毒親がいて、昼夜生き血を吸い続けてくる。

本人としては、生きているのか死んでいるのかもわからない。生きている実感がまったくないから、死んだほうがマシかもと思う。

そういう半生半死状態でも、考えること(妄想すること)は可能です。妄想は低出力で、ほとんどエネルギーが要らないから。


その時に湧いてくる妄想は、現状維持を好む傾向があります。あれこれと理屈をつけて、「留まる」ことを選んでしまうのです。それが最もラクだからです。


本当は、脱出して毒親との縁を断つことが先決であり、それが唯一の解決策です。脱出して自由になれば、生きるエネルギーくらいは自然に湧いてくるものです。

ところが、そうした選択肢を、怖い、億劫、気力が出ない、お金がない、親がかわいそう、そんな自分は子供としてどうなのか・・等々と理屈をつけて、みずから潰してしまうのです。現状維持の重力に囚われているから。

こうなると、自分が干からびて死ぬまで、生き血を吸われ続けます。

でもそれが自分が望むことだから致し方ない――という希望のない状況にたどり着くのです。


思考を拒み、行動を拒む。親に人生を挫かれてきた人は、それでも親を敵に回したくない、対決したくない、怖い、愛されたいという夢を失ってしまう、外に飛び出すより家の中で生き血を吸われているほうがラク・・・いろんな思惑をめぐらせているものです。

出口の見えない現状維持の迷宮の中で、唯一できることが、妄想(楽だから)。

その曖昧な妄想の中で、現状に留まるための理屈が浮かんで来たら、それに飛びついて、言葉にして、自分にとっての答えにしてしまうのです。「やっぱり今のままがいい」「この状態しかない」「きっとこれが私にふさわしい状況なのだ」と思い込む。

こうして、現実は何一つ変わらず、ただ現状に留まり続けるのです。




そもそも生きるという、どんな生命でも当たり前のようにやっていることができない。

その原因は、生きることを妨害し、生きるエネルギーを吸い取ってきた環境にある。

ならば、その環境を抜け出さなければ、生きるエネルギーを取り戻せることはない。

環境に留まったままあれこれと考える妄想は、すべて意味がない。


原因は明らかで、方法も明らか。

脱出して自由になりなさい――。



それが正解ということになります。あまりにわかりやすい、過去に何度も聞いていることです。

あとは本人の決意と行動次第です。



自分を救えるのは、自分だけだということです。

他人の妄想に甘えるな、ということでもあります。




2025年4月下旬



「そんな人生もあったらいいな」の5年後

 

そもそも興道の里の「興」の字は、実は 同 ではなくて、幸 を両手で支え持つという象形文字です(勝手に造った漢字(笑))。

日本に帰ってきた2011年夏に、この国の幸せを増やせるような活動をしようと考えて、最終的に選んだのが、この呼び名でした。

「お寺のような、学校のような、里のような場所を作りたい」というのは、活動当初からお伝えしていたこと。

でも、その頃は、講座にもほとんど誰も来なかったし、本も出していなかったし、出しても(最初の本が2012年)まったく届かなかったし、

生きていけるかどうかもわからない。「いつかインドに帰れたら」という思いで、教室に竹筒を置いていたような状況でした(2013年12月にインド帰郷が実現)。

「里」と呼べる場所も、できたらいいねというくらいの話で、ほとんど現実味はなく、「せめてめざすとしたら」という、まさに方向性(妄想)として使っていたくらいの話だったのです。


幸いに、これまた奇跡というしかないくらいの幸運だったのだと思いますが、2015年夏にあの作品が世に出て、多くの人があたたかく迎え入れてくださって、

最初の方向性に、少しずついろんなご縁がつながっていって、

あのコロナ騒動に突入して、この世界の行く末と、個人的な身の置き所をいっそう真剣に考えるようになって、

いろんな偶然が重なって、今の場所にたどり着くことになりました。


この先どんな物語が始まるのか、紡くことができるのかは、これは想像がつかない(未来もまた因縁次第なので)ものですが、

それでも、方向性(意志)と因縁と、自分自身にできること――の組み合わせによって、不思議といえば不思議なことが、形になろうとしています。

本当に不思議--。


今思うのは、「めざしてよかったな」ということです。

そしてあきらめることなく(あきらめるというのは、負の妄想を選ぶということでもあるから)、

でも過剰に夢見ることもなく、

謙虚に、素直に、地道に、自分にできることを日々やり続けて、歩き続けただけですが、

その先に、最初に夢見たことが、ほんとに形になった――そんな未来にたどり着こうとしています。


下記に紹介するのは、2020年10月にお伝えしていたこと。場所を見つけるどころか、そんなことができる未来が来るとも想像しなかった頃に書いていたことです。不思議--


◇◇◇◇◇◇◇◇◇

たとえば、どこかの古民家とか、旧診療所とか、集会所など、広めの家屋を、「使ってください」と提供してくれる人が、ひょんなきっかけに現われたら、

そこで、大人と子供たちを呼んで、〇〇〇〇〇を始める――というのは、現時点でも可能。


ちゃんと生き方を伝えますよ。人は幸せになるために生きている、その方法はちゃんとある。

学校や、世の中のおかしさも、ちゃんと伝えます。

こういう生き方のインプットは、小学生までが、ひとつの勝負どころ。


大部屋使って、「学校」みたいなことを始めます。

国語と英語と社会は、かなりレベルの高い、洗練された、本物の学びを提供できます。

数学だって、使う教材を選び抜いて、センスが身に着く、本物の学びをしてもらいます。

学者や作家や、その他あらゆる世界のプロが書いた言葉や映像に触れられる オリジナル教材を作って、

中味の面白い入試問題を選んで、それを使って、論理的な読み方・書き方・考え方を、体験してもらう。

大人がやっても面白い、知的能力が確実に育つ、本当の学びを提供する。


そこでは、和尚であり、父ちゃんであり、先生です。そこで、生き方をちゃんと吸収してもらう。

道場みたいな、学校みたいな、私塾みたいな場所――それなら、今でも可能です。


で、週末とか、夏・冬の休みには、全国から親子で来てもらって、

大人の悩みにも、子供たちの学びにも、朝から晩まで、つきそって、背中を押して、送り出してあげるという――。

ちっちゃな田舎の駅まで車で送って、バイバイ!みたいな。


そんな妄想をしてみました(>▽<*)。


きれいな夕焼け空が見える場所がよいです。

そんな人生も、あったらいいな。



その5年後に本当に見上げている空

空の色だけお見せします(笑)



国の基本~万博と人口減が象徴するもの


大阪に宿を探そうとしたが、どこも高い! 例のイベントが始まってしまったためか。

日本の政治は不可解だ。カネの使い方がメチャクチャだ。

政策と予算は、第一に人々の雇用を安定させ、いざという時のセーフティネットを充実させることが基本だ。右も左も、保守も革新もない。基本である。

「結婚しようか」「子供を育ててみようか」と思えるくらいに、収入・生活が安定すること。これを第一の国家目標に据えて、政策を更新し、予算を重点配分すること。

これがある程度達成できて初めて、その他に予算を使うことが可能になる。そうした状況なら「万博でもやってみようか」という声が上がってもよい。

主と従、優先順位、基本とオマケを間違えないこと。

これは政策という思考の手順みたいなもので、例外はない。あってはいけない。

ところが、今の政治は原則も例外も滅茶苦茶になったままだ。万博開催と、昨年89万人、14年連続で人口減という話題が、ほぼ同時に上がってくるという不条理まで起きている。

実に象徴的だ。この2つの話題はつながっている。前者(万博)に代表される迷走の結果が後者(人口激減)だ。

最も憂慮すべきは、この迷走を止めるための方針が、わからなくなっていること。政治家だけではなく、多くの市民が、国の基本とはどういうものかを思い出せなくなっている。

政治・政策の基本さえわからなくなった国。政治家だけではなく、見抜けない国民にも、同じくらい責任があるのだ。
 
 
この国の人々は、賛成・反対、肯定・否定という個人的見解のぶつかり合い、支持か批判かという感情論に走りがちだ。万博についても、是か非かを言い争う声が聞こえてくる。
 
だが、こうした論争に価値はない。すぐに意見や感情の対立に流れてしまうから、事が終わればきれいに忘れて、次の話題・次の議論へと移ろうだけになってしまうのだ。騒いで、喧嘩して、忘れての繰り返し。

かつての「非国民」や「反〇〇」といったレッテル貼りによる思考停止と自己正当化は、心地よいかもしれないが、問題の本質を曇らせる。結果としての迷走、同調、閉塞と自己破壊だ。この国は同じことを繰り返している。
 

明日は野宿でもしようか。基本を踏み外した狂騒につきあって高い宿に泊まるよりは、せめてこの身くらいはまともな姿を保って、つつましく野ざらしでいるほうがいい。



4月15日

人生はシンプルでいい

 
名古屋・栄での今年最初のレギュラー講座。テーマはずばり、”ダンマ”――仏教と呼ぶより、はるかにブッダの教えに近づける言葉だ(慣れるまで聞こえは怪しいけれど笑)。

特に今日は、宗教と長く関わってきた人が来ていたから、宗教とダンマの違いをお話してみた。伝わったかな・・。


執着が強い人は、宗教のほうに親しみを感じるものだ。というのも、現実逃避を求めているにせよ、ご利益を期待しているにせよ、その執着に応えてくれる妄想に惹かれるものだから。
 
最初に執着があり、叶えてくれそうな妄想を探す。その妄想を形にしてくれると予感した宗教に惹かれる。そして「信じる」段階に入っていく。

信じることが最初に来るのではなく、本人が自覚していない執着が前提としてあるのである。

その執着は、現実から逃れたいという思いかもしれないし、承認欲を満たしたいという我欲(上昇欲)かもしれないし、心の空洞を埋めたいという願いかもしれない。

そうした執着状態にある心が、「それらしい妄想」(理屈)に触れると、「きっとこれが答えに違いない」と興奮して、飛びついてしまう。

だが、そうしたものに飛びついても、問題は解決しない。
宗教という名の妄想をエサにして、執着が生き永らえるだけだ。

足元にある原因を、つまりは執着を自覚していないからだ。
 

本当は足元を掘り起こして、いったい自分は何に執着しているのかを自覚することが近道、というか唯一の解決策だ。

自覚できれば、捨てることも可能になる。あとはその方法を知って、実践すればいいだけになる。


ブッダが伝えた、一切の苦しみには原因があって、だがその原因は誰でも取り除けるし、その方法がある、だから後は実践するだけであるという言葉は、そうした真実を語っている。

まったく難しくない。そのシンプルな真実をひっくるめて”ダンマ”と呼んでいる。


本来のブッダの教えは、宗教とはまったく違う。真逆だ。宗教という名の妄想を克服するための方法を体系化したものだ。

心をめぐる問題に、答えがない問いは、実は存在しない。答えがない、考えてもわからないように見えるのは、自分の心が妄想によって曇らされているからだ。

心の苦しみについては、ほぼ百パーセントと言っていい確率で、抜け出せる。そもそもその苦しみは、心の中になかったものだ。今もまた、形も重さもない。実体のない(いわゆる無常)なものだからだ。

唯一必要なものは、ダンマ、つまり心の苦しみを抜ける方法だ。
 
その方法を受け入れるか。行動に移すか。それだけだ。もはや理屈ではない。考えることではない。やるか、やらないか。進むか、退がるか。受け容れるか、拒絶するか。


苦しみを抱えてさまよい続けてきた人が、ダンマに目覚めて苦しみを抜け、「この生き方で間違いない」という確信を持てるようになること。

それが、この場所の目的だ。時間はかかることが当然。そんな生き方しか知らなかったのだから。

焦らずに学んでもらえたら(自己理解を深めてもらえたら)と思う。
 
 
言葉は難しく聞こえるかもしれないが、伝える中身は、すべて友情に似た思いから発している。この命は、出会うことを喜びとする性質を持っている。よく来たね、と毎回心の中でエールを送っています。
 


2025年4月15日




新しい職場・新しい仕事2


春の到来にちなんで、働き方編2をお届けします:

仕事とは面白いもので、その中身も評価も、自分では決められません。あくまで自分の働きが役に立っているか、評価されるかは、周りの人、その仕事を受ける人が決めるものです。

これは「ままならないストレス」かというと、そうでもなくて、「自分で決める必要はなくて、お任せでいい」と気楽に受け止めることも可能です。

たとえば、体を使う仕事で、足が不自由で走ったり、重たいものを持ったりすることができなくなってきた・・という場合。

そうした自分をヨシとするかは、本人の仕事観にもよるので、「本人がそんな自分に納得いかない」と思うなら、仕事を変える(辞退する・転職する)ことも、正解たりえます。正解かどうかは、その後の展開次第(自分の頑張り次第・周囲の受け止め方次第・相性次第・・)によるので。

でもその一方で、自分で答えを出す必要もなくて、「こんな状態ですが、仕事として成り立つでしょうか?」というのは、周囲の人に聞いてみてもよいのです。多くの仕事はチームでやるものだから。

ある作業が、自分の健康状態が原因で十分できない・・その状態を見てもらって、他の人がカバーしてくれて、他の人もそれでもいいと思ってくれるなら、

今の自分ができることは、なお仕事として十分に通用します。

周りのサポートを受ける分、別のことで貢献しようと考えることも可能です。

「迷惑をかけるから申しわけない」と思う。でも「辞めたくない」とも思う。そういう時は、そうした思いを丸ごとその職場・チームに伝えてみればよいのです。


一番つらくなるのは、自分一人で抱え込んで、自分一人で答えを出そうとしてしまうことです。こうなると、「辞めたくない」は自分のエゴで、「きっと務まらない」という思いが勝っていきます。

特に、自分一人で答えを出すこと、一人で抱え込むことに慣れてきた人(いわば業ということになりますが)は、そうした状況に陥りがちです。

別の角度で見てみれば、仕事というのはある程度は利己的でも良くて、やりたいと思うなら、辞めろと言われるまではやり続けることが正解だったりします。

(特に障害を抱えながら働いている人には、これはけっこう大事なポイントになります。生きる権利、働く権利を通すということ。社会は大きな布団みたいなところもあって、自分一人分載っても、大丈夫なくらいに大きな場所でもあります)。




もうひとつ、新しい仕事に向かう心構えは、「とにかく今できる、役に立てることを引き受ける」ことです。

たとえば、すぐに始められる仕事・職場があるけれど、別の仕事が本当は第一希望で、でもその仕事には現時点で空きがない・・という場合。

この場合、空きが出るまで待つことは(状況にもよるでしょうが)正しい選択ではないような気がします。

というのも、求められていて、できるかもしれないなら、それを引き受けて体験してみて、学びつつ、できる範囲を広げて、できるレベルを上げていくというのが、

自分にとっても、その職場・仕事にとっても、確実なプラスだからです。

そしてそういう自分を作って(準備して)おけば、そのうち、もっとやりたい・向いている職場・仕事からお声がかかるかもしれなくて、その時に新しい仕事を選ぶなら、元いた場所からは惜しまれつつ(あるいは感謝されつつ)離れて、自分がやりたかった仕事に就くことも可能になります。

「自分にはできないかも」「難易度が高いかも」というのは、妄想であることが多くて、「やっていた・やっている人もいるんだから、わたしにもできるかもしれない」と思うほうが正しかったりします。

「できるかも」から入って、やってみて、体験を通じてやり方を学んで、実際にできるレベルに持っていく――というのが、誰もが踏んでいるステップです。

最初からできる人なんていなくて、単に「できるかも」という入り口に立って、その後のステップを進んでいったから、結果的にできているのです。



新しい仕事の入り口としては、「やってみたい」「できるかも」というポジティブな入り方と、「やりたくない」「きっとできない」というネガティブな入り方とがありますが、

「やりたくない」は仕方ない(それが本人の気持ちなら終わるしかない)としても、

「きっとできない」というのは、やってもいないうちに判断できるはずもなく、確実に妄想ということになります。

「きっとできない」と「できるかも」は、両方、体験する前の妄想でしかなくて、客観的な状況としては、実は同じです。

なぜ前者に心の針が振れる人と、後者に傾く人がいるのかといえば、やはり過去や業(性格)だったりします。



理想は、やっていないことは、とりあえず「できるかも」という箱に入れてしまうことです。

お声がかかっているなら、断らないことです。仕事は、関わり次第、相手次第であって、自分一人では決められない。自分で全部答えを出すという発想で出した答えが、正しかった確率は、実は自分が思うほど高くなかったりします。

「お声をかけていただいてありがとうございます。私に務まるかどうかわかりませんが、しっかり頑張ります」でよいのです。

頑張るというのは、「体験することを頑張る」という意味です。これは自分の中で補っておけばよく、相手に伝える必要はありません。

体験して、できることを増やして、結果的に貢献できる自分になる、というステップさえ見えていればいいのです。

とりわけ、仕事は人間関係(理解ある人が周りにいるかどうか)で大きく左右されるので、自分のことを買ってくれている、わかってくれている人がその場所にいるなら、条件はそろっています。

「やりたい職場には空きがない」なら、なおさらです。客観的に「できるかも(でも実際はこれから)」という状況は、やりたくても今はできない職場も、今まさに求められている職場も変わらない。

ならば、求められている職場に応えて働きを果たす、ことしか答えはないのでは?

ひょいひょいと乗ってみればよいのです(難しいかもしれませんが)。

できるかな、やってみようか、やってみます!でよかったりするのです。


新しい職場・新しい仕事


今週から始業式・入社式に入ったところも多いようです。新調のスーツを身にまとった若い人たちや、夜の歓迎会に繰り出す人たちに遭遇する機会が増えました。

今回は、仕事をめぐるおたより&相談への返答です(抜粋):



この人の場合は、まずは就職することが必要です。クラウドソーシングで受注しようとしても、いろんなレベルの人たちが売り込んでくる場所なので、仕事が来ないばかりか、信頼を培うにも相当苦労する(ほぼ無理な人もいる)はずです。

ある程度のスキルがあって、起業して、独自のホームページ&ブログ作って宣伝して、お声をかけていただいた人たちに倍返しの貢献をして、実績を積み重ねて・・ということを続けて、

ようやく「やっていけるかも」という目途がつく人はつく(つかない人もいる)世界です。


みずから起業する代わりに、人様の看板を借りて体験を積めるのが就職です。

仕事の内容に求めすぎず、不満を抱えず(だって今の自分にできるありがたい仕事なのだから)、まずは3年、5年とやり続けることです。

それくらい続けた仕事があったなら、自分にとっては不本意だったとしても、社会にとっては価値を持ち始めます。


本当の経歴・実績というのは、文句を言わずにやり続けた時間そのものです。

「これだけやり続けました」という事実こそが、次の仕事への売りであり、強みになるのです。

将来につなげる秘訣は、意外に思われるかもしれないけれど、人様よりも「低い」ところから始めることです。

徹底して低いところに立って、体験すること自体を歓迎すること。

苦労や悔しさも、体験できているなら、正しい(価値を持つ)のです。


やってみてほしいと思います。きっとできるはず^^。



2025年4月上旬



4月7日

 

4月7日は、あの日です。

 

この命も、遠いところからになってしまいますが、あの人のことを想っています。

 

ずっと手を合わせています。

 

 

 (このことにこの場所で触れるのは、今回で最後にします。

 

でも、ずっと想っていますので。

 

いつか、手を合わせに行かせてください。)

 

 

 

 

 

 

春に思うこと


本格的な春到来でしょうか。

〇〇の拠点づくりは順調に進んでいます。

と同時に、「しっかり育てていかないと」という強い思いも新たにしました。


ちなみに、「しっかりやらなければ」という思いをプレッシャー(過重な責任感)に変えないためには、「(できることから)やってみる」という発想に切り替えることがコツです。

やってみるだけ。やるだけ。


まずは、夏以降に現地に移って(猫のサラも移住予定)、地元の人たちになじんで、

地域の子供たち、そして興道の里(大人)経由で足を運んでくる十代のみんなに向けて、簡単な寺子屋(授業)から始めたいと思います。





いくつか大きな隠れテーマ(あまり表立って言わない目的・方針)があって、

その一つは、「評価しない」ということ。

学び・勉強の仕方は伝えるし、結果的に成績が上がるだけのクオリティは維持するのですが、課題・問題に取り組むとしても、それに点数をつけたり、一時的な評価をしたりはしないようにしようと思います。

勉強、イコール評価(数値化)--という物差しが、どうしても学校・受験、つまり十代の人たちの世界にはつきまといがち。

でもそうした評価を、良し悪しを測る基準にしてしまうと、

もっと大きな、もっと広く深い、学ぶこと自体の面白さというものが、見えなくなってしまうと思うのです。


評価という物差しを外しても、面白い、知りたい、考えたいと思える心が最善。そうした心であれば、

大人になっても、歳をとっても、知ること、考えること、学ぶこと、体験すること、成長することが楽しくなる。純粋に楽しめる。

硬く表現するなら、「自立した知性」をアタマの中に育てる。

自分で学び、自分で知り、自分で考えて、自分で人生を創っていく。

評価されなくても、誰かに認めてもらわなくても、他人・周囲が別の方角を見ていても、

「人は人。自分は自分で答えを出す」

そういう生き方こそが本来の「当たり前」だというところに立てる人間をめざしたいのです。




なので、寺子屋で伝えることも、大人になった(なってしまった)私にとって意味あること、面白いと思えるものにする予定。

教科書・参考書も、面白い・役に立つと思えるものがあれば使うけれど、つまらないと感じたら(大人の自分が伝える気になれなければ)遠慮なく捨てて、別のものを使う。

伝える側(いわゆる先生)が、「これは面白い、伝えたい」と思えるかどうか。そこまで心動くものを使わないと、伝える側が楽しめない。当然、受け取る側も楽しくない。当たり前。

自立した知性というのは、年齢・学年を超越している。だから大学生でも、院生でも、社会人でも面白いと思えるであろう内容かどうかを、その時間・教材の中味を決める基準とする。

そうした大きな価値・本質というものを保つことを前提に、子供たち(主に小学5年生以降を想定)に伝わる言葉・内容を工夫していく予定です。




これ、けっこうハードルが高い。自分の心が若くないと(面白さがわかるくらいのみずみずしさがないと)、面白さがわからないし、伝えようというモチベーションも維持できない。

そこで寺子屋の完成と同時に、自分なりに禊(みそぎ)のイニシエーションをしなければ、とも思っています。

つまりは生活と仕事内容の刷新。古いものを持ち越さない。


せっかくのチャンスなのだから、自分自身をリニューアル。


興道の里も、第2章、いや完全な新章に入るということです。そうしましょう^^。




この場所(みなさんとのつながり)は、そのまま生きていきます。器として大事に守っていきますが、中身が入れ替わるということです。


中身は、新たな拠点で始まること、始めること。


こういうのは、行動あるのみ。やってみよう、ということです。


写真ありがとうございます

 

 

2025年4月初旬

ミャンマーを想う

ミャンマー中部で大地震が起きた(2025年3月28日/マグニチュード7.7)。

個人的にちょうどミャンマー編を新聞連載中で、あの国のことを思い出している最中だったから、いっそう心に沁みた。

かつて出会った人たち、今の人たちは、どんな思いでいるだろうか。

かつてミャンマーに入ったのは2008年。ナルギス台風の襲来で、一説には十万人を超すといわれる数の人々が犠牲になった直後だった。

軍政府の動きは遅く、支援もごくわずか。海外から大量の物資が寄せられたそうだが、現地に配られたのはスナック菓子1箱という地域もあったという。

国外には聞こえなかったかもしれないが、人々の批判・不満は相当なものだった。


私が入った大学の教授たちの反応は、二つに分かれていた。

軍政府の対応への疑問を語る人たちと、もう一つはこれが深く印象に残っているのだが、

「死んだ人たちは前世の行いが悪かった。今頃は別の生き物に生まれ変わっているから、大した問題ではない」という人たちだった。彼らの本音だろう。

ミャンマーは古い仏教観を持っている人が多い(あえて「古い」と表現しておく)。今の人生で悲惨な目に遭ったとしても、「前世の行いが悪かったのだ」「罰が当たったのだ」と発想する。自分以外の人のことも、そうした目で見てしまう。


長い間、権力者の無理解と視野狭窄に振り回され、内戦状態に突入して4年目に入り、多くの人たちが犠牲になってきた途上の今回の大地震だ。

いずれは、ミャンマーが変わるための試練の時として受け止める人たちも出てくるかもしれない。

いつか「あの日々は本当に大変だった、だが今は変わった、本当に良くなった」と言える日がくるなら、せめてもの慰めにはなるかもしれない。

現実は乗り越えていくしかない――だが、その現実を目の前にして、邪魔してくるものが、人々の意識に巣くう妄想なのだ。



もしあの頃に出会った大学教授(いわばミャンマーの知識人層で軍政府とつながっていた者)のように、今回の大地震もまた民衆一人一人の前世の報いだと考えるなら、

あのナルギス台風の時のように、軍政府は表面的なパフォーマンスを見せることがあっても、海外からの支援はすべて軍部に流れて、民衆には回らないだろう。

そもそも人々の痛みに共感できる人間ならば、これまでの非道な仕打ちはできないはずだとも思う。

今回、民主派は、2週間の一時停戦を早々に決めて、救済と復旧に当たるという。彼らの多くは十代、二十代の若者たちだ。

その彼らに対して軍政府は、地震直後に空爆を実施したという報道も聞こえている。

軍政府は海外に支援を要請したというが、真っ先に入ってきたのは、軍政府に近い国々だ。

しかも権力にしがみつく者たちの心の底に、あのとき語っていた教授のように、災害を受けるのは前世の報いであって、今頃は転生しているのだから問題ない、という冷酷きわまりない自己正当化の妄想があるとしたら、

地震後の権力者たちの動きには、何らかの裏があると思うほうが正解かもしれないし、彼らと闘う者たちに予期せぬ不利益や、民衆のいっそうの困窮(いわばほったらかし、支援物資の間接的収奪)が起こらないとも限らない。

ひたすら堅実に生きてきただけの多くの人々にとって、自分たちの平安を最後まで妨害しているのは、上に圧(の)しかかる権力者たちであって、

その権力者の心に巣くう際限なき強欲と、それを正当化してしまう妄想ゆえの視野狭窄だ。

彼らは、その妄想を”仏教”と呼んでいる。


過去踏みにじられてきた人々の中には、目醒め始めた者たちがいる。

だがいまだに時代錯誤の妄想に取り憑かれ、その巨体を人々の上に侍(はべ)らせて、欲望赴くままの贅(ぜい)と惰眠を貪り続ける者たちがいる。

今回の大地震によって、上にのさばる者たちを揺らし落とせればよいが、場合によっては、力なき人々がいっそう踏みにじられて終わる可能性だってある。


なにしろ今の時代は、力を持った者たちが私欲を押し通すことになんの臆面も持たなくなった時代なのだ。

力を持った者たちだけが好き放題に動きまわり、力なき者たちは奪われ続けるという時代。

そうした大きな動態(ダイナミズム)の中で、今回の大地震が起きた。


どんな苦しみも、妄想によって正当化することはできない。してはならない。

避けられない現実は、向き合って乗り越えるしかないし、

避けうる現実は、闘って変えてゆくしかない。


ミャンマーに戻りたいが――なんとももどかしい。


中日新聞・東京新聞連載中 最新イラスト


 

2025年3月末日

本気で叱れる親になれるか

 
子育ては、そんなに難しいことではないはずです・・。「大変」ではあるけれども、「難しい」ことではないはず。というか、難しくしてはいけないし、難しいままにしておいてはいけないものだと思います。

難しいとしたら、どこか勘違いしていると思い直すほうがよいのかもしれません。というのも、

子供の「体験」に同伴して、将来の「自立」まで、そのそばにいる。
 
自立への後押し(必要な支援)をしてあげる。
 
時期(一定の年齢)がきたら、自分で稼いでもらう。そして自分の人生を生きていってもらう。

その時に子供に依存しないように、自分の生活や老後については、自分なりに準備しておく。

老いた親としての自分も自立、子供だった人も自立。それが親子の基本線。

心がけるべきは、「体験」と「自立」です。


体験については、子供のもの。子供が選んでいいもの。

親が期待した反応や結果が返ってこなくても、そこにとらわれてはいけなくて、もし親の側ががっかりしたり、不満に感じることがあったら、「求めすぎているな」と自覚してセーブする。それも基本。

体験したことを、子供が好きと感じるか、嫌いだと思うか、何も残らなかったか、というのは子供の自由。

体験したことが、身に着いたか、その先につながったかというのも、本来は子供の自由。

これは、学校、運動、勉強、遊び・・なんでも同じ。


ただし、体験さえ、めんどくさいとか、何もしたくないと言い出して、そんな状態が長く続いて、「自立」を妨げるおそれがあると思えるような状況にまで至ったら、

そのときは親としては、きちんと話をする必要が出てきます。

「話をする」ということは簡単じゃない。本当は難しくないはずだけど、親の実感としては、やっぱり難しい。

というのも、子供を一人の人間として、自分とは別の人格として、きちんと線を引いたうえで、まずは話を聞く、理解する(裁かず、過剰に反応せず)という心がけが大事になるからです。

今の子供の状況と思い(心の中にあるもの)を、理解しようと努める。

「理解したいと思っている」という立場に立つ。

そのうえで大事なことは、子供の立場(同じ目線)に立って、「自立」について真面目に考えること。

学校に行かないことは選択肢としてアリとしても、自立への準備、つまりは基本的な学びと進学(学びを体験する場所に進む)ことは、考える必要がある。

その準備さえ崩れてしまっている、近い将来の自立さえ決定的に危うくなりつつある・・そんな状況を目の当りにしたら、親としては、「あわてる」ことも「放っておく」ことも正しくなくて、

「よく聞く」(理解しようと努める)という一線は守りながらも、子供の立場に立って、「この先の人生、どうするつもり(今の考えを聞かせて)?」というところは、しっかり伝えていいし、
 
そうした問いから逃げているように見えたら、「待て」と本気で言える覚悟は、必要であるように思います。

子供が、体験することさえイヤがって、生活が不規則になって、学校に行かなくなって、将来への準備もしなくなって、

では何をしているのかと言えば、ゲーム、ネット、動画ばかり・・・というなら、

それは自分を甘やかして、つまりは怠惰を正当化しているだけで、本人はどこにも進んでいない。

そのままでは何も育たなくなる。そのうち動けなくなる。
人と関わることや社会に出ることさえ、めんどくさいことになってしまう――。

そういう可能性が見えた時にどうするか。その時にこそ、親としての役割が問われます。

時代がどんなに変わっても、人間は自分の力で、社会の中で生きていく必要がある。何もしないわけにはいかない。

だから「自立」が遠ざかりつつあるように見え始めたら、どこかで真剣に向き合うことが必要になるのです。

その時には、親として、そして一人の人間として、自分の思いをぶつけてもいい。人間なのだから、関わっているのだから、当たり前。

本人の人生がどんどん危うくなっているのに、何も言わない、怒らない、叱れない親というのは、

結局、自らの関わり(責任)を放棄しているだけで、本当は「ずるい」のかもしれないのです。


「ここまで行ったら、自分の人生が危うくなる」というラインは、本人には見えにくいもの。溺れている人、流されている人、みずからをコントロールする力が弱い人、将来を想像するという発想が乏しい人には、見えにくい。

だが、そうした人の姿を許容してしまったら、その人にとっての判断基準は、「今、自分の気が向くこと」しかなくなってしまって、

体験することよりラクをすること、社会の中で生きることより、自分の世界に引きこもることを、選びがちになってしまう。

そうやって、人生の時間が止まったまま、物理的な時間だけは、十年、二十年と過ぎていく。子供だった人も、気づけば「大人」になっている(少なくない)。


よくある傾向は、そうした人の親というのは、存在感が希薄で、「自分はこう感じている、こう思う」ということをストレートに伝えないこと。

叱れない、怒れない親。そういう親の姿は、怖くもなんともない。子供は、ラクに流されても許されることを「体験」してしまって、「自立」への準備という、体験、学習、成長するための作業が、めんどくさい、しんどいことになってしまう。

社会というのは、自分以外の他者と出会い、関わる場所。

親がその最初の他者であるはずだし、他者にならなければいけないのに、子供からすると親は存在しないに等しい、都合のいい存在になってしまう。つまり他者がいなくなってしまう。

そして家庭は「自分しかいない場所」と化す。

他者とぶつかったり話をしたりして、考える、変わる、自分を律することを少しずつ学んでいく機会が失われて、「自分」と「時間」だけが流れていく。

そして歳月が経って、社会(外の世界)はますます遠くなり、何もできなくなった自分が残って、

中にはそこまで行ってから、「親は何もしてくれなかった」「自分がこうなったのは、親のせいだ」と言い出す”大人”も出てくる。

一面で、その言い分は正しい。そう、親は何もしなかった。向き合おうとしなかった。

子供だった自分は未熟で、弱くて、たしかにだらしなくて、甘えていたのかもしれない。

でも、そういう自分に、親は何も言わなかった。

言わない親より、言ってくれる親のほうが、

だらしなかった自分を叱ってくれる親のほうが、

自分の姿を見て、嫌いなものは嫌いだと言える親のほうが、

そんな親の反応や言葉を聞いて、少しは考える可能性も生まれたかもしれないし、子供にとってはありがたいし、必要だったのに、

親は何もしなかった――。

これが、「体験」と「自立」という、子供にとって欠かせない要素を欠いた場合の結果です。


怒れない親よりは、本気で怒れる親のほうが、

叱れない親より、真剣に叱って見せることができる親のほうが、正しいということです。

もちろん、怒ってばかり、叱ってばかりの親が正しくないことは、言うまでもなく。なぜなら、こうした親は理解していないから。理解しようとしない。こういう親には、子供は苦痛、不満、不信を育てていって、親を信頼しなくなる。今さら親が聞こうとしたって、話しても無駄だと子に思われてしまう。

でも今お伝えしているのは、そういうことではなくて、

「体験」と「自立」という欠かせないテーマがおろそかになっているのに、そのことに気づけない、気づいても真剣に向き合えない、本気で怒れない、叱れない親についてです。


最終的には、

子供が何をしても怒らない(人間として向き合わない)親と、

子供の人生が危ういかもと感じた時には真剣に怒れる親と、

2種類に分かれるような気がします。そう表現しても間違いではないのでは。


自分はいざという時に本気で叱れる親か。本気で向き合う時はいつか。

しっかり考えてゆかねばなりません。




2025年3月


もうすぐ春ですね


今回は簡単な近況報告です:

*『反応しない練習』のドイツ語版、英語版は快調に進行中。カバーが送られてきましたが、ずいぶんシンプル(お見せできないのが残念)。

英語タイトルは、The Practice of Not Reacting (そのまんまやん)。

The Secret to Stress-free Life とあります。

英米では出版より半年から1年前くらいからプロモーションかけ始めるのだそうです。今回は翻訳出版権も(初の)入札をしてくださったそうで・・広く届くことを願います。

欧米の人たちにこそ「業」の話(大丈夫、あのブッダも家族に悩んだ)を伝えたいのですが、こちらは台湾で翻訳出版が進んでいます。


*神楽坂の講座は、まだめどが立っていません。奈良の拠点づくりがひと段落つかないと予定が立てられない状況です。

でも春も近いし、一度みなさんのお顔を見られる機会を作りたいと思っています。


*早稲田エクステンション・センターのオンライン講座は、引き続き受講受付中です(専門的・学術的な話が入ってくる予定です)。


*帰国してから怒涛の日々(睡眠時間さえ削らねばならず)でしたが、大仕事がいくつか終わって、今週末は少しゆっくりできそうです。個別のやりとりもできるし、週末にはオンライン座談会もあります。
 

桜も開花し始めるそうなので、そろそろ春を迎える準備を始めたいと思います。


中日新聞・東京新聞連載 最新イラスト
(毎回、イメージに画力がまったくおいつかず自己嫌悪)


2025年3月27日



碾き臼 ~『 御上先生』にちなんで4


学校、東大、官僚、政治・・一つ一つの現場を、自分自身が知っている限りで思い出すと、この社会は ”巨大な碾き臼(ひきうす)” のようなものかと思えてきた。

霞が関であれば、御上先生の志や能力さえも摺り潰される。
 
学校であれば、あのドラマの学生たちの明るさや優しさも摺り潰される。
 
創造力に富んだ先生たちの意欲も摺り潰される。

ならば日本を変えようと法律家をめざしても、法律を書き、政策を作れる ”創造的法律家” になれる道は、日本にはなく、司法制度の枠に収まっているうちに摺り潰される。
 
政治家になっても、これまた打算計算と保身にまみれた周囲の人間たちの間(はざま)で、摺り潰されてしまう。
 
日本という社会は、いくつもの碾き臼(ひきうす)が歯車のように重なった場所で、その中を潜り抜けようとしているうちに、摺り潰されてしまう。ゴリゴリと。

そういう場所かもしれないと、ドラマを見ながら思った次第。
 

(しかしプロの俳優さんはほんとに演技うまい笑。松坂桃李さんもイイ感じ。御上先生の闇を抱えた目とか、母の前で過去の葛藤を思い起こす表情とか)



日本を変えるのは、たしかに教育。だが教育の現場さえ、碾き臼と化している。

重症なのは、大人たちがみんな、碾き臼を回すことに加担していることだ。

中高生のみんなに罪はない。

最も罪深いのは、今の学校、試験制度、教育政策を支える側に回ってしまっている思考停止の大人たちだ。

ゴリゴリと回して、未来を摺り潰している。


変わるには、どうするか。まだひとつ残っている。かなり狭い道だけれど。

今は言いません。


御上先生の問題意識、しっかり受け止めました(今日、最終回)


2025・3・23
 
 

碾き臼 ~『 御上先生』にちなんで3

 
教育をおかしくしているのは、試験制度も一つだが、親、現場の教師、受験産業、そしてメディアまでが加担する、過剰かつ不毛な東大&高学歴信仰にもある。
 
今の時代は、学歴が売り物にされ、たかだが学生でしかない東大生であることが価値がある、すごいことのように扱われている。
 
これこそが最大の陰だ。中身のない、誰も幸せになれない陰。
 
一時的に持ち上げられて自分を勘違いする学生もいるだろう。もてはやされる姿を見て、「自分もああなりたい」と刷り込まれて(社会化)されて、その価値観が近い将来、自分を疎外(否定)する理由になってしまう学生もいるだろう。
 
一部の人間たちが過剰に持ち上げて、煽って、騒いで、商品化する。そのことで、大学の先にある本当の使命というものが見えなくなっていく。
 
これもまた日本を覆う陰の一つだ。だが陰であることに気づかない。日本人がみんな陰に慣れ過ぎているから。

勉強ができる、アタマがいいことが価値を持つ? でも東大に入ったところで、卒業したところで、何をめざすのか、どこにたどり着けるかといえば、どうだろう? 学んだことが、自身の幸福と社会への貢献につながったか、つながるような仕事にたどり着いたか? はて?

東大に行きました、立派な成績で卒業しました、資格取りました、こんなに私は優秀でした・・

そう言いたがる(売りにしたがる)人もいるかもしれないけれど、そのたどり着いた場所(自分)が、はて本当にどれほどの価値を持つのか。
 
そもそも本人は満たされているのか、社会に役立っているのか 
 
といえば、素直にうなずけるケースはあまりない、と言っても過言ではないかもしれない(←ちょっと霞が関文学?)。


学歴が立派、頭脳優秀だと思われている、思わせたがる、思わせている人は、大勢いる。もう飽和状態だ。出尽くした感がある。

とはいえ、「アタマがいい自慢ができる人」の大半は、入った大学(勉強ができたという程度のこと)に価値があるという前提(社会が共有する幻想)がないと成り立たない立場だったりして
 
(ほんとにすみません・・でもやっぱり「その先」をめざさないといけないのだと思います)
 

なんでこういう「アタマがいい自慢」が通用してしまうかといえば、それだけ日本の教育が、試験制度が、価値観が変わっていないからだ。

まったく変わってない。日本人の意識そのものが。

だからこそ、東大や官僚という、本来ただの大学や職業にすぎない記号が過剰な意味を持ってしまうし、「上級国民」といった言葉が通用してしまう。

実態は別のところにあるのに。実は上級といえるほどのものはなく、どこまで行っても空っぽかもしれないのに。
 
 
ちなみに御上先生、『金八先生』については批判的に語っていたけど、『ドラゴン桜』という東大信仰、つまり社会全体の無思考の上に成り立つドラマには触れなかった。あれこそ教育の閉塞を長引かせる無思考型のドラマなのに。 
 
触れなかったのは、同じ系列だから? 学歴という記号に過剰な価値を見出す親や、受験産業や、そこで熱血指導している教師たちと同じように、自分たちもまた無思考の檻に囚われていることに気づいていない?
 
自己批判こそは思考の原点、最初に潜るべきイニシエーション(通過儀礼)みたいなもの。
 
自分の足元にある欺瞞を見つめないと、本当の思考は積み上げることはできないよ。 
 
東大めざせとか成績上げろみたいなことを、いい歳をした大人が真面目に語って、大学入試を「見上げている」こと自体が、無思考の極みであり、すごくカッコ悪い姿だという視点は、あったのかなかったのか、どうなのかな・・。
 
 
よく聞く「東大行くのは手段でしかない」なんていう言葉も、実は思考停止の言葉だ。
 
もっと大きな使命や目標を実現する手段という意味ではなくて、いつの間にか「自分のプライドを守る手段」に取って代わられてしまう言葉だから。
 
試験で勝ち抜くことを選ぶ人間は、思考停止のために「手段だから」といって、自分を正当化するんだよ。何十年も前の東大生だって語っていた言葉。
 
だから「手段にすぎない」という言葉さえ、思考になっていない。自己欺瞞。
 
 
そこまで突(つつ)いて、「考えて」、東大をめざす・受かるという価値観そのものが、無意味な妄想でしかない、日本社会全体が巨大にして無意味な妄想に呑まれている――。
 
そこまで心の深いところで言語化できて初めて、日本社会を覆うバカバカしい陰に気づく人間もちらほらと出てきて、
 
その知力を社会のために活かす、完全に自立し自由になった人間が現れる可能性が出てくる。
 
今の日本社会から自由になれるくらいの知力を持った人間でないと、社会を変える・創る力は持てない。 
 
冷静に考えれば、当たり前の真実だ。
 
そうした本当の頭の良さを持った人が、何人出てくるか。行政、司法、政治、学問の世界に――
 
あまりに遠い地平だけれど、それを真剣に見据えて働きかけることこそが、教育なのではないのかなと思う。
 

教育だけなんだよ、未来を育てることができるのは。


教育の原点は、志だ。

志は強靭でなければならない。

強靭であるためには、心の深いところで言語化できていないと。

 

たとえば、御上先生が教室で、自分の十代の頃、東大時代、官僚としての日々を振り返って、

今の日本がどれほど不毛な幻想の檻にとらわれているかを伝えることができたら、

そして、点を取るための勉強にとらわれがちな学生の意識をひっくり返すような ”志” を伝えることができたら、

中にはその志を深いところで守って、大人になって、立場や力を得た時に、少しはその使い方を考えるかもしれない――。

あるいは、ドラマを見ている視聴者が、あの教室の高校生の一人として御上先生の話を聞いて、「そうか、そんな人生を生きよう(生きればよかったんだ)」と深く思えたら、

「教育を変える」一つの働きを果たしたことになる。視聴率とは関係なく(笑)。

 

語ってみてほしかったな、と思う。もっとストレートに。

日本社会、日本の教育を覆う巨大な陰、言い換えれば”欺瞞”について。




余談だけれど、試験制度の不条理や、そんな制度の枠から抜け出せない自分への懐疑を抱えた「考える人」は、僕の周りにはちゃんといた。
 
みんな、それなりに悩んでいたし、考えていた。東大という「檻」に入ってしまった自分を疑う懐の深さ(考える力)を持っていた。「人間」であろうとしていたよ。
 
でも逆らえないから、順応することを選んできていた。その中途半端さが、幼かった僕自身には不満だったのだけれど。
 
 

今の学校、教育、大学、官僚組織、政治や学問の世界――
 
総じて、大したことはできていない。 
 
だから社会全体が停滞、硬直し、地盤沈下を起こしている。
 
闇というより、巨大な陰なんだよ。
 
みんな陰の中で暮らしているから、光(本来のもっとまともな姿)を忘れてしまったから、陰に覆われていることに気づかない。
 
 
(まだ続きます、すみません)
 
 

リンク貼っておきました(明日、最終回)


2025・3・22
 

碾き臼 ~『 御上先生』にちなんで2

ならば、本当のトップはどこにいるかといえば・・いない。たぶんいない。

プライドを守る熾烈な競争を勝ち抜いたところで、この小さな社会にプライドを守り切れるポジションなんて、たぶんない。

官僚としてトップに上り詰めたところで、それで何を得るのか、その実態を見れば、どうだろう・・・そこに魅力的に見える価値があるか、さほどの旨味があるのかといえば、たぶんない。

試験制度を生き抜いてきた人たちは、プライドの張り合いの中で生きている。多少偉くなったところで、局長、内閣官房付、事務次官あたりか。天下りといっても、本人がやりたくて「下る」わけではないし、楽しい、面白い仕事というわけでもない。

外から見れば「上級国民」みたいなレッテルを貼りたくなるかもしれないけれど、その実態は上級なんて呼べるようなものではない。

トータルで見れば、それほどでもないよ、と思う。官僚と言われている人たちも、案外地味に真面目に働いているだけだったりする。国を支えているという個人的矜持を支えに、激務を引き受けている人もいる(立派だと思う)。プライドだけの人もいる半面、御上先生のように自分の志をひそかに守っている人もいる。

でも、外から見えるほどの賞賛や権力や贅沢を享受しているわけでは、到底ない。おそらく。

哀しいことに、勉強に励んで東大という場所に入っても、そこはただの大学でしかない。しかも日本社会全体が、その先に知力や能力を伸ばし、活かせるような環境ではないかもしれない。
 
要は、人間が育たない。

人間が育ちきれないシステム。それが日本社会。のような気がする。



そんな社会の中に、あのドラマの高校生たちも生きている。みんな人間的。自分の意見を言える(セリフだけど笑)。御上先生と対話ができる。自分を見つめる感性もある。

でも実在する試験巧者・試験強者は、もっと「サイボーグ」(笑)。なにしろ勉強さえできればいいという究極の合理性を研ぎ澄ませているから。

そういうリアルなサイボーグに、あの隣徳学院の学生たちは勝てない。多少勉強法を工夫しても、最後までサイボーグとして突っ走る、突っ走ってきた試験強者には勝てない。さながら疲れを知らないAIと人間が張り合うようなもの。少しでもスキを見せたら抜かれてしまう。そういう現実もあったりする。


と同時に、勉強だけしていればいい、成績さえ良ければいいという環境で、追い詰められて潰されていく人もいる。

本当は、勉強にとらわれずに、自分にできて、苦痛がない、いわば向いている仕事にたどり着ければ、それでいい。社会にとっては、それが最良の姿。幸せな人生を生きられる可能性が増えるから。

だが、そうした幅のある生き方を許容する懐の深さは、この社会にはない。知力・能力・感性を伸ばせる教育は、学校という現場に育っていない。

大人たちの意識も、使う教科書や教材も、そもそも試験制度自体が、実はきわめて偏っていて、その中でいくら優等生をめざして頑張っても、本当の知力は育たない。そんな場所になり果てていたりする。

できあがった学校、勉強、東大を頂点とする学歴社会と、官僚、政治、日本人全体の意識--本当はどれも偏っていて、古くて、中身が薄くて、

その中でいくら頑張っても、本当の知力は育たず、能力を発揮できず、その先の人生はアタマ打ち。たとえば、東大を出て官僚になっても、医学部を出て医者になっても・・思いきり大胆にいうなら、「その程度」でしかない。

職業としての尊さ・かけがえのなさは、言うまでもない。どんな仕事も価値を持つ。「その仕事がなくなれば、何かが回らなくなる、止まってしまう」ならば、その仕事には大事な意味がある。職業に貴賤はないというのは真実だ。そうした仕事観・人生観を持てることが、成熟というものだ。

だけれど、プライドを守る、人より高い点数を取るという目標を覆い被せた途端に、先にあるのは「その程度」の職業であり人生、ということになってしまう。

どんなに頑張っても、頭打ち。そういう志の低い社会ができあがる。教育が、その最大の原因だ。



リンク貼っておきました(明日、最終回)


2025・3・22